1-1 潮の間の影
初めまして、黑稻相癸です。
本作「孤旅」は、広大な異世界を舞台にした本格ファンタジー小説です。
獣人の少女コラの五感を通して描く、匂いと手触りに満ちた物語をお届けします。
それでは、マングローブの潮の匂いからこの旅を始めましょう。
マングローブの森では、死の匂いと生の匂いはほとんど区別がつかない。
腐った落ち葉、黒ずんだ朽ち木、引き潮に見捨てられた泥干潟の魚の死骸――それらが放つ甘い生臭さと、頭上で咲いている気根蘭が混ざり合い、吐き気を催すほど不快でありながらどこか心地よいという、矛盾した匂いを生み出す。あたしはこの匂いの中で育った。だからその中の最も微かな変化でさえ嗅ぎ分けられる。
たとえば今、風の中に存在してはならないものが一筋、紛れ込んでいた。
錆の匂い。
道具の錆じゃない。血液が空気に触れて酸化した時に残るあの匂い――ごく薄く、まるで上流で何かが引き裂かれて、その死の気配が引き潮の流れに乗ってゆっくりと漂ってきたような。
あたしの耳が反射的に東南に向いた――潮が湧き込んでくる方角だ。
尻尾の先がかすかに震え、うなじの鬣が一本ずつ逆立つ。脳より先に体が判断を下している証拠だ。あたしたち毛皮の歌の部族では、古い猟師たちがこう言う。
「おまえの毛はおまえの頭よりも賢い。毛が逆立ったら、考えるな、走れ」
でも、あたしは走れなかった。
泥水に沈みかけている気根の上にしゃがみ込み、左手で滑る幹にしがみつきながら、右手を水面下の泥の中に突っ込んで、指先で蛍光苔の根元に触れている最中だったから。
とても小さい。あたしの親指の爪ほどしかなくて、気根が絡み合う影の奥深く、分厚い泥の層に覆われて隠れている。あたしの鼻が、あの星屑を砕いたような微かで澄んだ匂いを嗅ぎ取れなければ、絶対に見つけられなかっただろう。
これで今日七株目。おじいちゃんには薬湯を一杯煎じるのに最低十五株必要で、採れる時間はあと一刻もない――潮が完全に引いてしまえば、この一帯は日光に晒されて、乾いた蛍光苔は薬効が大幅に落ちてしまう。
だから、うなじの毛が悲鳴を上げていても、あたしの指は離さなかった。
もう一株。あと一株だけ――
「動くな、子猫」
声が真上から降ってきた。
喉の息を半分だけ手のひらで塞いだような、低くて平坦な人の声。
全身の毛がばっと逆立った。
尻尾が一直線に伸び、背中が弓なりに反り、喉の奥から威嚇の低い唸り声が搾り出される。あたしは勢いよく顔を上げた――
頭上で絡み合う太い気根の間に、人影がいた。
いや、ぶら下がっているんじゃない。腕の太さにも満たない気根の上にしゃがんで、最も滑りやすい苔の層を踏みしめているというのに、その重心はまるでそこに生えているかのように安定していた。黒い麻布の外套は木漏れ日の中でほとんど見えず、目だけが斑の光の中で一瞬きらりと光った。
人間だ。
しかも、かなりおかしな人間。
あたしは沈木港で人間を見たことがある。たいてい痩せていて不器用で、マングローブの森を竹馬に乗った水鳥の群れみたいにぎこちなく歩く。一歩ごとに十匹以上のドジョウを驚かす。匂いもわかりやすい――安物の革油、錆びた鉄片、粗悪な煙草、そこに刺すような酸っぱい汗の匂いが一層加わる。
目の前のこいつは違った。
「おまえの足元の泥が震えている」
彼はあたしを見ていなかった。あの目は、あたしの背後にある――あたしが半身を沈めている黒い水溜まりの水面を、真っ直ぐに見つめていた。声は依然として極端に低く押さえられているが、速度が上がっている。一語一語が歯の隙間から搾り出されるように。
「聴いてるんだ。おまえの心臓の音を」
なにが聴いている?
