第1話 私の男運、終わってませんか?
はじめまして、ガウガウです!
今回は、男運が絶望的に悪い二十六歳の社会人女性・橘彩花を主人公にした、ドタバタ恋愛コメディをお届けします。
仕事は順調で、生活も充実しているのに、なぜか恋愛だけはうまくいかない彩花。
「私だって、普通の恋愛がしたいだけなのに!!」
そんな彼女の前に現れるのは、ひと癖もふた癖もある男性たち。
果たして彩花に幸せな恋愛が訪れる日は来るのでしょうか?
笑って楽しんでいただけたら嬉しいです。
それでは、第1話をどうぞ!
私の名前は橘彩花。
二十六歳、独身。
都内の大手企業に勤める、社会人四年目の会社員だ。
仕事は順調。お給料も悪くない。
休日にはショッピングを楽しんだり、ちょっとお高いスイーツを買って帰ったり。
うん。
我ながら、なかなか充実した人生を送っていると思う。
……そう。
恋愛を除けば、だけど。
突然だけど、皆さんに一つ質問したい。
二十六歳にもなって、一度も彼氏ができたことのない女性をどう思うだろうか。
え? 別に珍しくない?
そう言ってもらえると非常にありがたい。
ちなみに、私はこれまで男性とお付き合いした経験が一度もない。
手を繋いだこともなければ、キスをしたこともない。
彼氏いない歴、二十六年。
……なかなか破壊力のある数字だ。
でも、勘違いしないでほしい。
私だって恋愛に興味がないわけじゃない。
むしろ、めちゃくちゃある。
素敵な男性とデートしたいし、手を繋いで街を歩いてみたい。
クリスマスにはイルミネーションを見に行って、誕生日には二人で美味しいディナーを食べたり……。
ああ、いいなぁ。
想像しただけでニヤニヤしてしまう。
……おっと、いけない。
では、なぜ私には彼氏がいないのか。
容姿に問題がある?
性格が悪い?
男性との出会いがない?
いや、少なくとも身だしなみには気を遣っているし、仕事柄、男性と接する機会も多い。
ありがたいことに、食事に誘われた経験だってある。
ただ、その男性たちが少々……。
いや、かなり問題ありなのだ。
例えば、大学時代。
同じゼミの男子から食事に誘われ、人生初のデートになるかもしれないと期待していたら、待ち合わせ場所に彼の彼女が現れた。
どうやら私は二人の喧嘩を仲裁するために呼ばれていたらしい。
……なんで?
社会人になってからも似たようなことがあった。
取引先の男性に食事へ誘われ、ちょっと期待していたら、席に着くなり怪しげな投資のパンフレットを渡された。
しかも、やたらと高額な初期費用が必要なやつ。
……だから、なんで!?
他にも色々あったけれど、思い出すだけで疲れるので割愛させていただきたい。
とにかく。
私には、絶望的なまでに男運がない。
……いや。
できれば、そう思いたくないんだけど……。
◇
「……以上が、今回ご提案する運用改善案になります」
私は手元の資料を閉じ、正面に座る取引先の担当者へ視線を向けた。
会議室に数秒の沈黙が流れる。
この瞬間は何度経験しても緊張する。
「……なるほど」
最初に口を開いたのは先方の部長だった。
「非常に分かりやすいご説明でした。現場の負担を抑えながら業務効率を改善するという点は、我々としても魅力的ですね」
「ありがとうございます」
私は笑顔で頭を下げた。
よし。まずは好感触。
「ただ、一点気になることがありまして」
「はい。何でしょうか?」
「新しいシステムの操作を覚えるまで、現場の負担が増えると思うのですが、その点はどうお考えですか?」
……来た。
予想していた質問の一つだ。
私は資料のページをめくった。
「おっしゃる通りです。そこで、今回は段階的な導入をご提案しています」
私は画面に表示された表を指し示した。
「まずは一部の部署で試験運用を行い、その結果をもとに操作マニュアルを調整します。説明会や導入後のサポートも弊社で対応いたしますので、現場の負担を最小限に抑えられると考えています」
先方の部長は隣の担当者と顔を見合わせると、納得したように頷いた。
「そこまで考えていただいているなら安心ですね。前向きに検討させていただきます」
「ありがとうございます!」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で小さくガッツポーズをした。
……やった!
