働かない夫
働かない夫
「働いてよ!」
「ムリムリムリムリ」
美智子は、ソファーに寝転がってテレビを見ている夫の浩一を睨みつけた。
「あなたねえ、五十二歳にもなって、いつまでそんな生活を続けるつもりなの?」
「んー?」
「聞いてるの!」
「ああ、聞いてるよ」
浩一はテレビから目を離さない。
「だったら、少しは真剣に考えてよ!」
「考えてるよ」
「どこが!」
「まあ、なんとかなるだろ」
いつもの返事だった。
何を言っても、これだ。
「あなたが働かないから、私がどんなに苦労してると思ってるの!」
「お前が働こうと俺が働こうと、生活できてるじゃないか」
「私ばっかり働かせて!」
「あ、そうだ」
浩一が突然立ち上がった。
「何よ!」
「ベッドのシーツ、出しとけよ。今日洗うから」
「そんなことより、仕事を探してよ!」
「ムリムリ。あ、洗剤もそろそろ買わないとな」
美智子は大きなため息をついた。
もう、何を言っても無駄だ。
この男には、何を言っても通じない。
結婚して二十七年。
浩一は、まともに働いたことがなかった。
正確に言えば、若い頃には会社勤めをしていたらしい。
しかし、美智子と結婚して間もなく仕事を辞め、それ以来、ほとんど働いていない。
一方、美智子はずっと会社員だった。
毎朝、満員電車に揺られて出勤する。
会社では上司に頭を下げ、取引先に気を遣い、面倒な仕事を押し付けられる。
残業も珍しくない。
ようやく帰宅すると、浩一がのんびりテレビを見ている。
「お帰り。今日はカレーだぞ」
「……そう」
「風呂も沸いてるから」
「うん」
「先に入る?」
「疲れたから、ちょっと休ませて」
「そうか。じゃあ、飯は後にするな」
悪い人間ではない。
それはわかっている。
しかし、働かない。
とにかく働かない。
それが美智子には我慢できなかった。
浩一は、毎日を実に楽しそうに暮らしていた。
月曜日はスポーツジム。
火曜日はカルチャーセンターの陶芸教室。
水曜日は学生時代の友人とランチ。
木曜日はまたジムに行き、金曜日は気が向けば映画を見に行く。
もちろん、毎週同じ予定というわけではない。
美術館に出かけることもあれば、友人に誘われて日帰り旅行に行くこともあった。
ある日、美智子が帰宅すると、テーブルの上に奇妙な形をした皿が置いてあった。
「何、これ?」
「今日、陶芸教室で作ってきた」
「……また?」
「うん。今度焼いてもらうんだ」
「そんな暇があるなら、働いてよ!」
「ムリムリ。あ、それ、触るなよ。まだ乾いてないから」
美智子は、思わず皿を叩き割りたくなった。
別の日。
会社の昼休みに電話をかけた。
何度か呼び出し音が鳴り、ようやく浩一が出た。
「……もしもし」
妙に眠そうな声だった。
「あなた、今何してたの?」
「ん? 昼寝」
「昼寝!?」
「ああ、ジムから帰ってきて、昼飯食ったら眠くなっちゃって」
「私は今、仕事してるのよ!」
「昼休みじゃないの?」
「そういう問題じゃない!」
「そうか。あんまり無理するなよ」
美智子は電話を切った。
腹が立つ。
自分は会社でコンビニのおにぎりを食べているというのに、夫はジムで運動して昼寝をしている。
しかも、そのジムの会費は誰が払っていると思っているのだろう。
あるとき、思い切って言ってやった。
「私が働いたお金で、毎日毎日遊んで!」
「毎日じゃないよ」
「同じことでしょ!」
「そうかな」
「誰のおかげで生活できてると思ってるの!」
「お前だろ」
「そうよ! 私が働いてるから生活できてるのよ!」
「うん。ありがとな」
「だったら、あなたも働いてよ!」
「ムリムリムリムリ」
話にならない。
本当に、話にならない。
しかし、不思議なことに、女の影はまったくなかった。
浮気をしている様子もなければ、怪しい店に出入りしている気配もない。
ギャンブルもしない。
酒も、たまにビールを飲む程度だった。
友人と外食しても、夕方には帰宅する。
