あの湖
わたしは幼いころから、水がある場所を避けてきた。よく友達が川遊びや海遊びに誘ってきたが、何かしらの理由――家の掃除や親の手伝いを言い訳にすることが多かった――をつけて断った。そうして何度か遊びの誘いを断るうちに、とうとう誘われなくなった。そして友達の数も減っていった。
実のところ、友達が減っていくのは子どもながらに傷ついた。友達が減っていくことに耐えられなくなったわたしは、いつも友達が遊んでいる川へ行ってみることにした。だが、いざ川の近くまで来ると、水がある場所への恐怖心がそれを拒んだ。そのとき、わたしは友達が減っていくことよりも、水がある場所への恐怖心のほうが大きいことを自覚し、川には行かなかった。結局、そんなことを繰り返すうちに友達は減り、とうとう水がある場所に行くことはなかった。
そして大人になった今でも、わたしは水がある場所には行っていない。
ある日の晩、妻がキッチンから顔を覗かせ「ねぇ、あの湖知ってる?ほら、この前テレビでやっていたあの湖!」と言った。
「この前テレビで見た湖ね……」と、あえて妻を見ずにわたしは答えた。できあがった料理を両手に持ち、テーブルへと置きながら妻は言った。「今度の日曜あの湖に行ってみない?」
わたしは少し考えたふりをして「あんまり気が進まないな……」と答えた。
妻の性格上、一度決めたことは絶対に曲げない。それが妻の良いところなのだが、今回に限ってはそれが裏目に出てしまった。わたしは幼いころのようにどうにかして断る理由を探したが、妻を説得できる理由が何一つ浮かばず、妻と一緒にあの湖へ行くことになってしまった。
あの湖へ行く日の朝、わたしと妻は車に乗り込んだ。わたしはカーナビにあの湖の住所を入力し、ゆっくり車を走らせた。妻は運転するわたしに向かって、友人の結婚式の話や職場の同僚の話を、永遠とも感じられるほど長い間語っていた。実のところ妻の話はほとんど聞いていなかった。あの湖に近づくにつれ、水がある場所への恐怖心が胸のなかでじわじわと広がり、とてもじゃないが妻の話を聞く気にはなれなかった。
二時間ほど車を走らせ、山道に入っていった。道路は両側に木々が立ち並び、重なり合う葉が陽ざしが遮り、日中だというのにあたりは薄暗く、どこかこの世とは違う雰囲気を感じさせた。
道路わきの標識をいくつか見た後、”湖まで五キロ”と書かれた看板が目に入った。
「あと五キロ……」わたしは小さく漏らした。と同時に、カーナビのアナウンスが車内に響きわたった。「ここから五キロ先、目的地付近です」わたしは心臓が一瞬止まった気がした。
そこからさらに車を走らせ数分が経った。《あの湖まであと二キロぐらいだろうか》そう思ったとき、突然あの湖に引き寄せられる感覚が体を支配した。まるでリードを付けられた犬が飼主に引っ張られる、そんな感覚だった。
「やっぱり来るんじゃなかった……」と思わず口をついて出た。楽しみにしていた妻に聞かれていないか心配になり、そっと助手席の妻を見た。助手席側の窓には、外の景色を眺めている妻の顔が反射して映っている。妻の表情で、わたしが言ったことは聞こえていないとわかった。
ほっとしたわたしは、妻から目を離そうとしたその瞬間、映っている妻の顔がまったく知らない別人の顔に見えた。それは悲しげな表情をして頬がこけるほど瘦せた女の顔だった。驚きならがも、もう一度よく見ると、車の窓には楽しそうにしている妻の顔が映っていた。
それから少ししてカーナビが目的地を告げるアナウンスを車内に響かせた。わたしはすぐ近くの道路わきにある車二台ぶんほどの広場に車を止めた。妻が不思議そうな顔をしながらわたしに問いかける。
「本当にここ?合ってるの?」わたしはカーナビに設定した住所履歴を確認した。設定した住所は間違いなくあの湖の住所だった。
「うん、間違いなくこのあたりのはずだけど……」そう言いながら、わたしは車を降り周囲を見渡した。わたしに続き、妻も車から降りた。