もちろん、まだ正式な契約が決まったわけではない。
それでも、何度も資料を作り直した甲斐があった。
昨日なんて夜の十一時までパソコンとにらめっこしていたのだ。
まあ、そのせいで今朝は寝坊しかけたんだけど。
そこは内緒である。
◇
「橘さん、お疲れ様」
「あ、お疲れ様です!」
午後五時四十分。
私は出張先の取引先企業を出て、大きく息を吐いた。
今回の出張先は福岡。
東京から飛行機で移動し、午前中に現地入り。午後から取引先との打ち合わせを行うという、なかなか慌ただしい一日だった。
「いやぁ、助かったよ。橘さんがいてくれて」
「いえいえ。神崎さんのフォローがあったからですよ」
「そんなことないよ。先方の質問にも的確に答えてくれたし、資料の準備も完璧だった」
「もう、褒めても何も出ませんよ?」
「ははっ。本当のことだからね」
そう言って笑うのは、今回の出張に同行している私の上司。
神崎悠真さん。
二十九歳。
身長は百八十センチを軽く超えていて、黒髪短髪の爽やかなイケメン。
しかも、顔が良いだけじゃない。
仕事もできる。
部下への気配りも忘れない。
おまけに性格まで穏やか。
……いや、神様。
ちょっと盛りすぎじゃありません?
神崎さんは私が所属するチームのリーダーを務めている。
私自身、仕事で困ったときには何度も助けてもらっているし、尊敬している上司の一人だ。
そして、もう一つ。
神崎さんは既婚者である。
三年前に結婚していて、左手の薬指には銀色の結婚指輪が光っている。
もちろん、私はそのことを知っている。
というか、同じ部署で働いているのだから当然だ。
「そういえば橘さん」
「はい?」
「今夜、何か予定はある?」
「今夜ですか?」
今回の出張は一泊二日。
明日の午前中に追加の打ち合わせを行い、午後の飛行機で東京へ戻る予定だ。
「特にはないですね。ホテルに戻って、適当に夕飯を食べようかなって思ってました」
「それなら、よかったら一緒に食事でもどうかな?」
「食事ですか?」
「うん。せっかく福岡まで来たんだし、美味しいものでも食べて帰ろうと思ってね」
「それいいですね!」
私は即答した。
だって、福岡ですよ?
ラーメン、もつ鍋、水炊き、明太子。
美味しいものがたくさんあることで有名な福岡!
出張の楽しみといえば、やっぱり現地の料理だ。
「神崎さん、何かおすすめのお店があるんですか?」
「前に来たときに入った居酒屋が美味しくてね。よかったらそこに行こうか」
「ぜひ!」
「じゃあ、七時にホテルのロビーで」
「はい!」
私は笑顔で頷いた。
このときの私の頭の中はもつ鍋と明太子でいっぱいだった。
◇
午後七時。
ホテルに荷物を置いた私はロビーで神崎さんと合流した。
「お待たせしました!」
「いや、僕も今来たところだよ」
神崎さんは柔らかく微笑んだ。
ちなみに、私はホテルの部屋で少しだけ身だしなみを整えてきた。
仕事中にまとめていた髪を下ろし、軽くブラシを通す。
メイクも少し直した。
別に深い意味はない。
仕事が終わったのだから、少しくらいお洒落を楽しんでもいいでしょう?
……いや、誰に言い訳してるんだろう、私。
「それじゃ、行こうか」
「はい!」
私たちはホテルを出て、夜の街へと歩き出した。
福岡の繁華街は平日の夜だというのに多くの人で賑わっていた。
仕事帰りらしい会社員や観光客が行き交い、道沿いには飲食店の看板が並んでいる。
どこからともなく漂ってくる香ばしい匂いに、私のお腹が小さく鳴った。
……聞こえてないよね?
