雨降る日曜日
よし。
せっかくの日曜は生憎の雨だ。出不精の僕は別段思うところはないが、朝っぱらから仲睦まじく出かけて行った両親は、少々不満有り気だった。
「あー。よく寝たー」
意味の無い独り言と共に大きく伸びをする。二度寝、三度寝を繰り返してもまだ眠たがりな瞼をこじ開け、時計を確認すると時刻は午前11時前。
昨日のイミカとの気の抜けた会合の後、ダラダラと家に帰ってダラダラした後、僕は宮沢さんに電話を掛けた。メールとか、その他snsツールで連絡をとってもよかったが、僕は宮沢さんの電話番号しか知らない。何より宮沢さんはそういうのあんまりやらなそうだ。単なる偏見ではあるが。
「はぁ。にしても、にしてもなー」
思わず溢れるため息。
昨日の電話で宮沢さんに、演劇とかどうかなーと遠回しに聞いてみた。無論、二つ返事でOKを貰えるとは思っていない。一刀両断も覚悟の上での発言だ。しかし、宮沢さんの返答は意外にも好感触で明日にでも会って話したいとの事だった。そこまではいい。否定されても、無理くり約束を取り付ける気でいたから、むしろ願ったり叶ったりだ。だから、問題はその後。
「では、明日1時頃に貴方の家に伺います」
なんで、僕の家に来るんだよ。間髪入れずに僕はそう突っ込みをいれた。でも
「何か不都合でも有るんですか?」
こう言われると、なんだろう。特に反論は思い浮かばなかった。まさか、だったら僕が君の家に行く、別に不都合は無いんだろ? とは言えまい。ただでさえ無理を言ってるんだ、僕はそこまでは厚顔無恥では無い。
「だいたい家族も見計らったかのように朝っぱらから出かけてるなんて、都合が良すぎる」
仲睦まじい両親も、クールぶってる僕の妹も、オマケにお隣のイミカまで今日は居ない。完全に一対一の真剣勝負だ。
「……まあいいさ。やってやるさ」
雨音を追い払うように気合を口にし、自室を後にする。なんにせよ、先ずは腹ごしらえだ。腹が減っては戦はできぬ、なんて諺に倣うつもりは無い。満腹でも戦はできないのが僕だし、武士は食わねど高楊枝の方が言葉としてカッコいい。
「でも、カッコいい言葉に引き摺られるとろくな事にならないんだよなぁ」
それに問題は文化祭だけでは無い。依然として、執筆の方も行き詰まっているのだ。またしても溢れそうになったため息を無理やり飲み込み、階段を降りきる。そして、リビングに向かおうとした所でピンポーンとチャイムが響く。
「…………いや、まさかな」
一瞬、あり得ない幻想に背筋を撫でられる。
時間はまだ11時だ。宮沢さんは来るには早すぎる。どうせ、宅配か何かだろう。ったく、僕の妹はまたネットで何か注文したのか。
そう思いながらも何だか早足になる。足が速くなる。確証が無い癖に確信が僕の背を押す。
そして、玄関の扉を開けると驚くべき事に、予想通りに可愛らしい私服に身を包んだ宮沢さんの姿があった。
「どうも、こんにちわ」
素敵な作り笑いで、宮沢さんはそう言う。だから、僕も負けじと精一杯の作り笑いで応える。
「ようこそ。坂口家へ」
こうして、僕のぬるま湯のような休日の火蓋は切って落とされる。
「で、宮沢さん。一応確認しておきたいんだけど、宮沢さん昨日は何時に来るって言ってたっけ?」
客間に案内しようとしたところ、
「いえ、久しぶりに貴方の部屋が見たいです」
と、言われ渋々と僕の部屋に案内して、久しぶりに広げたちゃぶ台にお茶とお茶菓子を置く。どうでもいいけど、宮沢さんは中学の時に一度、イミカと一緒に僕の部屋に来たことがある。何をしたかは覚えてないけど、何だか気まずかった事だけは頭の奥に引っかかっている。
「はい。確か午後1時だった筈です」
宮沢さんは至って普通の顔でそう答える。
「今、何時?」
僕は僕の部屋の時計を指差しながら、疑惑を向ける。
「午後1時です」
しかし、宮沢さんは僕の視線誘導には応じず、自分の腕に付けたシンプルな腕時計を見せつけてくる。そこに示された時刻は1時。ん? あれ?
「あれ? 僕の部屋の時計ズレてるのか?」
「ですね」
おっと、これはまさかの僕の落ち度か?