「あ、開けた道がある!」そう言いながら、妻はその道の方へ歩いていった。車から十メートルほど歩き、妻が突然立ち止まった。妻は何かを見ている。わたしも妻のあとを追い、妻が見ているものに目を向けた。妻が見ていたものは、木の看板だった。木の看板は朽ちていて、少しでも触れたら今にも崩れてしまいそうなほど腐っていた。
この看板には湖までの道のりが手書き風の絵で書かれていた。湖までの道のりは赤色で塗られ、湖は青色で塗られていた。よく見ると、湖の中央より下側に小さくバツ印が彫られていた。
妻が看板に書かれた道に向かって歩きだした。わたしも妻のあとを追った。その道は、左右に草木が生い茂り、地面から太い木の根っこが頭を出し、上を見上げると葉と葉の間からわずかな陽ざしが差し込んでいる。ときおり、鳥たちのさえずりが聞こえてくる。わたしは目をつぶり深く息を吸い、この雰囲気を全身で感じた。なぜかこの雰囲気がとても懐かしかった。
この道を十分ほど歩くと、目の前に湖が現れた。森の深みからのぞく湖は、太陽の陽ざしを水面にうけ、静かに光輝いていた。わたしは息をのんだ。湖の美しさは、ここへ来るまでに感じていた胸騒ぎを忘れしまうほどだった。
わたしと妻は湖から二十メートルほど離れた場所にレジャーシートを広げて持っていた荷物を置き、腰を降ろした。
少しすると妻が立ち上がり、湖の方へ歩き出した。妻は湖のほとりまで行くと、靴と靴下を脱ぎ、光輝く水面に足をつけた。穏やかだった水面に小さな波がたち、水面が銀色に光った。妻はすねのあたりまで水に浸かったまま、銀色に光る水面をじっと見ていた。その光景を見たとき、わたしの中で水がある場所への恐怖心はどこか遠くへ消え去っていた。
わたしは妻のいなくなったレジャーシートで、寝そべりながら持ってきた小説を読むことにした。照りつける陽ざしをうまく木の葉が遮ってくれるおかげでまだらの日陰ができ、そよぐ風が心地良い気分にさせてくれた。わたしは小説を開き、ゆっくりとページをめくり始めた。
……木の葉が顔に落ちたわずかな衝撃で、わたしは目を覚ました。あたりの景色はさっきまでと変わらなかった。≪しまった……いつの間にか寝てしまった……≫そう思いながら、わたしは靴を履き立ち上がった。
ふと湖に目を向けると、妻が腰のあたりまで水に浸かるほどの深い場所に立っていて、湖の中央あたりをじっと見ていた。わたしは遠くにいる妻に声をかけた。しかし妻からの返事はなかった。
虫の知らせのような感覚を覚えたわたしは、意を決し湖の近くまで行くことにした。三メートルほど先で立っている妻にわたしは声をかけた。すると妻はゆっくりわたしのほうを振りかえった。振りかえった妻は虚ろな目をしていた。そして妻は静かに言った。
「……おかえりなさい」
妻の言葉聞いたその瞬間、わたしは説明のつかない確信が全身に広がった。このままではまずい、なにかよくないことが起きる、そう本能的に理解した。わたしは水しぶきをあげながら、妻のもとまで駆け寄り、妻の手を固く握りしめ、湖から引き上げた。わたしは急いで荷物を片付け、我を忘れる勢いで車まで走った。走りながら湖のほうを振りかえることは決してなかった。わたしは湖にいる恐ろしい存在をはっきりと背中で感じとっていた。
わたしは妻を車の助手席に押し込むように乗せた。わたしが車に乗り込んだ途端、妻が目を見開き静かになにがあったか訪ねてきた。わたしは車のエンジンをかけながら答えた。
「きみの様子が少し変だったんだ……僕が話しかけても変なことしか言わないし……なんかちょっと怖くなったんだ……」いつもわたしの話を冗談半分に受け取る妻が、この時ばかりはわたしの話をすべて正直に受け取ったようだった。妻は深くうなずくだけで、なにも言わなかった。そしてわたしは車を走らせ自宅へ急いだ。
自宅に向かう途中、わたしと妻は一言も話さなかった。実のところ何を話したら良いかわからなかった。妻はときおり、あの湖での出来事の細部を聞こうとしていた――たまに運転するわたしを見るのが横目に見えた――が、結局は聞かれなった。