「橘さんは食べるのが好きだもんね」
「えっ、バレてました?」
「ははっ。いつも美味しそうにお昼を食べてるから」
「ちょっと恥ずかしいんですけど……」
私は苦笑した。
まさか神崎にまで知られていたとは。
「でも、いいことだと思うよ。橘さんが美味しそうに食べているとこっちまで嬉しくなるから」
「……っ」
え。
今の言い方、なんだか……。
いやいやいや!
何を考えているの、私!
相手は既婚者!
ただの褒め言葉に決まってるでしょう!
「そ、そう言ってもらえると嬉しいです」
私は慌てて笑顔を作った。
恋愛ドラマの見すぎだろうか。
男性から少し優しい言葉をかけられただけで、妙に反応してしまう。
そんなことを考えているうちに、目的のお店へ到着した。
「ここだよ」
「わぁ! いい雰囲気ですね!」
そこは木製の看板が目印の落ち着いた居酒屋だった。
店先には暖簾がかかっていて、中から楽しそうな話し声が聞こえてくる。
神崎さんが扉を開けると、香ばしい焼き物の匂いが鼻をくすぐった。
……あ。
これは絶対に美味しいお店だ。
私の食いしん坊センサーがそう告げている。
◇
「かんぱーい!」
「お疲れ様!」
グラスが軽く触れ合い、澄んだ音を立てた。
私は冷えたビールを一口飲む。
「っはぁぁ……!」
美味しい。
仕事終わりの一杯って、どうしてこんなに美味しいんだろう。
しかも今日は大きな仕事を無事に終えたばかり。
達成感も相まって、いつも以上に美味しく感じる。
「いい飲みっぷりだね」
「す、すみません。つい……」
「いやいや。美味しそうに飲んでくれると嬉しいよ」
神崎さんは楽しそうに笑った。
私たちが案内されたのは店の奥にある半個室の席だった。
テーブルには注文した料理が次々と運ばれてきた。
お刺身の盛り合わせ。
明太子入りの卵焼き。
ごまさば。
そして、熱々のもつ鍋。
……最高。
この時点で福岡に来た甲斐があったと言っても過言ではない。
「いただきます!」
私は早速、卵焼きに箸を伸ばした。
一口食べると、ふわふわの卵の中から明太子の旨味が広がる。
「んんっ! 美味しい!」
「気に入ってもらえた?」
「はい! すっごく美味しいです!」
神崎さんは満足そうに頷いた。
本当にいい上司なんだよなぁ。
仕事もできるし、気配りも上手。
こうして出張先で食事に誘ってくれるのも、部下を労うためなのだろう。
「そういえば、橘さん。昨日も遅くまで資料を修正してたでしょ?」
「うっ……バレてました?」
「ちゃんと休むことも仕事のうちだよ」
「はい……気をつけます」
私は少しだけ肩を落とした。
神崎さんの言うことは正しい。
仕事に集中すると、つい時間を忘れてしまうことがある。
「ところで、橘さん」
「はい?」
「プライベートの方はどう?」
「……プライベート、ですか?」
私は箸を止めた。
「休日とか何してるのかなって」
「ああ、そういうことですか。買い物に行ったり、家でドラマを見たりしてますね」
「ドラマ?」
「はい。特に恋愛ドラマが好きで」
「へぇ、意外だね。橘さんってあまり恋愛に興味がなさそうだから」
「…………」
「私ってそんなに恋愛に興味なさそうに見えます?」
「仕事が好きそうだし、一人でも楽しそうだから」
なるほど。
確かに私は仕事が好きだ。
一人で過ごす時間も嫌いじゃない。
でもね?
それと恋愛に興味があるかどうかは、まったく別問題なんですよ!?
「そ、そんなことないですよ。私だって恋愛には興味あります」
「そうなんだ。じゃあ、今は彼氏とかいるの?」
「ぶっ……!」
危うくビールを吹き出しかけた。
ちょ、ちょっと!
急に核心を突かないでください!
