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前編

 いつもと変わらぬ風景。いつもと変わらない通勤風景。私は、何だか鬱陶しい月曜日をまた迎えて、思わず額に手を当てた。

「あ……しかも、今日は朝礼の当番だ。嫌だな。」

 頭をボーとしながらいると、電車が駅のホームに入ってきた。

「乗らないと」

 毎朝だが、酷い人混みだ。通勤ラッシュは凄まじい。


 その時だった。

「ドン!」

 いきなり、後ろから誰かに押されて倒れ込んだ。

「キャー!」「わー!」

 色んな声が聞こえる。

(え? 私の事?もしかして、私どうしたって言うのだろう)

 同時に、私は凄い力で突き飛ばされた。

(誰か! 誰か助けて。お願い)

 自分がどうなっているかも分からず、ただ懇願しつつ目の前は真っ暗だった。

「おい!救急車呼べ!」

「早くしろ!」

「死んでるんじゃない……」

 私は、その時初めて目を開ける事が出来た。私の隣に、倒れ込んでいる男性がいた。辺りは、血まみれになっていて、アスファルトがまるで吸い込んでいるかのようだ。

 これ……私の血ではない。

 この横に倒れ込んでいる男性の血だった。

(どういう事? 全然分からない。どうなってるの?)


「この人、貴女を庇ったみたいよ」

 どこからか、そんな声が聞こえてきた。

「私を……庇った?」

「だから、線路に落ちるところを、助けられた。て事」

 振り返ると、深い栗色の髪色をした男性が屈むように、こちらを見つけていた。

「これ、貴女の責任じゃない?」

「私……わ、わたし……」

「貴女の為に、あの人犠牲になったんだから」

「ど、どうしよう! とんでもない事になって」

(自分の頭をギュっと掴んで、髪の毛を乱暴に掴む)


「先生が、こんな事になって一体どうしてくれるんだ!」

 栗色の髪の男性が、怒りをあらわにして怒鳴りつけてきた。

「先生?」

 私は、その時どんな顔をしていたんだろう。事故のショックで、まだ頭と心臓が大きく脈打って、どうにもならない。

「私は、こういう者だ」

 一枚の名刺を差し出された。読もうとするが、頭に入ってこない。

「芸術関係の者だとでも言っておこうか。」

「芸術?」

「先生は、画家だ」

 それ以上、話すなと言わんばかりに手を振って言葉を止められた。

「とにかく、すぐに病院へ。私も行かないといけない」

「でも、分かってるよね。貴女の罪の重さ」

「……申し訳ありません」

 私には、その一言を言うのも精一杯だった。

(私、人の人生を狂わせたんだ。朝からボーとしていて不注意で……)

「後から、ここに連絡してくる事。必ずだ。分かったよね」

 そう言うと、栗色の髪の男性は急いで姿を消した。勿論、私の住所や名前も聞かれたし、何度も連絡するように言われた。

 澤井 春平

 名刺に書かれている名前を、まじまじと見た。

「澤井さんって、言うんだ……」

 一瞬、冷たい風が、私の身体を突き刺すように吹いた気がした。

 もうすぐ春なのに、まるで私の心は吹雪のように凍えそうだった。


 しばらくしても、私の事故のショックは静まる事はなかった。

 いつも、あの場所あの光景……あの音……あの匂い……辛い。

 ただ、澤井さんと連絡を取る勇気がなくて、どうしていいか分からなかった。

 そうこうしているうちに、数ヶ月が経ってしまった。

「ああ……どうしよう」

 突然、私の携帯が鳴った。

 この番号……もしかして。

「澤井だ」

 電話に出ると、いきなりそう言われた。

「どうして、連絡してこない。どういうつもりだ」

「ご、ごめんさい。どうしていいか分からなくて」

「お前、頭悪いだろう」

「……え。あ、そうかもしれないです」

「あれだけ、連絡してこいと言ったはずだ」

「……はい」

「先生の怪我が少し安定したから、病院へ来い」

「行ってもいいんでしようか。私が」

「いいから、来るんだぞ」

 そう言って、電話は一方的に切られてた。

(お詫びしなくては……現実なんだから、しっかりしないと)

 自分に言い聞かせて、携帯を握りにしめた。



 病院のある病室の前に立っている。

「506号室……藤谷 深夜 様」

 この名前聞いた事あるような、ないような……。

 個室みたいなので、ノックをしてみた。

「どうぞ」

 ドアを開けて入ると、そこには一人の男性がいた。背を向けていて、顔が見えない。

 え?!

 私は、その場に倒れそうになった。

 彼の左腕がない。失われていた。

 男性は、ゆっくり振り返って涼やかに笑いながら言った。

「澤井の知り合い?」


 そう言いながらも、ベッドの上に座っている。

「知り合いと言うか……私……その」

 失われた腕を見て、私は死にたくなった。

(あの時、私を庇ってだなんて。私一人が死んでいれば良かったのに)

「あ、良かったら、そこの椅子に掛けて」

「俺、こんなんだから何も構ってやれないけど」

 目をぐっとつむった後に、息を吐き出した。

「わ、私が貴方に助けて頂いた、新村楓と申します」

 続けて、言葉が溢れ出す。

「私の為に、こんな事になってどうしていいか」

「申し訳ありません。すみません……本当にすみません」

 気が付くと、私は泣いていた。

 涙が次から次へと出てくる。もう止まらない。

「いいよ」

 ベッドの上から声がして、笑っている感じがした。

「いいよ。て言ったら嘘になるけど」

「片方なければ、もう片方あるし」

「何とかなるでしょ」

 黒色の髪を、少し開いた窓から入る風が揺らしている。

 綺麗な人。

 色白で黒い髪が更に色の白さを強調しているようだ。大きな澄んだ瞳は、ちょっと憂いを帯びたようにどこか寂しげ。唇は、ほんのり赤みがあって、女性的な印象に思える。

「悪いけど、そこのノート取って貰える?」

「は、はい」

 泣いていられないと思って、必死に涙を拭う。

「あとさ、もう一つ」

 真っ直ぐに、私を見てこう言った。

「俺、どうやって慰めればいいか分からない」

「ごめんね」

 ノートを受け取りながら、ウィンクしてきた彼。

(画家で才能もあって、それでいてとてもチャーミングな人)

 彼は、本当は凄く辛いはずなのに……優しい人だな。だからこそ、私を庇ってくれて助けてくれたのかな。

 当時の詳しい事は、聞いてもいいだろうか。

「あの、藤谷さん……」

「おっ深夜でいいよ」

「深夜さん……で」

「ううん、オッケー」

 あの事故の事は警察からも聞いているけど、自分から聞かないと。

「どうして、私を庇ってくれたんです?」

 深夜の視線が、急に下に落ちたかと思うと、その瞳は暗い影を落とした。


「俺、突き飛ばされた」

 唐突に、理解出来ない言葉が降ってきた。

「俺もあんたと同じで突き飛ばされたんだよ」

「だから、あんたも俺に悪いなんて思わないでいい」

「警察は、そんな事は一言も……」

 どういう事なのか?全くわからない。

 私は、あの混雑の中、突き飛ばされ倒れ込んだ。

 深夜さんは、その私を庇ってくれたのではないの?

「警察には言ってない」

「どうしてです? 誰かに突き飛ばされたんですよね?」

「確証がないから」

「確証?」

「あんたも誰が押したまで知らないだろ。俺も同じだから」

(でも、確かに誰かに押されて倒れ込んだんだ。誰かに……)

 無意識に、ノートを開いたり閉じたりしている自分に気が付く。

「あー、そういう訳だから。この事は誰にも言わないでね」

「深夜さんが、そう望むのでしたら」

「やっぱり、深夜でいいや」

「はぁ……」

 二人で、他愛もない事を話している。深夜さんは、やっぱり有名な画家みたいだ。私は、その世界には疎いので、何となくしか知らなかったみたい。


「先生、今日はとても調子がいいみたいですね」

 そう言って、病室に入って来たのは、澤井だった。

「二人とも話は済んだのかな?」

「澤井、有難う。今日も来てくれて」

 澤井は、ゆっくり頷くと、私に目線で部屋から出るように伝えてきた。

「じゃあ、ちょっと席外します」

「えー、つまんない」

と、深夜が子供のように拗ねる。

 病室から出ると、澤井の様子が変貌した。

「見たでしよう」

「は、はい……」

「片腕を無くした彼を見て、どう思いました」

「申し訳ない気持ちで一杯です……。彼は気にしないでと言うけど」

「彼の利き手は、左手です」

「左利き……て、そんな!」

 思い出して、愕然とした。

 彼の失った腕は、左腕だった。

「画家にとって、これ程辛いものはない」

「絵が描けないかもしれない。彼の才能を貴女は奪ったんだ」

 静かだけど、針のような鋭い口調で、澤井は言い放った。

「彼の事は、私が一生面倒をみる」

 澤井は、自分にも言い聞かせるようにそう言った。

「……私にもお手伝いさせて下さい。少しでもお役に立てれば」

「それは、初めて会った時から、そうして貰うつもりだった」

「分かりました」

 私は、深々と頭を下げて動けなくなった。

(そんな、利き手を失っていたなんて。そんなの関係ない。どちらであろうと自分の身体の一部を失うなんて、耐えられない)

