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後編

 結婚して、一年目だった……深夜が亡くなったのは。

 楓と深夜は、幸せに暮らしていた。

 誰よりも。幸福だと思いながら、お互いの全てを愛していた。

 子供はいなかった。

 楓、一人だけが残された。

 藤谷楓……私が一年前に、新しくなった姓名。

「まだ、若いのに……大変だな」

「突然だったらしいわよ。心筋梗塞ですって……」

 私の耳元に、そんな声の囁きが入ってきた。

 深夜は、私の外出中に、死亡した。

 買い物から、戻ってきて、愕然とした。

 床に倒れ込んだまま、動かない深夜。撒き散らされた絵の具。倒れたキャンバス。

「深夜! 深夜! しっかりして! お願い……お願い」

 倒れ込んだ身体に、必死にしがみついた。

 彼は、画家だった。藤谷深夜、まだ二十五歳だった。


 葬儀は、しめやかに行われた。

 喪主は、私が務める事になったが、これが現実なのか、まだ理解出来ないでいた。

 お焼香の時も、ただ頭を下げるだけで、頭の中は真っ白だった。

 その時、見た事のある影が目に入った。

「さ……澤井さん?」

 彼は、深夜の友人でもあり、深夜の絵画教室の生徒でもあった。

 彼は、私達が婚約した後に、海外へ、絵の勉強に行ったはずだった。

 澤井さんの顔は、血の気もなく、疲れ切ったようだった。

 私は、どんな顔をしているだろうか。ふと、そんな事を思った。

 悲しみで、押し潰されそうだった。

 深夜のいない世界なんて、私にとっては、何の意味もない。

(深夜……私も連れていってくれたら良かったのに。どうして、一人だけ逝ってしまったの? 私、深夜に会いたいよ。また一緒に仲良く暮らしたい……)

 葬儀が、終わって、私は喪主として最後まで残っていた。

「大丈夫ですか……」

 後ろから、声を掛けられた。

「牧野君……」

 声を掛けてきたのは、深夜の絵画教室に通っていた男性だった。

 深夜とは、意気投合して、仲が良かった。

 私とも、面識があり、ある程度、お互いの事は知っていた。

「顔色が、凄く悪いんで……心配になって」

「だ、大丈夫だよ。有難う……」

「あと、これなんですけど」

 牧野君が、メモのようなものを持っていた。

「さっき、背の高い男性から、預かって。楓さんに渡して欲しいって」

「え?」

「スラっとしたイケメンでしたけど」

 澤井さん、だろう。

 メモを開くと、携帯の電話番号が書いてあった。

「知り合いですか?」

「う、うん……深夜の昔からの友達」

 牧野は、澤井がいなくなった後から、教室に入ったので知らないのだ。

 彼は、その後、ちょっと考え込むような仕草をした。


 自宅に戻っても、私は、まだ喪服でいた。

 婚約してから、新居に引っ越して、私は広い部屋に立ちすくんでいた。

「俺と、結婚して下さい」

 深夜の真剣な顔を、思い出した。

 深夜との、色んな思い出が、溢れ出してきた。

(もう、耐えられない! 私も深夜の元へいきたい)

 その時、私の足下に、一枚のメモが落ちた。

 澤井さんからのメモ。

 開いて、書いてある携帯の番号を見た。今更、彼に何と言って電話すればいいの?

 その言葉とは、裏腹に、私は携帯を握った。

「もしもし」

 電話の相手は、澤井さんの声。

「……もしもし」

 私は、泣き出したくなった。

「楓さん、だよね?」

「は……はい」

「心配してたんだ。今日、葬儀に出させて貰ったけど」

「お見掛けしました。有難うございます」

「先生の事……本当に残念だったよ」

(今でも、澤井さんはそう呼ぶんだ)

「……」

 言葉が出なくなって、目眩を感じた。

 私は、澤井さんからの質問に、答え始めていた。


 会社は、辞めていなかつた。結婚して、会社を辞める事に、私はあまり拘りを持っておらず、専業主婦になる気もなかったので。

 しばらく、会社を休んでから、また通勤し始めた。

 通勤ラッシュに揉まれながら、いつものように電車に乗ろうとする。

「ドン!」

 私は、後ろから押されて身体のバランスを崩した。このままだと倒れ込んでしまう。

 その時、私の身体を力強く掴んで、抱きしめる手があった。

「す、すみません」

 振り返ると、そこには、澤井さんがいた。

「大丈夫?」

「さ、澤井さん……どうして、ここに」

「今日は、車の調子が悪くてね。電車で移動」

 澤井は、そう言うと、栗色の髪をかき上げた。

「一緒に、乗ろうか」

 澤井さんは、私の手を引いて電車に乗り込む。私を守るように、立ち位置を決めると話し掛けてきた。

「楓さん、もう会社に行って、大丈夫なの?」

「え……あ、家に一人でいても……どうしようもないので」

「あまり、無理はしないで下さいよ」

「は、はい」

 絵の勉強の為に、海外に行った彼が、なぜここに居るのかという疑問。

「澤井さん、どうして日本へ?」

 彼の瞳が、悲しみに沈んだかと思うと

「先生の訃報を聞いて、しばらく絵は休んで、日本に戻ってきた」

「先生は、大事な人だったから……」

 瞳は、泣きそうに潤んでいる。

「……すみません。有難うございます」

「謝ったりしないで。当たり前の事だから」

 澤井さんからは、以前、告白された事があった。私は、深夜を選んで、そして結婚した。

 彼はあの事を、どう思っているんだろうか。

「楓さんを、迎えに来たって言ったら、どう思う?」

 澤井さんの、切れ長の凜とした瞳の奥が、キラリと輝いたような気がした。

「じ、冗談ですよね……アハハ」

 私の手を取って、こう言った。

「冗談ではないよ」

 電車が揺れて、私達も大きく揺れた。

 澤井さんの顔が、すぐ間近にある。思わず、息を小さく吐く。

 澤井さんは、気にしていないようで、人混みから私を守ろうと頑張っている。

「なかなか……体力がいるね」

 彼の額が、薄らと、汗ばんでいる。

 澤井さんにとっては、車での移動が多いだろうから、この列車はキツイだろう。

 そうこうしているうちに、目的の駅に着いた。

 澤井さんは、別れ際

「また、連絡するから。電話に出る事……わかった?」

 そう言うと、優しく微笑んだ。


 部屋で、深夜の描いた絵を見ている時だった。

「ピンポーン」

 インターホンが鳴った。

「誰だろう……?」

 出てみると、牧野君だった。

「何も食べていないんじゃないかと思って」

「一杯、買ってきちゃいました」

 彼は、そう言うと、ニコニコ笑っている。

「あ、有難う。今、開けるね」

 牧野君は、色々と気配りが出来て、はっきりした性格だった。

 買って来た物を、冷蔵庫にテキパキと入れている。

「これは、食べる分と……」

 何気に、彼と目が合った。

「食べれます? 僕の選んだものですけど」

 微笑みながら、私の元に、運んできてくれた。

「甘いものが、いいかなっと思って。プリンもありますから」

 私は、なるべく元気そうに微笑んだ。

「本当に、有難う。気を遣わせて、ごめんね」

「僕なら、呼んでくれればいつでも来ます。呼ばれなくても……」

 彼は、顔を真っ赤にしている。

(私は、その時、意味が分からなくて、ただ微笑んだ)

