山村
ある旅人の摩訶不思議な物語。
滝のほとりで三十代前半の男の旅人が足を休めて水を飲んで寛いでいた。水というのは実にありがたいものである。水がなければ、人も動物も植物も生きてはいけない。そんな事を考えていて、広くなっている滝の広い所で休んでいたら鳥が飛んできて滝に吸い込まれるように消えた。
おやっと、何気なく見ていた男は思った。鳥が出てこないのだ。どうでもいいようにも思われたが、男は気になった。
男は滝つぼに身を浸し近づくとそれほど深くはなかったので、さらに近づくと身体を引っ張られて滝に吸い込まれてしまった。
思わず声をうわっと上げた。すとんっと尻もちをつき辺りを見渡すとそこはお社の前だった。周りには花々が咲き誇り暖かであった。
男はあっけにとられてぼんやりとしていると、若い二十代半ばと思われる女が近寄ってきた。健康そうな笑顔でにこやかに微笑んでいる。
「大丈夫ですか」
「はい」
男はかろうじて応えた。
「色々と思われる事がおありと存じますが、どうぞご安心をなさって私に付いて来てください」
男はまさか女に食われるのかもとわずかに恐怖も感じたが、女の醸し出す雰囲気は柔らかである。言われるまま女の後に付いて行った。歩く先々で大人達が立ち話などをしており、男と女を見ると、あの方がお告げの方なのか、と興味深そうに優し気な笑顔で男と女を見ていた。先ほどのお社から数分歩くとやや大きな家屋に案内された。門の付近では子供たちが遊びに興じていた。玄関に着くと女が引き戸を開けた。すると老婆が待っており、さあさあどうぞお上がりくださいと言う。
老婆の後に女が続きその後を男が付いて行くと、五十畳ほどの大広間に通された。上座には初老の男女が微笑みを浮かべて二人並んで座っていて、更に両脇に多くの老若男女が座っていた。老婆がどうぞこちらへと二人を案内して二人が着座して場が落ち着いた。
上座の初老の男性が口を開いた。
「こちらの方ですか」
女に訊いた。
「はい、そうです」
隣に座っている女が応えた。
「誠にお告げにあったそのままのお方ですな」
男性が実に感心したように言う。
お告げか、と男にはさっぱり呑み込めないので、ただ黙っていた。
「突然の話で驚かれるかもしれませんが、あなた様が私の後を継ぐ次のこの山村の村長です。あなたをご案内したその娘が私共の一人娘です。あなたは私の娘と結婚をしていただく予定です。これは私どもの考えではなく、あなたの心の奥底にある御心をくまれて、この村のご守護神様により導かれたのでございます。ですが、あなた様が私の後を引き継ぐにはまだ数年ございます。これから数年の間、私共と共に過ごし様々な事を学んでいただく事になります。どうぞよろしくお願い申し上げます」
そう言って偉い人に言うように丁寧に頭を下げた。
自分が未来の村長か、と男は狐につままれたように気がした。唖然としていると男性が言う。
「今日から暫くはこの村のあちこちを娘に案内させます。夕食までにはまだお時間がありますので、ご不審な事が沢山おありでしょうから道々娘に何でもお聞きになってください」
「ありがとうございます」
他に何と言ったらいいのか分からないまま曖昧な返事をして、男も丁寧にお辞儀をした。
隣に座っている男性に娘が深々と頭を下げると男に向かい参りましょうと男を促した。それに男は従い道々村ののどかな生活の様子をうかがい知ることができた。
各家家の軒先などに干されている野菜や果物も見られた。
小川があり橋もある。そして小川から水が田畑に引かれていたりもしている。豊かな村だなと男は感心した。
やがて最初に滝に吸い込まれてから落ちて着地したお社に着いた。お社は質素な造りで細微な彫刻も豪華な装飾もない建物である。極楽浄土がどのような景色なのか絵巻物などでしか見た事がないから分からないが、神仏は豪華な造りを好まないと聞いたことがるが、正にその通りの簡素な出来である。意外と神仏は質素な所に居らっしゃるらしいと聞いたことがある。女はまず深々とお社に向かって頭を下げてお祈りのような事をした後に、お社の隅に腰を下ろしたので、男も横に座った。
「昨日は九年に一度の六白金星の星回りでの三度目の甲子の日だったので、このご守護神様の例大祭が行われました。その際にあなた様に関するお告げがあったのでございます」
女は説明した。
女を改めて見て、黒くて艶のある長い髪を後ろで束ねている。涼しげな目元に面立ちも上品さを備えていて男にはそれが眩しかった。
「この村の歴史はどれぐらいなのでしょうか」
「はい、いつからこの村があるのかははっきりとは致しませんが、五百年ほどの歴史があると伝わっております。と申しますのも巻物や書物などが保管されていた蔵が二百年位前に過失による火災で失われてしまった、と聞いております。ですから、それ以前の事は詳しく分からないのでございます」
女はそこまで言うと、とても残念そうな表情をした。
「この村の最初の頃は分かりませんが、何時の時代からは、代々、私の家が村長を務めております」
