サキュバスな令嬢が白い結婚をすることになってしまうお話
「君とは白い結婚の契約を結ばせてもらう。夜を共に過ごすことはできない」
「は?」
子爵令嬢レシェラーサ・エムオラルトは思わず間の抜けた声を上げた。
結婚式を終えた初夜の寝所。
やって来たのは彼女の婚約者、伯爵子息ストレナスト・レーディンガードだ。
鮮やかな金髪に凛とした緑の瞳の青年だ。細身に見えるが弱々しい印象はない。式服の下に均整の取れた引き締まった身体があることを、レシェラーサは知っていた。
夜も更けたころだというのに、ストレナストは王の御前にでも出るような立派な式服を身にまとっていた。
彼の差し出す契約書は、上質な紙に正式な書式で白い結婚について綴られている。既にストレナストの名が署名済みだ。どう見ても公式な文書であり、冗談とは思えなかった。
対するレシェラーサと言えば、ベッドの上にいた。
魅惑的な令嬢だった。肩まで届く艶やかな亜麻色の髪。まだ少女のあどけなさの残るかわいらしい顔立ち。だが桃色の瞳は、その可憐さに見合わぬ妖艶な輝きを放っていた。
身にまとうのは各所にフリルのあしらわれたかわいらしいネグリジェだ。絹製のネグリジェは透けるように薄く、彼女の瑞々しい身体のラインを垣間見せていた。ベッドの上で足を崩して座るその姿は、無垢な愛らしさと妖しい色香という、対立すべき要素を絶妙に同居させていた。
初夜の準備は完全に整っていた。そんな場に式服でやってきて突き出したのが白い結婚の契約書なら、誰だって驚くことだろう。
だがレシェラーサが事態を呑みこめないのはそんなことではなかった。
子爵令嬢レシェラーサ・エムオラルトは人の身にしてサキュバスの能力を持つ令嬢だ。伯爵子息ストレナスト・レーディンガードとは既に数えきれないほど肌を重ねてきた深い仲である。
白い結婚と言う言葉とは、あまりにも縁遠い新郎新婦なのだった。
100年以上も昔のこと。まだ王国が魔王軍と争っていた頃。魔王軍より一匹のサキュバスが送り込まれた。
男を惑わす催淫能力に、精気を魔力として吸収する能力。美しい顔に悩ましい肢体を有するそのサキュバスは、男を惑わすことにかけては他の追随を許さない恐るべき魔物だった。
魔王軍のサキュバスは王国に入り込むと、その身に備えた能力で王国の主要人物を次々と篭絡していった。有力貴族に王宮の文官、教会の神官、裏社会の幹部や下町の顔役に至るまで、影響力のある人物と見れば次々とその魅惑の力で傀儡化していった。そして己は陰に隠れたまま巧みに傀儡を操り、王国を腐敗させその力をじわじわと削いでいった。
ただのサキュバスではなかった。単身で王国を傾けるために送り込まれた、魔王軍きっての最上級サキュバスだったのである。
だがただ一人、その恐るべき魅惑の力に惑わされない者がいた。当時のエムオラルト子爵家当主だ。清廉潔白、謹厳実直で知られた彼の武器は、国の法に則った正規の手段と強い意志だけだった。しかし彼は類まれな傑物だった。正しい手段で不正をただし、魔物の奸計を暴き出し、ついには王国を惑わすサキュバスを討ち果たしたのである。
だが魔王軍から送り込まれたサキュバスはただでは終わらなかった。死に際に子爵家に恐るべき呪いをかけたのだ。
『淫らな身堕ち』。
「子爵家の娘に強制的にサキュバスの能力を与える」という呪いだった。
一代に一人、その呪いは必ず降りかかってきた。
呪いに侵されれば、どんな貞淑な令嬢も淫らな淫婦になり果てた。
娘が生まれなかった時には母親が呪いに侵されることがあった。
迎え入れたばかりの穢れを知らぬ花嫁が、その夜には淫乱な女になった。花婿どころか使用人に至るまで、たった一晩で屋敷中の男と言う男を凌辱し尽くしたことすらあった。
最上級のサキュバスが自らの命を触媒とした呪いはあまりに強力で、王国一の聖女であっても解呪することはできなかった。
清廉潔白で名を馳せた子爵家にとってまさに最悪の呪いだった。
『淫らな身堕ち』は子爵家ですら当主のみに伝えられる秘事だった。国を救った功績と、魔物の呪いの噂が広まれば国民に不安を与えかねない。王国は呪いに侵された令嬢の隠ぺいに協力した。
レシェラーサ・エムオラルトは何も知らぬまま、呪われた子爵家に次女として生まれた。
彼女には姉と妹がいた。三姉妹のうち、いつ誰が呪いの犠牲者になるかはわからなかった。
しかしそんな状況であっても婚姻は避けられない。貴族と言うものは何を犠牲にしてでも家を存続させなければならないのだ。
そうして、エムオラルト家の次女レシェラーサは、伯爵子息ストレナスト・レーディンガードと婚約関係を結んだ。
レーディンガード伯爵家は魔法に秀でており、特に封印と契約の魔法にかけては王国随一と謳われる名家だった。
三年ほど前、二人が婚約関係を結んで間もない頃。レシェラーサは風邪をこじらせ病床に臥していた。
ストレナストはガーベラの花束を手に見舞いにやって来た。部屋の花瓶に飾られた花の美しさに婚約者の心遣いを感じ、レシェラーサは胸に温かな想いを抱いた。
その時、『淫らな身堕ち』は牙をむいた。
熱を発し病床についたのが呪いの始まりであったことは、当のレシェラーサすら知らないことだった。彼女は唐突にサキュバスとしての能力を開花した。
部屋にいた使用人を魔法で昏倒させると、ストレナストをベッドに引き込んだ。サキュバスの本能の命じるままに、身に備わった催淫能力と性技を駆使して、ストレナストを快楽のるつぼへと叩き込んだのである。
全てが終わった時。初めて使ったサキュバスの能力に疲れ果て、静かに眠るレシェラーサを前に、ストレナストは事態が急を要することを知った。