 牧野蓮司。大学三年生。とても愛らしい顔をしていて、色白なのは深夜と似ていた。

「深夜……」

 彼に、聞えたようで、可愛らしい瞳を私に向けた。

「今でも、先生の事、愛してるんですね」

「うん……愛してるわ」

 牧野君は、傍にあった膝掛けを、そっと掛けてくれた。それが、とても温かく感じて、涙を流した。

「僕も、先生の事。大好きでした」

 牧野君も、いつの間にか、肩を振るわせて泣いていた。

 いきなり、私に抱きついてきて、泣き続けている。何か、お母さんになった気分だった。

「う・・う、う」

「ほら、牧野君、もう泣かないで」

 なぜか、私が彼を励ます感じになった。

 私の涙は、もう止まっていた。すでに枯れてしまったのかもしれない。

 深夜の事を、いつまでも愛している。これからも、ずっと……。


 それから、数週間が経った頃、澤井さんから連絡があった。

「少しは、気晴らしをした方がいいと思って、会えないかな?」

「そうですね……」

 私が、戸惑っていると

「大丈夫だよ。私は、先生がいなくなったからといって、貴女を狙ったりしないから」

 ハッキリそう言われた。

「でも、まだ独り身だけどね」

 どっちなんだろう。澤井さんが、もし、まだ私を諦めていなかったら。

「以前、告白した時は、コテンパンにやられたけど」

 澤井さんが、わざと面白がって言ってるのが分かった。

「意地悪なんですね」

 私は、電話の相手に、頬を膨らませた。

「だから、一緒に出掛けようよ」

 私は、澤井さんに結局負けて、会う事にした。


 駅前で、澤井さんを待っている。

 人混みの中に、澤井さんを見つけて、彼もこちらを見ている。私の元へ駆け寄って来た。

 スラリとした長身が、私の隣に立つ。

「ねぇ、どこに行きたい?」

 彼の声が、頭上からした。

「今日は、楓さんの行きたい所へ行く事にしたから」

「え? 何も考えてないんですが……」

「それじゃ、取りあえず、ランチかな」

「そうですね……もうすぐお昼ですし」

 澤井さんは、古風な感じだけど、洒落た日本料理屋の前に、私を連れてきた。

「ここの、うどんが美味しいよ」

「へぇー。 うどん大好きです」

「それは、良かった」

 澤井さんは、私を連れて店に入った。

 店内は、満席状態だったが、店主が澤井さんを見ると、声を掛けてきた。

「おっ澤井さんじゃないか。しばらく待ってて」

 店主と、知り合いなんだろうか。私が不思議そうにしていると

「私の『お客さん』だよ」

 と言って、優しげに笑った。

 店主の好意で、一番奥に空いていた座敷に入る事が出来た。

「私の絵を、いつも買ってくれる、お客さん」

 澤井さんも、画家だった。深夜に澤井さんの絵を見せて貰った事がある。

 とても美しい絵だった。上品で淡い色合いが印象的だった。

「足、崩していいよ。痺れるから」

 澤井さんは、座敷に正座している私を、気に掛けてくれる

「あまり、食欲もないでしよう」

「え……え、あまり」

「うどんなら、食べれると思って」

 澤井さんの優しさを感じた。だから、このお店に連れてきてくれたんだ。

 二人で、運ばれてきたうどんを、食べる。

「美味しいです」

「喜んでくれたなら、嬉しいよ」

 澤井さんは、目を細めて本当に嬉しそうに微笑んだ。


 澤井は、自分の家は、そのままにしておいた。

 一人で一戸建てに住んでいる。気ままな独身者でもあった。

 自宅に戻り、最初にするのは、洗濯物の取り込み。それが終わったら、綺麗にアイロンをかけてゆく。

 その作業が終わると、紅茶を淹れて一息つく。

「また、戻ってきたんだな」

 本当なら、十年後くらいに、日本には戻るつもりだった。

 しかし、突然の深夜の訃報に、慌てて戻ってきたと言ってもいい。

「まさか……亡くなるなんて」

 澤井自身も、酷くショックを受けた。何かの間違いだと思いたかった。

 葬儀に出た時に、実感した。深夜は、もういないのだと。

 深夜とは、喧嘩別れをしたが、ずっと想っていた。

 頭から離れる事は、一度もなかった。それは、楓の事も同じだった。

 楓が、困っているのではないかと、思わず帰国した。

 案の定、彼女は悲しみの中にいて、食事も摂っていないのは、見てすぐに分かった。

 痩せた身体で、必死に葬儀を行っていた。

 ―― 力になりたい ――

 澤井の中に、その感情は強く残った。

 ―― 彼女の傍にいてあげたい ――

 でも、いつまでもいられる訳ではない。無理矢理、絵の勉強を一時、休ませてきたからだ。

 一度、静まった炎が、またチラチラと音を立てて、燃えだそうとしている。

「楓さん……」

 嫌われてもいい。憎まれてもいい。どうか、自分に振り向いて欲しい。

「嫌われても、一緒に居て欲しいなんて、矛盾している」

 澤井は、紅茶のカップをそっと置いた。


 マンションの入り口に来た時、声を掛けられた。

「楓さん」

 そう言って、私の前に立っていたのは、牧野君だった。

「どうしたの? ここ、寒いよ」

「楓さんが、心配で」

「とにかく、身体が冷えちゃうから、中に入って」

 私は、牧野君と一緒に、部屋に入ると暖房をつけた。

「しばらく、寒いけど、ごめんね」

「僕が、勝手に来ただけなんで」

 いきなり、牧野君の手が、私の身体に触れた。ぐっと強い力で引き寄せられる。

「どこに行ってたんです?」

 耳元で、囁かれた。

「どっどこって……昔の友達と」

「あのスラっとイケメンの所ですか?」

 ますます、牧野君の力が強くなる。

「まだ、先生が死んでから、そんなに経ってないのに」

「わ……私」

「僕だって、楓さんの事が好きなのに!」

 そのまま、ソファーに押し倒された。

「や、やめて」

 抵抗するが、凄い力には、適わない。

 牧野君は、私に抱きついてきた。

 愛らしい万人受けする顔は、そこにはもうなかった。

 瞳には、強い光が宿って、頬はほんのり赤く、息を荒くしている。

「は、離して」

「いやです」

 牧野君は、唇を押し当ててきた。抵抗する私の唇と重なる。

 その時――

 深夜との、思い出が頭の中を巡った。

 牧野君のキスは、深夜のキスとは全く違っていたが、深夜を思い起こさせた。

 私は、急に動けなくなった。そんな私に、必死にキスをする牧野君。

「あ……ダメ」

 言葉を、やっと口にする事が出来た。

「僕だって、楓さんの事を大事に出来ますから」

「そんなに、僕を嫌わないで……お願いだから」

 牧野君は、キスをするのをやめて、私の髪を優しく撫でている。

「僕なら、楓さんの傍に、いつもいられます」

「絶対に、一人になんかさせない」

 ギュっと、私を抱きしめて、離さない。

「は、離して」

「やだ、離さない」

 私が、繰り返し言うと、彼は、そっと私を離した。

 突然の事で、フラフラになりながら、牧野君から距離をおく。

「私、牧野君の事も大事に想ってるわ。深夜との思い出もあるもの」

 喉がカラカラで、声が出ない。

「だけど、こういうのはやめて欲しい」

「ごめんなさい……僕……」

 牧野の目から、大粒の涙が流れた。

「怖がらせたりするつもりはなかったんです」

「ただ、自分の気持ちを伝えたくて」

 牧野は、涙を拭きながら、ハッキリ言った。

「でも、諦めませんから!」

 そのまま、上着も着ないで、部屋から飛び出して行った。

 私は、また一人、部屋に取り残された。

 深夜がいなくても、私は一人で生きていける。

 だって、深夜と約束したもの。

 ―― いつか、私を迎えに来てくれるって ――

 ソファーに目をやると、牧野君の上着が置いてあるのに、気が付いた。

 あのまま、飛び出して行くなんて。

 外は、冷たい風が、次の季節を知らせていた。


 牧野は、美術室で、必死に絵を描いていた。

 楓にした事を、打ち消すかのように……。

「おい、牧野。お客さん」

 同級生が、何やらニヤニヤしている。

 なんだろう?と、廊下に出てみた。

 そこにいたのは、楓だった。

「な……なんで」

 気が付いた楓が、こちらに歩み寄ってくる。

「ごめんなさい。渡しておいて欲しいって、頼んだんだけど……」

 牧野が、楓が手にしている自分の上着を見た。

「わざわざ、ごめん」

 楓から、自分の上着を受け取る。

「じゃあ、私はこれで」

「待って」

 思わず、楓の腕を掴む。

「良かったら、美術室……覗いていかない?」

「でも、他の生徒さん達に、ご迷惑だから」

「今日は、ほとんど人数いないし、大丈夫だよ」

 牧野は、楓を連れて、美術室に入る。

 数人の生徒がいて、こちらを見て驚いてる。

「是非! モデルになって下さい!」

 生徒達に、あっという間に囲まれてしまった。

(ど、どうしよう! こんなはずじゃ……)