「明日も、また来ます」

 一言だけ何とか口にして、その場を離れた。暗いトンネルに迷い込んだみたいだ。先が見えない、長い長い暗いトンネル……。

 病院の外は、雨が降り出していた。すっかり暖かくなったこの季節だったが、雨が体温を奪うような感覚になる。深く息をついて、私は歩き出した。

 すっかり暗くなっていて、それぞれの建物の灯りが見える頃だった。


 私は病室で鮮やかな花を飾っていた。

「ねぇねぇ、これ見てくれない?」

深夜が楓に、キャンバスを片手で差し出した。楓は、嬉しそうに大事そうに受け取る。

 季節はどんどん過ぎて、二人は親密な関係になった。

「退院しても、もっと暇だし。もう少し入院してようかな」

 深夜は、そう言って無いはずの腕の袖を引っ張っている。

「楓も来てくれるし」

「関係なく、私ならどこでも行くよ」

 その時、いきなり深夜が、私の身体に触れた。

 片手で、引き寄せられると深夜の胸元に私はいた。

「力あるんだね。びっくりした」

「俺の事……嫌い?」

 私が深夜に、倒れ込む感じの体勢。深夜の顔が、上から近づいてきた。

「ダメかな。こういうのって……」

 寂しそうに、瞳の奥を見つめられた。

「ダメじゃないよ。私、嫌いなんて言ってないし」

 深夜の赤っぽい綺麗な唇が、私の唇に押し当てられた。何度も唇を支わして、深夜は小さな声だが、ハッキリと言った。

「楓……大好き」

「私も……」

 言うか言わないかで、またキスをされた。

 スカートに手を入れてこようとされたので

「ここ、病院だよ」

と、私が嗜めた。

「ご、ごめん」

 慌てて、深夜が私の身体を抱き起こした。

「じゃあ、退院しようかなー!」

 深夜は、照れながら嬉しそうに言った。

(深夜さん、元気になってきて良かった。色々辛かったと思うけど、弱音なんて吐いた

所は一度も見た事がなかった。凄く優しいし、一緒に居て楽しい)

「退院した後も、一緒に居ていいの?」

「あー、何言ってるの。決まってるじゃん」

「じゃないと、まるで俺……痴漢みたいだろ」

「そこまで言ってないよ……あはは」


 深夜は自宅で生活するようになった。

「わー、久しぶりだな」

「これ、懐かしすぎ」

 深夜は、マンションのとんでもない広いワンルームに住んでいた。

 自分の絵だろうか、色々と置いてあるが綺麗に片付けてある。

 深夜は、一つ一つ絵を見ながら、感想を述べている。

(可愛い深夜。もう夢中だね)

 私は、彼を観察しながら微笑んだ。

「お茶でも淹れようか?」

 私が、飽きる事なく絵を食い入るように見ている深夜に声を掛ける。

「うん、そうしよう」

 二人で、マグカップのお茶を飲む。

「あれ?」

「うん?何?」

「このマグカップ、お揃いじゃない?」

(今頃、気が付いた私……お揃いて、まさか)

「本当の事、言うね」

 深夜は、首をやや傾げながら、ちょっと恥ずかしそうにしている。

「実は、一年前に同棲してた彼女がいたんだ」

「そ……そうなんだ」

(普通にしてたつもりだったけど、何かが沸々と胸をたぎる)

「ごめん。気を悪くした?」

「そうじゃなくて、正直嫉妬したのかな」

「え?楓でも、そんな事あるんだ」

「失礼しちゃう。私だって、そういう心あるわ」

「違う、違う。楓は優しいし、気配りも出来るし、凄く素敵な人だから」

「そんな心ないと思ったの?」

「うん、そうだよ。て、言うか勿論」

 深夜は、片手でマグカップを上手に回している。

 病院でのリハビリも頑張ってたよね。

 今では、片手で何でも出来るようになっている。

(私は、少しでも彼の役に立っているだろうか)

「今は、もうその彼女とは関係ないよ」

 深夜は、きっぱりと言い、私を抱きしめた。

「もう別れたし、俺が今見てるのは、楓だけだから」

 更に、ギュっと腰の辺りを抱きしめられた。

「楓……しか見えない」

 深夜の影が私と重なった。

 触れ合う唇。舌を入れられて、私もそれに応える。

 限りなく、長い時間に感じられた。

 どうしよう……頭の芯が熱くなってとろけそう。

「ピンポーン」

 いきなり、部屋のインターホンが鳴った。二人とも、びっくりした。

「誰だろうね」

 深夜は、ちょっと怒ったようにインターホンに出た。ところが、深夜の低い声がボソボソと聞こえる。

「それは……もう終わった事だから」

「ダメだよ。そんな事出来ない」

「もう、俺はそんな気はないから」

(え? 何の話だろう。相手は一体誰だろう?)

 インターホンを切って、深夜がこちらに振り向いた。

「なんでもないから」

 そう言うと、また私を抱き寄せた。

(聞いてはいけないような気がして、私は黙って頷いた)

「そう言えば、澤井が今度一緒に食事しようって」

「澤井さん、そう言えばしばらく会ってないな……私」

「丁度、良かったね」

「うん、楽しみだよ」

 そう言いつつ、以前言われた事を思い出していた。



 澤井「それは、初めて会った時から、そうして貰うつもりだった」



 結局、私達はそれ以上の感情で結ばれて、一緒に過ごしている。澤井さんから、連絡してくる事はなかった。ましてや会ってもいない。私が、たまに電話して、彼の様子などを「報告」しているような感じだった。

(なんで、私こんな事してるんだろう。そこまでする必要性はないのに)

「じゃあ、私これで帰ろうかな」

「明日も会社だもんね」

 いつもなら引き留めるのに。どうしたんだろう。

 

 マンションから出ると、夜の風が吹いていた。妙に生ぬるくて、微かに雨の臭いがする。

「明日、雨かな……」

そんな事を考えていると、後ろから誰かの気配を感じた。

「あの……」

 女性の声だった。振り向いて、確認した。

 ロングの髪がとても似合う、痩せた感じの女性だった。

「今、このマンションから出てきましたよね」

 女性は、そう言うとカバンの中を探りだした。

(え?! この人誰なの? カバンから何を出すの?!)

 私が、ビクビクして怯えていると、彼女は手紙のような物を差し出した。

「これ、深夜に渡して欲しくて」

「深夜に?」

「私、一年前くらいに深夜と同棲していたんです」

(この人が、深夜の前の恋人……)

「私、大神明日香と言います。今、深夜と付き合ってますよね?」

「……はい」

「深夜ったら、全然私の話を聞いてくれないんです!」

「さっきのインターホンて、貴女ですか?」

「そうです。何とか手紙だけでも受け取って欲しくて」

(何が書いてある手紙だろう。私に頼むなんて)

「図々しいのは、分かっています。だけど、お願いします」

 大粒の涙を零しながら、大神さんは懇願してくる。

「お願いです!」

(仕方ないか……複雑な気持ちだけど。それに彼にはどう言って渡すの)

「タイミングをみて、ならいいですけど」

「有難う!」

 大神さんが、私に思いっ切り抱きついてきた。

「わっ……」

「あ、ごめんなさい。凄く嬉しくて」

 大神さんは、用事が済んだかのように、すぐに姿を消した。

「本当に有難う」

 そう言い残して。

 あの様子だと、彼は大神さんを受け入れないだろう。ざわつく気持ちと、どこかで安堵している自分がいて嫌だった。

 

 澤井さんと会ったのは、晴れた日の日曜日。オシャレなカフェとか、と思っていたけれど

 深夜が連れて行ってくれたのは、古ぼけた感じの喫茶店だった。

「ここ、昔から通ってんだ」

 深夜は、嬉しそうに微笑んでいる。

「先に入ってようか」

 そう言うと、彼は喫茶店のドアを開けた。

「いらっしゃい」

 マスターらしい髭を生やした年配の男性が言う。

「お久しぶり、マスター」

「深夜君、大変だったんだってね」

「もう元気だよ」

「ほー、その隣のお嬢さんのせいかな?」

「アタリー!」

 深夜は、恥ずかしがる事もなく、普通に受け答えしている。

「マスター、こちらは楓ちゃん。宜しく頼むね」

マスターと目が合って、私は会釈した。

 しばらくして、澤井さんがやって来た。

「先生、どうですか。お加減は」

 澤井は、目をしばたくようにしている。

「その、先生ってやめてよ。教室だけにして」

「先生は先生でしょう」

「いつも言ってるのに。やめてくれないんだ。ねぇ、楓」

 唐突に、名前を呼ばれて、この二人の関係って何なんだろう?

と訝しげにしていると

「澤井は、同業者なんだ」

「え?」

 同業者って……画家って事?