子爵家と王国がいかに隠したとしても、一代ごとに子爵家の令嬢に異常があれば何らかの記録は残る。婚約相手の出自について調べるうちに、何かがあるとストレナストは感じ取っていた。そしてこの時、婚約者のこの狂乱こそが子爵家の秘する異常の源であると、聡明な彼は覚ったのである。
ストレナストの家、レーディンガード家は封印と契約魔法に長けた一族だった。歴代でも上位の魔法の使い手と謳われたストレナストがこの時に使ったのは契約魔法だった。サキュバスのように男の精をむさぼるレシェラーサはきっと他の男を求めるようになる。貴族の令嬢としてそんな無法は防がねばならなかった。
しかし、使った魔法は人に対するものではなかった。荒ぶる大精霊と契約する際に使うような極めて強力な契約魔法だった。聡明なストレナストと言えど、サキュバスと化した婚約者との激しすぎる情事の後では、冷静な判断などできなかったのだ。
果たして、契約魔法は見事に作用した。
何もしなければ、レシェラーサはサキュバスの本能に振り回され、多くの男の精を求める淫婦となっていただろう。だが強力な契約魔法はサキュバスの本能を制限した。日常においては今まで通り清楚可憐な令嬢として過ごせるようになったのだ。
だが、それで呪いをすべて封じられたというわけではなかった。強制的に与えられたサキュバスの本能と能力は健在だった。外に向けることのできなくなったその矛先は、ストレナストただ一人に向かうことになった。
週に何度も。都合が合えば日に何度も。二人は熱く激しい時間を過ごした。
間違って子を宿すことはなかった。サキュバスには男の精液を魔力として吸収するという能力がある。レシェラーサが強い意思でサキュバスの能力を抑え込まない限り、子種が本来の役目を果たすことはありえなかった。
そうして二人は歪ながらも婚約関係を保ち、ようやく結婚したのだった。
「いまさら白い結婚が成立するとでもお思いですか?」
子爵令嬢レシェラーサは呆れたように問いかけた。
白い結婚とは結婚した男女が夫婦として夜の営みを交わさないことだ。
既に数えきれないほど熱い夜を過ごしてきたこの二人に意味があるとは思えない。
その真っ当な指摘を前に、しかしストレナスはまるで引くことはなかった。
「それが、成立するんだ。世間にとっては僕たちは清い関係を保った婚約者だった。それが白い結婚の契約を結んだとなれば、疑う者などほとんどいないだろう」
そう言われると言葉に詰まった。
ストレナストの契約魔法によって、レシェラーサは日常を普通に過ごせるようになった。だがサキュバスの本能まで封じることができたわけではない。二人でいる時間を増やすと、何のきっかけでサキュバスの能力が暴走するかわからなかった。
だから普段はストレナストと距離を置いた。婚約者として最低限の接触しかとらなかった。周囲からは手も握らない清い関係と思われていたのだ。
「でも、なぜ白い結婚なのですか? まさかわたしのことは飽きてしまって、他に好きな人でもできたというのですか?」
本当に愛する人がいるから、家の都合だけで決まった配偶者のことは愛さない。だから白い結婚の契約を結ぶ……恋愛小説ではよくある展開だった。
口にしながらも、レシェラーサはそれはあり得ないと確信していた。
最低でも週に二日は二人で夜を過ごした。機会が限られるがゆえに常に全力でサキュバスの能力を揮った。「絞り尽くされた」ストレナストが、他の女に目を向けるような余力など、無かったはずなのだ。
だがストレナストは頭を振った。
「実は……私のレーディンガード伯爵家に、君がサキュバスの能力を宿していることがばれてしまったのだ。もともと君に対しては強力すぎる契約魔法をかけていた。本家の者たちもずっと疑いを持っていたらしい。そしてついに結婚式の直前に発覚した」
「ええっ!? あれほど何重にも防御結界を張っていたのに、ばれてしまったのですか!?」
「ああ。やはり本家の人間は僕より上手だった」
レシェラーサは愕然となった。
式の直前、結婚衣装をまとった顔合わせ。レシェラーサはどうにもサキュバスの本能が抑えきれなくなった。そこで二人きりになりたいと人払いをして、ストレナストが防音の魔法をかけて、何重にも防御結界を張り巡らせた。
ストレナストは優れた魔法の使い手だった。ここまで厳重に結界を張れば中の様子を誰かに知られることなどまずありえないはずだった。
それでも式の前だ。使えるの時間はわずか20分程度しかない。凝った作りの花嫁衣装は一人で着直せず、そんな時間もない。脱ぐわけにもいかなかった。
制限は多かったが、だからこそ挑戦心をかき立てられた。サキュバスの能力をフルに発揮した情交は、今まで以上に熱く激しく濃厚で、大変素晴らしいものだった。ストレナストとは何度となく肌を重ねてきたが、その中でもあの日のことはひときわ輝く特別な思い出だった。ちょっと思い返すだけでレシェラーサの身体は潤ってしまう。
あれを知られていたとなれば……一発でサキュバスとばれてしまう事だろう。ごまかせる余地はなかった。
「サキュバスと発覚したのは結婚式の直前だ。さすがに伯爵家も式をとりやめることはできなかった。だが、君との間に子を儲けることを許さないと言い渡された」
「それで白い結婚というわけですか……?」
「ああ。期間は三年。白い結婚を終えたのち、僕は他の家の令嬢を娶ることになる」
「つまり白い結婚を冷却期間に使うということですか」
「ああ。それが伯爵家の判断なんだ」
レシェラーサも貴族の娘だ。事情は理解した。
もし結婚したあとすぐさま離婚をしたらどうなるか。突然の破談はきっと耳目を集めるはずだ。それでレシェラーサが呪いによってサキュバスの能力を持つと知られれば、伯爵家も子爵家もその名誉を傷つけられることになる。