 結局、生徒達に頼まれ、モデルをする事になった。

 椅子に普通に座っているだけだが、緊張する。

 牧野に、目をやると、彼も必死に描いている。目と目が合って、微笑まれた。

 そうやって時間は、どんどん過ぎていった。

 気が付くと、外はすっかり暗くなっていて、生徒達は解散した。

「牧野! 彼女、送っていってやれよ」

 同級生が、牧野をからかうように言う。

「分かってるよ」

 私の手をとって、美術室を後にした。

「あんな事されたのに、わざわざ届けに来てくれたんだね」

 私が黙っていると

「有難う」

 天使のような、微笑みを浮かべた。

 本当に、天使だと思った。

 色白に綺麗な瞳が印象的。頬は、朱を帯びて愛らしさを醸し出している。

「……深夜」

 深夜と、牧野君が重なった。

 今まで、気が付かなかったけど、二人は似ていた。

 いや、ほぼ同じだと言っても良かった。

 私の胸が、急にドクドクと波打ちだした。

「ないと、困ると思ったから」

「うん、助かったよ。本当に有難う」

「じゃあ、私はこれで」

「あ、待って」

 彼は、一度俯いて、息を吐くと言った。

「この前は、ごめんなさい。だけど、本気だから」

 私は、深夜と重なった彼を見つめながら、呆然としている。

「この気持ちは、本物だし。本当に、楓さんの事を愛してる」

 去り際に、そっと言った。

「僕の事、避けないでね」


 楓は、じっと深夜の写真を眺めていた。二人で、満面の笑みを浮かべている写真。

 あの時、自分がもっと早く買い物から帰ってきていたら……。

 深夜は助かっていたかもしれない。

 一人で、寂しくて苦しかっただろう。

 どうしようもない、後悔の塊。

 耐えられなくなって、思わず目を閉じる。苦しい……息が出来ない。

 グラっと、天井が回転するような目眩に襲われた。

 そのまま、膝から床に倒れ込んだ。

「ハァ、ハァ……」

 意識が、だんだん遠くなってゆく中、携帯が鳴っているように思えた。

 だんだんと、目の前が暗くなって、携帯の音など気にしなくなっていった。

 深夜……このまま、私を連れていって。

 深夜となら、どこでもいいよ。

 早く、私の前に現われてよ……。


 澤井は、ベッドに寝ている楓を、椅子に座って見つめている。

 携帯に出ない楓に、何かあったのではないかと思った。

 聞いていた住所のマンションへ行き、管理人にドアを開けさせた。

 中には、倒れている楓がいた。

 すぐに、救急車を呼んで、この病院へ運び込まれた。

 医師からの診断は、過労と栄養失調だった。精神的なものも、あるかもしれないとも言われた。

「う、う・・ん」

 楓が、夢にうなされていないか、心配だった。

「楓さん」

 澤井は、優しく、彼女の頭に触れた。

 一瞬、このまま抱きしめてしまいたい衝動に駆られた。

 楓には、ゆっくり休む時間が必要だ。澤井は、そう思った。

 シーツを、優しく掛け直した。

 澤井は、眠る楓の傍で、考え事を始めていた。


 目を開けると、そこは見知らぬ風景だった。

「ここは……どこ?」

「病院だよ。もう、安心して」

「深夜は、どこ? 深夜は? 私の事、迎えに来てくれたのに」

「……彼は、もういない」

「嘘よ! 早く会いたいの!」

 発作のように、ベッドから飛び出そうとする楓を、澤井がしっかりと抱きしめた。

「楓さん、しっかりするんだ」

 ベッドに、押さえつけられて、私は抵抗する。

「い、嫌……!」

 私は、また目眩がして、暗い闇の底に落ちていった。


 暗闇の中に、ポツリと灯りが灯る。

 そこにいたのは、深夜だった。

(やっと会えた。深夜だ)

 深夜に駆け寄って、彼に抱きついた。

「深夜……」

 深夜は、黙っていた。何も言わない。ただ、私を見つめているだけ。

「深夜……何か言って」

 深夜は、大きな瞳で私を見つめながら、私の髪を撫でている。

 そして、いつものように優しく、私にキスしてくれた。

 言葉はないけど、とても愛おしそうに、キスを繰り返す。

 やがて、深夜は歩き出した。

 私の足は、地面にはり付いたように動かない。

「待って! 行かないで!」

 深夜の姿が、だんだんぼやけて消えてしまった。


「深夜……!」

 私は、現実に戻った。深夜のいない現実。

 澤井さんが、椅子に座ったまま、うたた寝をしていた。

 栗色の髪の毛が、額に掛って、顔に影を落としている。

 私の為に……?

 私が起きたのに、気が付いた澤井さんが、心配そうに聞いた。

「大丈夫? 少し、落ち着いたかな」

「私……」

「過労と栄養失調だって」

「そ……そうなんだ」

「ちゃんと食べないとダメでしよう」

 澤井さんは、ある提案をしてきた。

「私が、日本にいる間。私の家で生活する事」

「え……なんで」

「一人だとご飯食べないから」

「嫌です……」

「このままにしておけないよ。また倒れたらどうするんだい」

「私、一人でも平気です」

「いいから、私の言う事を聞いて。悪いようにはしないから」

 澤井さんは、そう言うと、私の手を握りしめた。

「放っておけない。こんなに元気のない貴女は見たくない」

 澤井さんは、泣いていた。

 澤井さんの泣くところなんて、見た事もないし、想像した事もなかった。

「分かりました……」

 私は、小さく頷いた。

 退院の手続きは、澤井さんがしてくれて、私は退院した。

 会社には、事情を説明して、しばらく休暇を出す事にした。

 牧野君には、しばらく休養すると伝えた。

 澤井さんが、私の荷物を持ってくれている。


 私には、両親がいない。

 高校生の時に、交通事故で二人とも亡くした。

 父と母は、天国で幸せにしているだろうか。本当なら、私も行くはずだった旅行。

 一人は、慣れているはずだった。

「これは、ここに置くね」

 澤井さんの声で、我に返る。

 退院して、そのまま、澤井さんの家に来たので、着替えを取りに行かないと。

「さて、今日の夕飯は、何を作ろうかな」

「料理なら、私がします」

「元気になったら、して貰いますよ」

 澤井さんは、自分で洗濯物を取り込んでいる。

「私、着替えを取りに戻っていいですか?」

「うん、構わないけど。後で、車で送って行くよ」

「自分で行けます。大丈夫です」

「本当に?」

「はい」

「何かあったら、電話して」


 澤井さんって、メールとかしないんだろうか。

 そう言えば、いつも電話だったような。

 私は、自分のマンションにたどり着くと、ホッと息を吐いた。

 良かったのだろうか。澤井さんに寄りかかるみたいで。

 さぞかし迷惑だろうな。多分、同情して可哀相に思っているだけなんだ。

「楓さん?」

 入り口で、私の名を呼ぶ、声がした。

「牧野君、どうしたの?」

「体調を壊して、しばらく休養で、実家に戻るって聞いて」

(澤井さんの所とは言えず。ない実家に戻る事にしておいた)