あたしは反射的に目を落とした。
足元の暗褐色の泥干潟の表面――他と何も変わらないように見える、泡を含んだぬかるみ――が、ごく緩やかな周波数で上下している。
潮じゃない。潮は均一で、広い範囲にわたる、呼吸のように律動的な動きだ。
これは違う。
あたしの右踵の直下、半径おおよそ腕一本分の範囲で、一塊の泥面だけが独立して……脈動している。まるでその下に何か巨大なものが埋まっていて、泥の層の上にかかる圧力を感じ取っているかのように――あたしの体重を、あたしが踏みしめるたびに伝わる振動を。
あたしの心臓の鼓動を。
寒気が尾てい骨から後頭部へと這い上がった。
あたしはこのマングローブの森で七年間薬草を採ってきた。七年だ。満潮の時にどの木の後ろへ逃げればいいか知っている。どの泥干潟の下に猛毒の刺泥虫が潜んでいるか知っている。すべての水鳥の鳴き声が何を意味するか知っている。
だが、足元の泥が|自分の心臓と同じリズムで震えている《・・・・・・・・・・・・・・・・・》ことには一度も気づかなかった。
「俺がおまえなら、その足を引っ込める」頭上の声がまた響いた。今度は少し早口だ。
「それと、できれば――」
彼の言葉は最後まで続かなかった。
泥干潟が爆発したからだ。
泡が弾けるような爆発じゃない。泥面全体が鍋の蓋のように凄まじい力で跳ね上がった――暗褐色の泥しぶきが腐った枝葉を巻き込んで噴き上がり、その下から、あたしの上半身ごと呑み込めるほどの大口が、息を詰まらせるような速さで閉じようとしていた。
泥沼大鰐。
あたしに見えたのは、黒い泥にまみれた二列の円錐形の歯だけだった。一本一本があたしの指ほどの長さがあり、薄暗い水光の中で骨色に冷たく光っている。開いた口腔の奥から押し寄せる呼気が嗅覚に叩きつけられた――腐肉、胃酸、そして頂点捕食者だけが纏う、黴た麝香の匂い。
恐怖で四肢が凍りついた。
怖いのとは違う。あの一瞬、体が計算を行ったのだ。走る? 間に合わない。地面を蹴って飛び退く? 足元は泥干潟、踏ん張れない。薬鏟で受け止める? あんなもの、大鰐の歯一本より軽い。
すべての答えが「死」を指し示す零コンマ数秒の間に――
「伏せろ!」
黒い影が頭上を掠めた。その風圧で耳が頭に押しつけられる。
あの人間が飛び降りた。剣も抜かず、盾も構えず、部族の猟師たちの誰にも見たことのない戦闘の構えすらとらなかった。
ただ落下しながら、何気ない――いや、傲慢ですらある仕草で、まるで道端の野良犬に骨を放ってやるかのように、右手に握った拳大の灰色の石球を、大鰐の開いた下顎の付け根に向けて放り投げた。
石球は歯にも頭にも当たらず、上顎と下顎の間の、喉の入り口にある柔らかな口蓋の肉に正確に飛び込んだ。
ぱん。
石球が砕けた。
刺激臭のする黄色い粉末が大鰐の口腔の奥で炸裂した。その匂い――数歩離れていても、泥の中に伏せていても、あの辛さが真っ赤に焼けた鉄の針のように鼻を貫いた。
ワサビ。
いや、ワサビよりもっと強烈だ。
乾燥させたワサビを最も細かい粉末に挽いて、発酵した黒胡椒の種と、あたしには嗅ぎ分けられない硫黄臭のする鉱物粉末を混ぜたもの? あの刺激は物理的な実体を持つかのように大鰐の喉と鼻腔に注ぎ込まれた。
六メートルの巨獣が、あたしが今まで聞いたことのない声を発した。咆哮ではなく――嗚咽? この沼の食物連鎖の頂点に君臨する支配者が、あの一瞬、まるで理不尽に叱られたかのような悲鳴を上げた。
頭を激しく振る。棘だらけの巨大な尾が薙ぎ払い、周囲の灌木と気根を藁のように薙ぎ折った。砕けた木片と泥のしぶきがあたしの背中に降り注いだが、痛みなど構っている暇はない。死に物狂いで頭を抱えた。
そして鈍い呻き声が聞こえた。
あの人間のだ。
大鰐の尾が彼を掠めた。正面からではない――後で確認したが――尾の先端にある最も太い棘が左肩を掠過したのだ。鈍い刃で革を深く切りつけるような音。布の裂ける音と血飛沫の音がほぼ同時に響いた。