「後輩でもありますよ。貴方の絵を見て、私も絵を描きたいと思ったんですから」

「それは、嬉しく思ってる」

 深夜は、今度は照れているのに気が付く。

「年齢は、澤井の方が上で、俺は年下なんだけど……こんな感じ」

「先生の絵を見て、感動して、無理を言って教室にも入れて貰いました」

 澤井まで、嬉しそうに笑顔になっている。

(二人って、とても仲がいいんだ。師弟関係というより、アイドルとファンみたいな)

 二人で、楽しそうに会話をしている。

 私は、ふいに大神さんの事を思い出した。

 手紙は、鞄の中にある。

 今……渡すべきではないかな。何だか水を差すようで。

「楓、ここのナポリタンだけど、凄く美味しいよ」

「あ、そうなんだ。食べたいな」

「マスター、いつものお願いー」

 深夜が、慣れた様子でオーダーする。

(あの手紙、何て書いてあるんだろう……何だか怖い)

「飲み物は、楓は何にするの?」

(もしかして、またやり直したいとか)

「ねぇ、聞いてるー?」

ハッとなって、俯いていた顔を上げる。

「えーと……オススメでいいよ」

「了解」

 深夜は、テキパキと皆のオーダーをまとめている。

 こういう時って、澤井さんが仕切るのかと思ってた。

 澤井は、何やらケースを取り出すと

「煙草、吸ってもいいかな?」

 と私に聞いてきた。

「どうぞ」

 澤井は、慣れた手つきで煙草に火をつける。

(あの手紙の事。澤井さんに相談した方がいいのかも)

 そんな事を思っているうちに、熱々のナポリタンが運ばれてきた。

「凄く、美味しい」

「だろ?」

 深夜は、変わった持ち方をして、右手でフォークを持って食べようとしている。

(ごめんなさい)

 その姿を見て、罪悪感と悔やまれる気持ちが交差する。

「どうしたの? 食べないの?」

「美味しくて、……ゆっくり食べようと思って」

「うん、そんなに喜んでくれて嬉しい」

 深夜が、私の口元についていたケチャップを指で取って舐めた。

「ゴッゴホン」

 澤井が、隣で咳払いをしている。煙草は吸われてすっかりなくなっていた。ちょっと、怖いような恥ずかしそうな顔をして、窓を見つめている。

「先生、あまり人前ではいちゃつかないで下さいよ」


 その日は、三人で喫茶店を出た後、色々な所へ行った。澤井さんは、常に深夜の行きたい所を優先した。

(澤井さんて、最初は凄く怖かったけどいい人なんだ)

「俺、あっちの画材屋見てきていい?」

 深夜は、返事も聞かずに、私達から走り去って行った。

「無垢で優しい人でしよう」

 澤井さんが、ポツリとそう言った。

「はい、私もそう思います」

「最初は、すまなかったと思っています」

「最初?」

「貴女に、感情に任せてキツイ事を言って」

 澤井さんの手が、私の肩に掛る。

「申し訳ない事をした」

 肩越しに、彼の体温を感じて、思わず肩を竦めた。

(なに、この感じ。変なの……)

 急に、心臓がドキドキしてきて、おさまらない。

 澤井さんの瞳が、真っ直ぐに私に注がれている。

 澤井さんの栗色の髪が、私の額に落ちた。

「今度、お礼させて下さいね」

 そう言うと、スッと私から離れた。


 深夜が、画材屋から戻ってきて、私達は解散した。

 深夜の買った荷物を手伝って持つ。

「あのね、深夜……」

(いつも間に、呼び捨てになったんだろう)

「やっと「深夜」て呼んでくれたね。嬉しい」

 深夜とオレンジ色に染まった街を歩く。

 澤井さんは、用事があるからと、そのままどこかへ行ってしまった。

「私……見て欲しいものがあって。や、やっぱりいいや」

「何?隠し事?」

「そうじゃなくて、今はまだ見せない」

(やっぱり、澤井さんに相談しよう)

 深夜は、頬を膨らませて怒る真似をしたが、それ以上何も言ってこなかった。

 オレンジ色に染まった町並みは、まるで私達を温かく包み込んでくれるようだった。

(先の事なんて、何も分からない。今は、今を生きるしかないんだ)

 私は、自分に言い聞かせた。

 

 帰宅してから、私は澤井さんに連絡した。

「はい、澤井です」

 電話の声は、いつもの澤井さんの声だった。

「私、楓です。いきなり電話して、すみません」

「いいよ、問題ない」

 すぐ返ってきた声に、少し安堵する。

「あの、ご相談したい事があるんです」

 ちょっと戸惑った感じの雰囲気が伝わってくる。

「何でも相談に乗るよ。お礼もしたいし」

 澤井さんが、待ち合わせの日程を決めてくれた。

(迷惑だったかな……だけど深夜の事だから。澤井さんの意見も聞きたい)


 一週間後、私と澤井さんは会った。

 待ち合わせ場所は、とあるフランス料理店だった。

「ま、まさか……このお店に入らないよね」

 私の服装は、ジーンズにシャツというラフ感、極まりないものだった。

 お店の前で待っていると、澤井さんが歩いてくるのが見えた。

「こ、こんにちは」

「やぁ、こんにちは」

 そんな言葉を交わして、澤井さんの行動をじっと見る。

「じゃあ、入ろうか」

(まさかのまさか?! この店に)

「いいよ。気にしないで」

 澤井さんは、そう言うと上着を脱いだ。

 澤井さんの服装を見て、何だかホっとした。

 白いパンツとシャツを着ただけの同じようなラフ感。

「この店、常連だし。服装なんて気にしないでいい」

「もしかして、服装……私に合わせてくれたんじゃ」

「そうだと言ったらダメ?」

(澤井さん、優しい。大人の余裕って、感じがする)

 私は、自然と頬が染まるような気がした。何だか熱に魘されたみたいに、熱っぽい。

「立ち話もなんだから、店で落ち着いて話をしようか」

「は、はい・・」

 二人で、店の中に入った。

 澤井さんの気遣いなのか、アットホームな感じのフランス料理店だった。

「煙草、吸ってもいいかな?」

 こちらから切りだそうと思っていたのに、澤井さんから声を掛けられた。

「一本だけ吸うから」

 そう言うと、澤井さんはまた手慣れた感じで、煙草に火をつけた。

「ここ、禁煙じゃないんですか?」と私。

「今、貸し切りだからね」

「え、ええ。貸し切り?」

「貸し切りにした」

 澤井さんは、なぜかニヤと笑って、私を見た。イタズラしている子供みたいな笑顔だった。

「あっあの……これなんですが」

 私は、大神さんから渡された手紙を鞄から出した。

「なに、それは?」

 彼は、手紙を受け取って眺めている。

「大神明日香さん、てご存じですか?」

 彼の目が、一瞬怯えたように震えた。だけど、それは本当に一瞬だった。

「知ってるよ。深夜と同棲していた女性でしよう」

「過去に、だけどね」

「その大神さんからの手紙で、私頼まれたんです」

「深夜が相手にしないから、代わりに渡して欲しいとか?」

「どうして、分かるんです?」

「おおよそ、想像はつくよ」

 彼は、テーブルの上で指を組んで、じっと見つめてきた。

「それで、その手紙は渡すべきか、渡さないべきか。私に聞きたいと」

「はい。そうです」

 煙草を吸い終わった澤井さんは、二本目が吸いたそうだった。

「あっ煙草吸ってもいいですよ」

「いや、そうじゃなくて」

 彼は、照れくさそうにして、次は、腕を組んで下を向いた。

「先生の事……そんなに大事なんだ」

「え?」

「私が入り込む隙は、ないのかな」

「何の事ですか……」

「だから、貴女の事を好きだ。て言っている」

(ちょっと、澤井さん何を言い出すの??)


「先生の事……そんなに大事なんだ」

「私が入り込む隙は、ないのかな」

「だから、貴女の事を好きだ。て言っている」

 この言葉が、頭の中でグルグルと回っている。

「手紙なんて、いくらでも処分出来たでしよう」

 彼は、手に持っている手紙をヒラヒラと振ってみせた。

「しなかったのは、先生と大神明日香の事を想ったから」

「本当、優しいんだね」

 フーと溜息をついて、彼は続けた。

「そういう貴女を見ていて、好きになったんだよ」

「私は、何もしていないですけど」

「献身的に先生に尽くす姿や、尽くしながら毎日を楽しんでいる」

 澤井さんの手が、私の髪に触れた。頭を撫でている。

「私には出来ない事だよ……」

(そんな、澤井さんはいつも深夜の事を想って行動してる。私以上だと思う)

「手紙は、私が預かるから、もう忘れなさい」

 彼が、手紙を自分のポケットに入れてしまった。

「じゃあ、この話はこれでおしまい」

 食事を終えた私と澤井さんは、そのまま彼の車で、近くの海まで車を走らせた。


「夕日みたくない?」

 唐突にそう言われて、ただ頷いた。

「夕日は好きです」

(なんて、連れてきて貰ったけど、いいんだろうか)

 車から降りて、澤井さんと砂浜を歩く。

 夕日が、二人を照らしていた。

「綺麗なオレンジ色……」

 私は、まるで一枚の絵のように美しい夕日を見つめた。

 彼が、手に何かを持っている。

「それは?」

 私が聞くか否や、彼の腕に掴まれて胸の中に飛び込んでしまった。

「私も、楓さんって呼んでいいかな」

「え……は、はい」

 手にしていたのはキャンバスだった。

「貴女をモデルに採用します」

 そう言って、私の顎をそっと持ち上げてキスをした。

 静かだった。聞こえるのは、心地の良い波の音だけ。

「いつの間にか、好きになっていたんだ」

「ごめんね。いきなり……」

 澤井さんは、ちょっと悲しそうな顔をしてキャンバスを握りしめている。

「会ったら本当の事を言いそうで、距離を取っていたんだ」

(だから、深夜といるようになってから連絡なかったんだ)

「でも、もうダメみたいなんだ」

「え……」

 もう一度、抱きしめられて唇を奪われた。

 甘い大人のキス。甘美というにふさわしいキス。

 腰が抜けて、倒れそうになる私を、彼がしっかり抱きしめた。

「よっと」

 ふんわり、身体が浮いたかと思うと、お姫様抱っこされてる。

「お姫様、返事は後日でいいよ」

「な、なんの返事ですか?」

「両方」

(両方って、つまり澤井さんと付き合うって事? あとモデルの事?)