「あのね……着替えを取りに……」

 言い終わるか、終わらないうちに、牧野君が私を抱き寄せた。

「蓮司って、呼んでよ」

「また、どこに行ってたの?」

「入院していたの……しばらく」

「どうして、僕に連絡ないの?」

「連絡なら……」

「あいつの所にいたの? あの澤井って、画家の男のとこに」

 蓮司は、密かに調べていた。電話番号をメモで教えてきた男の事を。

 結構、有名な画家らしかった。

 そして、深夜の生前の友人であった事。

 それから……。

「どうして、澤井さんの事、知ってるの?」

 しまった! 一言多かったと思った。

「と、とにかく……あの男の所へは行かせない」

 その時、後ろから声が聞えた。

「随分、嫌われたものだね」

 影から、出てきたのは、澤井さんだった。

 栗色の髪が、風に揺れている。薄い唇が、うっすらと微笑みを浮かべている。

「彼女は、倒れたんだよ。安静にして、休養が必要なんだ」

「だからって、どうしてお前のところなんだよ」

「私の判断で、そうした方がいいと思っただけだよ」

「ここで、僕が面倒をみるよ」

「大学は? 勉強は? 美術の活動は? まるで夢みたいな事を言うんだね」

 澤井さんは、蓮司と私を引き離しながら

「学生さんには、無理な話だよ」

 と、ウィンクしてみせた。


 部屋で、荷物をまとめて外に出ると、私と澤井さんは車に乗った。

 静かに、澤井さんの車が走り出した。

「すまない……彼に、私の素性を知られたようだ」

 澤井さんは、私に謝ってきた。

「私こそ、すみません。彼が、澤井さんの事を調べたみたいで」

「まぁ、いずれ分かるだろうからね」

 澤井さんの車は、自宅に到着した。

「夕飯は、もう作ってあるから。ご飯にしよう」

 二人で、テーブルを囲んだ。

 澤井さんの料理は、和風でとても味付けが上手かった。

「こちらにも、ありますよ」

 他の料理も勧められてられて、そちらも頂く。

「凄く美味しいです」

 澤井さんは、満足げに微笑んだ。

「料理は、好きな方だから」

 顔を、ちょっと赤らめて言う。そんな顔もするんだ。

 何だか、私まで顔を赤らめそうだった。絶対に、澤井さんの方が、料理が上手だ。

「顔赤いけど、熱でもあるの? 大丈夫?」

 澤井さんの観察力は、凄まじい……。

「いいえ、私より料理が上手だな、と思って」

「そのうち、楓さんの料理も楽しみにしてるよ」

 彼は、本当に楽しみだと言わんばかりに、目を輝かせている。

 寝室は、二階の一番広い部屋を用意してくれた。

「澤井さんは?」

「安心して。私は、一階の部屋で寝るから。あと、襲ったりしないから心配しないで」

 そうして、私と澤井さんの、共同生活が始まった。


 澤井さんが、以前のように振る舞う事はなかった。

 私に、指一本、触れようとしなかった。

 年齢が、三歳しか離れていないので、兄のように感じる事もあった。

「私の年齢? 深夜から聞いているでしよう」

「深夜からは、五歳くらい離れていると」

「三十歳になったばかりだよ」

「お誕生日だったんですか。私、知らなくて……」

 何もあげていない。と思った。お世話になっているんだから、何かプレゼントしないと……。

「それより、楓さんが元気になってくれたみたいで、嬉しいよ」

 自分の事のように、喜んでいる。

「お世話になって……有難うございます」

「まだ、居て欲しいな。ご飯、一人で食べるの……つまらないし」

「え? でも……」

「いいから、いいから。紅茶、淹れようね」

 澤井さんは、そう言うと、手慣れた感じで、紅茶を淹れ始めた。

 甘えていて、いいんだろうか。ダメじゃないかな。

 澤井さん、しばらくだけ日本にいるみたいだし、私は邪魔しているんじゃ……。

「日本には、半年くらい、居ることにしたよ」

 私の気持ちを読み取ったかのように、彼がそう言った。

「深夜の四十九日も出たいし……」

「はい……」

 私は、澤井さんの淹れてくれた紅茶を、眺めていた。


 私は、一人で街に出掛けた。

 澤井さんの誕生日プレゼントを、どうしても渡したくて。

「澤井さんって、どんな物がいいんだろう?」

 色々と見て回っていると、大学生の集団にぶつかった。

「すみません」

 私は、謝った。

「ちょっと、待って」

 私の腕を掴み、驚いている。

「僕だよ、蓮司だよ」

 見上げると、そこには蓮司が立っていた。

「元気そうだね、あの澤井って男と、上手くやってるの?」

「澤井さんのおかげで、元気になれたわ」

 蓮司は、ちょっと不機嫌そうになった。

「楓さんが、元気なら何よりだけど」

 子供のように、拗ねた感じで言い放つ。

「いつ、マンションに戻ってくるの?」

「まだ、あと少しは……」

「戻ってくる時は、必ず連絡下さい」

 蓮司は、そのまま仲間の大学生達の輪に入って行った。


 私は、小さな箱を見て、微笑んだ。

 澤井さんに買った、誕生日プレゼント……気に入って貰えるといいけど。

 澤井さんは、仕事で今日は遅い。て、言っていたような。

「そうだ! 少し掃除しよう」

 掃除を始めたが、綺麗に掃除されていた。

 澤井さんの性格なんだろうな……と思った。

 一応、自分もしておこうと思って、棚の部分に何かが挟まっているのを見つけた。

「何だろう?」

 写真だった。表に返すと、深夜と澤井さんと私が写っている。

 これ、前に撮ったの……覚えてる。

 私の手が、震えだした。泣き出してしまった。

 この頃は、三人とも仲が良くて、元気だった。

 深夜を好きなのに、澤井さんにも揺れていた自分がいた。

 澤井さんは、一緒に海外へ来ないか、と私を誘った。

 私は、深夜を選んだ。

 そして、深夜は亡くなった。

 まるで、私……疫病神みたいじゃない。

 自分で自分が分からなくなった。私は、一体何者?

 深夜は、私のせいで死んだのかもしれない。

「あ……ああ」

 また、発作のようなものが起きて、私の呼吸が乱れ始めた。

 息が出来ない。どうしよう。このままだと……。

「何してるんだ!」

 叫ぶ声がして、私の呼吸が楽になった。

 澤井さんだった。私の手を必死に、首から外している。

「自分で首を絞めるなんて」

(え? 私、そんな事してたの?)

「やはり、貴女は一人にしておけない」

 彼は、そう言うと、私を抱き上げて、近くのソファーに寝かせた。

「医師からは、精神的なものもある、と言われている」

「深夜を失ったショックから、貴女は自傷行為をするようになったと思われる」

「もう一度、医師に診て貰った方がいいだろう」

 私の横に、ひざまずいて、私の首の周りを見ている。

「私……そんな……」

 知り合いに、心療内科の医師がいるから、そこに連れて行こう。澤井は、頭の中で、楓の今後の事を考えていた。

 楓は、発作が治まったらしく、大人しくしている。

「楓さんに、大事な話がある」

 澤井が、楓と向き合い、長い睫毛を伏せた。

「一緒に来て欲しいんだ」

「え?」

「貴女の傍に、私を置いてくれないかな?」

「そ、それって……」

「勿論、喪が明けて、貴女が本当に私の元へ来たいと思ってくれた時でいい」

 澤井さんは、溜息をつくと

「ダメかな? これ以上、貴女が傷つくのを見ていられない。私が傍にいて、少しでもその傷を癒やせたら……なんて、無理なんだろうか」

 澤井は、本心を明かした。

 どうしても、楓を放っておく事は出来ない。

 自分の傍に、いつでも手の届く所へ、置いておきたい。

 何か、あってもすぐに助けられるように。

 一度は、フラれた身だが、もう一度チャンスが欲しい。楓を、亡き深夜の代わりに守りたい。

 楓は、どう答えていいか分からず、俯いていた。

 澤井さんは、とても優しいし、私の事を大事に想ってくれているのは分かる。

 でも……。

「しばらく考えさせて貰っていいですか……」

「構わないよ。よく考えてみて」

 澤井さんは、私の頬にそっと触れた。その手は、とても優しくて温かい。

 私は、つかの間の安らぎを覚えた。このまま、澤井さんと過ごせたら、幸せになれるかもしれない。


 次の日、私は澤井さんの知り合いだという、心療内科の医師に診て貰った。

「旦那さんを亡くされたショックからだと思います」

 医師は、そう言うと、目の前のパソコンに、何やら打ち込んでいる。

「一時的なものだとは思いますが」

 指で、メガネを触る。

「お薬を、処方しますので、しばらく飲んでみて下さい」

 心配そうな私に、医師はこう言った。

「大丈夫。しばらくしたら、治まりますよ」

 私は、優しい先生の笑顔に、目を伏せながら頷いた。

 付き添いに来てくれた澤井さんが、椅子から立ち上がった。

 そのまま、二人は澤井の自宅に戻った。


 私が、処方された薬を飲もうとしていると、玄関で何やら大きな声がした。

「だから、いつ戻ってくるの?」

「しばらくは、戻れない」

「私の事なんて、どうでもいいんでしょ!」

 一階に降りて、玄関へ行くと、澤井さんと女性が揉めていた。

「え? なに、その女!」

 女性は、私を睨み付けた。

「春平、どういう事? その女の為に、絵の勉強も放置にしてあるわけ?」

 こ、この人誰なんだろう。

「あんたに、ハッキリ言っておくわ。春平は、あたしの恋人なの」

 私は、頭を殴られたような感覚を覚えた。

 澤井さんに、恋人って、どういう事? この女性は、どうしてここにいるの?