夕飯はいつも用意されていた。
洗濯物も畳んである。
部屋も、それなりに片付いていた。
子供たちが小さかった頃には、保育園の送り迎えも浩一がやっていた。
学校から電話があれば浩一が出る。
授業参観も、運動会も、浩一が顔を出していた。
娘の結衣が熱を出したときなど、一晩中付き添っていたこともある。
息子の健太が小学校で喧嘩をしたときは、相手の親に頭を下げに行った。
もっとも、家にいるのだから、それくらい当然だ。
美智子は、そう思っていた。
子供たちは、そんな父親によく懐いていた。
娘は社会人になった今でも、しょっちゅう実家に帰ってくる。
「お父さん、今度あのハンバーグ作ってよ」
「いいぞ。いつ帰ってくる?」
「日曜日」
「じゃあ、材料買っておくな」
そんな会話を聞くたび、美智子は複雑な気持ちになった。
子供たちにとっては、いい父親なのだろう。
しかし、私はどうなるのだ。
私は、いつまで働けばいいのだ。
長い結婚生活の中で、その不満は少しずつ大きくなっていった。
浩一の実家は裕福だった。
祖父の代から不動産を所有しており、父親は賃貸マンションや商業ビルをいくつも持っていた。
美智子は、詳しいことを知らなかった。
ただ、義父がお金持ちであることだけは知っていた。
だからこそ、余計に腹が立った。
「そんなに実家がお金持ちなら、お義父さんの会社で働かせてもらえばいいじゃない!」
「嫌だよ」
「どうして!」
「面倒くさい」
「あなたねえ!」
「親父も俺に仕事なんか頼まないし」
「だったら、どこかに就職しなさいよ!」
「ムリムリ」
いつも、この調子だった。
美智子には理解できなかった。
実家がお金持ちだからといって、本人が働かなくていい理由にはならない。
親の財産は親の財産だ。
自分たちは自分たちで生活しなければならない。
実際、義父が毎月生活費を援助してくれるわけでもなかった。
家のローンも食費も光熱費も、美智子の給料から支払っていた。
幸い、勤務先は安定していた。
二人の子供を大学まで進学させることもできた。
そして、少しずつ貯金もしてきた。
五百万円。
決して大金ではない。
しかし、美智子が二十七年間、必死に働きながら貯めたお金だった。
浩一には期待していない。
自分の老後は、自分で守る。
そう決めていた。
会社でも、美智子の苦労は知られていた。
特に上司の山岸は、よく話を聞いてくれた。
仕事で落ち込んでいるときも、家庭のことで悩んでいるときも、親身になって相談に乗ってくれた。
「無理するなよ」
そう言われるだけで、救われる気がした。
少なくとも、家で昼寝をしている夫よりは、よほど自分の苦労を理解してくれている。
美智子は、そう思っていた。
そんなある日。
義父が亡くなった。
八十六歳だった。
葬儀が終わると、浩一は何度か実家に出かけるようになった。
税理士や兄弟たちと、相続の話をしているらしい。
珍しく忙しそうだった。
「今日も実家?」
「ああ。税理士が来るから」
「大変ね」
「まあね」
浩一は、それ以上何も言わなかった。
相続の手続きは、数か月続いた。
そして、ある日の夕食。
「そういえば、相続の話、だいたい片付いたよ」
浩一が、味噌汁をすすりながら言った。
「そう」
美智子は、あまり関心を示さなかった。
どうせ土地か何かを兄弟で分けたのだろう。
「いくらぐらい相続したの?」
何気なく尋ねた。
「んー、相続税を納めないといけないからなあ……」
「そんなに税金がかかるの?」
「まあね。結局、残るのは五十億くらいかな」
「……は?」
美智子の箸が止まった。
「五十億?」
「うん」
「ご、五十億円!?」
「そう」
「五十億円って、あの五十億円!?」
「ほかに何があるんだよ」
「ちょ、ちょっと待って!」
美智子は、思わず立ち上がった。
「五十億円も相続したの!?」
「だから、そうだって」
「そんな大金、どうするのよ!」