 澤井さんは、私を車で自宅まで送り届けてくれた。



 自宅に帰ると、携帯にメールが届いているのに気が付いた。

「楓、楽しんでる? 俺の新作、出来上がりそうだよ」

 深夜からのメールだった。

 何だか言葉に出来ない気持ちが沸き上がっていた。

(私の好きな人は、深夜のはずなのに……なに、この感情?)

 まさか、澤井さんの事も……そんな訳ないよね。

 これから、二人にどんな顔して会えばいいんだろう。

 深夜は、無垢であどけない子供みたいで、とても可愛い。

 澤井さんは、大人で気遣いが出来て、カッコイイ。

 二人は、全くタイプが違うけど、どちらも優しい。

「深夜、新作が出来そうなんだ。早く見たいな」

 それを考えると、私は急に嬉しくなってきた。

 何枚も見せて貰ったけど、深夜の絵は、澤井さんが言うように

 本当に天才を感じさせる絵だった。

「若き天才画家」て、呼ばれてるらしい。

 私には、何の取り柄もないけど。そっと溜息をついた。

 

 深夜のマンションで、私は歓喜で身が震えた。

「凄い! 素敵な絵だね!」

 出来上がった絵を見て、微笑んだ。

 夕日と観葉植物のようなものが描かれている。

 夕日が、観葉植物の生命力を更に強くしているように思える。

「楓に、一番に見て欲しくて」

 深夜も、嬉しそうにしている。

(ちょっとはにかんだ感じで、照れてるのかな?)

「あとさ……初めて会った時に言った事。覚えてる?」

 深夜は、椅子に浅めに腰掛けると

「俺、突き飛ばされたって言ったの」

「うん……覚えてるよ」

 深夜は、残された右手で頭を抱えた。

「誰だか、まだ分からないんだ」

「どういう意味?」

 私は、眉をひそめて聞いた。

「見た。と思ったんだ。犯人を」

 ハーっと息を深く吐き出した。

「それが……記憶の一部を無くしてる」

「事故のショックで……かな」

 彼は、大きな瞳を閉じたまま言った。

 私は、片腕を無くして、記憶まで無くした彼をどうしたらいいか分からなくなった。

「だ、大丈夫だよ。多分、そのうち思い出したり」

 打ち消すように、彼が叫んだ。

「ダメなんだよ!」

「何がダメなの?」

「それじゃあ、ダメなんだよ……」

 椅子の上に座っている深夜が、何だか小さくなって見えた。

「俺だって、普通の身体で楓と出会いたかったし、付き合いたかった」

 その時、痛いくらい腕を掴まれた。

「犯人を見つけたい」

 一言、そう言うと、彼は椅子から転げ落ちた。慌てて、彼を床から起こすと、気を失っている。

「身体が熱いよ。熱があるみたい」

 深夜の身体は、熱を帯びてとても熱い。額に手をやると、凄い熱だった。

 深夜の世話をしながら、澤井さんに連絡した。

「どうしよう。病院へ連れて行った方がいいのかも」

 救急車を呼ぼうか……傷からきているなら、その方がいい。

 その時、インターホンが鳴り、澤井さんが来てくれた。

「ごめんね。待たせたね」

 澤井さんが、私達の元に飛び込んできた。

「熱があるんです。それも高熱みたいです」

「すぐ病院へ運ぼう」

 澤井さんの判断は早かった。

「その方がいい。何かあったら、すぐ看て貰えるからね」

 澤井さんんは、どこかに電話して、すぐ深夜を抱えた。

「前に入院してた病院が、受け入れてくれるから」

 そのまま、私達は深夜と共に夜を明かした。



 頬を撫でる風が吹いている。

 目を開けると、レースのカーテンが揺れている。

「楓、起きたんだ」

 優しい声が聞こえて、頭を起こした。

 深夜が微笑みを浮かべながら、近づいてきた。

 両手で、私の頬を撫でた。

(両手?どういう事?)

「あ、あの……左手は?」

 彼は、え? というような顔をしている。

「左手? 俺は最初から両手ついてるよ」

(なに、これは夢じゃないの)

「それより、結婚式どうする?」

 私は耳を疑った。

「誰の結婚式なの? さ、澤井さんかな……?」

「俺達のだよ」

 呆れたように、彼が言った。

「俺達じゃなくて……私達、結婚するんだ」

 彼は、完全にダメだと言わんばかりに、天を仰いだ。

「どうしちゃったの?」

 彼が、私の横に来て、私の肩を抱いた。髪を撫でながら、優しくキスする。

 深夜に、優しくキスされながら

「ごめん。今まで嘘ついて」

 彼が、私の目の前で頭を下げた。いきなり、土下座された。

「俺、本当は左手を失ってなんてなかったんだ」

 更に、彼の懺悔は続く。

「無くしたフリして、楓を騙してたんだ」

 そう言えば、私は彼の着替えをさせた事がなかった。全部、看護師さんがしてくれて。

 腕を袖に通さないで、上手く隠すって出来るものだろうか。

「楓が、出会った時から可愛くて。一目惚れして、それで」

 彼は、自分の練った計画をバラすかのように、そして本心を明かしてゆく。

「本当にごめん。同情心を利用するなんて、卑怯だよな」

 私は、黙って聞いているしかなかった。

「もう、俺の事嫌い?」

 答えられない。

「もう、俺の傍に居てくれない?」

 唇が乾いて、唇を開けられない。

「もう、いいよ!」

 彼は、我慢出来ないと言わんばかりに、その辺りのクッションを投げた。

(こんなの深夜じゃないよ。今まで怒ったとこなんて見た事ない)

「楓……上手く騙せたのにな」

 そこにいるのは、悪魔のような笑みを浮かべた深夜の姿だった。

「あれも嘘だよ。突き飛ばした犯人とか」

 フーと息を吸い込んで

「その方が、面白いだろ」

「そ、そんな全部、嘘なの?」

 私は、彼に詰め寄るように言った。

「自分で倒れたなんて、恥ずかしいだろ」

「な、なに言ってるの」

「誰かに突き飛ばされた事にすれば、同情と哀れみを頂ける」

「そうじゃなくて、全部が嘘だった。てどういう事なのか分からない」

 部屋のレースのカーテンが、また揺れた。

「もう、一緒に居られない」

 私は、泣きながらその場を去った。

 涙が、後から後から出てきて頬を濡らした。

 

 誰かに、そっと毛布を掛け直された。

 ハッと、我に返って起き上がる。

「あ……起こしちゃったかな」

 横に屈んでいるのは、澤井さんだった。

(夢だったんだ。良かった)

 あまりにもリアル的な夢に、現実と勘違いする。

「何で、泣いてるの?」

 彼は、私の涙を指ですくった。

「ちょっと、嫌な夢を見ちゃって……」

 私は、急いで涙を拭いた。

「もしかして、先生の夢かな?」

「え?!」

 まるで見抜かれたみたいだと思った。

「先生なら、熱も下がったし、もう大丈夫だよ」

 彼が、優しく髪を触ってくる。

「楓さんが、早めに連絡をくれたおかげで」

「私は、何もしていないです」

 私の様子が、おかしい事に彼は気が付いたようだ。

「何があったのか、話してくれないかな」

 私は、夢の内容を話す事に、躊躇いを感じた。

(あの夢は、まるで深夜が悪者みたいじゃない)

 それに……「犯人」とか、それについては深夜から口止めされている。

「何でもないんです」

「本当に?」

「はい」

「何かあったら、必ず相談する事」

 そう言うと、彼は私の額にキスをした。

「あの……ご迷惑では。この前の手紙もそうですし」

「全然。どうして好きな人の相談を聞いたらダメなのかな」

 彼は、仮眠の為に借りたベッドの横に、並んで座った。

「この前、言った事は冗談ではないよ。分かっているよね」

「先生から奪う事になったとしても」

 ハッキリした口調で、彼は言い放った。

 私達は、その後、ただ黙ってお互いに寄り添っていた。

(私、どうしたらいいか分からないよ。)

(深夜も澤井さんも好き……)


 深夜が、意識を取り戻した。

「楓、有難う。色々面倒掛けて悪い」

 深夜は、そう言うと、大きな瞳を伏せた。

「面倒なんかじゃないよ。良かった、熱が下がって」

 私は、深夜の顔を覗き込んだ。でも、真っ直ぐに見る事が出来ない。

(いつも通りに、接してあげないと。私おかしいよ)