 私の様子に、気が付いて澤井さんが彼女を制止した。

「訳は、後で話すから、今は帰ってくれ」

 澤井さんは、今にも家に入ろうとする女性に言った。

 女性は、黙って頷くと、どこかに去って行った。


「あ・・あの」

 私が、話そうとすると、澤井さんの方から話し出した。

「彼女は、河合百合という女性だ。海外へ行って、知り合った」

「こ、恋人なんですよね」

「百合から、声を掛けられて同じ日本人だったから、親しくなった」

 振り返って、腰に手を当てながら

「でもね……すぐに別れたんだ。彼女には、自覚がないみたいだけど」

「……そうなんですか」

 楓に告白して、フラれた挙げ句、離れてしまった寂しさから、声を掛けられて……百合とは少しだけ付き合ったのは、事実だった。

 だけど、上手くいかなかった。百合は、自分を探して追いかけてきたのだろう。

 隣で、不安そうにしている楓の頭を撫でた。

「大丈夫。心配はいらないから」

 楓は、そっと頷いた。


 とある、喫茶店に、澤井はいた。

 煙草に、火をつけて、じっと灰皿を眺めている。

 店内は、ジャズが流れていて、客もそんなにいない。

「春平……!」

 そこに、百合が現われた。この喫茶店で、待ち合わせをしていた。

 向かい側に、座りながら、カバンを置く。

「あの子、一体何なの?」

 注文もせずに、本題に入ってくる。何とも、百合らしい。

「ねぇ、聞いてるの?」

 詰め寄ってくる、百合。澤井は、煙草を吸いながら答えた。

「昔から、大事な人だ」

「なに、それ」

「百合とは、別れたはずだ」

「そうだけど……春平の事が心配で。それに絵はどうするのよ」

「しばらくは、戻れないと言ったはずだ。絵は、その後でも大丈夫だ」

「なんて、呑気なの!」

「こちらにも、事情があってね」

「あの子のせいだ。て、分かってるわよ」

「私が、自分で決めた事だ。彼女は、何も悪くないよ」

「ああ! そう!」

 百合は、ややヒステリー気味に叫んだ。

「せいぜい、オママゴトごっこ、してれば?」

「もう、家には来ないで欲しい」

「そんなの私の自由でしょ」

「バン!」

 澤井は、思い切り、手を机に叩きつけた。他の客達が、ジロジロと見ている。

「来ないで欲しいと、言っている」

「わ、分かったわよ……春平が、そこまで言うなら」

「彼女は、亡き友人の大事な人だ。私は、彼女を助けたいと思っている」

「それ以上は、聞かないでくれ」

 それだけ言うと、伝票を手に、店から出て行った。

 消された煙草から、少し煙が立ち上るのを、百合はじっと見つめていた。


 澤井は、苛立つ気持ちを抑えられない自分に、焦っていた。

 楓さんの事になると、自分はいつもの自分でいられなくなる。

 冷静沈着で、物事を深く考えるタイプだった。その反面、こうと決めたら継続する強さも持っている。頑固でもあった。

「そう言えば、楓さんが渡したい物があるとか……」

 自宅の前に、立ち止まって、まじまじと自分の家を見る。

 ―― 彼女と、ここでいつまでも一緒に住めたなら ――

 なんて、幸せなんだろう。でも、そんなのは夢に過ぎない。

 家のドアを、開けて言った。

「ただいま」

 奥から、楓が出てきて、にこにこ笑っている。

「体調は、どうだい?」

「処方して頂いた、お薬が効いてるみたいで、楽です」

「それは何より。決して、無理しないでね」

「はい。あ……今日は、もう出掛けないんですか?」

 澤井が、頷く。部屋に入ると、テーブルの上に、小さな箱が置いてあった。

「あの、これ遅くなりましたけど、誕生日プレゼントです」

 楓は、小さな箱を差し出した。

「あ……有難う」

 澤井は、びっくりしながらも、箱を受け取った。

「開けていいのかな?」

「どうぞ」

 箱の中には、シンプルだけど洒落たネクタイピンが、入っていた。

「ご、ごめんなさい。何がいいか、分からなくて……」

 楓は、頬を染めて、恥ずかしそうにしている。

「有難う。とても素敵だ。大事にするよ」

 言い終わらないうちに、楓を抱きしめていた。

「さ……澤井さん?」

「ごめん……嬉しくて、つい」

 楓の目の前には、同じく頬を赤らめた澤井がいた。

 栗色の髪が大きく揺れた。そっと、楓の唇をなぞってキスをした。

 時が止まったような気がした。楓は、そのまま澤井に身を預けた。

 二人は、お互いを確かめるかのように、繰り返し何度もキスをした


 深夜の四十九日は、行われ無事に終了した。

四十九日とは、故人を皆で「あの人は、いい人だった」「こんな事を一緒にした」など、生前の故人を偲ぶものである。

 私は、元気を取り戻し、お酒を振る舞うので、一生懸命だった。

 その中には、澤井さんもいた。

 私と目が合うと、軽く頭を下げた。

 牧野君も、来ていたが、澤井さんを見ると、いかにも嫌そうな顔をした。

「ちょっと、話があるんだけど」

 澤井が、退席しようとした時に、声を掛けてきたのが、牧野だった。

 二人は、人気のない廊下に、佇んでいる。

「話というのは、なにかな?」

 澤井から話し掛けた。

「あんた、本当に楓さんの事、好きなの」

「君から見ていて、どう見えるのかな?」

「聞いてるのは、僕だ。答えろよ」

 牧野は、あくまでも自分が上だと言わんばかりに、しつこく聞いてくる。

「好きですよ」

 澤井の瞳に、影のようなものが落ちたような気がする。

 牧野は、その雰囲気に、飲まれそうになった。

「正しく言うならば、死ぬほど好きですが」

「君に、そんな覚悟あるのかな?」

「ぼ……僕にだってある」

 牧野は、背の高い澤井に、対抗するように鋭い目をした。

「私には、そうは見えませんけどね」

「あんたに、何が分かるっていうんだ!」

「全て、ですよ。もう楓さんの邪魔をしないで下さいね」

「邪魔なんてしてない。ただ、大好きなだけだ」

 いきなり、澤井は牧野の胸ぐらを掴んだ。

「邪魔をするな、と言っている」

 牧野を離し、廊下をつかつかと歩き出した。


 澤井さん、家に帰って来てるかな? まだみたいだ。

 私が、家に戻ってカギを開けていると、声を掛けられた。

「ちょっと、そこの貴女」

「え?」

「楓さん……だったわよね」

「は、はい・・」

 この前、家に来た女性。河合百合さんだった。

「ちょっと、時間貰える?」

「はい……いいですが」

 彼女は、私をとある喫茶店に連れて行った。

 そこは、澤井とこの前、会った店だった。ジャズの音色が聞えている。

「何でも好きなもの、頼んで」

「あ、あの……ご用はなんでしようか」

 店員が、お冷やを運んでくる。

「紅茶、二つで」

 百合さんは、勝手に注文を決めている。

「紅茶で、良かったわよね。春平も好きだから」

 百合さんは、いきなり煙草に火をつけた。澤井さんと同じで、煙草吸うんだ。

「煙草には、珈琲なんだけどね」

 私が、俯いていると、百合さんが言った。

「可愛いわね。彼が、夢中になるのも分かるわ」

「い、いえ……そんな」

「彼と別れて欲しいの」

 百合さんは、凜とした声で言った。

「貴女がいると、彼の絵の才能がダメになってしまうのよ」

「言っている意味、分かる?」

 私は、首を振るのが、やっとだった。

「彼は、貴女の為に、日本に無理して戻って来てるの」

 更に続けて、こう言う。

「貴女が、本気じゃないなら、彼を自由にしてあげて」

「私は、そんなつもりは」

「貴女がそういう気じゃなくても、はっきりさせてあげないと」

 百合さんは、二本目の煙草に火をつけた。

「彼、可哀相でしょ。まるで、貴女の操り人形みたい」

(そ、そんなつもりは、どこにもない。澤井さんの事……)

 紅茶が、運ばれてきて、話は一時中断した。

 フーっと、百合さんが煙草の煙を吐く。

「彼を、解放してあげて。お願いだから」

 私は、涙が浮かんできた。そんな、知らないうちにそうだったんだろうか。

 澤井さんから、自由を奪っていたんだろうか。

 涙が、どんどん流れて、目の前が見えなくなった。


 家に戻る頃には、夕日も落ちて、辺りは暗くなっていた。

 家の前に、誰かが立っているが見えた。

 その影は、すぐに私の目の前に走り寄ってきた。

「ど、どうして……携帯にも出ないんだ」

 澤井さんだった。

「ごめんなさい……聞えなかったみたいで」

 私は、話に夢中になり、携帯の音を聞き漏らしていた。

「どこにいたんだい? 心配したよ」

「すみません。心配掛けてしまって」

 澤井さんは、心から安心したように、私の頭を撫でた。

「無事で、よかったよ」

「本当に、ごめんなさい」

 百合さんの事は、言えなかった。このまま、黙っていた方がいいだろう。

 一瞬、百合さんの言葉が頭を過ぎった。

 ―― 彼を、解放してあげて。お願いだから ――

 澤井さんは、私の手を引いて、家に入ろうとしている。

「今日の夕飯は、結構頑張ったんだ」

 満足そうに言うと共に、美味しそうな香りが室内に漂う。

「楓さんの好きなものだといいけど」

 いつも、私の事を大事にしてくれる。だけど、それは重荷なのでは?