「だ、大丈夫?」
「はい……。彼氏はいません」
「そうなんだ。橘さんなら、すぐに彼氏ができそうなのに」
私は乾いた笑みを浮かべた。
すぐにできそう。
その言葉を信じ続けて、早二十六年。
一向に完成しないんですけど、私の彼氏。
……工事、どこかで止まってません?
「はは……ありがとうございます」
「ちなみにどんな男性がタイプなの?」
「タイプ、ですか?」
私は少し考えた。
顔が良い人?
お金持ち?
背が高い人?
もちろん、そういう条件が揃っていたら嬉しい。
でも、私が本当に求めているのはもっと単純なことだ。
「そうですね……優しくて、誠実な人がいいです。あとは一緒にいて楽しい人……ですかね」
「それだけ? 年収とか、容姿とかは?」
「もちろん、全然気にしないって言ったら嘘になりますけど……」
私は少し笑った。
「でも、ちゃんと働いていて、お互いを大切にできる人ならそれで十分かなって」
豪華なプレゼントなんていらない。
高級レストランに連れて行ってもらわなくてもいい。
休日に一緒にスーパーへ買い物に行って、夕飯の献立を考えたり。
そんな何気ない時間を楽しめる相手がいい。
「素敵な考え方だね。橘さんらしいよ」
神崎さんは優しく微笑んだ。
私は少し照れくさくなって視線を逸らした。
私は気を取り直して、もつ鍋に箸を伸ばした。
うん。
美味しい。
今は目の前の料理を楽しもう。
◇
それから一時間ほどが経過した。
料理もほとんど食べ終わり、テーブルの上には空いたお皿が並んでいる。
私は二杯目の飲み物として注文したウーロン茶を口に運んだ。
お酒は最初の一杯だけ。
明日も仕事があるし、出張先で酔っ払うわけにはいかない。
私はこう見えて、ちゃんと自制心のある大人の女性なのだ。
「橘さん」
「はい?」
神崎さんがふいに真剣な表情になった。
それまでの穏やかな雰囲気とは少し違う。
私は思わず背筋を伸ばした。
「少し真面目な話をしてもいいかな」
「……はい」
真面目な話?
今日の打ち合わせについて、何か気になることでもあったのかな。
「実は前から伝えたいことがあったんだ」
神崎さんは私の目をまっすぐに見つめる。
……え?
この雰囲気。
なんだか、恋愛ドラマで見たことがあるような……。
「橘さん」
「は、はい」
「僕は、あなたのことを……」
ま、まさか。
いやいやいや!
そんなはずない!
だって神崎さんは……!
「あなたのことが好きです! 付き合ってください!」
「…………」
……え?
今、なんて?
好き?
付き合って?
……誰と?
私?
……私!?
えええええええええっ!?
告白!?
これ、告白ですよね!?
しかも、神崎さんから!?
私、人生で初めて男性から告白されたんですけど!?
心臓がドキドキしている。
頬が熱い。
頭の中が真っ白だ。
恋愛ドラマで何度も見てきた場面。
少女漫画で憧れていた瞬間。
まさか、私にもこんな日が来るなんて……!
……って。
待て。
落ち着け、橘彩花。
目の前の男性は誰だ?
神崎悠真さん。
二十九歳。
高身長。
イケメン。
仕事ができる。
優しい。
そして……。
既婚者。
…………。
はい。
終了。
「……橘さん?」
「あっ、はい!」
私は慌てて顔を上げた。
神崎さんが不安そうにこちらを見つめている。
そりゃそうだ。
告白した相手が突然黙り込んだら、不安にもなるだろう。
でも、私だって今ものすごく困っている。
というか、困らせている原因はあなたですからね!?