「先生、あまり無理しないで下さいよ」

 澤井さんは、いつも通りに接している。

「うん、もう大丈夫だから。それと新作が出来た」

 深夜が澤井さんに、微笑んだ。

「楓に見て貰ったんだ」

 深夜は、にこにこしている。

「へー、先を越されましたか」

 澤井さんが、私をまじまじと見ているのが分かる。

 絵の事になると、澤井さんは別人のようになる事がある。今は、明らかに好奇心の目、先手を取られたと言わんばかりだ。

 絵に関しては、澤井さんは深夜を崇拝していて、これ以上の画家はいないと常々言いまくっている。深夜は、そんな澤井さんに、やや困惑しながらも嬉しそうにしていた。二人は、お互いを認めながら、お互いを尊敬しているように思えた。

 澤井さんの絵は、私は一度も見た事が、まだないけれど、深夜が、尊敬するなら、同じくらい素晴らしいものだと思っている。

 私が、ボーと考えていると

「楓、今日一緒にいてくれる?」

 深夜が、大きな瞳で見つめてくる。

「うん、会社お休み貰ったから、一緒に居られるよ」

「じゃあ、後はお願いします。楓さん」

 そう言うと、澤井さんは個展の準備があるからと病室から出て行った。

「ねぇ、今さ」

「うん?」

「澤井が、楓の事……楓さん。て呼んだよね」

(どきっとした)

「うん、呼んでたね」

「へぇー」

 深夜は、嫉妬する訳でもなく、ただただ不思議そうにしているだけだった。


 時は静かに流れて、深夜は退院する事になった。

 新作の制作で、疲れが出たのだろうか。本当は、以前から調子が悪かったのかもしれない。それを隠して、無理していたのかもしれない。

「深夜、これなんてどう?」

 深夜と二人で、買い物に出掛けている。

 深夜の新しい服も、選んであげないと。

「俺、楓の選んでくれたものでいいよ」

 彼には、欲と言うものがなくて、洋服もいつも少し大きめな古っぽい服を着ていた。身長は、そんなにも高くなく、小柄な感じ。最初に出会った時に「女性的」と感じたのは、そのせいもあるかもしれない。

 澤井さんは、逆で長身でスマートだ。洋服は、いつもアイロンが綺麗にされたシャツにジャケットを羽織っている事が多い。

 二人の年齢は、五歳くらい違うらしいが、一体何歳なのか聞いた事がない。

「深夜て、歳はいくつ?」

「二十四歳だけど」

 深夜は、なぜか恥ずかしそうに答えた。

 知らなかった。本当に知らなかった。

 深夜は、子供っぽいけど、しっかりしているから年上かと思っていた。でも、自分の方が年上だと知り、私まで何だか恥ずかしくなった。

 顔を赤らめていると

「楓て、何歳なの?」

「えっ……あ、二十六歳ですけど」

(なぜか、ですけど。になってしまった)

「今まで、俺も気にした事なかったし」

「私も、気にしてなかったよ」

 その後も、深夜に無理させないようにしながら、買い物を続けた。

 途中で、休憩を入れて、ケーキとお茶したり。

 深夜は、甘党みたいで、ケーキを美味しそうに頬張っている。

「このケーキ、美味しいね」

「甘い物は好き?」

「好きー!」

「あと、楓ね」

 サラっと、自然に深夜は愛情表現をしてくる。

 そういう自然な感じ……好きだな。

 彼の顔を見ながら、思わず微笑んだ。


 深夜と、その夜。

 私は、甘い時間を味わった。それは、数時間続いた。

 彼と、シーツに包まれながら、うとうとしていた。

 彼は眠っているみたいで、可愛い寝息が聞こえている。

(私は、やっぱり深夜が好き!)

 ぎゅっと、彼の綺麗な肌に抱きついた。

「う……ん」

 ダメだ。深夜が起きちゃう。

 私は、一人そっとベッドから抜け出して落ちていたバスローブを拾った。

「お水、飲みたいな」

 と、小さな声で言った。

 バスローブを着ながら、冷蔵庫の中のミネラルウォーターを飲む。

 何気に、マンションの窓から、外を覗いた。視線は、マンションの入り口の方へ向いた。


 二人の影が見えた。

(どちらも見た事があるような)

 目を凝らして見ると、そこには、澤井さんと大神明日香さんがいた。

(え? どうして二人がここにいるの? というか大神さん?)

 二人の表情までは分からなかったが、何か言い合いをしているような。

 服を着て、仲裁に入った方がいいかもしれない。

 私が、急いで洋服を着ようとしていると

「どこ、いくの?」

 深夜が、起きていて、私をじっと見つめていた。

 私は、行くのを諦めた。

 なぜなら、大神さんの手紙の事も言っていない。何より、大神さんの事で彼を悩ませたくなかった。

「何でもないよ。どこにも行かないから」

 作り笑いをしながら、彼の元へ戻った。

(あれ? この笑顔おかしいかな)

 気が付かないようで、深夜は私に抱きついてきた。

「もう一回したい」

 彼の甘えたような声が、耳元でした。

 返事も聞かずに、深夜は私をベッドに押しつけた。

 頭の中で、色んな事が、ぐるぐると歯車のように回転していた。


 会社での業務は、単調なものだった。特に凄い技術が必要なわけでもなく、私は淡々とこなすだけだ。

 私。新村楓。二十六歳。独身。

 昼休みになり、仲の良い後輩の女の子が駆け寄ってきた。

「先輩、ランチしましょ!」

 そう言って、後輩は会社の中庭に私を連れ出した。

「今日は、聞きたい事があって」

 後輩は、なぜか目をキラキラ輝かせている。

「先輩、彼氏出来たでしょ」

 その言葉に、胸が大きな音を立てたように思えた。

「知ってますよー。お相手は画家さんだって」

「な、なんで……それを」

「やだー。顔が真っ赤ですよー」

「それ、誰から聞いたの?」

「社内で、今話題ですよー」

 ど、どういう事なんだろう。

 誰にも言った覚えがないのに、おかしい。

 後輩は、根掘り葉掘りと、尋ねてきたが、適当に誤魔化しておいた。

 悪い子ではないんだけど、人の噂話には乗っかりたいタイプだ。あとは、素直だし優しさもあり、何よりとても明るい。

 後輩は、最後に一言こう言った。

「何かタレ込みあったみたいですよー」



 私は、その日の業務を終え、明日の仕事の準備をして、会社を後にした。

 外に出ると、会社の少し離れた所に、見た事のある白い車が停まっていた。

(あの車って、澤井さんのじゃない?)

 近づいて、確認しようと思った。

 車の中にいたのは、澤井さんだった。

「なに、何してるんですか? こんな所で」

 思わず、後輩のさっきの話を思い出した。

「人目につくだろうから、とりあえず乗って」

 そう言われて、思わず助手席に乗り込んだ。

 どうして、私の会社が分かったんだろう?

 澤井さんの車は、滑るようになめらかに発進した。


「最初に会った時に、会社名も聞いていたから」

 澤井さんは、私の疑問を打ち消すように、そう言った。

(そうだった。確か聞かれて、答えたはず)

「私も、澤井さんにお聞きしたい事があって」

 マンションの入り口で、大神さんといた澤井さん。

 何を話していたのか、知りたい。

 澤井さんは、なぜか今日はメガネをしていた。

「視力悪いんですか?」

 思わず、聞いてしまった。

「ああ、そうだよ。いつもコンタクトだけど、今日は調子が悪くてメガネにしたんだ」

「そうなんですか」

「えーと……似合わないかな」

 いや、それは逆だった。

 更に、澤井さんの良さを引き出している。

 メガネがよく似合っていて、カッコイイ。

「いえ……素敵ですよ」

「有難う。そう言われると、嬉しくなるよ」

 澤井さんは、本当に嬉しいようで、柔らかい視線で車を走らせている。



 車は、一戸建ての家の前に停まった。

「ここ、どこですか? 素敵なお家ですけど」

「私の家だけどね」

「え? 澤井さんのお宅ですか」

「なるべく静かな場所で話したかったから……嫌かな」

 澤井さんは、私の手をもう握っている。

「とても大事な話なんだよ」

 その言葉を聞いて、大神さんの事と結びついた。多分、その話ではないだろうか。

 澤井さんの家は、入ってみても素敵だった。所々に、絵が飾られて、お花まで飾ってある。

「一人で住んでるんだ。花は近所の花屋さんが、好意で届けてくれる」

 メガネを外して、布で拭きながら、彼はそう言った。

「まぁ、ほとんど家にいないんだけどね。男世帯で、雑然としているでしょう」

 その割に、本棚には綺麗に本が並べられていて、テーブルの上も整頓されている。

 これは、澤井さんの性格なのかな?

 澤井さんに、紅茶を淹れて貰って、ホッと一息つく。

(この紅茶、とても美味しい)

「この紅茶は、フランスから取り寄せてるものなんだ」

 澤井さんもカップを持ちながら、香りを楽しんでいる。

「とてもいい香りで、味も美味しいですね」

 私は、一時何もかも忘れていた。

 澤井さんといると、なぜか安心出来る。他の事も忘れてしまいそう……。

 私の心から、深夜が消えてなくなりそうになる。

 私は、必死に深夜の欠片のようなものを掴もうとしている。

 どんどん遠くへいきそうになる……深夜の欠片。

「話があるみたいだけど、どんな話かな?」

 澤井さんの声が、耳に入ってきた。

 深夜の欠片がなくなった。

「そ、そうなんです。私の会社に誰かが漏らしたみたいで」

「何をかな?」

「私が画家と付き合っているって」

 別に、本当の事だから言われてもいいのかもしれない。

 でも、一体誰がそんな事をしたのか、知りたい。

「大神明日香、じゃないかな」

 澤井さんが、いきなり彼女の名を口にした。

 え? まさか、彼女が私の会社まで、わざわざ?