だが時間を置いてから別れ、白い結婚だったと告げればどうなるか。両家の縁を結ぶため、期間限定の仮の結婚をするというのは、貴族社会では珍しいことではない。大して注目を浴びることは無いだろう。あとでレシェラーサの秘密がばれたとしても、知らなかったと言い張れば、伯爵家の被害は最小限に留められる。
背景は理解した。だがこれは、恐れていた事態だった。
愛し合う二人が引き離される。それはまさに悲劇だ。だがだがレシェラーサにとっては、より深刻な問題が立ちふさがる。
契約魔法によって、今のレシェラーサはストレナストとしか情事を交わすことができない。
契約魔法を解かずに彼と引き離されれば、誰とも情事を交わせないことになる。サキュバスをは男から精を得なければ死んでしまうという。人の身でありながらサキュバスの能力を持つレシェラーサがどうなるかわからない。
契約魔法を解いてしまえば、淫らな令嬢と化してして次々と男と関係を交わすことになる。家名を穢すことであり、許されることではない。
そうしたことを危惧していたから、これまで情事を交わす時は細心の注意を払った。幻惑の魔法で姿をいつわり、平民に扮して下町の宿を使うことが多かった。
バレることはなかった。平民は魔力が低く、幻惑の魔法を見破られることはまずありえない。何より、あれほど激しい夜の営みを楽しむ二人を貴族だと思う者はいなかったことだろう。
それでずっと隠し通せると思っていたわけではない。それでも、結婚して子宝を授かればなんとかなると思っていた。子どもさえできれば引き離されないかもしれない。その時までに隠せればいいと思っていた。
しかし、間に合わなかったのだ。
レシェラーサは絶望のあまり泣き崩れた。
「すまない。だからもう、二人で夜を過ごすことはないんだ。白い結婚の契約書は置いていく。明日までには署名しておいてくれ……」
苦し気に告げると、泣き続けるレシェラーサを残し、ストレナストは寝室を立ち去った。
夜も更けたころ。
ストレナストは自室のベッドで眠りにつこうとしていた。
その上にレシェラーサが覆いかぶさっていた。
閉めてあったカーテンは開かれ、月明かりが差し込んでいた。涼やかな月光がレシェラーサの姿を照らし出す。何も着ていない。月光の元、一糸まとわその姿は息を呑むほどに美しいものだった。
「……レシェラーサ。これはどういうことだろうか?」
訝し気に問いかけるストレナストに対し、レシェラーサは満面の笑顔で答えた。
「白い結婚の契約書に署名しました」
ちらりとレシェラーサが目線を送る先。テーブルの上には、確かに白い結婚の契約書が置かれていた。
だが、それでストレナストが納得できるはずもなかった。
「持ってきてくれたのはありがたい。だが、なんでこんな夜更けに……」
「わたし、あれから白い結婚について前向きに考えました」
「前向き……?」
「白い結婚とは子を儲けない清いつき合い……ですが幸い、わたしにはサキュバスの能力があります。どれだけ子種を注がれようと、魔力に変換して吸収します。ご存じの通り、間違って子供ができることはありえません」
「そうだな。それでどうして、こんな夜中に寝室にやってきたんだ?」
「決まっています! 今まで通り情事を交わしても証拠は残りません! バレなければ大丈夫ということです! 我慢する必要などないのです!」
レシェラーサはストレナストの寝間着のボタンを外し始めた。その動きは滑らかで無駄がなく、実に熟練したものだった。
しかし彼女がボタンを外せたのは二つ目までだった。
「きゃあっ!?」
突然レシェラーサは何かに弾かれるように吹っ飛ばされた。
驚きと混乱に苛まれながらどうにか身を起こすと、ベッドから立ち上がったストレナスと目が合った。
「こ、これはいったい……!?」
「伯爵家も当然こういう事態は想定していた。だから僕の身体には防御魔法が施されているんだ」
「防御魔法ですって!? この力を抜かれる感覚はいったい……?」
「防御魔法『欲情で為す抑制』。自動発動型の防御魔法だ。発動条件は『淫らな気持ちを抱いた二人が一定距離内に近づくこと』。対象の二人から淫らな気持ちと精力を奪いとって魔力にして、二人を近づけさせないという効果を発揮する」
「なんですって……!?」
レシェラーサは愕然と自らの手を見た。握って開いてみるが、どうにも力が入らない。
「確かに力を奪われている実感があります……! 精力を奪って魔力に換えるだなんて、まるでサキュバスの能力じゃないですか!?」
「その通りだ。毒を以て毒を制す。これは対サキュバスに特化した防御魔法なんだ。矢や魔法を防ぐことはできないが、淫らな気持ちと言うサキュバス最大の武器を削ぐことができる」
「わたしからエッチな気持ちが抜けていく……! ああ、やめて、奪わないで!」
サキュバスにとって淫らな気持ちとは、人間にとっての生命力に等しいものだ。サキュバスの能力を持つレシェラーサにとって淫らな気持ちを奪われることは、リッチにエナジードレインされるような苦しみがあった。
「君と情事を交わすことは不可能だ。さあ服を着て、ここから立ち去るんだ」
「そんな……あなたと触れ合うこともできないなんて、死んでしまいます!」
「……なかなかグッとくる言葉だが、その昂りすらも『欲情で為す抑制』で奪われる。無理なものは無理なんだ」
「そういうことではありません! 精を得られなければ、サキュバスの能力を持つわたしは死んでしまうかもしれないのです!」
「それなら心配ない。日に一回、魔道具を通して僕の魔力を君に渡そう。それである程度はサキュバスの欲求は抑えられるはずだ」
「でも、でも……!」