いやいや、それを決めつけるのはまだ早い。スマホだ。こっちの時間がずれる事はまず無い。
考えるが早いか、僕は机の上に置きっぱなしになっているスマホを確認する。
時刻は11:07。僕の部屋の掛け時計と寸分違わぬ時間だ。
「……宮沢さん。わざとか?」
僕の右往左往を冷ややかに見つめていた宮沢さんは、僕の端的な疑問を聞いても表情一つ変えず答える。
「はい」
と。
おっと、なんだこれ。僕はどうすればいいんだ? 現状が全くわからないぞ。宮沢さんこんな人だったけ? 一応、付き合いは長いが、そんなに深くは無いのでイマイチ確証が持てない。宮沢さんの事は正直に性格悪めの人だと認識していたが、それは言い換えると他人に厳しい人という意味での悪だ。僕はそういう宮沢さんの在り方は嫌いじゃなかったし、むしろ尊敬していた。が、今だ。これは厳しいとというより意地が悪い。馬鹿みたいだ、と言い換えてもいい。……いや、ダメだ。判断を下すのはまだ早い。飲まれるな。早まるな。僕ならやれる。やってやれないことなどない。
「だったら速く、その腕時計の時間を合わせてやるといい。間違った時間を間違いだと分かっているのに回り続けるのは、些か可哀想だ」
僕は芝居掛かった仕草でそう言って、引き出しから着替えを取り出す。
「じゃあ僕はいつまで寝巻きのままじゃいられないから、着替えて来るよ。あ、後見苦しい寝癖も直して来るから悪いけど、しばらく待っててくれ。本棚に有る本は好きに読んでいいから」
「……なんだ。坂口くんは怒らないんですね」
部屋から出ようとする僕に宮沢さんは言葉で足止めにかかる。いや、本人はそのつもりかは知らないが、僕は足を止めてしまう。
「別に怒る程の事じゃ無いしね。宮沢さんは僕を怒らせたかったの?」
「いえ。ただ、少し……。すみません、悪ふざけが過ぎたようです。謝ります」
そう言って頭を下げられる。
いや、謝られても困るんですけど。何だかこれも駆け引きのうちで、内々に何か企ててるんじゃないだろな、と疑ってしまう。今日の目的は宮沢さんに軽音部の出し物として、演劇を認めてもらうという一点だ。流されないように初志を貫徹しなければ。
「気にしなくていいよ。サプライズは嫌いじゃ無いしね。それじゃあ、僕は着替えて来るから。あんま、家探しとかしないでね」
今度は返事を待たずに部屋を出る。
扉を閉めると何だか急に雨音が強くなった気がする。実際、雨脚に変化は無い。たぶん僕の心も変化してない。ただ、1人になると雨音が大きく聞こえる。これはそれだけの事の筈だ。窓ガラスに薄く反射する眠たげな顔をした寝癖の僕を見て僕は何故だかそんな事を思った。
さて、場面転換。
着替えて寝癖も直して1人作戦会議も終えた僕は、意気揚々と自分の部屋をノックする。自分の部屋をノックするなんて少々馬鹿らしいが、中に女の子を待たせているんだから致し方ない。礼儀と気遣いと警戒は対女の子用の三種の神器だ。
「どうぞ。入っていいですよ」
その返事をしっかり聞き届けて扉を開ける。
「待たせて悪かったね」
僕は軽やかにそう言って、かなり昔に買った最近開いた覚えの無い小説を読む宮沢さんの前に座る。
「坂口くんは自分の部屋なのにいちいちノックして律儀ですね」
「まあ、中で着替え中とかだったら大変だしね」
「なんで、私が貴方の部屋で着替えないといけないんですか」
「いや、その昔イミカが着替えてた事が有るんだよ。アレは参ったよ。思い出したくない過去だね」
「……それは、まあ、イミカさんならあり得ますね。見てきたことのように想像できてしまいます」
宮沢さんのトレードマークたる不機嫌そうな顔が思案顔に変わる中、僕はアイスティを口にする。コーヒー党の僕では有るが、軽やかな口溶けの紅茶も嫌いでは無い。
「その小説面白いだろ? 僕も昔はよく読んだよ。よかったら貸すよ?」
いきなり本題に入るのも味気ないので、宮沢さんが読んでいる小説に話を向ける。
「確かに興味深い内容ですが、それには及びません。私は気に入った本は全部手元に置いておきたいですから」
「そう? いいなら、いいんだけど」
「はい。でも、坂口くんは雑読なんですね」
少女漫画から哲学書まである僕の本棚を見て、宮沢さんは言う。
「雑読。うん、まあ、そうだね。僕には自分が何が好きかなんてイマイチ分からないからね。適当に集めて気に入ったのをそこの本棚に入れてるんだよ」