だが彼は一歩も退かなかった。
掠めた肩で尾の衝撃を受け止め、その慣性を利用して半回転し、片手であたしの襟首を掴むと、子猫を持ち上げるようにあたしを引き上げて、背後の気根が分岐してできた高い窪みに押し込んだ。
「掴まれ」
その声は、さっきのワサビ粉の爆発よりもなお静かだった。
「こいつら爬虫類は辛いのが大嫌いだ。だが効果は十秒から十五秒。鼻の中の粉を洗い流したら――」
言い終わらないうちに、下方の大鰐はすでに狂ったように隣の深みに突っ込み、もがきながら泥水で口腔を洗おうとしていた。水域全体が沸騰した粥のように湧き立つ。
「――恥をかかせた相手に仕返しに来る。だから行くぞ」
あたしは気根にしがみつき、握りしめた指が白くなっていた。心臓が肋骨を叩き、一打ごとに誰かが内側で太鼓を打っているようだった。
そして彼の肩が目に入った。
黒い外套の左肩が裂けている。鮮やかな赤い血が麻布の繊維を伝い、泥干潟に滴り落ちていた。傷は深くはないが長い――肩口から鎖骨の近くまで走っている。
「血が出てる」あたしは言った。自分で思っていたよりもずっとかすれた声だった。
亜倫――この時はまだ名前を知らなかった――が傷口に目を落とした。
そして彼は、今日に至るまであたしが信じがたく思っていることをした。
わずかに首を傾け、まるで傷の深さを確認するように。それから何気なく気根から紅樹蝋葉を一枚むしり取った――天然の止血成分を含む肉厚の葉――そしてそのまま肩に貼りつけた。樹液を搾りもせず、ただ衣の端で乱暴に押さえつけただけ。
「かすり傷だ。行くぞ」
それだけ。
痛みの叫びも、歯を食いしばる音も、部族の負傷した猟師たちに見られるあの抑えた喘ぎもない。
彼の痛覚反応は、あたしが見てきたどんな生きた人間よりも希薄だった。まるで血は自分の肉から流れているのではなく、あまり関係のない道具から滴っているかのように。
おかしい。
あたしの鼻が、もう一つの不協和な情報を捉えた。
流れ出る血は正常だった――錆の匂い、塩気、温もり。だがその血の匂いの下で、彼自身の体臭にはなんの変化もなかった。恐怖のアドレナリンの酸っぱさもない。痛みが生む苦い汗もない。心拍のリズムすら速まっていない。
この人間はまともじゃない。
だが今は問い詰めている場合じゃない。背後の深みで大鰐がもがく振動が小さくなっていた――口の中の辛さをほぼ洗い流したということだ。
「あんた、誰?」あたしは気根の間を彼の後を追って跳びながら、息を切らして訊いた。
彼が振り返った。斑に揺れる木漏れ日の中、若くもなく老いてもいない人間の顔に、あたしには読み取れない淡い笑みが浮かんでいた。
「亜倫」と彼は言った。
「通りすがりの……旅人だ」
「旅人?」あたしは危うく気根から滑り落ちそうになり、尻尾を慌てて近くの枝に巻きつけてどうにか踏みとどまった。
「旅人がなんで大鰐を泣かせるような辛味爆弾を持ち歩いてるのさ?」
「この世の中」彼はすでに上層の樹冠に通じる太い主根の上に跳び移っていて、あたしに手を差し伸べた。
「生きて歩きたけりゃ、ちょっと多めに『調味料』を仕込んでおくもんだ」
あたしは彼に引き上げられて主根の上に立った。この高さから見下ろすと、さっき危うくあたしを呑み込みかけたあの泥干潟は、ただの小さな褐色の窪地にすぎないように見えた。
マングローブの潮が引いていく。陽光が樹冠の隙間から射し込んで、すべてを金色に染めていた。靴に半乾きの泥がこびりつき、背中に大鰐の尾が巻き上げた破片が張りついていなければ、この光景さえも穏やかだったに違いない。
まるで何も起きなかったかのように。
あたしは胸に抱えた薬籠をぎゅっと握りしめた――中には、たったの七株。情けない量の蛍光苔しか入っていない――何度か荒い息をついて、ようやく限界まで張り詰めていた弦が緩んだ気がした。それから、一つの考えが浮かんだ。
待って。
さっき彼は……どうやって大鰐に気づいたんだ?
