第9話 よぎる記憶と消える記憶、ぶつかった男性の不思議
朝、家でのラッキースケベ事件の後、転んで吹っ飛んだ眼鏡を無事に見つけて、梨央奈は会社へ出勤していた。
職場の炎上案件は、すっかり収まって、社内の雰囲気は穏やかだ。
梨央奈も、次の案件に向け、基本設計書、詳細設計書、仕様書などを読み込んでいた。
梨央奈に声をかけたのは、井上だった。
「お疲れ様。適度に休憩とりなよ。はい。飲み物どうぞ」
井上は、小さいペットボトルの温かいお茶差し出した。
彼は、こうしてたまに気づかってくれる。
「ご馳走様です。ありがとうございます」
梨央奈は、お茶を受け取り、お礼を言った。
早速、ペットボトルを開けて飲む。
(美味しい。ホッとする)
井上は、梨央奈の隣の自分の席へ座り話し出した。
「筋肉痛なんだって? 何のスポーツしたの?」
「それが、何もしてないんですよ……」
「え!? 何もしてないのに筋肉痛になったの? まあ、俺達もいい歳だからね。ちょっとしたことでも筋肉痛になることもあるか」
「心当たりはないんですけどね」
「日頃から運動した方がいいよ。俺は、土日とか、知り合い集めて、場所借りて、スポーツやってるよ。うちの子もたまに来るんだけどね。鈴木さんも今度来たらいいよ。たまに、体動かすと気持ちいいよ」
「楽しそうですね。じゃ、今度是非行きます」
井上は、一児の父だ。奥さんと共働きで子育てしている。
梨央奈とは、歳が1つ違いで同年代のため、残業終わりの雑談で流行っていたアニメの話で意気投合し、よく話すようになった。
炎上中は、人とぶつかることもあるが、共通の苦境を乗り越えるという仲間意識で絆が深まることがある。
井上とは、以前別の炎上案件でも一緒に仕事をしたことがあり、それから仲良くなった。
だからなのか、梨央奈の考えすぎる性格を理解してくれていた、よく仕事の相談にのってもらって、助かっていた。
そこに、社長がやってきて、梨央奈と井上は声をかけられた。
「お疲れ様」
井上と梨央奈は、席を立って挨拶をする。
「「お疲れ様です」」
社長は、長谷川 剛士。
40歳。身長は、180センチほどで、瞳も髪も黒。目にかからないくらいの長さの前髪を斜めに流し、後ろ髪も清潔な長すぎない長さで、きれいにセットしている。
社長らしい落ち着いた雰囲気の男性だ。
「楽しそうだね。この前の案件大変だったね。お疲れ様。その後は、ゆっくり休めた?」
社長からの質問に、梨央奈は、答えた。
「はい。お陰様で休むことができました」
長谷川社長は、この前の炎上案件が落ち着いた後、次の案件までは、身体を休めるようにと定時で退社をするよう促してくれた。
上司が促してくれると、梨央奈達部下も定時で帰りやすい。
長谷川社長は、そんな気づかいができる人間だった。
社長だからと偉ぶることなく、相手の話をよく聞き、性格を理解し話をする。
仕事としてやらなければいけないことは、会社が目指すビジョンを示し、きちんと理由を説明する。
仕事を任せて、会社としてできる支援はし、社員のケアもする。
問題が起きれば、責任をとるそんな人だ。
起業から数年で急成長した理由を感じられる。
(良いリーダーって、こんな人のことなのかもしれない)
梨央奈がそう思った時、頭に別の誰かが浮かんだ。
顔は、わからない。
向かって右側の額にこめかみから目尻あたりまでうっすらと傷跡があった気がする。
何かを説明してるような姿や笑いながら人を気づかう姿が梨央奈の頭に浮かんだ。
(あれ? これは、誰だっけ?)
梨央奈は、思った。
(私は、この人を信頼していた気がする……本当に頼りになるって……でも、思い出せない……なんで?)