「分からないっていうのは貴方らしいですね。でも、この本棚を見ても坂口くんが何が好きかなんて、私には分かりませんよ」
「本が好きなんだよ」
「読む事がですか?」
「読むつーか、眺めるのが好きなんだよ。僕にとって本は読むものじゃなくて眺めるものだからね」
「よく分かりません」
「僕も分からないよ」
そこで一旦会話が途切れる。
宮沢さんは僕の存在を無視するかの如く、読書を続けている。不思議と気まずさな無い沈黙がゆっくりと降りてくる。何だか、僕も本を読みたくなってきた。いや、眺めたくか? ……どっちでも同じ事だな。
「……宮沢さん。とりあえず先に本題に入りたいんだけど、いいかな?」
ただ、まあ、ここで2人緩やかに読書と決め込んだら、落ちる雨粒のように時が過ぎてしまう。終わらせるべき事はさっさと終わらせてしまうのが吉だ。
「そうですね、そうしましょう。確か昨日の電話では、劇をやるとか仰ってましたよね?」
バタンと本を閉じて言葉を紡ぐ。
「そうそう。内容はまだ調整中だけど、そんなに長いやつをやるつもりは無い。演出も音響も地味は会話劇をやるつもりなんだよ」
「軽音部ならせめてミュージカルじゃないですか?」
「ミュージカルなんで全然軽くないだろ。何より時間も手間も人員も何もかも足りないよ」
「冗談ですよ。……軽音部は確か部員は4人でしたよね」
「そ。配役は演者2人、音響と照明に1人づつにするつもり」
僕はできれば裏方に回りたいんだが、巻き込む形になっちゃた以上、幽霊2人の意見を尊重しないとダメだよなー。いや、まあ、僕も本当は巻き込まれた側なんだが、そこは言っても仕方ない。もう諦めてる。
「ギリギリですね。練習期間も余り有るとは言えませんし、大丈夫ですか? 無理なら無理にやらないで下さいね?」
「大丈夫、及第点レベルにはするから。それより、やるなら体育館でやる事になるんだろうけど、僕らが割り込む余地有る?」
「はい、一応その辺は余裕を持たせていますので。30分程度なら問題は有りません」
「おおー、十分十分。30分もあれば余裕」
これで一応、任務完了だ。
ただ、何となく不穏。上手く行き過ぎてる気がする。宮沢さんにしては何だか迫力不足というか、張り合いがないというか。いや、深く考えても仕方ない。問題ないならそれで問題無し。
「劇の台本はやっぱり、坂口くんが書かれるんですか?」
僕の疑いを他所に、宮沢さんは気持ち柔らかな声で、そう尋ねてくる。
「……まさか。そこまでの余裕は無いよ。時間も僕の方も……」
「そうですか。確か、何かの賞に応募する為に小説を書いているとイミカさんから伺ってますが、そちらの方は大丈夫なんですか?」
イミカめ、相変わらずお喋りな奴だ。
まあ、別に隠しているわけでも無いし、宮沢さんなら別にいいんだけど。
「大丈夫かって聞かれると、あんまり大丈夫じゃ無いんだよ。結果を出してないのにスランプなんてかっこ悪いが、最近は書いて、悩んで、消して、書いての繰り返しだよ」
「私は創作をしないので、詳しい事は言えませんが創作とはそういうものじゃないんですか?」
真っ直ぐで意志の強い宮沢さんの双眸が、僕の瞳を射抜く。それに僕は何を思ったのか、たぶん大した事じゃ無い。ただ、ずっと前にもこんな事を言われた気がする。……でも、もう、忘れてしまった。
「……そうだな。たぶんそうだよ。僕だってプロでも何でも無いんだし、偉そうな事は言えないけど、小説家なんて、書いて、悩んで、消して、また書く。それだけなんだよ。……ただ、でも、それだけじゃダメな事も確かなんだ」
師匠はそれを経験だと言う。人生の経験が創作を生かすと。でも、僕は……。
「……あの、もしよかったら貴方の書いている小説を読ませてもらっても構いませんか?」
深みにはまりかけた僕の思考は宮沢さんの一言で引き戻される。
「ん? ああ。構わないよ。でも、書きかけだよ」
書いているものを読みたいと言われれば、断らないのが僕の主義だ。たとえ稚拙でも書きかけでも、そこで終わらせない為には読者の意見は不可欠だ。
「それで構いません。今の貴方がどういうものを書くのか少し、興味があります」
そう言う宮沢さんの言葉を背中で聴きながら、引き出しからノートパソコンを取り出す。
と、その上に置きぱなしにしていた紙を退けようとして、あろうかとか落としてしまう。
「何か落ちましたよ?」
「あ、ああ、大丈夫、大したものじゃ無いから」
