先輩と付き合った。後輩と好き合った
「ねぇ、君。もし少しでも私に好意を抱いてくれているのなら、私と付き合ってよ」
俺・大槻真紘が一つ年上の先輩・皆川茉希さんに告白されたのは、入学してから一年が経過した頃だった。
俺と茉希さんは同じ美化委員会所属という繋がりで、二人とも元来綺麗好きであったことから、活動中もよく一緒に掃除したりしている。
茉希さんは祖母から様々な掃除スキルを伝授されたらしく、俺はそんな彼女のスキルを手取り足取り教えて貰っていた。
茉希さん曰く、自分が胸を張って得意だと言えるのが掃除であり、そのスキルを人に教えられるというのは、非常に嬉しいことらしい。
掃除好きの俺は熱心に聞いているわけだから、そういうところも好印象だったのだろう。
「君と私は、きっと同じ価値観を持っている。いつ何時も円満でいられるとは限らないけど、同時に関係が破綻するような喧嘩をするとも思えない。つまりさ、何が言いたいかというと……そんな君のことが好きなんだよね」
校内随一の美少女でありながら、茉希さんは決して男を寄せ付けない。彼女の男嫌いは有名で、多分普通に会話をする男子なんて俺くらいじゃないかな。
掃除好きという性格も相まって、茉希さんは周囲から「潔癖姫」なんて呼ばれている。
そんな潔癖姫が男に告白するなんて。しかもその相手がパッとしない俺なのだから、驚きを禁じ得ない。
驚きのあまり何の反応も示さないでいると、茉希さんは痺れを切らした。
「ねぇ、いつまで黙っているの? 早く返事を頂戴よ」
「え? あぁ、はい」
俺はこれまでの茉希さんとの関わりを思い出す。
やはり大半は一緒に掃除した思い出なのだが、委員会後に一緒に帰ったことも何度かあったな。その時に、喫茶店でコーヒーをご馳走になったりして。
今にして思えば、あれは茉希さんなりのアプローチだったのかもしれない。すなわち、デートだったのだ。
茉希さんと一緒にいて恋愛感情を抱かなかったといえば、嘘になる。
雑巾掛けしている最中にふと顔が近づけばドキドキするし、彼女が俺以外の男子に告白されているところを見たら醜くも嫉妬してしまう。
……あぁ、そうか。自分の気持ちなんて、確認するまでもなかったんだな。
俺も茉希さんが好きなのだ。
「……これから、よろしくお願いします」
そう返すと、告白する時でさえ変化がなかった茉希さんの色白の顔が、途端に真っ赤になる。
「こっ、こちらこそよろしく……」と珍しく言い淀む姿は、なんとも言えないくらい可愛かった。
こんなにも可愛い女性が、俺の彼女になるのか。そう思うと、自分の人生が色鮮やかになった気がした。
彼女を誰にも触れさせたくない。そんな風に思う俺の方が、よっぽど潔癖症みたいだ。
◇
茉希さんとの交際は、順風満帆とはいかなかった。
彼女自身宣言していたように、時にはつまらない言い争いをしたし、すれ違いがあったりもした。
その時は瞬間湯沸かし器の如く互いに頭に血が上り、「大っ嫌い!」などと吐き捨てるものの、一日経てば頭が冷えて、怒りも落ち着き、普段通りの仲睦まじいカップルに戻る。
「関係が破綻するような喧嘩をすることはない」。いつか言っていた、茉希さんのセリフを思い出す。
茉希さんはこういうやり取りも、予期していたのかもしれない。
俺は茉希さんのことが好きだ。だけど茉希さんの方が今も俺のことを好きでいてくれるのか、自信がない。
この交際は、一体いつまで続けられるのだろうか? 少しでも彼女からの「さようなら」を遅らせようと、良い彼氏になろうと努力し続けた。そして……一年が経った。
季節は巡り、俺たちカップルにとって二度目の春がやって来る。
春は出会いの季節であると同時に、別れの季節でもある。俺より一つ学年が上の茉希さんは、卒業を迎えた。
桜の木の下で、卒業証書の入った筒を片手に微笑む茉希さんに、俺は「おめでとう」と伝える。