「とにかく今はここから離れてくれ。こうして二人でいてもお互いにつらいだけだ」
淫らな気持ちを奪われるレシェラーサはつらい。だがストレナストもそれは同じようだった。今まで何度となく抱いた令嬢が、裸身をさらして同じ部屋にいるのだ。ムラムラしないはずがない。
その気持ちも『欲情で為す抑制』によって根こそぎ奪われてしまうのだ。眉をしかめたその顔から、苦しみに耐えているのがわかった。
ネグリジェを身にまとうと、レシェラーサは涙に濡れながら部屋を立ち去った。
そうして二人の結婚生活が始まった。
表向きは穏やかだった。ストレナストは領主を継ぐため執務に励み、レシェラーサはその補佐を務めた。働く夫に甲斐甲斐しく尽くす妻。はた目から見れば理想的な夫婦だった。
しかしレシェラーサの内心は理想とは程遠いものだった。結婚前と違っていつもストレナストと一緒に居られる。息の届く場所にいつも彼がいる。
いかに契約魔法で抑えているとはいえ、サキュバスの本能が消えたわけではない。傍にいる時間が長ければムラムラすることもある。だが、少しでもムラムラするとその気持ちを奪われる。ストレナストに近づくこともままならなくなる。
頼りになるのは日々ストレナストから与えられる魔力のみだった。細い瓶状の魔道具に注がれたストレナストの魔力を吸うと、サキュバスの欲求が少しだけ満たされた。しかしそれは満足には程遠かった。
例えるなら、目の前に極上のフルコース料理が並べられているというのに、実際に食べられるのは固くてまずい黒パンだけのようなものだった。
この苦しみを他の誰かに打ち明けることもできなかった。まさか自分がサキュバスの能力を持つなどと他人に言えるはずもない。
ストレナストと二人きりになれば愚痴くらい聞いてもらえる。でもその状況ではムラムラしてきて、『欲情で為す抑制』で奪われる苦しみの方が勝った。
そんな欲求不満ばかりの生活だから、レシェラーサは次第にやつれていった。
そんな彼女の姿を見かねて、ストレナストはこう提案した。
「家に閉じこもっていばかりなのもよくない。今度の休みに美術館にでも行かないか?」
そう言われて、レシェラーサはハッとなった。
結婚前。人目のある場所ではサキュバスの本能を恐れて接触を避けていた。人目のない場所では情事に耽っていた。結婚してからはサキュバスの本能が満たせず悶々とするばかり。
二人でどこかに出かける。世の恋人がする当たり前のことが、彼女にとって初めてのことだったのである。
言われるままに美術館に行くことにしたレシェラーサだったが、ついたころには少しワクワクしていた。
美術館と言えば裸体像や裸体画である。
芸術であろうと裸は裸だ。あるいはサキュバスの欲求を満たすものがあるかもしれない――そんな第二次成長期の少年のような心持ちで美術館に臨んだ。
しかし当然のことながら、レシェラーサの期待を満たすようなものは無かった。確かに裸体像も裸体画もあった。美しく芸術性の高いものがそろっていた。
だが裸体像というものは原則として人体の美しさを表現したものだ。裸体画にしても、裸体を描くのは別にいかがわしい目的からではない。絵に込められるのは愛や慈しみ、怒りや悲しみといった感情だ。劣情を催させることを目的に描かれた絵なんてものは、さすがに一般の美術館には無かった。
まだ女性の肌をまともに見たこともない第二次成長期の少年なら、それでも想像の翼を広げて興奮に至ったかもしれない。
しかし彼女は既に経験を重ねたサキュバスの能力を持つ令嬢である。彼女の煮えたぎる欲求が満たされることはなかった。
それでも、美術館の落ち着いた空気の中、伴侶であるストレナストと歩くのは悪い気分ではなかった。家に閉じこもっているよりはずっといいと思った。
穏やかな気持ちで美術館を歩く中、ふと、一枚の絵画が目に留まった。
幼子を抱く母親を描いた絵画だ。今にも泣きそうな幼子。愛する我が子を慈しむ母。描かれた母子ばかりでなく、描いた画家の愛情まで伝わってくるような温かな絵だった。
目が離せなかった。時間を忘れて見入った。ストレナストは何も言わず傍らにいてくれた。それがなんだか嬉しかった。
「……子どもが欲しかったんです。そうすれば、ストレナスト様とずっといっしょにいられると思ったんです」
意図した言葉ではなかった。気づけば出てきた言葉だった。声に出したら止まらなくなった。
「でも、きっと違うんです。そんな考え方で子どもを儲けるなんて、きっとしてはいけないことだったんです。それではきっと、この絵のようなぬくもりは無いんです」
レシェラーサは貴族の娘だ。結婚も子作りも、家を存続する手段に過ぎないと教えられてきた。親子のぬくもりを求めることなど、平民の戯言に過ぎないと思っていた。
でもなぜだか今は、それが間違いだと思えて仕方なかった。
白い結婚だ。期限が来れば別れる契約だ。それでもストレナストと共に居たいと思う。それは家のためでは無かった。その前に、レシェラーサ自身が、彼といたいと望んでいるのだ。この絵のように温かな関係でそばにいたいと思うのだ。
「白い結婚です。子を成すことはできません。触れることすら許されません。でも、あなたはそばにいてくれる。他にもきっとあるはずなんです、愛し合う方法が……!」
何かを言わなければならないという切迫した思いがあった。それなのに、うまく言葉にならなかった。口を開くたびに大切なことから離れていくような錯覚を覚えた。そんなレシェラーサのことを、ストレナストは言葉を発さず、ただ優しい目で見守ってくれた。
不意に、言葉にしなくてもいいのではないかと思った。見つめ合う。ただそれだけでいいのではないかと思えた。