「えっと……神崎さん」
「うん」
「まずは、その……ありがとうございます。好きだと言っていただけたことは素直に嬉しいです」
「……本当?」
「はい」
それは嘘じゃない。
人生で初めて、男性から真正面に好意を伝えられた。
そのこと自体は本当に嬉しかった。
でも。
だからといって、何でも許されるわけじゃない。
私は一度、深呼吸をした。
そして、神崎さんの左手へ視線を向ける。
薬指には銀色の結婚指輪。
うん。
やっぱりある。
私は改めて神崎さんの顔を見つめた。
「……既婚者ですよね?」
「…………」
沈黙。
なんとも言えない沈黙が私たちの間に流れた。
……いや。
黙らないでくださいよ。
そこ、一番大事なところですからね!?
「……そう、だね」
「それなのに私と付き合いたいと?」
「……そうなんだ」
…………。
なんでえええええええっ!?
私は心の中で絶叫した。
あなた結婚してますよね!?
奥さんいますよね!?
それなのに、なんで部下に告白してるんですか!?
しかも出張先の居酒屋で!
明日も一緒に仕事するんですよ!?
気まずいでしょうがああああ!!
「橘さん。聞いてほしい」
「……はい」
神崎さんは真剣な表情で口を開いた。
「実は妻とはもううまくいっていないんだ」
……あ。
出た。
出ました。
『妻とはうまくいっていない』。
既婚者が不倫を持ちかけるときに言いそうな台詞ランキング、堂々の第一位!
いや、実際のランキングなんて知らないけど。
「最近は家でもほとんど会話がなくてね。お互いに気持ちが離れているんだと思う」
「……そうなんですか」
「そんなとき、橘さんと一緒に仕事をしていて……いつも明るくて、前向きで。一生懸命な姿を見ているうちに惹かれていったんだ」
神崎さんの言葉はきっと本心なのだろう。
普段の私をちゃんと見てくれていたことも伝わってくる。
だからこそ困った。
尊敬していた人の言葉をこんな形で聞きたくなかった。
「神崎さん。一つ、お聞きしてもいいですか?」
「もちろん」
「奥様とは離婚される予定なんですか?」
「…………」
また沈黙。
……あれ?
もしかして、私、そんなに難しい質問しました?
「それは……まだ具体的には……」
「……なるほど」
私は静かに頷いた。
つまり。
離婚する予定はない。
でも、私とは付き合いたい。
……うん。
なるほどなるほど。
なるほどじゃないわ!!
「えっと……じゃあ、今の状態で私とお付き合いしたいということですか?」
「……できればそうしたい」
私は思わず天井を見上げた。
ああ、神様。
どうしてこうなるんでしょうか。
私、何か悪いことしました?
仕事も頑張ってます。
税金もちゃんと払ってます。
ゴミの分別だって守ってます。
なのにどうして……。
人生初の告白が既婚者からなんですかああああ!!
「……橘さん?」
「……すみません。少しだけ気持ちを整理させてください」
神崎さんは小さく頷いた。
私はウーロン茶を一口飲んだ。
冷たい液体が喉を通り、少しだけ頭が冷静になる。
よし。
落ち着こう。
私は二十六歳。
立派な社会人。
しかも、相手は直属の上司だ。
ここで感情的になって怒鳴り散らすわけにはいかない。
もちろん、言いたいことは山ほどある。
でも、ここは大人の対応をしよう。
「神崎さん」
「うん」
「お気持ちは本当にありがたいです。でも、私はお付き合いできません」
神崎さんの表情が曇った。
「……やっぱり結婚しているから?」
「はい」
私は迷わず頷いた。
「私は誰かを傷つけるような恋愛はしたくありません」
神崎さんの目をまっすぐに見つめる。
「もし奥様との関係がうまくいっていないのであれば、まずはそちらをきちんと話し合うべきだと思います」
「…………」
「私は神崎さんのことを上司として尊敬しています。だからこそ、こういう形で告白されたことは……正直、残念です」
その言葉に神崎さんは視線を落とした。
言いすぎたかもしれない。
でも、ここは曖昧にしちゃいけないところだ。
私は恋愛経験ゼロだけど、だからといって誰かの家庭を壊してまで恋人が欲しいわけじゃない。
そんな恋愛をしたってきっと幸せにはなれない。
少なくとも私はそう思う。
「……ごめん」
しばらくして、神崎さんが小さく呟いた。
「橘さんの言う通りだね。困らせてしまって、本当にごめん」
神崎さんは深く頭を下げた。
私は返事に迷った。
謝られたからといって、今の話がなかったことになるわけじゃない。
でも、明日も一緒に仕事をするのだ。
「……神崎さん」
「うん」
「明日の打ち合わせ、よろしくお願いしますね」
「……え?」
「まだ出張は終わってませんから。今日のことは、仕事に持ち込まないようにしましょう」
「……橘さん」
「もちろん、同じことが続くようなら困ります。そのときは私もきちんと対応させていただきます」
そこははっきり伝えておく。
「でも、明日からも普通に仕事をしたいです」
「……分かった。ありがとう、橘さん」
私は小さく頷いた。
……ふぅ。
なんとか穏便に終わったかな。
正直、心の中ではまだ色々と言いたいことがある。
でも、今はこれでいい。
そう思った。
……そのときだった。
「……橘さんの言うとおりだね。子供のこともあるししっかり考えるよ」
「……はい?」
私は思わず聞き返した。
「……子供?」
「うん。二人いるんだ」
「…………」
…………。
……はい?