 自然と、波がこぼれてきて仕方がなかった。

「楓さん……何かあったの?」

 澤井さんの瞳が、私の目の奥まで、覗き込んでくる。

「いいえ、何だか疲れたみたいで」

 それだけ言うのが、やっとだった。

「ご飯、食べたら休むといいよ」

 澤井さんは、手際よく、夕飯の準備をしてくれた。


 二階で、私が眠れないでいると、一階から登ってくる足音がした。

 ドアが、小さくノックされる。

 澤井さん……だよね。今まで、二階に上がってくる事なんて、一度もなかったのに。

「楓さん、起きてる?」

 ドアが、そっと開いた。

「起きてなくても、いいよ」

 澤井さんが、布団の横に座るのを感じた。

「今日は、一体何があったのかな?」

「これから、話す事は本心だよ」

 畳の擦れる音がしたかと思うと、布団の上から、澤井さんが抱きしめてきた。

「私は、もう一度チャンスが欲しいんだ……貴女に振り向いて欲しい」

「深夜の守ってきたものを、次は私が守りたい」

(いつもなら、深夜の事「先生」って呼ぶのに)

「私に、その役を貰えないだろうか」

「日本から、私はもう少しでいなくなる。一緒に来てくれないか?」

「必ず、幸せにしてみせる。だから……」

 私は、布団から起きた。

「澤井さん……」

 澤井さんは、私が寝ているのだと思っていたらしい。

 少々、驚いたような素振りを見せた。

「聞かれたよね」

 栗色の髪をかいている。

「私、澤井さんの重荷になっていませんか?」

「何を言うのかと思えば」

「澤井さんが、私の操り人形みたい……な事ないですよね」

 手を、ギュっと握られて、引き寄せられた。

「百合に、何か言われたとか?」

 澤井さんの瞳が、ギラリと光るのを見た。

 私は、静かに頷いた。

「百合が、何を言ったか知らないけど、私の心は決まっている」

 澤井さんが、更に強い力で、抱きしめてくる。

「貴女の傍に居たいし、居て欲しい!」

 私は、どうしていいか分からなくなった。

 いつも優しくしてくれる澤井さん。時には、ちょっと意地悪で。でも、やっぱり優しい。


 暗闇の中に、ポツリと灯りが灯る。

 深夜が、そこに一人立っている。

 こちらに、気が付いて笑みを浮かべる。

「深夜……また会えたね」

 深夜は、また黙ったままだった。

 何も言わず、いつもの優しい笑みをするだけ。

「どうしたの? どうして何も言ってくれないの?」

 深夜は、手を振っていた。

 どんどん、引き離される二人。

「待って! 深夜、私も連れていって。お願い!」

 深夜が見えなくなって、また闇だけが残った。


「……さん! か……楓さん!」

 私は、自分を呼ぶ声に、引き戻されるように目を開けた。

「楓さん、大丈夫?」

 澤井さんだった。心配そうに、顔を覗き込んでくる。

「わ……私」

「突然、倒れてしまって、びっくりしたよ」

 どれくらい時間が経ったのだろう。

「私、どれくらい……気を失っていましたか」

「五分くらいだよ。もう少しで、病院へ運ぼうと思っていたよ」

「ごめんなさい。また、迷惑を掛けてしまって」

 楓は、頭を下げた。

「夢みたいのを見るんです。深夜の夢なんですけど……」

 澤井さんは、隣で真剣に聞いている。

「いつも、私を置いて、どこかに消えてしまうんです」

 ダメだ。このままだと、澤井さんに迷惑掛けっぱなしだ。

 澤井さんの目を見て

「私……この家を出て、自宅に戻ろうと思うんです」


 次の日、私は澤井さんの家を出た。

 澤井さんは、反対した。昨夜のような事があったら、どうするのか聞いてきた。

「その状態で、一人になんかさせれない」

 澤井さんは、一晩中、私の手を握って傍にいてくれた。

 今、そのまま眠っている。布団を掛けてあげて、澤井さんにお礼と別れを告げた。


 そのまま、荷物をまとめて、玄関に出る。

 二階から、慌てて降りてくる足音。

「ど、どうしてだ、楓さん……」

「その身体で、生活していける訳がないだろう」

「私……澤井さんに、これ以上迷惑掛けたくなくて」

「迷惑なはずがないだろう!」

「私は、やっぱり、深夜じゃないとダメみたいなんです」

 その言葉を聞いた澤井さんは、息を飲んで目を閉じた。

「……」

 もう、言葉が出ないといった感じで、ずっと目を閉じている。

「どうも、有難うございました。お世話になりました」

 私は、一礼して、荷物を抱えると、呼んであったタクシーに乗り込もうした。

 澤井さんが、飛んできて

「まっ待って!」

「楓さん!」

 私は、タクシーは、走り出した。

 取り残された澤井は、呆然と遠くなってゆく、タクシーを見つめていた。


 しばらく見ていなかった自宅。

 少しだけだが、深夜の絵は残されていた。後は、深夜が亡くなったと聞くと、買いたがる人達が続出して、争うように深夜の絵を欲しがった。

 深夜の描いた絵を、眺める。

 私を描いてくれた絵だった。

「深夜……愛してる」

 私は、その絵にそっとキスした。

「ピンポーン」

 インターホンが鳴った。

「はい……」

「僕だよ。 蓮司だけど、戻ったんだね」

「ごめんなさい。今、手が離せなくて……」

「入れて欲しいんだけど」

「すみません。お断りします」

「な、なんで? また澤井って、男といるの?」

「澤井さんは、もういないわ」

「え? どういう事? 別れたの?」

 嬉しそうに、蓮司が聞いてきた。

「じゃあ、忙しいので」

 私は、そう言うと、インターホンを切った。

 インターホンが、また鳴ったが、無視し続けた。


 私と深夜だけの世界。この部屋が、私と深夜を結びつけるもの。

 ソファーで、横になった。

 いつの間にか、眠りに落ちた。

 暗闇の中に、ポツリと灯りが灯る

 深夜が、こちらに歩みよってくる。

「深夜!」

 私は、堪らず、彼に抱きついた。

 深夜は、私の事を抱きしめながら、静かに言った。

「俺の事は、もう忘れて……」

 私は、ショックを受けた。そんな言葉聞きたくない。

「な、なに言ってるの? 忘れるわけないよ!」

「いいから。じゃないと、楓は幸せになれないから」

「私は、深夜がいれば幸せだよ」

「俺じゃなくて……と」

 急に周りが、真っ暗になった。深夜の姿もなくなっていた。

 私、一人だけが残されて、一人きりだった。


 ハッとなって、周りを見渡す。

 ま……また夢だったの? 深夜が、あんな事言うなんて。

「ピンポーン」

 またインターホンが鳴った。

「ピンポーン」

「ピンポーン」

 何回も鳴らしてくる。

 私は、牧野君だと思って

「もう、いい加減にして!」

 と、怒鳴ってしまった。

「私、百合だけど」

 え? どうして、百合さんが、自宅を知っているの?