「ずいぶんと歴史のある村なのですね」
「そうですね。ところで喉が渇きましたね。先ほどはお茶も出しませんで失礼しました」
女が立ち上がってお社の脇に向かった。
男は黙って女の後に続くと、お社の脇には広さのある水面が広がっていて、泉が湧いていた。丁度いい足場になる石の上に女はしゃがみ手で水をすくって水を飲んだ。男もそれに倣って水をすくって飲んだ。
「微かに甘さのあるとても美味しいお水ですね。こんな美味しいお水は初めて飲みました」
男は嘆息を漏らして更にすくって飲んだ。
「この泉は一年中こんこんと湧いて枯れる事がございません。また、病人が出た際にもこの泉の水と薬草を煎じたものを飲ませます。そうしますと、不思議に病も治まるのです。この村には此処の他にも同じ性質の泉が数か所ございます。そして、料理の際にもそれらの泉の水が使われています。まだ夕食まで時間がございますので、他の所もご案内しますね」
そう言うと立ち上がり歩き出した。
女はお社の裏側に向かうと、少し幅広で長めの石段があって上ると高台に出た。そこからは村の雰囲気が一望できた。そして、見える景色は村が高い峰々に囲まれているそれほど広くはない盆地であることを知った。男が感心して景色を眺めていたら、女は何かを感じたらしく、こちらへ、とだけ言った。
男は黙って女の後に続く事にしていたので、今度は何だろうと思うと胸が膨らんだ。男はすっかりこの村が気に入った。
「あそこをご覧下さい」と下の方に指を指した。
見ると男二人の旅人が例の滝のほとりに座っている。
すると女は何を思ったのか、大声で言った。
「こんにちわっ」
女は大声で叫んだので、びっくりしてしまった。結構やんちゃな所があるんだな、と二度驚かされて思わず笑った。
二人の旅人は、と見ると以前と変わらずに両方の足を水に浸しており、全然気づかない様子だ。
「大声が全く聞こえていないようですね」
旅人から大して距離が離れていない斜め上方にいるのにどうしたんだろうと、怪しんだ。
「あの方々もこの村人になるのでしょうか」
「いいえ、あの方々は村人にはなれず、私たちの声は聞こえず、姿も見えていないのです」
「なんと不可思議千万」
また驚かされた。
「ちょっと手を伸ばしてごらんなさい」
こういう風にと、女の真似をして手を伸ばすと柔らかい感触があった。手がそれ以上向こうに押せなくて跳ね返されてしまうのだ。
「これはどういう・・・」
思案顔で訊ねるしかなかった。
「この村は見えない壁で覆われているのです。こちらからは外界を見ることも音を聞くことも出来ます。しかし、こちらを見られる事もなく、更にこちらに入って来る事も出来ないのでございます」
「そうなのですか」
なるほど、と分かったような分からぬような奇妙な感覚を覚えた。
「今日は初日ですのでこれぐらいにして、帰りましょう」
旅人に背を向けて来た道に向かった。
「はい」
素直に頷いて並んで歩いた。
「それにしても今日はお天気がいいですね」
「ええ、誠に」
二人は道々村人に合うと挨拶を交わして歩いて、女の家に着いた。村長夫妻は二人を見るとお疲れでございましょう、お風呂が沸かしてありますので、と男を下へも置かぬもてなしにすっかり恐縮した。先ずはそちらへと娘にご案内をするように言った。
お風呂場も家に相応しい、ほどほどの広さであり、清潔であった。男は着物を脱ぎたたんで下に置いた。それから暫くして外から女の声が聞こえた。
「お湯加減はいかがでしょうか」
湯船に手を入れて湯加減を確かめてから返答した。
「ちょうどよい湯加減です。ありがとうございます」
「お召し物はご用意してありますのでそれを着てください」
実に見事な気配りをされた。なんの目的もなくただ諸国を巡っていた事を考えると夢のようだった。
「重ね重ねありがとうございます」
湯船に深々と身を浸すと、疲れが解されるのを感じた。不思議な所もあるものだな。今日見た限りではこの村は平和で豊な暮らしをしている。この先の生活がすでに保障されているし、自分がそう遠くない未来の村長になるのなどと務まるのかと先行き不安にもなる。娘は美しくて、心根も優しさに満ちている。
湯を上がると着替えの場に丁寧に折りたたんである浴衣が置かれていた。浴衣の大きさは丁度よく着心地もよかった。爽やかさに心身ともに包まれた。
すると廊下側から娘の声が涼やかに聞こえてきた。
「お召し物はお体に合いましたかしら」
「はい、調度良いです」
「戸を開けますね」
「どうぞ」
戸が開き男の格好の様子見ると見ると、安堵したようだった。
「さあ、こちらへ」
手で指し示し長い廊下を歩くと母屋ではなく離れに通され、お茶を煎れてくれた。
「私も湯に入ってまいりますので、食事までもう少々お待ちくださいませ」
そう言い残して娘は湯に向かった。
