第3話 変化する夢と変わらない現実
何も見えない白い空間。
声が聞こえた。
『生きろ』
男性か女性かは、わからない。
優しくも、力強く、淋しさを感じさせる声。
生きてほしいという、強い思いが込められていた。
ーーーーーー
朝、カーテンから朝日が差し込む自分の部屋のベッドの布団の中で、梨央奈は目を覚ました。
仰向けで寝ていたが、何かを掴もうと真上に伸ばしている自分の左腕と手が見える。
伸ばしていた左手で目を拭うと、たくさんの涙が左手を濡らす。
「まただ……」
思わず呟きながらため息をついた。
数年前から繰り返し見る夢。
いつも内容を忘れてしまうが、とても幸せで、とても切なくて、とても温かく、とても悲しい。
いつも泣きながら目が覚めて、時には手を伸ばして何かを叫びながら目が覚める。
何を叫んでたかは覚えていない。
でも、今日は少し違った。
「誰かが、『生きろ』って言ってた」
呟きながら、見つめていた涙に濡れる左手をそっと握った。
ーーーーーー
(生きるって辛い……)
職場のパソコンの前でうなだれながら、梨央奈は強く思った。
職場の仕事が炎上している。
IT業界の炎上とは、大きなトラブルが発生し、円滑な業務遂行が不可能な状態に陥ることだ。
関係者が残業続きの状態になる。また、場合によっては顧客との料金返金などの交渉や裁判などが発生する場合もある。
”デスマーチ(死の行進)”と言われることもある。
今まさに”デスマーチ(死の行進)”中。
ここ数日、残業続きで帰りはいつも終電だ。
会社に泊まり込む同僚も出てきている。
「鈴木さん。頼んでた仕事の進捗はどう?」
うなだれている梨央奈に、谷口 栄一が声をかけてきた。
技術部の部長であり、プロジェクトマネージャーの男性だ。年齢は、45歳。白髪混じりの黒髪で、くせ毛の髪を真ん中分けにし、後ろに流している。
身長は、170センチほどの小太りでスーツを着ている。
会議帰りだろうか、丸型の眼鏡の奥に余裕のない黒い瞳が見える。
梨央奈は、谷口の質問に答える。
「進捗としては、8割完了していて、残りが2割くらいです。完成が遅れて申し訳ございません」
「時間かかってるね……遅いよ。どのくらいで終わりそう?」
「すみません。そうですね……あと1日はかかると思います」
「困ったな……それじゃ間に合わないよ!」
「え? リリースは5日後ですよね?」
「新しい障害がでてるから。メール見てないの? ちゃんとこまめに確認して!」
「申し訳ございません! すぐに確認します!」
「あと、進捗はこまめに報告してください! 報連相は大事だよ! 遅いよ!! なんで普通のことができないかな!」
「申し訳ございません!」
谷口部長のあまりの剣幕に、思わず椅子から立ち上がり頭を下げた。
心がポキリと音がした。
谷口部長は、自席に戻っていった。
今度は、先輩の高橋 充から声をかけられる。
「鈴木さん。ここなんだけど、設計書確認してる?」
「確認したはずです」
「はずじゃダメだよ。ここのプログラム間違ってるよ。すぐに修正して」
「申し訳ございません。承知しました。すぐに修正します。以後気をつけます」
立ったまま、もう一度頭を下げて謝る。
もう一度、心がポキリと音がした。
技術部で今回チームリーダーであり、システムエンジニアをしている井上 信雄が梨央奈に声をかけてきた。
37歳。男性。茶髪で短い。サイドは刈り上げて髪を後ろに流すようにオシャレにセットしている。瞳は茶色。身長は、180センチほど。
少しつり目で、すっと通った鼻筋。整った顔立ちをしている。サッカーが趣味のため、がっちりした体格をしている。
「鈴木さん。焦らずに。1人で終わらない作業量なら、言って。余裕はないけど、できる限りフォローするから」
「申し訳ございません。ありがとうございます」
優しい言葉に涙がでそうになった。
心が少し暖かくなった。
(職場で泣きそうになるなんていけない。36歳のいい大人なんだから! それが普通だ!)
心も身体も追い詰められていた。
梨央奈はもともと自己肯定感が低く、自信がない性格だ。
正当な指摘だからこそ、自分が悪い、直さなければと自分を追い詰めていた。
だが、指摘や否定を受けるたびに、心がポキリと音がする。
心がポキリと音をするたび「すみません」、「申し訳ございません」と言うたびに、なんで自分は普通の人のようにできないんだろう、私はダメな人間だ、いない方が迷惑をかけなくていいんじゃないか、などと考えてしまい自分で自分を追い詰めていく。
梨央奈は吐き気に見舞われ、トイレに早歩きで駆け込んだ。
「おぇっ! おぇっ!」と何も出ない吐き気に見舞わる。腹痛にも見舞われ、トイレの個室に入った。下痢をしていた。
(最近、追い詰められるとよくなるな……情けない……。トイレの個室に駆け込むことが続いても、現実は誰も助けにきてくれないもんだよね……)
誰にも気づかれたくなくてトイレに駆け込んでいるのに、誰かに気づいてほしいと思っている自分の気持ちに気がついて、梨央奈は苦笑いをした。
トイレを出て部屋へ戻ろうと休憩室の前に差し掛かると、話し声が聞こえてきた。
営業の佐々木と谷口部長だ。
お互い飲み物を飲みながら話をしている。
佐々木が谷口に話しかける。
「谷口部長ストレス溜まってますね?」
「そうだよ! プロジェクトも炎上してるし、なんとかしないといけないのに問題は多発するし。ストレスもたまるよ」
「鈴木さんに言ってましたね」
「鈴木さんだけが問題起こしてるわけじゃないけどね。判断もスピードも遅いんだよな〜。もう、6年目でしょう? リーダーやっててもおかしくないでしょ。本人頑張ってるのはわかるんだけどね〜」
谷口の話を聞き、佐々木が言う。
「確かに、営業としてもお客さんの外部のプロジェクトに人員として売り込みしづらいんですよね。本人頑張ってはいるんですけどね」
谷口が思い出したように言った。
「そう言えば、この前、会社企画のサッカー大会で転んでたの思い出すな」
「言わないであげてください。鈴木さん運動苦手らしいですから」
2人の笑い声を聞きながら、廊下の壁際で固まって動けなくなっていた梨央奈。
早く立ち去らないとと、2人に見つからないように部屋へ向かい歩き出す。
梨央奈は、自分が情けなくて仕方なかった。
梨央奈は自分なりに変えよう、変わろうと工夫し頑張ってみた。
それでも結果がついてこない。結果が出なければ周りからは認めてはもらえない。
変わらない現実に、今日2度目、左手をそっと握った。
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