タロット絵師の賄い処
「ツェフェリ、朝だよ」
大きな大きな屋敷の隣。小さな小さな別邸に住む狩人の青年サルジェの一日は、同居人のタロット絵師、ツェフェリを起こすところから始まります。
「はあ……またこんなとこで寝て……」
サルジェがノックして部屋に入ると、ツェフェリは作業台に突っ伏して寝ていました。
「おはようございます、サルジェ殿」
「おはよう、アハット」
サルジェに反応した声は、ツェフェリの声ではなく、若い、サルジェと同じくらいの青年の声でした。ちなみにツェフェリは鶯色の髪を僅かにさらりと動かしただけで、反応はありません。
サルジェにアハットと呼ばれたのは、作業台の上に置かれたタロットカード。今は一番上になっている鐔の広いとんがり帽子の青年[魔術師]でした。
彼はツェフェリが作ったタロットカードの大アルカナ。ツェフェリが作ったタロットカードは彼の他の二十一枚、全てが話すことができる、不思議なタロットたちなのです。
といっても、彼らの声は普段はツェフェリにしか聞こえません。サルジェは他のタロットたちも話せることは知っていますが、今のところ、[魔術師]のアハットとしか話したことがありません。
アハット曰く、サルジェと最も繋がりが強いのが[魔術師]のカードだからだということですが。
「アハット、ツェフェリは昨日も遅くまで?」
「ええ。何しろ今回は小アルカナ五十二枚も含みますから……それに、ハクア様からの依頼だから、と主殿、張り切っていましたので」
「……師匠……」
サルジェは呟いて、魔除け石のような紫紺の髪を持つ狩人の師を思い浮かべます。
ハクアはサルジェの師にして高名な占い師でもある、この街の有力者です。サルジェの住むこの別邸も、その隣の屋敷もハクアの持ち物です。サルジェはハクアの下で学ぶために、ここに住まわせてもらっています。
ちなみにツェフェリはというと、かつては森の奥深くでこじんまりと骨董屋と占い処を営んでいたのですが、様々な経緯があり、出会ったハクアが彼女とそのタロットたちをいたく気に入り、買い取ったのです。今はタロットカードの修繕をしながら過ごしています。
そのタロットの修繕の仕事……ツェフェリはずっと夢だったその仕事ができることが嬉しくて、ついついこのように頑張りすぎてしまう節があるのです。
その分、仕上がりは申し分ないもので、ハクアや他の依頼人も大満足なのですが……
密やかにツェフェリを想うサルジェとしては、ツェフェリが無理をしないかというのが不安で仕方ありません。ーー当のツェフェリが嬉しそうなので、止めるに止められずにいるのですが。
「とりあえず、アハットも一緒に起こしてくれないか?」
「はい。……主殿、主殿」
「むにゃ……」
「ツェフェリ、朝だよ。起きて」
「……んー……アハット? ……と……なんだ、サルジェか」
「なんだとはなんだ、なんだと、は……」
いつものように返しかけたサルジェが止まります。寝ぼけ眼の眼差しが陽光を返して黄金色に煌めきます。
「……ツェフェリ、ベッドで寝てて。朝食は今持ってくるから」
「へ……? どうしたの、サルジェ。別に、食べに行くよ?」
「いいから」
サルジェはばさりとツェフェリを毛布でぐるぐる巻きにして、ベッドの上にちょこんと移します。巻かれる直前、咄嗟にタロットを手にしたのは、職業病でしょう。
馴染みの主の手に収まったアハットが、サルジェの強引なやり方に何か言いかけますが、毛布にくるまれ、もごっという声だけに止まりました。
「サルジェはどうしたんだろうね……アハット……」
「さあ……」
答えて、アハットも気づきました。主の異変に。
「でも、主殿は少し横になった方がいいかもしれません。せっかくサルジェ殿がああ言っていることですし」
サルジェの意図を悟ったアハットが言い募りますが、ツェフェリは立ち上がりました。
「あ、主殿?」
「だめだよ。ハクア様に挨拶に行かないと……」
「主殿!」
アハットの制止も届かない様子で、ツェフェリはゆらゆらと歩き始めました。
「ハクア様、おはようございます」
「おお、ツェフェリ。おはよう」