そしてわたしは妻の言葉の意味を考えていた。妻が言った『おかえりなさい』という、この言葉の意味を。
わたしと妻が自宅に着いたのは日が暮れたころだった。わたしは自分の部屋の机の上に荷物を置き、リビングへ向かった。
リビングのテーブルには、不在票が置いてあった。差出人は父からで、荷物欄には”野菜”と書いてあった。再配達の依頼をしたあと、わたしは父に電話をかけた。父はすぐ電話に出た。
「あ、父さん?野菜ありがとう!まだ受け取れてないけど、いつもの野菜でしょ?」とわたしが言うと、父は「ああ、”いつも”の野菜だ」と皮肉を込めて言った。
父は続けて「今日はどこか出かけてたのか?受け取れなかったって言ったろ?」と聞いてきた。わたしは答えた。「うん、湖に行ったんだ!テレビ番組で特集していた湖なんだけど、父さん知ってる?」
少し間が空き、「お前、あの湖に行ったのか?なにもなかったか?」と父が焦るように答えた。
『なにもなかったか?』その言葉を聞いた瞬間、湖での出来事が走馬灯のように頭を駆けめぐった。
そしてわたしはあの湖で起きた出来事のすべてを父に話した。
わたしが出来事を話しているとき、父はたまに相づちをうつぐらいで、なにも言わなかった。わたしの話が終わると父は小さい声で言った。
「お前はあの湖に行ったことがあるんだ……」
それから父は、わたしがあの湖に行った時のことを話し始めた。
今から二十年ほど前、父と母とわたしの三人であの湖へピクニックに出かけた。当時、あの湖は今ほど有名ではなく、訪れる人もあまりいなかった。
あの湖へ着くと父と母はピクニックの用意を始めた。大きめの青いレジャーシートを敷き四隅を荷物で固定し、母が朝二時間をかけて作った弁当を広げ、冷えた麦茶が入った水筒を近くに置いた。父と母はピクニックの準備に忙しく、わたしのことは全く気にかけていなかった。わたしはというと、あの湖へ着くなり湖のほとりへ向かって歩きだしていた。しかし父と母はそのことには気づいていなかった。
父と母がピクニックの準備を終えたとき、ようやくわたしがいないことに気がついた。父と母は急いであたりを探した。そして父がわたしを見つけた。わたしは湖のほとりで四つん這いになり、顔を水に沈め、身体をバタバタさせ一生懸命もがいていた。父はすぐさまわたしのもとへ駆けつけ、わたしを湖から引き上げた。引き上げられたわたしは白目をむき、首には手でつかまれたような赤い跡が残っていた。それから父と母はすぐに湖をあとにした。
わたしはソファに横になり父の話を頭の中で繰り返した。すると、記憶の奥底にしまいこんでいた、その時の光景が鮮明に蘇った。
わたしが四つん這いで湖を覗いたとき、湖の水は驚くほど澄んでいて、水中に差し込む光が底の土や砂利をスポットライトのように照らしていた。
わたしが見ている湖の底のちょうど真ん中あたりに何かがあった。その何かは底に溜まっている柔らかい土から少しだけ突き出た枝のように見えた。その突き出た枝のようなものをよく見ると、枝よりも太く色は白かった。気になったわたしはもっとよく見ようと、水面に顔を近づけた。わたしの顔が水面からわずか五センチほどに近づいたその瞬間、底に埋まっていた枝のようなものが、かぶっていた土を突き破り、勢いよくわたしのほうへ伸びてきた。一瞬の出来事だったが、わたしはそれが紛れもなく人間の手だとわかった。その手は全体が青白く、枝のように細く曲がった指に縦に割れた爪がついていた。その手は一瞬でわたしの首をつかんだ。わたしは必死に振り払おうとしたが、その手は尋常ではない力でわたしの首をつかむ。どれだけもがいても、その青白く細い手はびくともしなかった。わたしは徐々に息ができなくなり、視界がぼやけはじめた。そのときすでに抵抗できる力は残ってなかった。意識が遠のき、最後は目の前が真っ暗になった。
わたしはすべてを思い出した。
あの湖でなにがあったのか、どうして水がある場所を避けるようになったのかを。
「おかえりなさい」その言葉の意味を。