「春平が、大変な事になったのよ。すぐ、来て!」

「どうしたんですか?」

「いいから、一緒に来て!」

 百合さんは、事情は後から話すから、すぐに降りてくるように言った。

 私が、マンションの入り口まで来ると、私の手を引いた。

「な、なんなんですか?」

「春平が、交通事故に遭ったのよ」

「え?!」

「こんな所で、立ち話している場合じゃないの」

 強引に、百合さんに手を引かれて、停めてあったタクシーに乗り込む。

 タクシーの中で、百合さんは手短に話をしてくれた。

「貴女の自宅を探すのは、そう難しくはなかったわ」

「あの有名な画家だもの。画家仲間に聞けば、知っている人がいたし」

「あの、澤井さんは……」

「今のところは、命に別状はないけど、あまり良くないわ」

 百合さんが、焦っているのが分かった。

「貴女の、名前を呼んでいるの」

「え?」

「だから、貴女の名前を呼んでるのよ。春平が寝ながら……」

 百合さんは、泣き出しそうになった。必死に堪えている。

「運転中に、大型トラックにぶつかって……どうしよう」

 小刻みに、身体が震えている。泣いているのが分かった。

「百合さん……」

 私は、知らないうちに、百合さんの身体に手を伸ばしていた。

「彼に、会ってあげて。お願い」

 タクシーは、病院の前に着いた。

 病室に、百合さんと二人で向かう。

「ここよ」

 百合さんが教えてくれた病室に入る。

 澤井さんが、静かにベッドに横たわっていた。

「頭を打っていなかったのが、幸いだったわ」

 百合さんが、澤井さんのベッドに近寄って、何か囁いた。

 澤井さんが、重そうに瞼を上げて、静かに息を吐く。

「か……楓さん」

 私の名を呼んでいる。私は、ベッドに駆け寄った。

「澤井さん、ここです」

 虚ろな瞳で、病室の天井を見ている。

「まだ、事故のショックで、貴女を認識、出来ないみたい」

 百合さんは、そう言うと、どこかで煙草を吸ってくると、いなくなった。

「澤井さん……私、楓です。分かりますか?」

 手を握ろうとすると、両手とも包帯が巻かれていた。

 その晩、百合さんは戻ってこなかった。

 私は一晩、澤井さんを見守っていた。

 太陽の光が、朝だと知らせてくれる。

「……楓さん」

 つい、眠ってしまった。

「楓さ……ん」

 澤井さんの声だった。彼を、じっと見つめた。

 彼は、夢から覚めたように、虚ろな瞳で見つめてきた。

「澤井さん、大丈夫ですか?」

 大丈夫とは思えないが、言葉が見つからない。

「楓さん……私は……ここは?」

「ここは、病院です。澤井さんは、交通事故に遭われたんです」

 ハッとなったかと思うと、彼はベッドに身体をうずめた。

「確か、車を……運転していて」

 身体が痛いのか、呻き声が聞えた。

「誰か、呼びましようか」

 ベッドの呼び出しボタンを、押そうとした手を、彼が止めた。

「だ……大丈夫だから。もう……帰っていいから」

「……有難う」

 澤井さんは、そう言うと、また目を閉じて眠ってしまった。

 私は、澤井さんに散々、世話になったのに……何もしてあげられない。

 私は、ベッドから離れた。

 彼が、あんなに必死に、私の事を想ってくれていたのに。私は、それに応えられない。

 病院から出てくると、そこには百合さんがいた。

 病院の壁にもたれながら、私を見つめている。

「そうやって、春平から、まだ逃げるんだ」

「逃げるって……」

「私から言いたくないけど、春平は貴女の事、本気よ」

 私は、身を堅くしながら、百合さんの話を聞いていた。

「私が言うんだから、本当よ」

「私には、亡くなった旦那がいます」

「だから?」

 百合さんは、平然としている。

「死んだ人間より、生きている人間じゃないかしら」

「死んだ貴女の旦那さんが、貴女を幸せにしてくれるの?」

 彼女は、遠くを見るような仕草をした。

「私の前の彼氏も、死んだの」

「え?」

「しばらく辛かったわ。そんな時、春平と出会ったの。前の彼氏に似ていて……すぐに惹かれたわ」

 百合さんは、もたれていた壁から離れた。

「でも、代わりだったのかも。前の彼氏の事が忘れられなくて」

「だから、貴女には、しっかり選んで欲しいの」

 私の頭を撫でて、ハッキリとした声で言った。

「春平の事、後はお願い。私は、先に日本から発つわ」

 そのまま、彼女は歩いて行った。背中が泣いているように思えた。


 まだ澤井さんの家の鍵は、返していなかったので、私は彼の着替えを取りに行き、病院へ向かった。

 澤井さんの病室をドアをノックする。

 返事は、聞えない。

「澤井さん……入りますよ」

 声を掛けて、病室に入る。

 澤井さんは、一人で病室の天井を見つめていた。

「あの、着替え用意してきました」

 澤井さんは、まだ無言だった。

 シンっとした空気が流れる。

 私は、堪らなくなって、声を掛けた。

「汗、拭きましようか」

 無言だった澤井さんが、小さな声で言った。

「帰ってくれ」

「え?」

「もう、二度とこないで欲しい」

「な、何言ってるんですか」

 百合さんから、後は頼む。と言われている。

 それに、他に介抱する人はいないはず……。何より、お世話になった恩返しがしたい。

「お願いだから、帰って」

 澤井さんの、表情はよく見る事は出来なかった。

「いいから……大丈夫だから」

「そんな、放っておけません」

「私の事より、自分の心配をした方がいい」

 澤井さんは、顔だけ向こう側に向けてしまった。

 私は、着替えだけを置いて、病室を後にした。


 コツコツと、病院の廊下に、私の足音だけが響く。

 澤井さんの怪我は、命に別状はなかったけど、彼は両手に怪我を負ってしまった。

 事故の時に、車の窓ガラスの割れた破片が、多数残っていて、手術も二回はしないといけないとの事だった。あと、全身を打ちつけているので、安静が必要だった。

「あんな大きな事故で、命があっただけ、良かったわ」

 百合さんが、そう言っていた。


 私は、澤井さんの家で、片付けをしていた。

 澤井さんの家に、着替えを取りに行った時に、驚いた。部屋がめちゃめちゃに荒れていた。

 几帳面な彼が、ここまで部屋を汚すのかと思うくらい、凄まじい事になっていた。

 私は、一生懸命に掃除を始めた。

 放置されたままの空き缶。煙草の吸い殻。ばらまかれた洗濯物……一つ、一つこなしてゆく。澤井さんの精神状態が、この部屋と同じだったとすると?

 交通事故の原因は、もしかして……私?!

 私が、澤井さんの制止を振り切って、家を飛び出したから?

 私の心に、後悔の念が芽生えた。

「あの時、澤井さんの言うことを聞いていれば、こんな事にならなかったかもしれないのに」

 画家にとって、大事な手を怪我してしまうなんて。

 私は、深夜の事を思い出した。

 深夜と私は事故に遭って、彼は左腕を失ってしまった。

 その事故が、私と深夜を結びつけた。二人は、お互いに惹かれるようになった。

 今、澤井さんは深夜と同じ状況になっている?

「私って、本当に疫病神だ……」

 私は、自分で自分を呪った。

 こんな連鎖は必要ないのに。ただ、普通に過ごしたいだけなのに。

 涙が、溢れて、私の頬を伝った。


 澤井さんは、相変わらず、私を避けていた。

 病院へ行っても、何も言わない日々が続いた。

「今日は、お庭の花が咲いていましたよ」

 私は、洗濯物を集めながら、話し掛けた。

 澤井さんの家の庭の花達が、一斉に咲き誇り出していた。

「……」

 何も言わない、澤井さん。

「何か食べたいものがあったら、言って下さい。買ってきますから」

 澤井さんが、何か言ったように聞えた。

「……どうして、来るんだ」

 肩を振るわせている。

「澤井さん?」

「私の家を、飛び出して行ったのに」

「私……澤井さんに恩返しがしたくて」

「恩返し?」

「お世話になったので」

「そんなものいらない!」

 澤井さんは、大声で叫んだ。こんな澤井さん、見た事がない。

「同情なんて、いらないよ……」

 泣いているような声で言う。

「もう、絵が描けないかもしれない」

 その言葉に、私に衝撃が走った。

 どうしよう。そんな、もう絵が描けないなんて、そんな!