「ありがとう。恋人兼先輩が卒業する気持ちは、どう?」
「明日からこの学校に茉希さんはいない。そう考えると、なんだか不思議な気分ですよ」
高校に入って丸2年。その2年間の思い出には、いつだって茉希さんがいた。
先輩後輩という関係だった1学年。茉希さんに告白されて、晴れて恋人同士になった2学年。
関係性こそ変われど、お互いに思い合っていたことには変わりない。だけど――
明日からの一年には、茉希さんがいない。そう思うと寂しさと共に不安も湧き上がってきた。
「もういっそ、留年しませんか? また一年間、一緒に掃除しましょうよ」
「一緒に掃除というところには魅力を感じるけど、でも残念。私は来年から、新天地で勉学に励まなければならないのです」
「わかってますって。……茉希さんは、地方の大学に進むんですよね?」
「生きたい学部が、そこにしかなかったからね」
「……寂しくなります」
口から漏れた本音。普段ならこんなこと絶対に言わないけれど、最後くらい、格好悪くても正直な気持ちを吐露して良いだろう。
てっきり茉希さんも同じ気持ちでいてくれると思っていたのだが、どうやらそれは違うようだった。
「何を寂しがる必要があるのかな? 私と君って、どんな関係?」
「それは……先輩後輩とか、委員会仲間とか、あとは、その……恋人同士とか」
「そうだね。他には同じ綺麗好きとか、実家が近いとか」
その後も茉希さんは、俺との関係性を次々と列挙していく。
深い関係性から、取ってつけたような浅い関係性まで、少なくとも20個は挙げていた。
「とまぁ、私たちには、こんなに沢山の関係があるわけですよ。今回私が卒業することでなくなるのは、委員会仲間っていう繋がりくらい。数ある関係性の中の、一つがなくなるだけ。つまりさ、何も寂しいことはないんだよ」
茉希さんが卒業してしまうことで、失うものはある。だけど俺と茉希さんの間には、それがなくなったところで揺るがない絆がある。
或いはそれは、愛とも呼べるのかもしれない。……なんて、恥ずかしいから絶対声には出せないけど。
「下手なセリフだけどさ、見送る側の君には、「さようなら」を言って欲しくない。もっとこう、別の言葉で私の門出を祝って欲しい」
別の言葉とは、「おめでとう」だろうか? でもそれならさっきから何度も言っているし。
「さようなら」以外で、大切な誰かを見送る時に使う言葉。……あぁ、そういうことか。
別れじゃないのだから、決して涙は見せない。
俺は笑みを浮かべながら、茉希さんにこう言うのだった。
「いってらっしゃい」
◇
茉希さんが地方の大学に進学したことで、俺たちの交際は遠距離恋愛になった。
放課後や週末に簡単に会いに行けるような距離じゃないけれど、現代社会にはネットという文明の力がある。
俺たちは途方もなく遠い距離を、ネットによって一瞬で繋ぐことが出来るのだ。
『茉希さん、大学は楽しい?』
『楽しいよ。高校と違って何から何まで自由なところが、凄く新鮮。君も早く大学生になりなよ』
『その為には、まずは受験という関門を突破しないといけませんね』
『確かに。私が見ていないからって、勉強をサボってちゃダメだぞ? ……君の方は、どう? 最上級生として、委員会のみんなを引っ張れてる?』
『ボチボチと言った感じですかね。実は新入生に茉希さんと同じくらい掃除好きな子がいて、今は俺がその子に掃除のあれこれを教えてます』
『……それって、女の子?』
『えぇ、まぁ』
『ふーん……』
『茉希さん。嫉妬は嬉しいけど、不要な心配はしないで下さいよ? 俺が好きなのは、茉希さんだけですから』
テレビ電話中、そう言うと、スマホの画面越しでも茉希さんが真っ赤になったのがわかった。
クソッ! 今すぐ二人の間の長距離を飛び越えて、めちゃくちゃ抱き締めたい!