男は大の字に畳に寝転んで今日の事に自然と考えは行った。すでに両親も親戚もいない。それを機に何の目的もなく諸国を行脚していた。さまざまな出来事を経験したが、今日ほどの事は一度もなかった。世の中には摩訶不可思議な村もあるものだ。この村は異世界なのだと感じていた。それに、娘は今日初めて会った男と夫婦になる事に何の抵抗も見受けられない。
「お待ちどうさま」
障子の外から声が聞こえた。
娘が戻ってきて部屋に入って男の前に正座して、覚悟を決めたように言った。
「このたった今まで、私たち村の一方的な事ばかりの話でしたが、あなた様は私と夫婦になる事、あるいは、この村の村人になる事にご不満がございますでしょうか。いかがかしら。いくらお告げと申しましても、あなた様が村人になり、私と夫婦になることがどうしても出来ないと思われるのでしたら、どうぞ仰ってくださいませ。その際はお告げは無効になります。もし、私と夫婦になるなら、今日からこの離れが私たちの生活する所になります。母屋は村の集まり以外ではほとんど使われる事はなく、両親が寝起きして生活している所でございます。食事に関しましては、今までは両親と一緒にしておりました。私共が夫婦になる場合に限り、しきたりとして別に食べる事となっているのです。
「いえ、私には何の不満もございません。あなたと夫婦になれて、この村の村人になれるのでしたらこんな喜びはありません。どうぞよろしくお願い申し上げます」
深々と頭を下げた。
顔を上げて娘と目が合うと娘の表情に光が差した。この上ない幸福感に包まれた。
「それでは食事に致しましょう」
軽やかな声で言うと立ち上がり隣の間の、ふすまを開けた。箱膳が置かれてあり座布団も敷いてあった。床の間を脇に見て向かい合って座った。お赤飯に汁物、香の物、山菜、魚の干物が並んでいた。
「例大祭の翌日の食事の献立でございます」
そう言うと、お茶を煎れてくれて、男にすすめてから自分のお茶を煎れた。
「美味しそうですね」
「お口に合うといいのですが」
食事が始まり、ほどなくして食事を終えた。
「ごちそうさまでした」
確かに美味い食事だった。お茶をすすると、様々な思いがまた浮かんだ。娘は箱膳を重ねて部屋を出た。それから暫くして娘が戻ってきた。
「もう御寝なさいますか。床は延べてありますが」
「まだ眠くはありはありません。あなたはいかがですか」
「私もまだ眠くはないです。なんだか気持ちが高ぶってしまって」
娘は恥ずかしそうに下を向いて言った。
「それなら少し話しませんか」
「そう致しましょう」
男はちょっと考えてから言った。
「お告げはどういう風に行われるのですか」
「お告げがある時には、あのお社から夕方に何と申しますか、フクロウだと思うのですが、鳴き声がホーホーっと村中に鳴き声が響きますのでそれで知る訳です。ですが、誰もそのフクロウを見た者がおりません。それが必ず甲子の前日でございます。その翌日つまり儀式の当日にですね、夕刻から始まりますが、先ず巫女が今日行ったお社の脇の泉で白装束で水を浴びて身を清めます。それから巫女の衣装にお社の中の部屋で着替えてお社に一人で残り泉の水を沸かした物を飲み行われます。お社の扉は開け放たれて、その際、村人は全員境内に畏まります。現在、巫女を務めているのは私でございます。ですが、お告げは私の記憶には何も残らないのです。しかし、村長を含む村人全員が聞いております。ですので私がお告げの内容を知るのは儀式後に教えられて知るのでございます。この村では何かに直面すると、不思議とお告げがあるのです。ですので基本、全てお告げに基づいて生活が決まっております。窮屈な生活と思われるかもしれませんが、決してそのような事はありません。それに私の家は代々村長ですが、それも単なる役割です。特別に偉いと言う訳ではございません。争いごとは何も起こらず、村人全員で田畑を耕したりとのんびりと平和な生活です。村人の血が濃くなりかけたりとか、誰かの寿命が尽きる頃には新たな村人が導かれて参ります。ですから、村の人口は大して増えも減りもせず現在に至っております。はっきりしている事は、根っからの悪人は村人にはなれません」
「なるほど、実に魔訶不可思議な村ですね。次のお告げの、お告げもあるのですか」
娘はいかにも可笑しそうにくすくす笑った。
「それは実に不便ですね。それでは、お告げの、お告げの、お告げなどときりがないではありませんか」また、くすくす笑う。
全くそうだと可笑しくなって笑った。
「そろそれ寝ますか」
何気なく言うと、娘は俯いて「はい」と返事をした。
三年が過ぎて健康な子供が生まれた。女の子であったので、義父母はたいそう喜び、お赤飯を炊いて祝った。その翌年のある早朝にまだ起きてこない事を不審に思った妻が見に行ったが、二人とも布団の中で亡くなっていた。妻に呼ばれて行くと苦しんだ様子はなく、安らかな表情だった。二人の葬儀がしめやかに行われて、娘は泣いた。実に優しい義父母だった。叱られたことは一度もなく、優しく諭された暮らしが思い出され頬を温かいものが流れた。