二人?
お子さんが?
二人?
……へぇ。
そうなんだ。
…………。
いるんかあああああああい!!
いや、待って!
お子さんまでいるの!?
しかも二人!?
それなのに私と付き合いたいって!?
……この人、何を考えてるんだろう。
さっきまで尊敬していた上司の顔を私は思わずまじまじと見つめてしまった。
仕事ではあんなに先のことまで考えられる人なのに。
どうして自分の家庭のことになると、ここまで見通しが悪くなるのだろう。
「……橘さん?」
「……はい」
「……大丈夫?」
私はにっこりと微笑んだ。
「大丈夫です」
……大丈夫。
大丈夫だ、私。
ここは公共の場。
周りには他のお客さんもいる。
落ち着け。
深呼吸。
吸って。
吐いて。
……よし。
「神崎さん」
「うん」
「今日のもつ鍋、美味しかったですね」
「……え?」
「せめて夕飯だけは良い思い出のまま終わらせたかったです」
神崎さんは何も言えなくなってしまった。
私は静かにウーロン茶を飲み干した。
◇
午後九時半。
私はホテルの部屋へ戻ってきた。
「…………はぁぁぁぁ……」
扉を閉めた瞬間、全身の力が抜けた。
靴を脱ぎ、バッグを置き、ベッドへ向かう。
そして。
ぼふっ!
私はそのままベッドに倒れ込んだ。
柔らかな布団が身体を受け止める。
……ああ。
疲れた。
今日一日で何年分の精神力を使ったんだろう。
午前中は飛行機で移動。
午後は取引先との打ち合わせ。
夜は美味しい料理を食べて……。
そして。
既婚者の上司から告白された。
私は枕に顔を埋めた。
せっかく素敵な男性から告白されたと思ったのに!
しかも、人生初の告白だったのに!
よりによって既婚者!
……もう笑うしかない。
「……あはは」
私は乾いた笑い声を漏らした。
「……あはははは……」
…………。
「笑えるかああああ!!」
私は枕を抱きしめ、ベッドの上でじたばたと足を動かした。
ああ、もう!
誰か聞いて!
私の話を聞いて!
……いや、誰に話せばいいんだろう。
友達?
同僚?
家族?
……無理。
こんな話、恥ずかしすぎる。
そもそも、上司から告白されたなんて話したら職場で変な噂が立つかもしれない。
神崎さんにはきっぱり断った。
明日からも仕事は普通に続けるつもりだ。
だから、今は誰にも話さない方がいい。
ただし、また同じことがあれば話は別だ。
私は恋人が欲しいのであって、職場で面倒な問題を抱えたいわけじゃない。
……うん。
そうしよう。
私は枕から顔を上げ、仰向けになった。
天井の照明がぼんやりと視界に映る。
静かな部屋。
聞こえるのはエアコンの小さな音だけ。
……でも。
少しだけ。
本当に少しだけ。
嬉しかったんだよなぁ。
私は胸元に手を当てた。
神崎さんから告白された瞬間。
心臓が大きく跳ねた。
顔が熱くなって、頭の中が真っ白になった。
誰かに好きだと言ってもらえることが、あんなに嬉しいなんて知らなかった。
……だからこそ、余計に残念だった。
「……はぁ」
私は小さくため息をついた。
別に神崎さんと付き合いたかったわけじゃない。
尊敬している上司ではあるけれど、恋愛対象として考えたことはなかった。
それに、既婚者だと知っていたし。
でも。
もし、神崎さんが独身だったら?