あたしは七年間マングローブの森で薬草を採り続けてきて、この泥干潟はほぼ毎日踏んでいた。泥沼大鰐の擬態は完璧だ――満潮前にぬかるみに身を埋め、二つの目玉だけを出して、呼吸すら潮の干満に同調させる。部族で最も経験豊富な古参の猟師でさえ、特定の水鳥の異常な行動から間接的にしか存在を推測できない。
だがこの人間、古い書物と木の匂いがする旅人は、大鰐の位置を突き止めただけでなく、正確に知っていた。
「聴いてるんだ。おまえの心臓の音を」
これは本では学べない。
あたしはそっと横目で彼を窺った。亜倫は主根の又に腰を下ろし、片手で外套の裂け目を押さえながら、もう一方の手で何かを無造作に弄っていた――木の簪のようだ。結い上げた髪に挿してあり、造りは簡素で飾りもないが、その木目は温かくほのかな光沢を帯びていた。まるで持ち主の指でいくどとなく撫でられてきたかのように。
「あんたの肩」あたしは咳払いをして、できるだけ事実の報告であって見知らぬ人間の心配じゃないんだという口調を目指した。
「手当て、してやろうか? あたし草薬師だから……いや、半人前だけど」
亜倫が振り向いて、あたしを見た。その見方が変だった。品定めでも査定でもなく、もっと……追憶に近い何か?
だがその表情は一瞬だけ覗いて、すぐにあの軽やかな無関心の仮面に覆い隠された。
「いい」彼は蝋葉で覆った傷口を軽く叩いた。
「それより、早く離れないと、血の匂いが鰐よりもっと厄介なものを引き寄せる」
彼は引き潮の泥干潟を指差した。遠くの水際に、数匹の細長い暗い影がこちらに向かって泳いでいる。
「刃尾蛇魚。五十歩以内の血の匂いなら、大鰐のものか人間のものか嗅ぎ分ける。残念ながら、興味があるのは人間の血だけだ」
二度言われる必要はなかった。
あたしたちは気根の間の天然の通路を通って潮汐帯を離れた。それからは言葉を交わすこともなく、あたしたちが湿った枝を踏む音と、遠くで大鰐が泥溜まりに沈み直すくぐもった水音だけが響いた。
マングローブの森を出る時、あたしは最後に一度だけ振り返った。
潮が引いていく。あたしをさっき呑み込みかけたあの沼が、今は夕焼けの中で黄金色に輝いている。白鷺が数羽、浅瀬を踏みながら餌を啄み、水面は鏡のように静かだった。
美しい。静か。そして致命的。
いつもと何一つ変わらない。
「おまえ、蛍光苔のために危険を冒して潮汐帯に入ったんだろう?」
亜倫の声が前方から聞こえた。彼はすでにマングローブの林縁を出て、内陸に向かう砂利道に足を踏み出していた。外套の裾が灌木の棘に引っ掛かり、無造作に引き剥がす。まるでこの道を一万回歩いたことがあるかのような動作だった。
「おじいちゃんが病気なの。高熱が何度も繰り返して」あたしは薬籠をもう少しきつく抱きしめた。
「あたしはあんたたち人間みたいに金貨をたくさん持って町に薬を買いに行けないから、自分で採るしかない。でもこの……」
あたしは籠の中の哀れな苔たちを見下ろした。潮汐帯を離れてからすでに萎縮し始めていて、あの星屑のような澄んだ香りが少しずつ薄れていく。
「匂いが薄すぎる。薬効が足りんな」亜倫が足を止めた。
振り返って、あたしの手の中の薬籠に目をやり、わずかに眉をひそめた。
「蛍光苔は解熱には効くが、対症療法にすぎない」彼の語調は常識を述べているかのようだった。
「おまえのおじいさんの問題は普通の風邪の熱じゃない。マングローブの森の老猟師だろう? 長年潮水に浸かっていた?」
「なんでわかるのさ?」あたしは警戒して耳を立てた。
「おまえの匂いでわかる」亜倫は自分の鼻を指差した。
「おまえの靴底には長年塩水に浸かった痕がある。膝の内側には気根の上に跪いてできた胼胝がある――つまり採薬場所は潮汐帯だけだ。普通、獣人は子供を潮汐帯に入れない。経験豊かな年長者に付いて学ぶ場合を除いて」
彼は少し間を置いた。