不思議な感覚だった。淫らな気持ちはどこにもなかった。サキュバスの本能が満たされるなどありえない。それなのにこんな満ち足りた気持ちになるとは思わなかった。レシェラーサは自分の心の動きがよくわからなかった。
わからない。でも、悪い気分ではなかった。
そうしてしばらく見つめ合っているとなんだか急に恥ずかしくなってきた。頬がどうしようもなく熱くなった。
それもまた不思議なことだった。ストレナストとは何度も肌を重ねた。自分の恥ずかしいところは全部見せたし、彼の恥ずかしいところも全部見たはずだった。今さら彼に対して恥じらいを覚えることがあるなど思いもしなかった。
戸惑う心に、不意にサキュバスの本能が急に入り込んできた。
「子どもつくらない愛し方……そう、そうです! 手と口だけでするならセーフなのではないでしょうか!?」
そんなことを口走ってしまった。
ストレナストが怪訝な顔をした。失敗したと思ったが、もう止まれなかった。
「根元までとは言いません! 先っちょだけ! 先っちょだけでいいですから!」
ストレナストは顔を赤らめ、ため息を吐いた。足を動かさないのに、じわじわと二人の距離が開いていった。レシェラーサの淫らな心によって『欲情で為す抑制』が発動し、二人はその効果によって押しのけらているのだ。
ストレナストはレシェラーサに背を向けると、美術館の出口に向かって歩いていった。
「あ、あ、待って! おいていかないでください!」
慌てて追いかけた。
でも一度湧き上がってしまった淫らな気持ちは簡単には治まらず、しばらくストレナストに近づけなかった。
美術館に行った翌日の朝。朝食の席でのことだった。
「ストレナスト様、そんなお顔をしていらしたんですね……」
ふとレシェラーサはそんなことをつぶやいた。何でもない日常の朝だった。朝食に特別変わった料理はなかった。それを食するストレナストもまたいつも通りだった。
そのはずなのに、そんな言葉が出てきた。
ストレナストは不思議そうに首を傾げた。言ったレシェラーサもまた、自分の言葉に驚いたように、口元に手を当て目を見開いていた。
考えをめぐらすうちにわかってきた。思い出すことができるのは情事を交わす最中のストレナストの顔ばかり。普段のストレナストがどんな顔をしているか、レシェラーサは憶えていなかったのだ。
「あ……あ……」
胸の奥から押し寄せる悲しみに耐えきれず、レシェラーサは涙をボロボロとこぼし始めた。
ストレナストは席を立つと、彼女のそばまで駆け寄って心配そうに尋ねた。
「どうしたんだレシェラーサ? どこか体の具合でも悪いのかい?」
「違うんです……身体はおかしくないのです……わたしの心がおかしかったのです……!」
「どういうことなんだ?」
「わたしは呪いに振り回されて……貴方の普段のお顔すら、まともに見ていなかったのです……!」
ストレナストとは何度も肌を重ねてきた。『淫らな身堕ち』によってサキュバスの本能と能力を強制的に与えられたレシェラーサ。そんな彼女を、ストレナストは契約魔法で縛ってくれた。おかげで誰彼かまわず情事を交わす淫乱令嬢に堕ちることだけは回避できた。
愛してくれていると思った。サキュバスの本能だけではない。愛しているからこそ、彼と情事をかわすことは幸せなのだと思っていた。
でも、違ったのだ。
昨日、美術館で母と幼子の絵を見て気づきかけたことだった。一晩を経て、今ようやくわかった。
胸に残るのは情事のことだけ。彼の普段の顔すら覚えていない。なんて歪なことなのだろう。それでは本当に愛していると言えない。ただサキュバスの本能に振り回されていただけではないか。
それに気づくと、どっと悲しみが押し寄せてきたのだ。
「わたしの愛は偽りでした……! 『淫らな身堕ち』に惑わされただけの幻だったんです……!
白い結婚の期限を待つまでもありません。こんな愚かで浅ましいわたしのことなど、どうか今すぐにでも捨ててください!」
ストレナストはゆっくりと頭を振った。
「白い結婚の期限が来るまで、君を手放したりしないよ」
「どうしてですか……どうしてそんなに優しくしてくださるんですか……?」
『淫らな身堕ち』に侵されたとき。ストレナストのことを凌辱した。その時点で見限られてもおかしくなかった。だが彼は契約魔法で繋ぎとめてくれた。
それから先、何度も肌を重ねた。やりすぎて足腰立たなくさせたことも一度や二度ではない。愛想を尽かされてもおかしくなかった。だが彼は、別れ話を切り出すことさえしなかった。
伯爵家に知られたのなら、いよいよ彼女との関係を諦めてもおかしくはない。白い結婚となったのなら、遠ざけられることもありえただろう。捨て置かれても文句は言えない。でも彼は未だそばにいてくれる。
ストレナストは優しい。その理由がわからなかった。
「だって君は泣いているじゃないか。愛する気持ちが偽りだったのなら、ただ諦めるだけだ。そんな風に悲しんだりしない。だから僕は隣にいたいと思うんだ」
違うのだ。この涙は申し訳なくて出てくるだけだ。自分が情けなくて涙が止まらないのだ。
そう考えても言葉に出すことはできなかった。こんなにも優しい彼を突き放す勇気などなかった。
ただ今は。ぐちゃぐちゃな気持ちで、でも傍らにいてくれる彼を温かさに甘えながら。
レシェラーサはただ、泣くことしかできなかった。
その日からレシェラーサは変わった。
サキュバスの本能が満たされない苦しみは消えていない。だが、そればかりに目を向けるのはやめることにしたのだ。
白い結婚が終わればストレナストと別れることになる。だがそれまで、彼はそばにいてくれると言った。ならばその時間を大切にしようと思ったのだ。