「病院の先生は、手術したらよくなるって……」

「神経を傷つけている」

「それも、リハビリで、少しずつだけど治るって」

「もう……おしまいだ」

 澤井さんは、それっきり話さなくなった。

「明日も、来ます」

 私は、そう言い残して、病室から出た。

 私は、また人を傷つけてしまったんだ。

 何とも言えない、罪悪感と後悔が沸き上がってきた。

 どうしてあげれば、澤井さんにとって一番いいのだろう。

 ―― 私が消えればいい ――

 でも、それは、あまりにも無責任に感じられた。

 私は、百合さんから澤井さんの事を頼まれている。

 ダメ! 逃げちゃダメなんだ。しっかりしないと。

 私の足は、いつの間にか、走り出していた。


「ハァ、ハァ……」

 いつの間にか、自分のマンションの前に来ていた。

「楓さん」

 聞き覚えのある声だった。

「牧野君……」

 振り返ると、彼がこちらの歩み寄ってくるところだった。

「戻ってきたんだね」

 嬉しそうに、微笑んでいる。

「澤井さんが、大変な事になって」

「あいつ、どうなったの?」

 澤井さんの話をすると、牧野君は

「大変だね……でも、怪我は治るんでしょ」

 頭をポリポリとかいている。

「た……多分」

「画家が、手に怪我をしたら、命取りだよね」

 彼は、はっきりと言った。

 私は、黙って聞いていた。

 ―― 画家にとって、命取り ――

 私は、そのままマンションに入ろうとした。

「待ってよ!」

 牧野君が、私を抱きしめてきた。

「俺、大学を卒業したら、楓さんと一緒になりたいんだ」

 私は、ただ呆然と立ちすくんでいた。

「だから、それまで待っていて欲しい」

 彼の手に力が入る。

「僕、本気だよ」

「楓さんさえ、良ければ、結婚したいって思ってる」

 私は、彼の手からすり抜けた。

「私は、誰とも結婚なんてしないよ」

 彼は、悔しそうに唇を噛んだ。

「大丈夫だよ。僕なら、事故や交通事故に遭ったりなんかしない」

「ましてや、心筋梗塞にもなったりしない」

「パン!」

 私は、無意識のうちに、牧野君の頬を叩いていた。

 頬を叩かれた彼は、手で頬を撫でている。

「強がるのは、やめたほうがいいよ」

 そう言うと、私の手を掴んだ。

 手首に、ギリっと傷みが走った。

「本当は、寂しいんだよね? なんで素直にならないの?」

 私を離そうとしない。

「やめなさい!」

 女性の声が聞えた。

「その手を離すのよ」

 そこにいたのは、日本を発ったはずの百合さんだった。

 牧野君の手を、逆に掴み違う方向へ曲げた。

「い、痛い!」

 牧野君が、悲鳴をあげた。

「女の子に、手荒な真似はいけないわ」

 百合さんが、手を離すと、牧野君は逃げ去って行った。


「ゆ、百合さん……戻ってきてくれたんですか?」

「うーん。正確に言うと、忘れ物」

 彼女は、そう言うと丸い大きな目で微笑んだ。

 健康的な肌。髪は茶色でショート。丸くて大きな瞳が魅力的だった。

「春平に言い忘れた事があって……」

 わざわざ、戻って来たというのだ。

「貴女にも、一緒に聞いて欲しいのよ」

「だから、迎えに来たら……何、あの子」

 牧野君の事を言っているのが、すぐに分かった。

「一緒に、来て貰えないかしら」

 百合さんは、私に手を差し伸べた。


 澤井さんのいつもの病室だった。いつもと変わらないはずの病室。

「……と、言う訳だから、怪我が治るまで日本にいて構わないわ」

 澤井さんは、黙って聞いていた。

「もう、いらないという意味かな?」

 重い口を開く。

「違うわよ。私が事情を説明して、日本の滞在を延ばして貰っただけ。春平は必要な人よ」

「申し訳ない……」

 澤井さんは、頭を下げた。

「しっかり、養生しなさいよ」

「私達は、同じ夢を見る「仲間」なんだから」

 百合さんは、そう言うと話は済んだというように、澤井さんから離れた。

「春平、欲しい物って、目の前にあるうちに手に入れないとダメよ」

 澤井さんの目が、驚いたように見開かれた。

「なくなってから、欲しくなっても手遅れ……」

「じゃあ、私はこれで」

 百合さんは、病室から出た。

 私は、百合さんの後を追って、廊下に出た。

「あ、あの……澤井さんの事、有難うございました」

 急に、こちらを向いて

「貴女も、しっかりしなさい。春平の本当の気持ちを思いだして」

 百合さんは、私に握手を求めてきた。

「もう、会う事もないかもしれないから」

 その後

「あっ! 貴女が春平と一緒に来れば、また会えるわね」

 面白そうに笑っている。

 そうやって、風のように彼女は去っていった。


「澤井さんの様子が変わる事はなかった。

 今日も、ただ黙ってベッドに横になっている。

「澤井さん、林檎むけました。食べさせましようか?」

「……そこに、置いておいてくれ」

「百合さんって、いい人ですね」

「百合は……いい奴だよ」

「私、何も出来ていないけれど、もっと頑張りますから」

 澤井さんは、黙り込んでしまった。

 澤井さんは、私に対して怒っているのだろう。

 怒られても、仕方のない事をしたと思っている。澤井さんの好意を利用したみたいな私。

 澤井さんの気持ちを、踏みにじった。

 こんなに、腹立たしい事はないだろう。

 その時、持っていた果物ナイフで、手を切ってしまった。

「い、痛……」

「どうしたの?」

「何でもないんです」

 ガバっと、いきなり澤井さんが起き上がった。

「血が出ているじゃないか!」

 その後、顔をしかめた。動けない身体を無理に起こして、傷みで顔が歪んでいる。

 それでも、私の手の出血を止めようとしている。

「大丈夫ですから。澤井さんは、寝ていて下さい」

 彼の身体を、なるべく楽な体勢に寝かせた。

「楓さんも、私に良くしてくれているよ」

 そんな言葉が聞けるなんて思わなかった。

「……有難う」

 澤井さんは、背を向けながら言った。

「やっぱり、楓さんの顔を見られると、嬉しいよ」


 澤井さんは、退院する事になった。

 手のリハビリは、通院で行う事になり、どれくらいまで回復するかは、まだ未知数だった。

「久々の我が家だな……」

 澤井さんは、そう言いながら、自宅のドアを開けた。

 手には、まだ包帯が巻かれている。

「掃除してくれたんだ」

 澤井さんは、部屋を見渡しながら、呟くように言った。

 私は、彼が入院中、毎日掃除に来ていた。彼の着替えと洗濯をしながら、つい掃除を毎回してしまう。

 澤井さんの好きな紅茶を淹れた。

 澤井さんは、嬉しそうに、紅茶を飲んでいる。

「……美味しい」

 一言いうと、カップを机に置こうとしたが、手が上手く動かず、そのまま体勢を崩した。

「あ、危ない!」

 私は、澤井さんを庇うように、一緒に床に倒れ込んだ。

「ご、ごめん! 大丈夫だった?」

 澤井さんが、寝転がりながら、声を掛けてきた。

 すぐ目の前に、澤井さんの整った顔があった。栗色の髪が乱れている。

「大丈夫です」

 と起き上がろうとする私を、澤井さんが止めた。

「しばらく、このままでもいいかな……」

「い……いいですよ」

 私は、彼と床に転がったまま、見つけ合っていた。

「怒ってる?」

「え?」

 私は、何の事だろう。不思議に思った。

「子供みたいに……楓さんに対してとった言動」

「私は、そうされても仕方ないですから」

 澤井さんの言動は、普通だと思っている。

 ショックも大きかったし、私に怒りさえ覚えただろうから。

「正直……ショックだったよ」

 私の前髪を、包帯が巻かれた手で、整えている。

「生きていけない。とも思った」

「だけど、思い出したんだ」

 澤井さんは、起き上がって、その場に座り込んだ。

「貴女がいる……て」

 澤井さんは、包帯の巻かれた手を差し伸べた。

「一緒に生きて欲しい」

 彼の目に、もう一度、生気が宿った。

「すぐとは言わない。でも、私の傍で微笑んでいて欲しい」

 私は、その手を取った。

 私は、澤井さんの事が好きなのだと、その時はっきり分かった。

「愛してる、楓さん」

 澤井さんは、私の頬を優しく撫でながら、キスをした。

 お互いに、夢中でキスをした。


 澤井さんの怪我は、順調に回復して、ほぼ元通りになろうとしていた。

 私は、会社を辞めて、マンションも引き払った。

 澤井さんの家で、お手伝いさんのような事をしている。

 澤井さんは、とても喜び

「助かるよ。助手が必要だったから」

 澤井さんは、キャンバスの前で、絵の具を選んでいる。

 彼は、もう包帯の取れた手で、筆を持った。

 私が、横から声を掛けた。

「見てもいいですか?」

「いいよ」

 彼は、ちょっと恥ずかしそうだった。

 その絵は、私を描いたものだった。

「これは……」

「勝手に、モデルにして……ごめんね」

「どうしても描きたくって」

「いいえ、嬉しいです。澤井さん」

 澤井さんが、いきなり私を抱き寄せた。

「もう……『澤井さん』は卒業かな」

「春平で、いいよ」

「し……春平」

「それでいいよ」

 私を抱き寄せたその手で、私の髪を優しく撫でた。

 私は、澤井さんと、もう一度生きてみたいと思った。

 もう一度、人生を絵に描くように。自分の人生を描いてみたい。

 彼となら、それが出来るように思えた。

「私と、一緒に来て欲しい」

 彼は、心を込めて言う。

「一生、大事にするよ」

 私は、頷いて、恥ずかしそうに、でもハッキリと言った。

「宜しくお願いします」

「こちらこそ」

 いつもの春平の眩しいくらい、優しい笑顔。

 庭の花々が、私達を祝福するかのように、風に揺れた。

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