夜が深まる
うん。
「これは無いなー」
陽も落ちてしばらく、夕食と風呂を終えた僕は机の上に置かれた2通の手紙を前に、瞬きとため息を繰り返していた。そこに書かれたウンザリするような文字の羅列。
背筋に虫が這うような、全身の毛が総毛立する想いの羅列。重くて、暑苦しくて、寒々しい。吐き出しそうになったため息を飲み込む。もういい加減、耳障りになってきた。
どうしようもない事を目の前にすると、僕のなまなかな心は既にどうでもよくなってきていた。しかし、このままじゃ、駄目だ。投げ捨てるにしても、一度考えてからじゃないと必ず後悔する。僕の心を奮い立たせる為に、それを一度口に出してみる事にした。
「突然のお手紙失礼します。いきなりの手紙で驚かれたかも知れませんが、私はどうしても自分の気持ちを抑える事が出来ません。
私は貴方が好きです。好きで好きで好きで好きで好きで、どうしようもないんです。
胸が張り裂けて私の想いが貴方を傷つけてしまう前に、私は貴方に会いにいきます。それまで、どうか他の女に目移りせず、私だけを待っていてください。貴方だけに恋する乙女より」
うーん。何だかなーって感じだ。僕は産まれてこのかたラブレターなんて貰ったことはないし、詳しい事は言えないが、ラブレターってこういうものじゃないだろ。何だよ、胸が張り裂けて私の想いが貴方を傷つけてしまう前にって、詩的すぎる。
いや、そうじゃない。そう言う問題じゃない。せめて名前くらいは書いておくものなんじゃないか? 恥じ入る乙女の心境なんて理解できねーし、興味もねーが、もう少し慎みを持つべきだ。……いや、ラブレターは慎みがあるのか? 無いな。少なくとも僕には見えない。やっぱり問題は内容だ。常人ならこんな内容でラブレターなんて書かない。と言うわけで、これはどう考えても悪戯だ。わざわざ考えるまでもなく悪戯な筈だ。
「と、言いたいところではあるが」
僕には見える。この手紙は真っ赤だ。黒いペンで書かれた文字の全てに纏わりつくような赤が湧き出ている。経験則的に赤は愛情。しかもこの激しい色の見え方はかなり深い愛だ。正直に言って気持ち悪い。色に酔う。
「しかし、という事は問題なのはこれが本当に僕に対して向けられたものなのか、だ」
実を言うと僕はそんなにモテない訳じゃない。顔も性格もほどほどに良いし、告白された事だってある。ただ……。
「こんな真っ赤な愛情を向けられる覚えは無いんだよなー」
しかし、人はどこで恨まれてるか分からないと言うならば、どこで愛されてるかも分からない、と言うのもまた真理だ。なので、無いとも言い切れない。僕に言い切れる事なんて何も無い。でも、できれば無しでお願いしたい。こんな激しい……いや、激しくなかったとしても、今の僕に他人の愛を受け止めてあげられる程の器は無い。
「……もういいや。会いに来るって書いたあるんだし待ってりゃ来るだろ」
深く考えても仕方ない事は投げ捨てるのが僕のモットーであり、悪癖だ。なので、考えたので投げ捨てる。まあ、出してくれた本人には悪いとは思うが、見ていると酔いそうなので、丁寧に机の中に終わせてもらう。そして、残るはもう1通の手紙。
「私は忘れない。お前が犯した罪を、今もなお犯し続けている罪を私は絶対に忘れない。私がお前を殺す。絶対に殺す。覚えていろ、忘れるな。お前の罪が絶対にお前を殺す。忘れるな、坂口 藍立。私がお前を殺す」
こちらには丁寧に僕の名前が書いてある。先ほどと同じ様な事を言うなら、恨まれてる覚えは無いが、どこで恨まれてるか分からないって事だ。
ちなみにこれも嘘では無い。どす黒くて痛いくらいの真っ黒な色が見える。こんな色は産まれて初めて見る。確定は出来ないが、この手紙も本気なのだろう。
「……どうしたもんか。警察に相談。先生に相談。両親に相談。師匠に相談。イミカは……無いとして、何にせよ1人で抱えるには荷が重い」
けど、なんだろう。前言を撤回するには早すぎるかも知れないが、何か薄い既視感がある。薄っぺらくて、細くて、意識したって意識できないような想いが記憶の底をくすぐる。さっき産まれて初めて見ると思った。でも、それは僕が忘れているだけかも知れない。忘れているなら大した事じゃ無い。誰がこんな言葉を言ったんだ。僕は、いや、誰だって大切な事を忘れて生きているんだ。
「……なに、悲観的になってるんだ馬鹿馬鹿しい。もう、いいや。これももう少し様子を見よう」
これはさすがに取り返しのつかない選択かも知れない。でも、取り返しのつく事なんてこの世に有りはしない。だから、迷った時は自分が正しいと思った事を信じるしかない。それくらいしか僕にはできないんだから。
「と言う事でこれも少し寝ててもらおう」
この手紙も丁寧に二つ折りにして、さっきしまった方と反対側の引き出しにしまう。
そこで、意味もなく窓越しに夜空を見上げる。いつもと変わらない、高くて遠い空。散らばっていた星々を風が吹き飛ばしたみたいな残り物の星空。でも、残り物の星空だって綺麗なもんだ。
「……さって、小説でも書くか!」
賞の締切まで残り20日。急げばまだまだ間に合う。文化祭の出し物に、2通の手紙。面倒ではあるが、不覚にもそのお陰で今は何だが書きたい気分だ。
「しゃあ! 今夜は徹夜でやってやんぜ!」
無駄にハイテンションな声をあげて、執筆にかかる。こういう時のやる気は、空元気と言わずとも空回るのは分かり切ってる事では有るが、自分では止めるに止められない。僕は僕の無駄なやる気に振り回されて、深まる夜にはまっていった。
まだまだ、まだまだ。