……そのとき、私はどう答えていたんだろう。
少し考えてみる。
優しくて、仕事ができて、頼りになる。
顔だって、文句なしのイケメン。
正直、かなり魅力的な男性だと思う。
でも。
「……いや、ダメだ」
私は首を横に振った。
今さら考えたって仕方ない。
神崎さんは既婚者。
それが現実だ。
それに、仮に独身だったとしても、すぐに付き合うかどうかは分からない。
恋愛ってそんなに簡単なものじゃないと思うから。
……経験ゼロの私が言うのもなんだけど。
「……恋愛って難しいなぁ」
私はぽつりと呟いた。
二十六歳。
仕事は順調。
生活にも困っていない。
それなりに楽しい毎日を送っている。
でも、時々思うのだ。
仕事で嬉しいことがあった日。
美味しい料理を食べた日。
綺麗な景色を見た日。
この気持ちを誰かと分かち合えたらいいのにって。
もちろん、友達もいる。
家族だっている。
それでも。
恋人という存在に憧れてしまう。
休日に一緒に出かけたり。
何でもないことで笑い合ったり。
そんな普通の恋愛を一度くらい経験してみたい。
「……私ってそんなに贅沢言ってるのかな……」
私は天井に向かって問いかけた。
別に大金持ちじゃなくていい。
モデルみたいなイケメンじゃなくてもいい。
優しくて、誠実で、ちゃんと独身の男性なら、それでいい。
……いや。
待って。
ちゃんと独身って。
それ、条件に入れなきゃいけないことなの?
普通、そこって大前提じゃない?
恋人を探すときにわざわざ確認しなきゃいけないことなの!?
「……はぁぁぁ……」
私は再び枕に顔を埋めた。
……もう、嫌だ。
恋愛なんてしばらく考えたくない。
仕事だけして、美味しいものを食べて、好きなドラマを見て。
それで十分じゃないか。
そう自分に言い聞かせた。
……言い聞かせた、のだけど。
「……次こそは」
私は小さく呟いた。
「次こそはまともな人でありますように……」
神様。
お願いです。
私は別に運命の王子様を求めているわけじゃありません。
白馬に乗って迎えに来てほしいなんて思っていません。
高級車も豪華なプレゼントもいりません。
ただ。
普通の恋愛がしたいだけなんです。
私はベッドの中へ潜り込んだ。
明日も仕事だ。
今日のことは忘れてしっかり休もう。
いつかきっと、素敵な男性と出会えるはずだ。
……たぶん。
……いや、きっと。
「……神様」
私は布団の中で小さく呟いた。
「私の恋愛運、どこかで設定間違えてませんか?」
当然、返事はなかった。
……うん。
知ってた。
こうして、私の人生初の告白は恋が始まるどころか、盛大なため息とともに幕を閉じた。
そして私はこの日改めて思い知ったのである。
私の男運はどうやら想像以上に壊滅的らしい。
最後までお読みいただきありがとうございました!
記念すべき第1話から、とんでもない男性に告白されてしまった彩花。
人生初の告白が既婚者から、しかも子供が二人いるという衝撃の事実まで発覚……。
果たして、彼女が夢見る「普通の恋愛」は実現するのでしょうか?
これからも彩花の恋愛事情を、温かく見守っていただけたら嬉しいです!
面白いと思っていただけましたら、ブックマークや評価、感想などで応援していただけると励みになります!
それでは、次回もよろしくお願いします!