『淫らな身堕ち』によってサキュバスの本能を与えられた彼女にとって、日中の営みは夜までの準備期間に過ぎなかった。情事に比べれば何の刺激もない無味乾燥で退屈な時間に過ぎなかった。
でも、違った。レシェラーサは見ようとしなかっただけなのだ。
朝、挨拶を交わすことがしあわせだった。朝食の何気ない会話が心を和ませた。
日中の領主経営の忙しさも、ストレナストのためになると思えば苦にならなかった。
昼過ぎ、眠気に襲われたとき、彼に声をかけられるのが嬉しかった。
夕食では領地で起きた出来事や王都の流行など、様々な話題で会話が弾んだ。
夜、お休みを言って別れるのも寂しくなかった。明日もまた会えると思うと心が踊った。
情事のような興奮も快楽もなかった。でも、彼と過ごす当たり前の日々は、穏やかで温かな喜びと楽しさに満ちていた。
サキュバスの本能に振り回されて、目を向けなかった当たり前の日々の出来事。それがこんなにも幸せで温かで、かけがいのないものだなんて知らなかった。
レシェラーサはしあわせだった。白い結婚の終わりと失われると理解しながら、しあわせだと思った。
悲しみに沈んでいては目の前に在るしあわせすら無くしてしまう。だから俯かずに前を向き、彼との日々を精一杯楽しもうと心に決めたのだ。
楽しい日々はあっという間に過ぎていった。
白い結婚の契約終了は、残り一週間まで迫っていた。
その日、ストレナストは領主の仕事のために出かけていた。行先は告げられなかったがレシェラーサは察していた。彼女の実家、エムオラルト子爵家に行ったのだ。白い結婚の終了が近づき、細かな相談のために行ったのだろう。
白い結婚をして以来、エムオラルト子爵家とはほとんど連絡を取っていない。事務的に最低限必要なやりとりだけだった。
おそらく子爵家はレシェラーサは『淫らな身堕ち』に侵されたことを知っていただろう。そして子爵家の汚点として、自分のことを切り捨てたのだとレシェラーサは推測していた。
白い結婚が終わった後、きっとレシェラーサには帰る場所はない。
そのことについては心配していなかった。ストレナストと別れることと比べたら大したことではなかったし、彼女はとっくに「覚悟を決めていた」のだ。
夜も更けたころ、ストレナストは帰ってきた。子爵家との話し合いになにか問題があったのかもしれないとレシェラーサは心配になった。
ストレナストは大切な話があるから二人きりで話したいと言いだした。これまでにないことだった。サキュバスの本能をいたずらに刺激しないため、夜は二人きりにならないようにしていたのだ。
普段と違う彼の行動に、いよいよおわりの時が来たのだとレシェラーサは覚悟した。
レシェラーサは普段と変わらぬ服装で訪れた。
ストレナストの顔は仄かに赤い。普段は落ち着いた雰囲気の彼だったが、何か興奮しているようだった。レシェラーサは理由のしれない圧を感じた。
テーブルを挟んで向かい合って座ると、ストレナストは我慢できないといったように話を切り出した。
「君に大切な話があるんだ」
「……聞きたくありません」
「え?」
きょとんとするストレナストに対して、レシェラーサは言い募った。
「今日はわたしの実家、エムオラルトに行ってきたのでしょう?」
「……君には行先を告げなかったはずだ」
「ずっと執務を手伝ってきたのです。それくらいのことは予測がつきます。白い結婚の期限もあと一週間。最後の調整のための話し合いに行ってきたのでしょう?」
「確かにその通りだが、それは……」
「だからわたしは、こうするしかないのです」
ストレナストの顔が驚愕に染まった。
レシェラーサが懐から取り出したのは、一振りのナイフだったのだ。
「レシェラーサ! いったいなんのつもりだ!?」
立ち上がろうとしたストレナストに対し、レシェラーサは刃を向けて動きを制した。
「本当はもっと早くこうするつもりでした。でもあなたは優しすぎて、日々の暮らしがしあわせすぎて、今日まで決断することができませんでした。白い結婚が終ればあなたと別れることになる。契約魔法が解ければ、わたしはサキュバスの本能に負けて他の男に身をゆだねることになる。今のわたしにはそんなことは耐えられません。
でも、それ以上に耐えられないことがあるのです」
「待て、レシェラーサ……!」
「優しいあなたから白い結婚の終わりと告げられること! それだけが、今のわたしにはどうしても耐えられないのです!」
レシェラーサは刃を自分に向けた。ストレナストに向けたのは彼の動きを封じるためだった。
彼女はずっと前から自害すると決めていたのだ。
ストレナストを失い、淫魔になり果てることなど受け入れられない。かと言って、夜逃げして、彼のやさしさに甘え、一生重荷になることも嫌だった。
だから死のうと決めていた。本当はもっと人知れない場所で、ストレナストに迷惑のかからない形でひっそりと死ぬつもりだった。
でも、できなかった。日々があまりにも幸せ過ぎて、この日この時までずれこんでしまった。最後まで迷惑をかけてばかりだった。
確実に死ななければならない。だから首筋の頸動脈を切り、心臓をひと突きにするつもりだ。
ストレナストは封印と契約の魔法を得意とする優れた魔法の使い手だ。だが回復魔法については並程度にとどまる。頸動脈からの出血と心臓の損傷に、同時に対応することはできないはずだった。
レシェラーサは一息に自分の首筋に切りつけようとした。
だが、ナイフがレシェラーサを傷つけることはなかった。ナイフは彼女の手から弾き飛ばされたのだ。
それはあり得ないはずのことだった。ストレナストは立ち上がってさえいなかった。テーブルを挟んで距離がある。駆け寄ったところで、少なくとも頸動脈を切るのには間に合わなかったはずだ。駆け寄る間もない短い時間に発動できる魔法も無いはずだ。