「どうするって……別に」
「別に!?」
「全部現金じゃないよ。不動産とか株とか、いろいろあるから」
「……」
「まあ、これで老後の心配もないな」
浩一は、平然と味噌汁を飲み干した。
美智子は何も言えなかった。
五十億円。
聞いたこともない金額だった。
今まで、あんなに苦労してきたのに。
私が朝から晩まで働いている間、この男はジムに通い、陶芸を習い、友達とランチを楽しみ、昼寝をしていた。
そして、親が亡くなったら五十億円。
何なのだ。
この世の中は。
それからしばらく経った。
浩一の生活は、何も変わらなかった。
相変わらずジムに通い、カルチャーセンターに出かけ、友人と外食を楽しんでいる。
どうやら、相続した不動産から家賃も入っているらしい。
しかし、浩一はそのお金を生活費に回そうとしなかった。
家のローンは、相変わらず美智子の給料から引き落とされている。
食費も光熱費も、今までどおりだった。
ある日の夕食後。
美智子は、とうとう我慢できなくなった。
「あなた、なんか家賃も入ってるんでしょう?」
「うん、まあね」
「だったら、せめて家にお金入れてよ!」
「ムリムリムリムリ」
「何が無理なのよ!」
「いやあ……」
「家のローンだってあるのよ!」
「うん。知ってるよ」
「五十億円もあるんでしょう!」
「あるよ」
「だったら、少しくらい出してくれたっていいじゃない!」
浩一は、少し考えた。
「いや、生活変えるのって良くないって」
「……は?」
「これまで通りにしよう」
「これまで通りって……私が働いて、ローン払って、生活費を出すってこと!?」
「うん。今までそれでうまくやってきただろ?」
「誰のおかげで生活できてると思ってるの!」
「お前のおかげだよ。ありがとな」
「だったら!」
「あ、そうだ。明日の弁当、いる?」
「……!」
「いつもどおりでいい?」
美智子は、怒鳴る気力さえ失ってしまった。
五十億円もあるのに。
家賃まで入っているのに。
それでも、この男は私に働けというのか。
もう、限界だった。
その夜、美智子はなかなか眠れなかった。
五十億円。
その数字が、頭の中をぐるぐると回っていた。
ふと、昔の友人の話を思い出した。
高校時代からの友人、由紀子。
彼女は数年前に離婚していた。
由紀子は、結婚してからずっと家にいた。
夫は大手企業に勤める会社員で、それなりに収入もあったらしい。
離婚したとき、由紀子はまとまったお金を受け取っていた。
「私なんか、一度も働いてなかったのよ。それでも財産は半分もらえたんだから」
そう言っていた。
「半分?」
「そう。財産分与っていうの。夫婦で築いた財産だから、半分ずつなんだって」
美智子は、そのとき少し羨ましく思ったものだった。
ずっと家にいた由紀子ですら、離婚すれば財産の半分をもらえるのだ。
だったら、二十七年間ずっと働いてきた自分はどうなのだろう。
美智子はスマートフォンを手に取った。
『離婚 財産分与 半分』
検索結果には、いくつもの記事が表示された。
原則として二分の一。
そんな言葉が目に入った。
やっぱり。
そうなのだ。
五十億円の半分。
二十五億円。
二十五億円もあれば、もう働く必要はない。
好きなところに住み、好きなものを食べ、旅行にだって行ける。
毎朝、満員電車に揺られる必要もない。
嫌な上司に頭を下げる必要もない。
何より、あの男の顔を毎日見なくて済む。
二十七年間の苦労が、ようやく報われる。
美智子はスマートフォンを握りしめた。
二十五億円。
その数字が、頭の中で何度も繰り返された。
翌日の夕食後。
「あなた、話があるんだけど」
「何?」
浩一は、食器を片付けていた。
「離婚したいの」
浩一の手が止まった。
「離婚?」
「そう」
「ふーん」
しばらく考えている様子だった。
そして、
「いいよ」
と言った。
「……え?」
「離婚。いいよ」
美智子は拍子抜けした。