食卓に行くと、そこには夕闇と宵闇の境を思わせる紫紺の髪を持った美しい女性が席に着いていました。彼女こそがサルジェの師にして高名な占い師、ハクアです。
「サルジェは……」
「ん、不肖の弟子なら、今厨房に行ったぞ。私には先に食べていろと言っていたが……一緒に食べようか」
「はい」
ツェフェリは満面の笑顔で答え、ハクアの向かいの席に座りました。
今朝の料理はパンケーキです。ハムでアスパラガスを巻いた素揚げにトマトとレタスのフレッシュサラダ。オニオンドレッシングと炒った干しエビの香りが食欲をそそります。パンケーキはふんわりしっとりしていて、これまた美味しそうです。立ち上る湯気。できたてならではの甘い香りにツェフェリもハクアも頬を緩めっぱなしです。
「いただきます」
「ツェフェリ!」
二人が手を合わせて言うのと、サルジェがそう叫んで入ってきたのはほぼ同時でした。
「むぐ……どうした? 我が弟子よ。そんなに血相変えて」
疑問を口にするハクアの向かいで、幸せそうにパンケーキを頬張るツェフェリを見、サルジェはなんとも言えない表情になります。
「ツェフェリ、ベッドで休んでなって言ったじゃないか……」
溜め息のように呟くことしかできません。
ツェフェリもハクアもきょとんとします。
本人が自覚なしと知り、サルジェは仕方なしにハクアの方へ歩み寄りました。そして、そっと耳打ちします。
「ツェフェリ、根詰めすぎて調子が悪いみたいなんです。本人は気づいていないんですが」
「ほう……」
ハクアは改めてツェフェリを見ます。言われてみると、確かに頬にいつもより赤みがさしているような気がします。七色の光を返す特有の瞳も、輝きがいつもより若干鈍く感じました。
「うむ。ツェフェリは真面目だからな。タロット七十四枚の大仕事はちょっと厳しいかもしれない。……息抜きに今日は買い物にでも行くといい」
サルジェとしては寝かせていたいところなのだが、部屋で一人にしておくと、仕事をしそうだとも思って、反論は保留しました。
「え、でもハクア様。昨日いただいたお仕事がまだ……」
「あのアルカナたちの持ち主は私の旧い友だ。元々、七十四枚もの修繕が一日二日で終わらないと理解してくれている。気にすることはない」
「でも……」
なかなか納得しないツェフェリに、ハクアはこう提案しました。
「私のお使いを頼まれてくれ。サルジェと一緒にな」
「ハクア様の、お使い……?」
「そうだ。これも仕事の一環だぞ」
「……わかりました。いってきます」
ハクアの頼みと言われれば、ツェフェリが断るわけがありません。
自らの師の策士ぶりにサルジェは舌を巻きつつ、感謝しました。
サルジェは思いました。
「わあっ、街ってやっぱり人が多いね! ボク、街に出たのは久しぶりだよ」
傍目には、自分とツェフェリはどう映っているのだろう、と。
「あ、あれ、[宿り木]に置いてた茶壺に似てる! わ、あのカードケース、ハクア様のタロットたちにいいんじゃないかな? え、あれってもしかしてピエロ!? 初めて見た……」
街に大興奮のツェフェリ。ずいずいと先に進んでいく姿はとても病人に見えないのと同時にふらっといなくなってしまうのではないかという不安を抱かせます。
「ツェフェリ……」
「何?」
振り向いた瞳は無垢なオレンジ色……サルジェは一瞬、言葉を失いました。
淡い鶯色の髪、体調のせいでいつもより赤い頬、柔らかな笑みと陽光のような瞳……短髪と[ボク]という一人称のために少年のような印象になりがちなツェフェリが今日は一段と女の子らしく、可愛く見え……いけないいけない、不謹慎だ、とサルジェは首をぶんぶんと振りました。
「は、早く行こう!」
「えっ? ……もっとゆっくり見たいのに……」
そうしてあげたいところだけれども、とサルジェはツェフェリの手を引いて歩き出しました。
そのときです。
ふわっ、とサルジェは背中に重みを感じました。足を止めて、ちらりと後ろを見やると、ツェフェリがぐったり、しなだれかかっていました。
「ツェフェリ? ツェフェリ!!」
繋いでいた手の熱さが尋常じゃないことにこのときようやく気づきました。