 でも、大神さんが私に嫌がらせをしたいなら、そうするかも。

 元彼女だった、大神さん。深夜の事をまだ好きなんだと思う。

「こういう事を言うのは、嫌なんだけれど……」

「なんですか?」

「彼女は、深夜と同棲している時に、二股していたんだよ」

「え?!」

 そんな、二股って……それで別れたのかな。

「別れたけど、まだ深夜の事が忘れられないで、自分でも困っているみたいだよ」

 澤井さんは、栗色の髪を触りながら、目線を下に降ろしている。

「この前も、マンションの入り口にいたのを見つけたからね」

「私、それを見てました」

「深夜に会わせて欲しい。と、しつこく言われたよ」

「断ったんですか?」

「当たり前でしよう。深夜には、もう近づかないように言った」

 私の見た光景は、これだったのだろうか。

 美味しかったはずの、紅茶が急に味がなくなった気がした。

 私だって、深夜に愛されながら、どこかで澤井さんに惹かれている。

 これって、どうなんだろう。

 二股より、卑怯じゃない。 私って汚い。 最低で最悪。

 涙がポツリと、自分の手に落ちた。

 その手を、澤井さんがそっと握った。

「貴女が、私にも好意を持ってくれてるのは知っている」

「わ……私。どうしよう。どうしたらいいの」

 泣き叫ぶ私の手を、ギュっと握って、彼は意を決したかのように

「私と、結婚前提で付き合って下さい」

 私は、目を見張った。何て言ったのか、理解出来ずにいると

「先生と付き合っている貴女に、こんな事を言うのはいけないかもしれない」

 彼が、いきなり抱きしめてきた。

「でも、どうしても、これだけは譲れないんだ」

 いつもの優しい澤井さんだけど、真剣な眼差しで、まるで私を射貫くようだ。

「私は、そのうち海外へ絵の勉強に行く事になるんだ。だから一緒についてきて欲しい」

「長い間……ですか?」

「そうだね。行ったなら、十年以上は拠点にしていると思う」

 澤井は、ずっと心に秘めていた想いを明かした。

 初めて会った時から、運命だったのかもしれない。

 深夜が、どんなに愛していても、彼女に自分と一緒に生きて欲しいと思った。

 先生と慕っていた、尊敬していた深夜を裏切るのは、とても心が耐えられそうにない。だからこそ、彼女に傍に居て欲しいと思ったのも本心だった。結婚も、本気で言っている。付き合って、海外で結婚式を挙げるのがいい。彼女となら、いつまでも幸せでいられるだろう。

 こんなに好きで、愛しているのだから。



 キャンバスに向かって、必死に筆を降ろしている。筆の動きは、優雅でどこか品がある。

 深夜は、一人で絵を描いていた。

「ピンポーン」 

 インターホンが鳴った。誰だろう? 楓には自由に入れるようにしてある。

 インターホンに出ると、そこには大神明日香がいた。

「いい加減。しつこいよ」

「あのね、どうしても教えないといけないと思って」

 いつもの明日香の訪問だったが、今日は何か違うような気がして部屋に入れてしまった。

 明日香は、部屋の中をキョロキョロとしながら

 勝手に、深夜の絵を見て回っている。

「ちょっ勝手に見ないでよ」

 深夜は、明日香の持っている絵を取り上げた。

「少しくらい見せてくれてもいいじゃない」

 明日香は、臆せず、また次の絵を見ようとしている。

「本当にやめて。それで何の話?」

 そうだ。それを聞く為に、部屋に入れてしまったのだから。

 ふと、明日香の絵を見る手が止まった。ゆっくり振り向いて、深夜をじっと見つめた。その瞳には、まだ深夜への愛情が籠っていた。

「深夜、今幸せなの?」

 言わなくて分かっているだろうと、呆れたように鼻先を触る深夜。

「幸せに決まってるだろ。なんでそんな事聞くんだよ」

「あのね。私ね……」

「だから、なんなの?」

 同棲までして、愛を育んでいたのに裏切られた想いが、沸々と沸いてきた。

 大好きだったのに。あの頃は、明日香と楽しい毎日を過ごせて充実していた。

 明日香への怒りは、もう一つもないと言えば嘘になる。

 気にしていないと言えば、これも嘘になる。

目の前の明日香が、裏切りをしていなかったなら。また抱きしめて同じ生活を続けられるだろうか。

 明日香が、自分を騙したり、他の異性と関心を持たなければ二人は続いていただろうか。

「いい事、教えてあげようか」

 その言葉に、ハッとして深夜は、顔を上げた。

「澤井さん、あの子の事好きだよ」

 な、何を言ってるんだ。明日香は、何を言いたい。

「あの子も、まんざらじゃないみたい」

 深夜は、頭を殴られたような感覚を受けた。

「私、この前二人でいる所も、目撃したから確かだよ」

(今、なんて言った? 二人がなんだって)

「う……嘘だ」

「嘘じゃないよ。二人でいちゃいちゃして、いやらしい感じだったもの」

 深夜は頭が、ガンガンしてきた。大きく脈打って、頭が痛い。頭がどうにかなりそうになった。とっさに、頭を抱えて座り込んだ。

 二人が、一緒にいたって……別におかしくないのでは。

 楓も含め、三人は仲が良いし、それが二人であっても。

 自分が、澤井と二人で、出掛けるようなものだ。

 そう、深夜は自分で解釈しようと思った。

 頭の痛みが、薄れてきたような気がした。

「もう、帰ってくれ」

「やだ! まだ教えてない事あるもの」

 嫌がる明日香を、無理矢理玄関の方へ、連れて行く。

 明日香は、不満が爆発したかのように叫んだ。

「もう、どうなっても知らないからね! でも深夜が、傷つくの見たくないの」

「俺は、傷ついたりしない」

「私の事は、本当に悪いと思ってるよ……深夜」

「もう終わった事だろう」

「凄く、後悔してるの」

「やめてくれ」

 そう言うと、深夜は明日香を、玄関のドアに外に押しやった。

 ドア越しに、小さな声が聞こえた。

「私達、やり直せないかな……」



 澤井さんに、いきなりあんな事を言われて、とても驚いたのは言うまでもない。

 結婚前提でのお付き合い。

 深夜は、まだ若いから結婚なんて考えてないよね。

 それより、絵の事で頭が一杯みたいだから……今は、私より絵の方が、きっと大事だから。

 澤井さんのとても真剣な眼差しを思い出した。

 絵の勉強の為に、日本からいなくなるなんて……。

 深夜には、まだ話していないと澤井さんは言っていた。

「先生の事、一生面倒みる。と言ったのに、私は身勝手だと思う」

 澤井さんは、悲しそうに唇を?んだ。

「絵も貴女も、両方を手に入れたいなんて……」

 澤井さんが、泣いているように思えた。

 涙は出さないけど、全身で泣いているようかに、少し震えていた。

 私の心は揺らいでいる。

 時計の針のように小刻みに動き回る。止まる事を知らない、その秒針は常に私の心をかき乱す。

 どうして、こうなるのか分からない。心って、こういうものなの?


 それから、一ヶ月経った頃だった。

 大神明日香さんは、自殺した。

 自室で、首を吊って死んだらしいと知った。

 テレビのニュースが、淡々と情報を流している。

「大神さん……」

 私は、彼女と初めて会った時の事を思い出した。

 ロングの髪が似合う、細身の身体。

 疲れたような目をしていたけど、瞳には強い光が宿っていた。

 今から思うと、とても綺麗な女性だった。

 どうして、自殺なんてしたんだろう。

 深夜との事でだろうか。いや、深夜は関係ない。

 私は、どんな顔をして深夜に会えばいいのか。

 彼は、きっと落ち込んでいるだろう。

 慰める言葉も見つからない。どうしよう。

 私が、思い悩んでいると携帯が鳴った。

 深夜からだった。


「はい、もしもし」

「ニュースみたよね」

「う、うん……」

「明日香が、まさか命を絶つなんて思わなかった」

 深夜の声は、震えていて今にも途切れそうだった。

「俺のせいだよ」

 彼の絞り出すような声。苦しくて、どうしようもない声。

「明日香に対して、本気で対応してやらなかったから」

「そ、そんな事……」

「いつも嫌で逃げた、俺が悪い」

「深夜が、明日香さんにそう思ってしまうのは分かるけど。深夜は悪くないよ」

 私は、正直どちらが悪いとか、言える立場ではないのに。

「直接、話したい事があるから来てくれる?」

 私は、深夜に自宅に来るように言われた。

 私が行く事で、少しでも慰めてあげれたらいいのだけど。


 いつものように、深夜のマンションの入り口に着いた。

「あ、楓さん」

 名前を呼ばれて、振り返ると澤井さんがいた。

 何も考えずに、一緒にマンションのエレベーターに乗った。

 深夜の部屋に二人で、自然に入る。

 澤井さんは、いつも通りだし、私も平常心を持っていた。

「私も、先生から電話で呼び出されて」

 エレベーターの中で、彼がそう漏らした。

 部屋は、めちゃめちゃな事になっていた。深夜の美しい絵が、バラバラに撒き散らされている。

(な、なにこれ? 何があったの?)