梨央奈が、そう思考を巡らせていたとき、長谷川社長から声をかけられ、梨央奈は、現実に引き戻された。
「鈴木さん?」
長谷川社長と井上がこちらを見ていた。
「はい」
梨央奈は、頭を切り替えながら、返事をした。
「鈴木さんの前働いてた、デザイン会社なんだけど、名前教えてもらえるかな? 入社当時の履歴書を確認すればいいんだけど、聞いた方が早いと思ってね。あと、どんな仕事に関わったかも教えてくれる?」
「はい。わかりました。会社の名前は……」
梨央奈は、言葉に詰まった。
(あれ? 思い出せない……、名前……前勤めてた会社の名前忘れるはずないのに。どんな仕事? どんな仕事したっけ……思い出せない……)
勤めていたことは、覚えている。
最近までは、会社の名前も覚えていたはずだ、万知と一緒に携わった仕事の話しもした。
懐かしいねと笑い合った。
それなのに、今は、会社名もどんな仕事をしたのかも思い出せない。
梨央奈は、固まって動けなくなった。
何か言わなくてはと、はくはくと口を開け閉めするが、何の言葉も出てこなかった。
自信がなくなり、目を見開いたまま下へ俯いた。
様子のおかしい梨央奈をみて、長谷川社長と井上が不思議そうにしている。
「あの……。すみません。確認して明日お伝えします」
梨央奈は、やっとの思いで、言葉を捻り出した。
自分のことなのに即答できないのは、おかしい。
そんなことは、分かっていたが、梨央奈はこう言うことしか出来なかった。
「そんなに、難しく考えなくていいんだけど。まあ、いいよ。明日教えてね」
長谷川社長は、不思議そうにしながらも、梨央奈のあまりの様子に、納得してくれたようだった。
その後、3人でいくつか雑談をしたが、梨央奈の頭には何も入らなかった。
ーーーーーー
梨央奈は、その日、職場を定時の18時に退社して、東京駅近くの東京中央郵便局に向かった。
朝、万知に伝えたように、郵便物を発送するためだ。
無事に郵便物を出し終わり、東京メトロ丸ノ内線に乗るために、地下通路を歩いていた。
相変わらず、強烈な筋肉痛が続いていて、速くは歩けず、ゆっくりと歩いていた。
会社でのことがあり、多少ぼうっとしていたかもしれない。
柱の向こうから歩いてきた人に、柱が死角になって気付けなかった。
ドンっ! と衝撃があった時に、初めて人とぶつかったと気付いた。
梨央奈は、後ろに尻もちをついた。
持っていた鞄が、梨央奈から少し離れた右後方に落ちた。
鞄の口は閉じていたため中身は出ていない。
梨央奈は、思わず声が出た。
「痛っ……」
コロコロと何か硬い小さなものが転がる乾いた音が、地下通路に響く。
梨央奈は、痛みを感じつつも、ぶつかった相手は大丈夫だろうかと慌てて声をかけながら相手を見た。
「すみません!! お怪我はありませんか?」
見上げると、相手は50代くらいの大柄なスーツの男性で黙って立っていた。白髪混じりの髪を、綺麗に前髪もサイドも後ろに流して、乱れを許さないくらいにまとめていた。
顔の表情は、見えない。
相手からの返事は無かったが、梨央奈は慌てて立ち上がり、足元に転がってきていた物を拾おうと手を伸ばす。
アンプルの様なガラス製の容器を嵌め込んだ、金属製の筒だった。
ボタンの様なものも付いていた。
サイズは、握ったら片手に収まるくらいの小ささだった。
ガラスの中が赤い液体の様な物で満たされている。
赤い色にゾワリとしたが、ゆらゆらと揺れて綺麗だ。
梨央奈は、それを拾うため、右手に軽く握って掴んだ。
頭を上げないまま、先に目線を上目遣い気味に、男性を見た。
その時、梨央奈はゾッとした。
男性の顔が、真っ黒くのっぺりとした目も鼻も口もないおうとつがない仮面のような顔に見えたからだ。
(え?)
咄嗟に少し長めに目を瞑り、瞬きを一回ゆっくりとした。
もう一度男性の顔を見ると、目が細い優しそうな表情の微笑む男性の顔が見えた。
梨央奈は、ホッとした。
(なんだ、見間違いか)
安心して、起き上がり、拾い上げた物を、男性に手渡した。
「こちら落としましたよ。ぶつかってしまって、本当にすみませんでした。お怪我はありませんでしたか?」
男性は、梨央奈の差し出した落とし物を受け取りながら、笑顔で答えた。
「こちらこそ、すみませんでした。私は、大丈夫です。あなたも、大丈夫ですか?」
「大丈夫です。ご心配いただきありがとうございます」
「あっ、鞄が」
男性に言われて、梨央奈は、自分の鞄を落としたままだったことに気付く。
「あっ、拾うので大丈夫です!」
慌てて、自分の鞄を拾いながら言った。
「そうですか。じゃ、申し訳ございませんが、急いでおりますので。失礼させていただきます」
そう言って、男性は去って行った。
鞄の埃を払いながら、なんとなく男性の後ろ姿を、見る。
その時、梨央奈の携帯電話が鳴った。
ビクッとしながら、電話に出ると、万知の声がした。
「私だけど、今、仕事帰りで東京駅に居るんだけど、梨央奈ももしかして東京駅にいる? っていた! 梨央奈、後ろ、後ろ〜」
梨央奈が後ろを見ると、万知が携帯電話を持ったまま、走り寄ってきた。
「良かった〜。会えて〜! 一緒に帰ろう。せっかくだから家の近くで、外食してこうよ」
「うん……」
梨央奈は、返事をしながらも、男性が去って行ったほうを見る。
「どうしたの?」
そんな梨央奈の様子に、不思議そうに万知が聞く。
梨央奈は、今起きたことを歩きながら万知に話した。
そして、2人は、電車に乗り、家の近くで夕飯を食べて帰宅した。
その日、東京駅近くで、ディメンションゲートが発生した。
※ ご感想、レビュー、ブックマーク、評価、いいね、Twitterのフォロー 等いただけると、励みになります。