だが、既に魔法は発動していたのだ。ナイフを弾き飛ばした感触には覚えがあった。
「どうして『欲情で為す抑制』が発動しているのですか!?」
レシェラーサは驚愕のあまり叫んだ。部屋に入った時。ストレナストと対した時に感じた圧。それは『欲情で為す抑制』の発動によるものだったのだ。
おそらくストレナストは、発動済みの『欲情で為す抑制』を操作して、レシェラーサの手からナイフを弾き飛ばしたのだ。それならば間に合う。魔法の扱いに秀でた彼なら十分に可能なことでもある。
。
だがなぜ発動していたのかわからない。あの魔法の発動条件は『淫らな気持ちを抱いた二人が一定距離内に近づくこと』のはずだ。自決を覚悟していたレシェラーサが淫らな気持ちを抱くはずもない。それならストレナストがそういう気持ちだったということになる。
その理由がまるでわからず、レシェラーサは驚きに目を見開くばかりだった。
「レシェラーサ。君が死ななくてはならない理由は無くなったんだ」
そうして、ストレナストは隠していた事実を語り始めた。
レシェラーサに『淫らな身堕ち』が発動し、ストレナストが契約魔法を使ったあの日。
その翌日。ストレナストはレシェラーサの父、エムオラルト子爵に面会し、事情を説明していたのだ。
レシェラーサはサキュバスとして目覚めたが、契約魔法を結んだ。だから淫魔として家名を穢すことはない。だから自分との婚約を破棄しないでほしい……ストレナストはそう嘆願しに行ったのだ。
子爵家に何かあると察してはいたが、『淫らな身堕ち』についてまでは知らなかった。子爵家はどこかの代でサキュバスの血と交わり、それが彼女に発現したのだとことなのだと考えていたのだ。
エムオラルト子爵はたいそう驚いたが、ストレナストの覚悟の深さに感銘を受け、秘していた事情をすべて話した。
かつて子爵家の祖先が、魔王から送り込まれた最上級のサキュバスを討伐した事。それにより、子爵家が『淫らな身堕ち』というおぞましい呪いを受けたこと。その呪いにより、子爵家では一代に一人の娘が呪いを受けてしまうことについて教えた。
そしてストレナストは、呪いを受けた娘がたどる悲惨な末路について知ることとなった。
サキュバスの本能と能力を強制的に与えられた娘は、最初は淫魔そのものと化して男と交わる。だがしばらくすると正気に返る。そして自らの行動を顧みて、未来に絶望し、多くの者は自害を選んだ。
開き直り家との縁を切って娼婦として生きようとした娘もいた。だが長生きはできなかった。人間の身体では、サキュバスの能力を使い続けることに耐えきれないのだ。
子爵家の歴史の中には、サキュバスの本能に抗い自ら閉じこもった娘もいた。だがその潔白な決意は更なる悲劇を生み出した。
サキュバスにとって男を断つということは死ぬことを意味する。その娘はサキュバスの能力を与えられただけの人間だったので、それだけで死ぬということはない。
しかしサキュバスの本能が消えてなくなるわけでもない。サキュバスの本能を持ちながら男を断って生きるということは、生きながらにして死の苦しみに耐え続けることを意味した。
やがて娘は正気を失い、サキュバスの能力を暴走させた。もはや肌を重ねることなく周囲の人間から精気を吸い取り暴れまわる魔物と化した。何人もの犠牲者を出し、最後には当時の子爵家当主がとどめを刺したと伝えられている。
呪いに侵されたレシェラーサも、何もしなければ無残な結末に至っていた事だろう。だが今回は例外があった。
ストレナストの契約魔法である。
これによってレシェラーサはストレナスト以外の男と交わろうとしなかった。しかも日中、人の目のある場所では平静を保っている。サキュバスの能力を得た娘は意識せずとも周りの異性を誘惑してしまうものだが、それすらも契約魔法によって抑え込まれているようであった。
サキュバスは男の精気を吸い尽くして命を奪うこともある。だがストレナストは疲労困憊になることはあっても、命の危険にまで至ることはなかった。これはレシェラーサがサキュバスの能力を制御できていることを意味した。
エムオラルト子爵はこれならば大丈夫かもしれないと思った。子爵家の当主は『淫らな身堕ち』に対して無慈悲な決断をする責任がある。だが誰が好き好んで愛する我が子を手にかけたいと思うだろうか。
そうして二人がどうにか婚約関係を続ける中、王国の聖女が神託を受けたとの知らせが届いた。
「『淫らな身堕ち』の肉欲に負けず、愛し合う二人が寄り添い続ければ、呪いはその力を失うでしょう」
希望が見えた。子爵家を縛る呪いをついに消すことができるかもしれない。
しかしこれは難題だった。いかにストレナストの意志が強かったとしても、サキュバスの能力を持って迫るレシェラーサを拒むことなど現実的には無理だった。かと言ってレシェラーサに事情を話し存命を盾に無理を強いれば、サキュバスの本能によって暴走する可能性が危惧された。
だからストレナストは彼の実家、レーディンガード伯爵家に協力を仰ぎ、心血を注ぎこみ対サキュバス特化型の防御魔法を開発した。そして作り出したのが、『欲情で為す抑制』である。
レシェラーサとの付き合いを続けながらそんなことまで成し遂げたストレナストの精力は尋常ではなかった。当人はまるで自覚が無かったが、彼は類まれな「絶倫」だったのだ。ストレナストがレシェラーサの婚約者となったことは、まさに天の配剤だったのである。
結婚してから閨を共にしない不自然さは、白い結婚と言う契約を隠れ蓑とすることにした。これは事情を話せないレシェラーサへの言い訳としても都合がよかった。