そんな感じでテレビ電話を主とした遠距離恋愛を楽しんでいた俺だったが……ある日を境に、茉希さんと連絡が取れなくなってしまった。
電話をかけても、『お陰になった番号は――』という機械音声が返ってくるだけ。メッセージを送っても、既読にすらならない。
長期休みに会いに行こうかと考えたわけだけど、俺は茉希さんが借りている部屋の住所を知らないので、それも不可能。
俺から接触を図るのが出来なくなってしまった。
一週間くらい泣いた。その後の一週間で、何がいけなかったのか自分の言動を見返した。
そして半月が経過した頃、ようやく悟る。
こんなの、付き合っていると言えるだろうか? 間違いなく、自然消滅というやつであろう。
単に俺のことが嫌いになったのか、遠距離の交際が面倒になったのか。それとも……向こうで他に好きな男が出来たのか。
沢山あった筈の関係性が、一気に失くなっていくような感じがした。
あぁ、そういえば。これまでの茉希さんとの付き合いを振り返ってみて、一つ気付いたことがある。
本当、今更な話なのだが……俺は茉希さんに名前で呼ばれたことがなかった。
彼女は「君」と呼ぶだけで、俺を名前で呼んでくれない。
俺にとって茉希さんは恋人で、先輩で、元委員会仲間で。だけど茉希さんにとっての俺は、「君」に過ぎなかったのだ。
◇
茉希さんがいなくても、月日は流れていく。
世間は変わらない。社会は俺の都合になんか合わせない。
茉希さんがいなくなっても俺は勉強をしなければならないし、就職しないといけないのだ。
華のない大学4年間もあっという間に終わり、気付けば23歳になっていた。
現在俺は就職2年目。ミスを繰り返しながらも、業務に真摯に向き合い、日々成長している今日この頃。
自分で言うのもなんだけど、その真面目さやひたむきさが上司から評価されている。
でもまぁそれも、茉希さんのいない寂しさを紛らした結果なんだろうけど。
春という季節がまたやって来て、俺の在籍する部署に新入社員が配属された。
やって来たのは、どこか大人びた様子の女性職員。新卒とは言っていたが、不思議と俺の時のような初々しいしさはなかった。
「羽木といいます。よろしくお願いします」
丁寧なお辞儀をした後に、頭を上げた羽木さん。ふと彼女と目が合ったような気がしたが、多分気のせいだろう。
「羽木さんの指導係は……大槻! お前がやれ!」
「わかりました」
部長からの指示に、俺は頷く。
教育係、か。高校時代茉希さんに掃除を教わっていた俺が、まさか人にものを教える立場になるだなんて。
あの時とは正反対の役割は、考えようによってはこれまでの自分と――未だ茉希さんに焦がれている自分と決裂する良いきっかけになるのかもしれない。
羽木さんはとても素直な子で、それ故仕事もすぐに覚えた。
俺を信頼してくれているのか、わからないことや困ったことがあったら、即座に頼ってくれる。それがとても嬉しくて。
あの頃の茉希さんも、きっとこんな気持ちだったんだろうなぁ。
茉希さんへの気持ちは割り切ったつもりだけど、こうしてたまに思い出を振り返るくらいしても良いと思う。
羽木さんが入社して、早2ヶ月。その日は会議が開かれるということで、俺は羽木さんと二人で会議室の掃除をしていた。
「羽木さんにとって、初めての会議だっけ?」
「そうですね。だから、結構緊張してます」
「そんなに気を張らなくて大丈夫だよ。部長は確かに厳しい人だけど、一生懸命仕事に向き合っている人にはきちんと応えてくれるし。羽木さんの働きぶりなら、寧ろ誉められるんじゃないかな?」
「だと、良いですけど」
俺からの讃辞が小っ恥ずかしかったのか、羽木さんは苦笑を浮かべる。その笑みに、不覚にもドキッとしてしまった。
胸の高鳴りを誤魔化すように、俺は一層掃除に集中する」
「……掃除、早く終わらせちゃおうか」
「ですね」
会議室内をひと通り綺麗にし終え、残りは長テーブルの上を拭くのみとなった。
両端から手分けしてテーブルを拭いていると、丁度真ん中の辺りで互いの手がぶつかりそうになる。
「あっ! 悪い!」
セクハラと訴えられても嫌なので、触れる直前で俺は手を引っ込めた。
「別に気にしなくて良いんですよ。ちょっと手が当たったくらいで文句を言うつもりないですし。それに……一緒に掃除するのって高校の時以来だから、楽しかったりして」