もっと抵抗すると思っていた。
もっと驚くと思っていた。
二十七年間も一緒に暮らしてきたのだ。
それなのに、あまりにもあっさりしている。
「本当にいいの?」
「うん」
「後悔しない?」
「しないと思うよ」
浩一は、食器を洗い始めた。
「それで、いつ離婚する?」
美智子は、少し腹が立った。
二十七年間も一緒に暮らしてきた妻に対して、何という態度なのだ。
しかし、今はそんなことを気にしている場合ではない。
二十五億円。
これからの人生が待っている。
「できるだけ早く」
「わかった」
浩一は、それ以上何も言わなかった。
二人は、離婚の準備を始めた。
子供たちには、すでに話してあった。
娘の結衣は驚いていた。
「えっ? 離婚するの?」
「そうよ」
「どうして?」
「もう、お父さんとはやっていけないの」
結衣は、しばらく黙っていた。
「……お母さん、ずっと怒ってたもんね」
「そうよ。私はずっと苦労してきたんだから」
「でも、お父さん、別に悪い人じゃないよ」
「働かないじゃない!」
「まあ、そうだけど……」
結衣は、それ以上何も言わなかった。
息子の健太も、特に反対はしなかった。
「二人で決めたんなら、仕方ないんじゃない?」
そう言っただけだった。
浩一は、いつもどおりだった。
洗濯をし、掃除をし、夕飯を作る。
離婚届を用意したのも浩一だった。
「ここ、書いといて」
「……わかったわ」
「証人は、健太に頼もうか」
「そうね」
二十七年間の結婚生活が、こんなに簡単に終わってしまうのか。
美智子は、少し寂しい気持ちになった。
しかし、そんな感傷も長くは続かなかった。
二十五億円。
これから、新しい人生が始まるのだ。
一週間後。
二人は離婚届に判を押し、市役所に提出した。
窓口で書類を確認してもらい、無事に受理された。
正式に、夫婦ではなくなった。
市役所を出ると、美智子は大きく息を吐いた。
終わった。
二十七年間の結婚生活が、ようやく終わったのだ。
「じゃあ、帰るか」
浩一が言った。
「そうね」
「晩飯、どうする?」
「……え?」
「冷蔵庫に豚肉あったから、生姜焼きにしようと思うんだけど」
「好きにすれば?」
「じゃあ、そうするか」
本当に、この男は。
離婚したというのに、夕飯のことしか考えていない。
美智子は、呆れてしまった。
もっとも、引っ越しが済むまでは同じ家で生活することになっていた。
浩一は、相続した不動産の一つに引っ越すつもりらしい。
美智子も、新しい住まいを探すことにしていた。
もちろん、二十五億円があれば選び放題だ。
その日の夕食後。
二人は、いつものダイニングテーブルに向かい合って座っていた。
離婚したとはいえ、まだ同じ家で暮らしている。
何とも奇妙な光景だった。
「それで、あなた」
「何?」
「財産分与の話なんだけど」
「ああ」
浩一は、新聞を畳んだ。
「そうだな。ちゃんとしないとな」
美智子の胸が高鳴った。
いよいよだ。
「あなた、五十億円相続したでしょう?」
「したよ」
「その財産なんだけど……」
「うん」
「半分、私に権利があるわよね?」
浩一は、きょとんとした。
「なんで?」
「なんでって、財産分与よ!」
「財産分与?」
「そうよ! 離婚するときは、夫婦の財産を半分に分けるんでしょう?」
「そうだね」
「だったら、二十五億円!」
浩一は、しばらく美智子の顔を見つめていた。
そして、言った。
「ないよ」
「……え?」
「だから、ないよ」
「何が?」
「俺が相続した財産は、財産分与の対象じゃないよ」
「……は?」
美智子は、意味がわからなかった。
「ちょ、ちょっと待って!」
「何?」
「五十億円もあるのよ!」
「あるよ」
「その半分は私のものでしょ!」
「なんで?」
「夫婦だからよ!」
「もう夫婦じゃないけど」
「そういう問題じゃない!」
浩一は首を傾げた。
「美智子。財産分与って、夫婦で協力して築いた財産を分ける制度だろ?」