こうして準備を整えた白い結婚だったが、本当に呪いが解けるかどうかはわからなかった。神託には『愛し合う二人』という言葉があった。ただ『欲情で為す抑制』で情事を避けるだけでは愛しあってるとは言えないかもしれない。
だがストレナストは諦めなかった。
そんな彼の想いが報われたのは、あの日の事。美術館に行った翌日の朝だった。レシェラーサは普段の彼のことを見ていなかったことに、自分で気づいた。そのことを哀しみ涙を流した。これはサキュバスの本能を通してではなく、自分の目で愛する者を見るようになったという兆候だった。事実、その日を境に彼女は日々の生活の中、ストレナストを慕うようになったのだ。
「呪いもだいぶ弱まったと見られた。聖女様に診てもらい、可能なら解呪してもらう……その段取りのため、今日はエムオラルト子爵家に相談しに行ってきたんだ」
そう、ストレナストは話を結んだ。
レシェラーサはボロボロと涙を零した。
「ストレナスト様がそんなに頑張ってくださっていたのに……自ら命を断とうなんて、わたしはなんてバカだったのでしょう……! 申し訳ありません!」
「いや、そんな気に病まないでほしい。呪いが解けつつ合って僕も浮かれていた。君がそこまで思いつめていたと気づけなかった。すまなかった」
「そんな、ストレナスト様は悪くありません!」
「では二人とも悪くなかったということで、この件は終わりだ。それでいいじゃないか」
そう言って微笑まれると、レシェラーサは何も言えなくなってしまった。
しあわせな気持ちでいっぱいになってしまった。
『淫らな身堕ち』が解呪されるなんて信じられなかった。でもストレナストの言うことなら間違いないのだろう。そう思うとほっとした。
すると、先ほど湧き上がった疑問が口をついて出てきた。
「どうして先ほどは、『欲情で為す抑制』が発動していたのでしょう?」
あの時、レシェラーサは自害する覚悟でいた。淫らな気持ちをはまるでなかった。ストレナストにしても、解呪の目途が立ったと報告するつもりだったはずだ。発動条件を満たしているようには思えなかった。
すると、ストレナストは顔を真っ赤にした。
「それは……呪いが解ければ、その……君とまた、触れ合うことができるだろう? そう思ったらなんと言うか、いろいろと考えてしまったんだ」
「ええ!?」
「……そんなに驚くことか?」
「その……わたしはサキュバスの本能に振り回されてメチャクチャなことをしていました……だからてっきり、ストレナスト様はああいうことが嫌になってしまったんじゃないかって……」
「そりゃ、大変に思う時もあった。でも、好きな人とああいうことをするのが、嫌なわけないだろう!」
そう言ってストレナストはそっぽを向いてしまった。その顔は耳まで真っ赤だ。
しかしレシェラーサもまた真っ赤になっていた。
迷惑ばかりかけていると思った。でも、それだけではなかったのだ。好きになってくれた。受け入れてくれた。そう思うと、すごく幸せな気持ちになった。
「ストレナスト様……」
「レシェラーサ……」
二人はお互いの名を呼び合い、見つめ合った。ただそれだけで胸がいっぱいになった。このまま時が止まればいいと思った。
だが、幸せな時は続かなかった。
「うわあ!?」
「きゃあ!?」
二人は強制的に引き離され、部屋の壁に押しつけられた。
『欲情で為す抑制』が発動したのである。高まり合った二人の気持ちを魔力と変え、防御魔法はこれまでにない出力を発揮したのだった。
「やっぱりこうなるのか! 君に事情を話せなかったのは、サキュバスの本能が暴走することを危惧しただけじゃない! 絶対こうなるって思ってたんだ!」
「ちょ、ちょっとこれ、全然動けません! 出力や効果範囲に上限とか無いんですか!?」
「上限なんて作れるわけが無いだろう! 無制限にしとかなければ、同じ屋根の下で生活してる君に手を出さずにいられるわけがないじゃないかっ!」
ストレナストの必死な叫びを聞いて、レシェラーサは噴き出した。
二人は同じだったのだ。もっと触れ合いたいと思ってくれていたのだ。そう思うと嬉しくてたまらなかった。
嬉しい気持ちはおさまらなくて、気づけばレシェラーサは笑い出していた。ストレナストもつられて笑い出した。二人とも、心の底から笑いあった。
ひとしきり笑ったが、まだ身体は壁に押しつけられたままだった。
「ふふ! どうやら呪いが解けるまで、離れて生活しなくてはなりませんね……」
「ああそうだな。でもあとちょっとの辛抱だ。聖女様に呪いを解いてもらったら、ずっといっしょにいよう。いろんなところに行こう。美味しいものをいっしょに食べよう。そして今度こそ、子供を作ろう!」
「はい! ストレナスト様!」
『欲情で為す抑制』によって壁に押しつけられ、湧きあがる性欲を奪われ続け、触れ合うことすらままらない。それでも二人は幸せだった。
そしてこれから二人は、もっともっとしあわせになるのだ。
終わり
「白い結婚を申し込まれたサキュバスがメチャクチャ困る」
そんなネタを思いつきました。
そこに至るために設定やキャラを詰めていったこういうお話になりました。
ヒロインは無理矢理サキュバスの能力を与えられた人間の令嬢になりました。
呪いの設定が重くなってしまい、一時はすごくシリアスな話になってしまうかと思いました。
でもコメディなオチになってなんだかホッとしました。
相変わらずお話づくりは難しくて、書き上がるまでどこに行くかわかりません。
※直接的な描写はないのでR15にしました。
まずいようなら消して年齢制限をつけて上げなおそうと思います。
2024/5/8
誤字指摘ありがとうございました! 読み返して気になった細かなところもあちこち修正しました。