突如として砕ける口調。それに「一緒に掃除するのが高校以来」って……。
高校時代、俺が一緒に掃除した相手なんて、二人しかいない。
彼女がそのどちらなのか? 俺が間違う筈もなかった。
「……茉希さん?」
「そうだよ。元気にしてた?」
懐かしい呼び方をされた羽木さん――茉希さんは、僅かに頬を紅潮させて微笑んだ。
「でも、茉希さんの苗字って、羽木じゃありませんでしたよね? それに俺より年上の筈じゃ」
「それは家庭の事情ってやつだよ。大学在学中に、両親が離婚したの。私は母親に引き取られたから、母親の姓に変わったってわけ。あと今年新卒なのは、大学院に進んでいたから」
俺と別れたこの数年で、茉希さんの人生も大きく変化したようだ。
現実的にも精神的にも、茉希さんは多忙だったのだろう。だけど……こんなの自己中心的かもしれないけれど、それを理由に俺との関係を一方的に断つなんて真似はして欲しくなかった。
「元気でしたよ。でも、悩みがなかったわけじゃない。……茉希さん、途中から連絡すらくれなかったし」
「ごめんごめん。実はスマホを壊しちゃって、データが飛んじゃったんだよね。迂闊にも、バックアップ取ってなくてさ」
連絡しなかったのではなく、出来なかったのだと、茉希さんは主張する。
「正直私も、まさかこうして再会出来るとは思っていなかったんだよね。連絡も取れなくなって、会うこともなくなって、そのまま関係性も自然消滅なんてことになるのかなーって、ずっと不安だったんだ。……やっぱり、ケジメはつけないとね」
そのケジメとやらが何なのか聞きたくなかったので、俺はわざとらしく話を逸らした。
「確かに、こうしてまた会えるなんて驚きだよね。職場が同じになったのは、偶然?」
「いいや、運命だよ。きっと」
そう語る茉希さんの瞳には、覚悟が宿っていた。
あぁ、そうか。彼女は今この瞬間、ケジメを付けるつもりなんだな。
接点がなくなったからなし崩し的に関係性もなくすのではなく、自分の意志で、言葉で精算する。そんなケジメを。
ならばと思い、俺もまた覚悟を決めた。
「君との接点がなくなって、数年が経って。一方的に連絡をしなくなった私を、君は嫌いになっているかもしれない。この数年、ずっとそんな風に考えていた。だから高校時代、先輩の私から告白して出来た関係性は、もう終わり。私たちの関係性を、一度綺麗にリセットしようよ」
茉希さんから持ち出された別れ話。俺たちはようやく、恋人同士ではなくなった。
しかし、彼女の話はそこで終わらない。「でも――」と、言葉を続ける。
「ねぇ、先輩。もし先輩が少しでも私に好意を抱いてくれているんなら、私と付き合って下さいよ」
あの時と同じ気持ちとセリフを、茉希さんは改めて伝えてくる。
当時と違うのは……今は俺が先輩で、茉希さんが後輩ということだ。
「今は君が先輩で、私が後輩。あの時と立場が逆だね。二人とも成長して、あの頃とは立場が変わった。でも、変わらないものだってある。違う?」
それが俺への想いだということは、言葉にされなくても理解出来た。
「……今でも俺なんかを好きでいてくれるんですか?」
「一度でも君が嫌いだなんて言ったことあった?」
「……喧嘩している時は、しょっちゅう」
「そうだったね。……多分だけど、本当に伝えたい気持ちって、言葉に出来ないんだと思う。君のことが好きだとか、君に会いたくて仕方ないとか。仮にスマホが壊れていなかったとしても、それは変わらないんじゃないかな」
「でも、言葉にしてくれなきゃわからないですよ。ちゃんと聞かなきゃ……不安にもなりますよ」
ここ数年、俺がずっと思い悩んでいたように。
「そうみたいだね。……不安にさせてごめんなさい。今度からは、きちんと伝えるね。私は、君のことが好きだよ」
「好き」という言葉は、物凄く嬉しい。でも、欲張りな俺は、それだけじゃ満足出来なかった。
「好きとは言ってくれましたけど、やっぱり名前は呼んでくれないんですね」
「んー。なんていうか、「君」っていうのがもう板についちゃってるからね。でも確かに、そろそろ「君」はやめた方が良いのかもしれない」
茉希さんは一歩近づく。
背伸びをして、顔を近づけて。そして俺の耳元で、囁くのだった。
「そうだよね、あなた?」
先輩と付き合った高校時代。そして大人になった今、俺は後輩とまたも好き合うことになったのだった。