「だから!」
「親父から相続した財産は、基本的に俺個人のものなんだよ」
「でも、結婚してる間に相続したじゃない!」
「それは関係ないよ」
「そんな……」
「俺たち夫婦で五十億円稼いだわけじゃないだろ?」
「……」
「親父から相続しただけだから」
美智子は、ソファーに崩れ落ちた。
そんな馬鹿な。
二十五億円。
二十五億円が、消えた。
「あなた……知ってたの?」
「何を?」
「相続した財産が、財産分与の対象にならないってこと……」
「うん。税理士にも聞いたから」
「じゃあ、離婚するときに言ってくれればよかったじゃない!」
浩一は、不思議そうな顔をした。
「お前、そんな話しなかったじゃないか」
確かに、しなかった。
離婚すれば二十五億円もらえる。
そう思い込んでいたからだ。
「……ひどい」
「何が?」
「あなたって、本当にひどい人ね!」
浩一は、何も言わなかった。
しばらく沈黙が続いた。
そして、浩一が口を開いた。
「あ、そうだ」
「何よ!」
「お前、貯金あったよな」
「……え?」
「五百万円」
「あるわよ。それが何?」
「結婚してから貯めた金だよな?」
「そうよ」
「じゃあ、半分よこせ」
「……は?」
「二百五十万円」
美智子は、浩一を見つめた。
何を言っているのだろう。
この男は。
「ちょっと……何を言ってるの?」
「だから、財産分与」
「冗談じゃないわよ!」
「なんで?」
「あのお金は、私が一生懸命働いて貯めたお金よ!」
「うん」
「あなたは一円も稼いでないじゃない!」
「そうだね」
「だったら、私のお金でしょう!」
浩一は、ゆっくりと首を振った。
「違うよ」
「何が違うのよ!」
「夫婦で築いた財産だよ」
「……!」
美智子は、言葉を失った。
「何を言ってるの……?」
「お前が働いてる間、俺が家のことやってただろ?」
「……」
「飯作って、洗濯して、掃除して。子供が小さい頃は送り迎えもしてたし」
「それは……」
「結衣が熱出したときも、健太が学校で怪我したときも、俺が病院連れてったよな」
「……」
「お前が残業で遅くなっても、子供たちのことは心配しなくて済んだだろ?」
「……」
「それで、お前は仕事を続けられたんじゃないのか?」
美智子は、何も言えなかった。
確かに。
そうだった。
家に帰れば、いつも夕飯があった。
洗濯物は畳んであった。
部屋も片付いていた。
子供が病気になっても、会社を休む必要はなかった。
学校の行事も、ほとんど浩一が出席していた。
「だからって……」
「うん?」
「そんなの、働いてることにはならないじゃない!」
浩一は、首を傾げた。
「そうなの?」
「当たり前でしょう!」
「ふーん」
浩一は、しばらく考えていた。
そして、言った。
「じゃあ、専業主婦も財産分与ってもらえないのか?」
「……!」
「俺、てっきりもらえるものだと思ってたけど」
美智子は、口を開いた。
しかし、言葉が出てこなかった。
由紀子。
高校時代の友人。
彼女は、ずっと家にいた。
それでも、離婚したときには夫婦の財産を半分もらっていた。
「……でも」
「ん?」
「でも、あなたは……」
美智子は、必死に言葉を探した。
しかし、何も思いつかなかった。
浩一は、新聞を手に取った。
「まあ、実際にいくら分けるかは、ちゃんと相談しないといけないけどな」
「……」
「原則は半分なんだろ?」
美智子は、俯いた。
二十五億円をもらうつもりだった。
それなのに。
今、二百五十万円を請求されている。
「あ、それから」
浩一が、また口を開いた。
「……まだ何かあるの?」
「年金分割もしないとな」
「……え?」
「年金だよ」
「年金?」
「お前、ずっと厚生年金に入ってただろ?」
「そうだけど……」
「結婚してた間の分、分割の手続きしないとな」
「ちょ、ちょっと待って!」
美智子は、思わず立ち上がった。
「年金まで取るつもりなの!?」
「取るっていうか、そういう制度だろ?」