「あの環境で何十年も生き延びた老猟師なら、体に膨大な量の潮毒が蓄積されているはずだ――塩水と腐敗した霊気が混ざり合い、骨髄に浸透する慢性毒だ。蛍光苔は熱を抑えるだけ。潮毒を本当に除去するには――」
彼は手を上げて、南西を指した。
砂利道の先で、マングローブの樹冠が低くなり、蒼茫とした地平線がわずかに覗いていた。
「活霊草が必要だ。あれは霊気の密度が極めて高い環境にしか生えない。この近辺で条件を満たす場所はただ一つ――」
「地竜島」あたしが先に言った。
亜倫がわずかに片眉を上げた。
「知ってるのか?」
「伝説だけ」あたしの耳が少し垂れた。
「長老が言ってた。南西の深海に何千年も生きている地竜がいて、その背中がそのまま動く島になってるって。島の植物は地竜の霊気を吸収して、信じられないようなものに変異しているって」
あたしは言葉を切って、尻尾を落ち着かなげに揺らした。
「でも長老は、あそこは海竜王の領域だとも言ってた。あの海域に近づく船長はいないって」
「海竜王の領域ではない」亜倫が訂正した。その口調の軽さは、まるであたしが塩と砂糖を間違えたのを正すかのようだった。
「海竜王はもっと遠い深淵にいる。地竜島はその領域の縁にすぎない。しかも、あの地竜は今ちょうど浮上呼吸の周期に入っている――その背がこの辺りの海面に数ヶ月間留まる――」
彼は一度言葉を止め、首を傾けて夕日の方角を見やった。何かを計算しているように。
「俺の計算が正しければ、今はちょうど沈木港の南西、航路でおよそ九日から十日の位置にいるはずだ」
九日から十日?
あたしは反射的にマングローブの森の方角を振り返った。毛皮の歌はあそこにある――マングローブと内陸の草原の境界に。おじいちゃんがいて、族長がいて、生まれてから十九年間のあたしが知るすべてがあそこにある。
そして沈木港は……部族から沈木港まで、マングローブの南側にある灰塩平原と沿岸の砕石丘陵を越えるだけで、十何日もかかる。
さらに十日の航海。
約一ヶ月。
「何を考えているかわかるぞ」亜倫の声が響いた。感情はなく、ただ観察から導かれた陳述。
「時間がかかるのは確かだし、おまえには船賃もない」
あの一瞬、大鰐に狙われた時よりも重い無力感が、あたしの胸にのしかかった。
彼の言う通りだ。あたしには金がない。船がない。部族の外の世界で一夜を過ごしたことすらない。あたしはマングローブの縁で薬草を採る半人前の草薬師にすぎない。足元に大鰐が潜んでいることにすら気づけない。
「でも、あんたには方法があるんでしょ?」あたしは彼を見つめた。
なぜかわからないけれど、この言葉を口にした時、あたしの声には卑屈さがなかった。さっき彼が大鰐を辛さで泣かせた光景があまりに馬鹿げていたからかもしれない。だからこの人間に対して奇妙な信頼が生まれた――善人だと信じたわけじゃない。「やろうとしたことは必ずやり遂げる」類の人間だと信じたのだ。
亜倫は数秒間あたしを見つめた。
それから、ごく浅い、ごく短い笑みを浮かべた。口の端がほんのわずかに上がっただけで、笑顔とも呼べない。何かの確認に近いもの。
「ちょうどいい」彼は向き直って砂利道を歩き出した。
「俺もそっちへ行くところだ」
お読みいただき、ありがとうございます。
本作は私にとって初めての小説です。
拙い部分も多いかと思いますが、一話でも楽しんでいただけたなら、それが何よりの励みになります。
感想・ご意見、大歓迎です。
「ここが好き」「ここはこうした方がいい」——どんな声でも、必ず読ませていただきます。
また、最近あなたの心に残った出来事や、感動したエピソードはありますか? ぜひ聞かせてください。
いつか本作のどこかで、あなたの物語が形を変えて息づいているかもしれません。
もしこの作品を気に入っていただけたら、ファンタジー好きなお友達にもぜひ共有してくださると嬉しいです。
ブックマーク・評価・感想、どれも次の一話を書く大きな力になります。
——次回、第二節「毛皮の歌」
コラの別れ。だが、いったい誰に別れを告げるのか——。