 深夜が、奥の方の椅子に掛けて、こちらを見つめている。

「二人に聞きたい事があって」

 立ち上がると、白い肌がそれを超えて、まるで幽霊みたいだ。

「二人が、付き合ってるって本当?」

 な、何……そんな事、どうして言い出すの?

 私は、澤井さんに申し出をされたけど、付き合ってはいない。

 のらりくらりしているのかもしれないけど、澤井さんとは何もない。

(全く、何もなかったと言えば、嘘になるかもしれないけど)

「ねぇ、本当なの?」

 更に、深夜は詰め寄るように、聞いてきた。

「本当ですよ」

 隣にいた、澤井さんが沈黙を破った。

 目は、しっかりと深夜を見つめ返している。

「澤井……どういうつもりだ」

「私も、最初から楓さんが好きでした。だから付き合う事にしたんです」

私は、目の前で何が起こっているのか、ひたすら考えていた。

「楓は、俺の恋人だぞ」

「それは、承知していますが、私にとっても大事な女性なんですよ」

 二人の間に、見えない亀裂が入るのを感じた。

 深夜の瞳から、水滴が落ちた。

 ポツポツと雨のように、頬を伝ってゆく。

「な……なんで」

 深夜は、大声を上げながら泣き出した。

「そんなの、冗談だって言ってよ、澤井」

「冗談でもなく、本当の事です。いつか話さないといけないと思っていました」

「澤井も、俺にとって大事な人なのに」

「私も、先生がとても大事です。これからも、それは変わらない」

「も、もうやめてくれ」

「ちゃんと聞いてくれるまで、辞めません」

 深夜は、しばらく泣いていた。

 色白で小柄な身体を震わせながら、子供のように泣いている。

「やっぱり、明日香の言ってた事は、本当だったんだ」

 泣きながら、床に転がっている。

 私は、彼にそっと近づいて、声を掛けた。

「まだ、私は何も言ってないよ」

 ハッとしたように、彼は私を見た。

「私は確かに、澤井さんに交際を申し込まれたけど……返事はしてない」

「あと、深夜と別れるつもりもない」

 深夜が、飛び退くように床から起き上がると、私を抱きしめた。

「楓……」

 抱きしめてくる手は、どんどん力を増してきて、痛いくらいだった。

 それを見ていた澤井が、堪らないというように声を掛けてきた。

「返事は貰っていないけど、絶対に私を選んでくれるはず」

「どうして、そんな事が?」

「言えるのか? という事でしよう。私に分かるんですよ」

「分かるって、意味が分かりません」

「もし、こういう関係を、小説とかにした場合の、最終的な結果とでも言うか」

 栗色の髪を、かき上げながら、澤井さんは優しく微笑んだ。

「でも、決めるのは貴女ですね」

 そう言うと、澤井さんは、こちらへ近づいてきた。

 深夜の頭に手を触れて、撫でている。

「恋愛で、どうこうなっても、先生とは、ずっとこれまでと変わりませんから」

 深夜は、泣きながら頷いた。

「澤井も、俺にとって、本当にかけがえのない人なんだ」

 深夜は、いつも一人で絵を描いていたが、最初に傍にいてくれたのは澤井だった。

 一人で描いているより、澤井が来てくれて、自分の絵を見てくれる事に喜びを感じていた。

 歳は、離れていても、お互いに気が合って、一緒にいても気楽だった。

 澤井のいない人生なんて、有り得ないとさえ思っている。

 自分は、天才なんかじゃない。澤井との信頼のある気楽さが生み出したものかもしれない。

 澤井と楓。

 両方とも、失いたくない大事なもの。

 今までみたいに、過ごしたい。三人で一緒に食事に出掛けたり、買い物へ行ったり。

 その時、なぜか明日香の事を思い出した。

「やだ! まだ教えてない事あるもの」

 明日香は、そんな事も言っていたのを頭に巡らせた。

 

 深夜は、泣き疲れた子供のように眠っている。

 いつもの綺麗な顔。

 泣いても、綺麗な顔をしている彼を見つめながら、動揺した心を静める。

「どうして、あんな事を言ったんです?」

ソファーに座っている、澤井さんに聞いた。

「本当の事だから……かな」

 澤井は、煙草に火をつけた。

「前にも言ったけど、私はそのうち海外へ行く事になる」

「先生は、まだ知らないけれど、いずれ離れる事になるから」

 煙草の煙を、スーっと吐き出した。

「私は、自分の本当の気持ちを言っただけですよ」

 私には、澤井さんが少し寂しそうにしているように思えた。

「楓さんは、知らなかったと思いますが。大神明日香は、先生の絵を勝手に売っていた」

「どういう事ですか?」

「大神明日香は、二股をした時に、相手の男に貢ぐ為に、先生の絵を売ったんですよ」

「そ、そんな事って……」

 あの大神さんに限って、そんな事があるんだろうか。

 深夜の事が、大好きで、その大好きな人の描いた絵を売るなんて。

 もし、本当なら別れた理由は、それだったのかもしれない。

―― 二股をして、勝手に絵を売ってしまう ――

「深夜は、怒ったんですか?」

「勿論。怒りましたよ。絵もそうだけど、裏切られた事に対しての方が強かったかも」

 澤井さんが、説明してくれた。

 深夜は、嫉妬や執着心はないタイプだけど、裏切りに対してはとても敏感だと。

 大神さんは、許して欲しいと何度も訪れたが、深夜は相手にしなかった事。

 私の会社に嫌がらせをしたのも彼女で、私を今度はストーカーしていた。

 たまたま、澤井さんとの事を見られてしまい、深夜に告げ口をされた。

 それを聞いた深夜は、絶望的になり、死んだ明日香の事もあり、私達を呼び出して、真意を確かめたいと思った。

「まぁ、こんなところでしよう」

 探偵のように、澤井さんが煙草の煙を見つめている。

「あと、大変申し訳なかった」

 澤井さんが、私に詫びてきた。

「貴女の気持ちも聞かないで、私は自分の気持ちだけを言ってしまった事」

 澤井さんは、気持ちを落ち着かせる為なのか、二本目の煙草を吸った。

 二本目を吸うのを、私は初めて見た。


 楓と澤井が帰ってから、深夜は一人佇んでいた。

 明日香が、死んでしまった事も、大きなショックだった。

 それ以上に、二人の事を明日香から聞いてしまい、動揺を隠しきれない自分が嫌だった。

 あの時、明日香は続けて、何を言いたかったんだろ。

―― やだ! まだ教えてない事あるもの ――

 あの言葉が、まだグルグルと頭にある。

 一人、コーヒーを啜った。

 砂糖を入れ忘れて、ダイレクトな味に思わず顔をしかめる。

 結局、澤井が楓に惚れてしまい、一方的に好意を寄せているだけなのか。

 それなら、分かる気がした。

 楓は、いつも優しくて気配りが出来て、余計な事は言わない。

 言わないというより、相手に対して細心の注意を払える女性。

 初めて会った時に

―― 何て可愛いだろ ―― と思った。

 肩まで伸びた髪が揺れて、大きな二重の瞳を瞬いている。

 肌も艶があって、頬はほんのりとピンク色をしていて上品な美しさ。

「楓……」

 深夜は、思わず彼女の名を呼んだ。

 それと同時に、あの事故を思い出した。

 初めて楓と関わりを持った、あの事故の事だ。

 無くしたものは、大きかったが、楓と出会えたのは運命だと思っている。

「あの時……後ろから、誰かが……」

 深夜の記憶が、急スピードでさかのぼる。

 バチ! 脳の中で、何かが弾けた気がした。

 その後、発作のように空気を吸いまくる。

「この記憶は……」

 深夜の手が震えだした。

 しばらくして、深夜は元に戻る事が出来た。

 乾いた喉を、コーヒーで潤す。

 これは、楓に言ってもいいんだろうか。楓に、これ以上、心配を掛けたくない。

 黙っていよう。それがいい。

 何もなかった事にすれば、その方がいいに決まっている。

 何より、深夜は楓を失うのを恐れていた。

 このまま、平穏な日々が続きますように。深夜は心から祈った。

 