「あなた、年金なんかなくても生活できるでしょう!」
「まあ、そうだね」
「だったら!」
「でも、財産分与するんだろ?」
「……!」
「ああ、それと退職金もな」
「た、退職金!?」
「うん」
「私、まだ退職してないわよ!」
「知ってるよ」
「だったら、関係ないじゃない!」
「将来もらうんだろ?」
「そうだけど……」
「結婚してた間に働いた分は、財産分与の対象になるって聞いたぞ」
美智子は、震え始めた。
「あなた……」
「ん?」
「五十億円も持ってるんでしょう……?」
「うん」
「それなのに、私の貯金も、年金も、退職金も取るつもりなの!?」
浩一は、不思議そうな顔をした。
「だって、財産分与するんだろ?」
「……!」
「お前が言い出したんじゃないか」
美智子は、何も言えなかった。
二十五億円をもらうつもりだった。
それなのに。
貯金から二百五十万円。
年金分割。
退職金。
一体、どこまで取られるのだろう。
「……あなた、最低よ」
「そうかな」
「最低よ!」
「まあ、その辺は弁護士にでも相談して、きちんと計算してもらおう」
美智子は、頭を抱えた。
すると浩一が、また口を開いた。
「それと、もう一つ」
「……まだあるの?」
「お前、浮気してただろ」
「……え?」
美智子の顔から血の気が引いた。
「な、何を言ってるの?」
「会社の上司だよ」
「……!」
「山岸さん、だったっけ?」
美智子は、息をのんだ。
「ち、違うの! あの人には、あなたのことを相談していただけで……」
「最初は、だろ?」
「……」
「そのうち男女の仲になった」
美智子は、何も言えなかった。
浩一は、引き出しから一通の封筒を取り出した。
「これ」
「……何?」
「写真」
「写真?」
「証拠写真」
美智子は、震える手で封筒を受け取った。
中には、数枚の写真が入っていた。
山岸と二人でホテルに入るところ。
数時間後、二人で出てくるところ。
日付も記録されていた。
一度ではなかった。
「……!」
美智子は、写真を取り落とした。
「あなた……いつから知ってたの?」
「結構前から」
「だったら、どうして何も言わなかったのよ!」
「別に、言う必要なかったし」
「……!」
「お前、普通に家に帰ってきてたしな」
美智子は、唇をかんだ。
最初は、ただの相談だった。
働かない夫。
自分ばかりが苦労する生活。
誰かに話を聞いてほしかった。
山岸は、優しかった。
いつも親身になって話を聞いてくれた。
そして、いつしか男女の関係になってしまった。
しかし、それは浩一が働かなかったからだ。
自分ばかり苦労させられたからだ。
美智子は、そう思っていた。
「……だって」
「ん?」
「あなたが、ちゃんと働いてくれてたら……」
「俺が?」
「そうよ! あなたが働いてくれなかったから!」
浩一は、少し考えた。
「それと浮気と、何か関係あるのか?」
「……!」
「まあ、いいや」
浩一は、写真を拾い集めた。
「これの慰謝料も請求するからな」
「ちょ、ちょっと待って!」
「何?」
「本気なの!?」
「うん」
「五十億円もあるのに!?」
「それは関係ないだろ?」
「……!」
「財産分与と慰謝料は別の話だからな」
美智子は、その場に座り込んだ。
二十五億円。
二十五億円もらえるはずだった。
それなのに。
財産分与は、ない。
いや、むしろ自分が払う側になっている。
貯金。
年金。
退職金。
そして、慰謝料。
何もかもが、逆になっていた。
「……あなた」
「ん?」
「ひょっとして……」
「何?」
「最初から、お義父さんの財産を相続するつもりだったの?」
「ああ。そうだよ」
浩一は、何でもないことのように答えた。
「じゃあ……だから働かなかったの?」
「まあ、そうだね」
「……!」
「だってさ」
浩一は、新聞を置いた。
「俺が一生懸命働いたところで、親父の家賃収入の何分の一にもならないだろ?」
「……」
