第2章 人身御供⑩
桜の花びらが舞い散る春の日、とうとう儀式の当日が訪れた。前夜はあまり眠れず、日の出前に起き出した茉莉は、静かに布団を畳み、部屋の隅に片付けた。もう二度とこの部屋に戻ってくることはない。16年間過ごした日々を思い出し、ゆっくりと味わった。
幼い頃は母から厳しく躾けられ、使用人同様の扱いを受けることもあった。しかし、それは茉莉を案じてのことだと知り、今では懐かしい思い出となっている。
黒水家との縁談、淡い恋心、愛する人の死、絶望、そして儀式への恐怖と不安。この1年で様々な感情を経験してきた。
そんなことを思い出しながら、茉莉は屋敷の外へ出た。
日の出とともに儀式に参加しなければならない。身を清めるため、井戸水で水浴びをし、白い着物に着替えてその時を待った。しかし、不安な気持ちは拭いきれない。心を落ち着かせるため、いつも桃の木の下へ向かった。
そこには先客がいた。いつもふらりと現れる猫が、待ち構えていたのだ。薄暗い中、猫の黄色い目が光り、不気味に感じる。
「猫さん、おはよう。お見送りに来てくれたの?」
猫は心なしか嬉しそうに尻尾を揺らしている。いつもより生き生きしているのは気のせいだろうか?
間もなく夜明けだ。大好きだったこの桃の木ともお別れしなければならない。
「今まで私を慰めてくれてありがとう。」
そっと幹に手を触れ、お礼を言った。
空が白み始めた頃、母、白金紫苑、姉の百合が巫女装束で現れた。父の姿もあった。
「お父様、お母様、お姉様。今までありがとうございました。」
茉莉は深々と頭を下げた。姉の百合は目に涙を溜めている。今にもこぼれ落ちそうだ。それを我慢するために大きく目を開けているのがわかる。父も母も身を引き裂かれる思いなのだろう。今にも泣き出しそうな面持ちだ。
家族4人で森の入り口までゆっくり歩いた。もう二度と会えないかもしれないと思うと、一層寂しさが込み上げてきた。しかし、茉莉はもう16歳、立派な成人だ。ここで泣くわけにはいかない。涙を堪え、決意を新たにする。
森の入り口で、紫苑と百合から清めの言葉を唱えてもらう。
「行ってまいります。」
そう言い深々と礼をすると、茉莉は後ろ髪を引かれるのを抑え、森へと入っていった。
背後から「茉莉!」と呼ばれたが、振り返ることはしなかった。
森に入り歩き始めた時、母から案内の者がいるはずだと告げられていたのを思い出した。周りを見渡しても、人影はどこにも見当たらない。
「案内の方がいらっしゃるまで、ここで待った方がいいかしら・・・」
そう呟くと、足元から「にゃぁ」と猫の鳴き声が聞こえた。桃の木の下にいた猫が、どうやらここまでついてきたようだ。
「猫さん、心配でついてきてくれたのね。ありがとう。でも、もう帰っていいのよ。」
そう告げた瞬間、辺りに白檀の香りが広がり、目の前にいた猫は大きな白虎に姿を変えた。茉莉は思わず息を呑んだ。
「えっ!!」
何が起こったのか、一瞬理解できなかった。よくよく見ると、白虎は黄色い瞳と銀色の毛並みで、いつも触れ合っていた猫と同じ表情をしていた。嬉しそうに長い尻尾を揺らゆら揺らしている。
「猫さん?!」
驚きのあまり、声が裏返ってしまった。今まで接していた猫は、白虎だったのか?
「こちらだ。」
白虎は低い声でそう言うと、茉莉を先導してゆっくりと歩いた。
(この声、夢に出てきた白虎と同じだ。)
茉莉は瞬時にそう感じ、白虎に尋ねた。
「あのっ・・・私の夢に出てきたのはあなた様ですか?」
「そうだ。」
白虎は振り返ることなく答えた。
「あのっ・・・!」
「なんだ?」
「私は側仕えか何かをするために人身御供となるのでしょうか?」
ずっと気になっていたことを聞いてみた。しかし、白虎からは「後でゆっくり説明する」と冷たく返されただけだった。
(私、嫌われているのかしら・・・)
そう思うと、今まで押し殺していた恐怖と不安がむくむくと湧き上がってきた。
白虎の後を俯きながらただひたすら歩く。歩くたびに不安が増し、足が重くなる。どれぐらい歩いただろうか。
「着いたぞ。」
声をかけられて頭を上げると、母がよく啓示を受ける社があった。白虎は社の中に入っていくので、茉莉もそれに従う。ここで儀式を行うのだ。今まで押さえつけていた恐怖が蘇る。体が震えるのが分かった。
茉莉の先に入った白虎は振り返り、「そう怖がるでない。」と言うと、くるりと回転し、ふわりと白檀の香りが広がった。
今までいた白虎は消え、一人の男性が立っていた。
背が高く、体は少し細い。銀色の髪は腰まで伸び、紫の髪紐で一つに束ねてある。白い着流しに濃い紫の羽織を着た男性は、切長の目に黄色の瞳を持ち、端正な顔立ちをしていた。とても美しい男性だ。
「綺麗・・・」
男性の美しさに一瞬魅了されてしまった。
「ようこそ!私の花嫁。」
そう言うと、男性は左手を茉莉に差し出してきた。
聞き違いではないだろうか。確か『花嫁』と言われたような気がする・・・
「あ、あのぅ・・・あなた様は白虎様で、私は側仕えではなく、あなた様の花嫁になるのでしょうか・・・」
恐る恐る聞いてみる。
「その通りだよ。」
あっさりした答えが返ってきた。
「詳しくは向こうに着いたら話すから。」
茉莉は差し出された左手に自分の右手をそっと乗せた。その瞬間、腕をぎゅっと引っ張られ、優しく抱きしめられた。
「茉莉、もう離さないよ・・・」
耳元で囁かれ、驚きと同時に恐怖も湧き、体が震えた。
「ははは。そんなに怖がらなくても大丈夫だから。じゃあ行こうか。」
茉莉はふわっと優しく横抱きにされ、白虎はそのまま社殿の奥の扉へと進んでいった。扉の奥は真っ暗闇でどこに行き着くのか全くわからない。恐怖のあまり、固く目を瞑り白虎の着物をギュッと掴んでしまった。