律儀に拾ってくれようとする宮沢さんを、さも何でもない事のように、押し止めて……押し止られずに拾われてしまう。動き早くね? 不味いな。なんとか誤魔化さないと。
「……これ、なんですか?」
宮沢さんの目が、さも何か信じられないものを見たかのように見開かれる。それは真っ黒な文字列。死を羅列した殺人予告。恨みと辛みが綯い交ぜになった、殺意の文章。僕に向けられた圧倒的な黒がそこには綴られている。
「……殺人予告かな。まあ、ちょっとしたお遊びだよ。小説を書くのに役に立つかなーと思ってね」
白々しくも、僕らしく平気で平静に嘘をつく。余計な心配はされたく無いから。して欲しく無いのではなく、されたく無いから僕は嘯く。
「貴方の名前が書かれてますけど」
「他人の名前を書くわけにはいかないだろう?」
「……あの」
「なに?」
「…………実はこれ私が書いたんです」
しばらくの沈黙の後宮沢さんはそんな事を真顔で口にする。
「………………は?」
思わず、思いも寄らずに時が止まる。
いや、止まっちゃいない。時計の秒針が時を刻む音が雨音に混じって響いる。止まったのは僕の思考。目の前の少女が一言で悪魔に変わる。少女はそのまま、薄ら笑いを口に貼り付けて言葉を吐く。
「嘘です」
「…………あー、なるほど」
何がなるほどなのか分からないが、僕はそんな事を言う。いや、違う。違う違う違う。してやられた。そう、してやられたんだ。僕の嘘を暴く為に嘘をつく。そう、この性格の悪さが宮沢さんだった。僕の嘘は埃を払うように容易く、一言で吹き飛ばされてしまった。
「それで、これは何なんですか?」
再度繰り返される質問に僕はため息をついて答える。
「殺人予告かな」
「貴方はその意味が分かっているんですか?」
「十二分に」
「貴方はこれが本物だと思っているんですか?」
「僕には見える。宮沢さんも知ってるだろ?」
宮沢さんは僕のおかしな能力を知っている数少ない友人だ。知っていると言うより、信じてくれていると言った方がいいかもしれないが。
「誰かに相談は?」
「いいや、誰にも。……と言うか一応聞いておきたいんだけど、なんで僕が嘘ついてるって分かったの?」
「……女の勘です」
「宮沢 恵真紀としての勘じゃなくて?」
「同じ事です」
「まあ、どっちにしろ僕には真似出来ないのは確かだね」
何だかちょっと楽しくなってきた。ピンチを愉しむなんて、戦闘民族じゃない僕には到底真似出来ない事ではあるが、どうにもならなくなると投げ捨てる僕の悪癖が僕の頬を引っ張ってくる。
「坂口くんはどうするつもりなんです?」
「どうするつもりも無いよ。強いて言うなら執筆の種にするつもりだ」
「坂口くん! 貴方は!」
宮沢さんはらしくもなく声を荒げる。それはたぶん僕を案じて。僕に苛立って。僕が分からなくて。僕が……相変わらず誰も信じていないから。
「……ごめん、宮沢さん。でも、大丈夫だよ。大丈夫。僕は大丈夫だから。宮沢さんは知ってるだろ?」
「…………はぁ。貴方は相変わらずですね」
相変わらず。あいも変わらず。僕は変わらない。お前は変われない。
「まあ、ね。それで、一応お願いしたいだけど、この事は秘密にして貰ってもいいかな?」
「私が誰かに言ったところで、貴方はしらを切るつもりでしょう?」
「まあ僕ならそうするだろうね」
「……分かりました。なら、これは2人だけの秘密ですね」
「ん? ああ、そうだね」
そこで一旦視線を上げると時刻はいつの間にか昼過ぎ。そう言えば朝飯食って無かったなー、と意識すると何だか急に腹が減ってきた。
「宮沢さんおひーー
「坂口くん」
言い切る前に言葉を切られる。なんだ?
「それで坂口くんは何をしてくれるんですか?」
「え? なんの話?」
「私は貴方の秘密を守ります。なら、貴方は私に何をしてくれるんですか?」
おっとと。そうきたか。さすが、宮沢さん。抜け目がない。いくら僕がしらを切るからと言って言いふらされていいってわけじゃない。だから、宮沢さんは黙ってくれる。なら、僕は……
「昼飯奢るとかで、どう?」
「……私、パスタが食べたいです」
「了解」
そんなこんなで僕の休日は終わる。一応、目的は達成した。でも、まだまだ問題は山積みだ。配役どころか、演目する確定してない劇。相変わらず、進まない小説。そして、ラブレターと殺人予告。どれもこれも余裕ぶってる時間は無い。しかしそれでも、何もできないまま、何も気づかないまま僕の時は着実に進んでいく。
うん。