「普通の会社員として三十年働いたって、親父の財産には到底追いつかないよ」
「……」
「だったら、無理して働く必要ないじゃないか」
「生活費はどうするつもりだったのよ!」
「生活できてたじゃないか」
「私が働いてたからでしょう!」
「うん。だから助かったよ」
美智子は、耳を疑った。
「じゃあ、あなたは……」
「ん?」
「私にずっと働かせて、お義父さんが亡くなるのを待ってたわけ?」
「まあ、親父がいつ死ぬかなんてわからなかったけどね」
「……」
「いずれ相続することになるとは思ってたよ」
「……」
「その間、普通に生活できればよかったんだ」
「普通に……?」
「うん」
美智子は、頭を抱えた。
この男。
本当に、最初からそういうつもりだったのか。
「……あなた、ずるいわ」
「そうかな」
「ずるいわよ!」
浩一は、少し考えた。
「まあ、俺が外で働くのは嫌だったからな」
「だから、私に働かせたのね!」
「いや、お前も仕事辞めたいって言わなかったし」
「何度も言ったじゃない! あなたも働いてって!」
「うん。だから俺も何度も言っただろ?」
「何をよ!」
「ムリムリムリムリって」
「……!」
美智子は、絶句した。
この男は。
本当に。
どこまでいっても、この調子なのだ。
「……私の人生、何だったのよ」
浩一は、何も答えなかった。
やがて、時計を見上げた。
「あ、もうこんな時間か」
そう言って立ち上がった。
「洗濯物、取り込まないとな」
「……」
「明日、雨らしいから」
浩一は、ベランダに向かった。
美智子は、その背中を見つめていた。
二十七年間。
この男は、一度も変わらなかった。
働かず、のんびり暮らし、好きなことをしていた。
そして今、五十億円もの財産を手に入れた。
自分は何だったのだろう。
必死に働いてきた。
節約してきた。
子供たちの学費も払った。
ようやく五百万円を貯めた。
その五百万円さえ、半分よこせと言われている。
年金も。
退職金も。
それどころか、慰謝料まで。
美智子は、ソファーに深く沈み込んだ。
しばらくして、浩一が洗濯物を抱えて戻ってきた。
「なあ、美智子」
「……何よ」
「明日から、飯どうする?」
「……は?」
「いや、離婚したわけだし、いつまでも俺が作るのも変だろ?」
「……」
「冷蔵庫の中のものは使っていいぞ。俺、来週には引っ越すつもりだから」
「……来週?」
「うん。親父のマンション、一部屋空いてるんだ」
美智子は、呆然とした。
浩一は、洗濯物を畳み始めた。
「それでさ」
「……何?」
「ベッドのシーツ、まだ出してないだろ?」
「……」
「今日洗うつもりだったんだけど」
美智子は、ゆっくりと顔を上げた。
「……もう、私のシーツまで洗わなくていいわよ」
「そうか?」
「そうよ! もう夫婦じゃないんだから!」
「そりゃそうだな」
浩一は、あっさり頷いた。
「じゃあ、自分で洗ってくれ」
「……」
「洗剤は洗面台の下にあるから」
美智子は、何も言えなかった。
浩一は鼻歌を歌いながら、洗濯物を畳んでいる。
そして、ふと思い出したように言った。
「あ、そうだ。財産分与の二百五十万円、どうする?」
美智子は、思い切りクッションを投げつけた。
「この、ろくでなし!」
浩一は、クッションを受け止めた。
「おいおい、何怒ってるんだよ」
「全部、あなたが悪いのよ!」
「何が?」
「何もかもよ!」
浩一は、困ったように首を傾げた。
そして、クッションをソファーに戻した。
「まあ、そういう話は弁護士にでも相談してくれよ」
「……!」
「俺も、ちゃんと計算してもらうから」
美智子は、天井を見上げた。
二十五億円。
二十五億円もらえるはずだったのに。
どうして、こうなったのだろう。
そのとき、浩一が言った。
「あ、そうだ。明日の朝飯は自分で頼むな」
「……」
「俺、朝からジムだから」
美智子は、もう一度クッションを投げつけた。
〈了〉