俺の馬鹿! なんで早く気づいてやれなかったんだ、と心中で自分を罵りつつ、サルジェはツェフェリを抱き抱えて走りました。
ツェフェリが目を覚ましたとき、最初に目にしたのは、白い天井と、知らない白衣のおじさんでした。
「お、目を覚ましたの」
「え……」
ツェフェリは体を起こして辺りを確認しようとしましたが、体が重くて上手く動きません。
「あの、ここは……」
「わしの家じゃよ。まあ、[診療所]と呼ばれておる。ちっこい病院じゃな」
「病院……? なんでボク、ここに……?」
「サルジェくんが連れてきたんじゃよ」
「サルジェ……サルジェは!?」
がばっ、と勢いよく起き上がり、一瞬頭がぐらぐらしました。それを察した白衣のおじさんーーおじいさんと称してもよさそうな白髭の老人は、まあまあ、とツェフェリをベッドに寝かせます。
「サルジェくんならうちの厨房じゃ。お代がわりに夕食作ってくれとる。相変わらず、真面目じゃのう」
ほっほっ、と笑う老人にツェフェリは首を傾げて訊きました。
「おじさんは、誰?」
「わしかの? わしはランドラルフといっての。なあに、しがない町医者じゃよ」
「ラルフ……町医者……」
ツェフェリの中で情報が繋がります。
「もしかして、タロットの依頼人さん!!」
「む……すると嬢ちゃんがハクアのとこの絵師かの?」
ラルフは驚きました。
「まさかこんなに若い娘っこが絵師さんじゃったとは……長生きしてみるもんじゃの」
「あ、あ、あのっ……すみません!!」
ツェフェリは慌てふためきながら、頭を下げます。
「どうしたんじゃ?」
「いや、あの、あのタロットたち、まだ修繕終わってないのに、ボク」
「ああ、それを気にしておったのか」
ラルフは人のいい笑みをぱっと閃かせると、しわしわの手でツェフェリの頭をわしわしと撫でました。
「調子が悪いときまで頑張らんでいいんじゃよ。わしは気が長いからの。気にせずゆっくり休むことだ。……心配してくれとるよき友も、ほれ、すぐ側にいるようじゃしの」
ラルフが言うと、ちょうど部屋の戸が開いて、割烹着姿のサルジェが入ってきました。
「ラルフのじっちゃん、できたよ。……ツェフェリ……」
ツェフェリの姿を認めるなり、駆け寄ってきます。
「大丈夫か? 頭痛は? 熱は? 吐き気とか、ないか?」
矢継ぎ早に訊いてくる彼にツェフェリは目を白黒させます。
「大丈夫、だよ。ありがと、サルジェ」
「うん。……よかった」
胸を撫で下ろし、もう一つ、ツェフェリに訊ねる。
「お腹空いてる? 一応、お粥作ってみたんだけど……」
「食べる!」
ツェフェリもサルジェも嬉しそうに笑うその姿を見ながら、ラルフはぽつりと呟きました。
「青春じゃのう……」
数日後、すっかりよくなったツェフェリはハクアに訊ねました。
「ハクア様、料理できますか?」
「む……ツェフェリ、突然どうした?」
口ごもったハクアは、実は料理はからっきしです。
「いえ、サルジェに、何か恩返しがしたくて。いつも作ってもらってばかりだから、料理覚えて、たまには代わりに作ろうかと」
「……ならば、サルジェに直接教わればいい。その方がやつも喜ぶ」
「えっ、それじゃあ恩返しにならないような……」
ハクアの提案に珍しく難色を示すツェフェリに、ハクアは悪戯っぽく笑った。
「恩返しにしたいというのを黙っていればいい。単に料理に興味が湧いたと言えば、きっと喜んで教えてくれるさ」
「なるほど!」
ツェフェリが納得したことにハクアがほっと息を吐いたのを、ツェフェリのエプロンのポケットで感じたアハットが思わず苦笑いします。ハクアの料理の腕前は彼女のタロットに聞いて知っていましたから。
上手く誤魔化した上に、弟子にも得を与えるあたり、ハクアの策士ぶりが伺えます。
「サルジェ、料理教えて!」
「えっ、ツェフェリ、急にどうしたの?」
厨房に行き、早速実行するツェフェリ。
エプロンのポケットの中でアハットが呟きました。
「よかったですね、サルジェ殿」
主殿を、今後もよろしくお願いいたします。
彼が心の中で呟いたこの台詞は、深い意味はなかったものの、意識を共有する他のタロットたちと物議をかもしたのは、また別のお話です。