 深夜のマンションからの帰り道。

 私は、一人で夜道を歩いていた。

「車で送るから」と、澤井さんは言ったが、断った。

 自宅まで、送って貰うのは初めてではないが、今日は一人で帰りたい気分だった。

 私が、歩いていると、誰かが後ろから歩いてくるのを感じた。

 時間的に、あまり人気はないはずなんだけど。

 いきなり、洋服を引っ張られた。

「お姉ちゃん!」

 体勢を崩した私は、そのまま道路に倒れ込んだ。

「す、すみません!」

 誰かが、私を必死に支えようとしている。

 振り返ると、そこにはロングの髪で細身の女性がいた。

「お姉ちゃんかと思って……つい」

 その容貌は、どこかで見た事があると思った。

―― 大神明日香さん?! ――

「大神さん?」

 思わず、そう呼んでしまった。

 相手の女性は、ハッとなって私を見た。

「もしかして、楓さんですか?」

「そうです」


 彼女と、マンションの近くにある公園で話す事にした。

「私、大神静香と言います。姉は大神明日香です……この前、死んだ」

 妹さんいたんだ。だから、そっくりなんだ。

 彼女は、ポツリポツリと話し出した。

「いつも、姉がこの辺りにいたのを知っていたんです。まだ、姉が死んだ事が理解出来なくて、ここに来たら会えるような気がして……」

「会えないって知っていても、身体が勝手に動くんです」

「姉かと、間違えてしまって、すみません」

 静香さんは、頭を何度も上げた。

「ううん、大丈夫だから」

 ちょっと、膝を擦りむいたくらいだった。

 妹さん、可哀相……明日香さん、いいお姉さんだったんだろうな。

 大事な人を失う悲しみ。簡単には言い表せないだろう。

 私は、目を閉じて、明日香さんの生前の姿を思い出した。

「これを見て欲しくて」

 静香さんが、私に渡したものは、手紙を書く用紙だった。可愛い模様などはなく、簡素な感じの用紙だった。鉛筆で、上から必死に擦ってあるのが分かる。

「これって……!」

 生前の明日香さんが、深夜宛てに書いた手紙の内容が、浮かび上がっていた。でも、全てを読む事は出来ない。所々、薄くなっていて読めない部分があった。

「姉が、必死に深夜さんに、書いた手紙みたいなんです」

 みるみる静香さんの瞳が曇って

「姉は、深夜さんと別れたのを、とても悔やんでいて。手紙をいつも書いていたようで」

「でも、そんなの受け取って貰えるはずないのに」

 まるで、明日香さん本人を見ているようだ。声だけは違っているけど、容姿や服装の趣味まで同じ。

「これ、楓さんから深夜さんに、渡して貰えませんか?」

 何だか同じ事を頼まれているような……。

「私が持っていても、姉は喜ばないと思うので」

そう言い残して、静香さんは夜の闇に溶け込んでいった。



 私は、ずっと擦られた鉛筆の跡を、見つめていた。

 どうしても、読めない部分があった。

(ここが、一番大事な部分なのに……)

 この手紙、今度こそは渡さないと。

 深夜は、悲しむかもしれないけど、嫌がるかもしれないけど。

 私は、亡くなった明日香さんに誓った。

(必ず、この手紙を深夜に渡します)


 手紙の解読に、私が悩んでいると、携帯が鳴った。

「澤井です」

「澤井さん、お久しぶりです」

 しばらく、私達三人は、バラバラになっていた。連絡も取る事もなく。

 澤井さんは、依然と変わらない口調で話す。

「映画のチケットが手に入ったので、三人でどうかと思って」

 三人で?! また、三人で楽しく会えるんだ。

 私は、つい浮き足だってしまった。

「分かりました。はい、有難うございます」

 携帯を切った後も、嬉しくて仕方がなかった。

 

 澤井さんと深夜とは、映画館の前で、待ち合わせだった。深夜とも、久しぶりに会う事になる。

 お互いに避けていた訳ではないけど、深夜が多忙でなかなか会う機会もなかった。

「待たせたかな」

 そう言って、澤井さんが近寄ってくるのが見えた。

「いえ、今来たところです」

「じゃあ、行こうか」

「え? あの深夜は……?」

「個展が続いてたでしょう。今日、急に予定が入ったらしい」

(そんな、今日会えるの楽しみにしていたのに)

 澤井さんは、気にしていないようで、私の手を引いて進む。

 映画館は、やや薄暗い照明で、私と澤井さんは自然と屈むように歩いてしまう。

 二人で並んで座る。

 映画が始まった。内容は、一言で言えば恋愛ミステリーだろうか。

 主人公とヒロインのキスシーンが印象的だった。

 突然、私の手に澤井さんの手が重なった。

 最初は、優しかったけど、ギュっと思い切り握られている。

「あ……の」

 声に出せずにいると、澤井さんの顔がすぐ横にあった。

 サッと耳たぶにキスをされる。

 澤井さんは、頬を赤らめながら、自分の唇に私の指を押し当てた。

 静かにして。と合図している。

 私は、大人の雰囲気に呑まれてしまい、完全に澤井さんのペースになった。

 澤井さんは、私の手を握りながら、視線は映画に注いでいた。

「ちょっと、驚かせたかな」

 映画が、終わってから、澤井さんは困惑している私に言った。

「つい……悪かったね」

「あの、この前の澤井さんの申し出なんですが……」

「うん、何かな? いい返事貰えると思っているよ」

「お断りしたいと思います」

 澤井さんの、顔色が急に変わった。

 でも、すぐにいつも通りの優しい表情になった。

 グラっ! 私の身体が急にバランスを崩すのが分かった。

(な、なに……立っていられない。意識がなくなりそう……)

 澤井は、倒れ込む楓の身体を、しっかりと抱きしめた。

 大事そうに、愛しそうに、楓の身体を持ち上げた。


 一人で、絵を描くのも慣れてきた。

 あれから、澤井が深夜のマンションに来る事はなかった。

 澤井も、自分の個展があるから忙しいのだろう。

 自分自身も、個展があって多忙だったのもあるし、楓にまともに連絡出来ていない。

 画家は、色んな人脈を持っていないといけない。

 それが、どんどん広がって、自分自身を成功へと導くのだ。

「楓に会いたいな」

 ずっと、楓の事しか頭になかった。

 どんな華やかな場に出ようと、深夜の頭の中は彼女の事だけだった。

「電話してみるか」

 深夜が、楓の携帯に電話すると、自動音声が流れた。

「オキャクサマ ノ オカケニナッタ ……」

 嫌な予感がした。

 また、頭の中で、バチ! と音がする。

「う、うう……」

 また思い出した。もうダメだ。楓を探さないと。



 食べ物を調理している匂いがする。

 頭が、ガンガンして、思わずその匂いに吐き気がした。

 恐る恐る目を開けた。

「ここは……」

 身体が、全く動かない。目だけを動かして確認する。

(ここは、澤井さんの家じゃない?)

「さ……澤……井……さ」

(澤井さんは、どこ? どこにいるの?)

 私が、思い通りにならない身体で藻掻いていると

「あっ気が付いたのかな?」

 澤井さんの声がした。

「ちょっと薬が効きすぎたのかもね」

「な……な」

(何の事? 薬って何?)

「今、夕飯作ってるから、しばらく待っていてくれる」

 まさか、映画館の椅子で飲んでいたジュースに?

 そんな事……澤井さんがするはずがない。

 あの優しくて、紳士的な彼がそんな事。

 キッチンからだろう、手慣れた包丁の音がする。

 しばらくして、澤井さんがトレーに乗せた物を運んできた。

「ほら、美味しそうでしょう」

 私に見せたのは、シチューだった。

「一緒に食べようと思って。シチューは嫌いかな?」

 動けない私の横で、澤井さんがスプーンに乗せたシチューを、フーフーと息で冷ましている。

 寝ている私の口元に、スプーンを寄せてきた。

 もう、飲むしかなかった。

 上手く飲めないで、唇の周りにシチューがつく。

 慌てて、澤井さんが、自分の指ですくってそれを舐めた。

「もう少ししたら、動けるようになるよ」

「な……なん……で」

(なんで、こんな事するの? 澤井さん、どうしちゃったの?)

「それとも、先にお風呂に入ろうか」

 私の服の胸のボタンに手を掛けてきた。

(いや! やっやめて!)

 ボタンが、一つ一つ外されてゆく……。

 下着だけになった時、私は少しだけ動けるようになっていた。

「いやっ!」

 澤井さんの顔を、咄嗟に殴った。

「どうして、嫌がるの?」

「澤井さんこそ……おかしいですよ」

「深夜とは、いつもこういう事してるんでしよう」

 そこにいるのは、澤井さんではなかった。

 姿は、澤井さんであっても、中身が違っている。

 下着も外されそうになった時

「ピンポーン! ピンポーン!」

 澤井さんの家のチャイムが鳴った。

「ピンポーン! ピンポーン!」

 何度もチャイムを鳴らしている。

「誰だろう。放っておけばいいよ」

 澤井さんは、私の下着に手を掛けた。

「やめろよ!」

 そこに立っていたのは、深夜だった。

 ゼイセイと息をして、走ってきたのがわかる。

 全身、汗まみれで、顔は紅に染まっている。

 深夜は、上着のシャツを脱ぎながら、澤井さんを私から引き離した。

 私の肩に、シャツが掛る。

「澤井、一体どういうつもりだ」

 澤井さんは、倒れ込んだが、すぐに起き上がって、私達を見ている。

「楓さんを、家に招待しただけですよ」

 サラっと言って、微笑んだ。

「どうかしてる。行こう、楓!」

 深夜は、そう言うと、私の手を引いて起こしてくれた。

 二人で、澤井さんの家を飛び出した。

 私は、下着の上に、深夜のシャツを着て裸足だった。深夜が、自分の靴を脱いで、履かせてくれた。

「ないより、いいかも。裸足は危ないから」

 深夜が、ギュっと手を握ってくれる。今、それがとても心強い。

 私は、覚束ない足取りで、彼の後に続いた。

 そうやって、その夜は過ぎ去っていった。


 窓から、朝の日差しが差し込んでいる。

シーツから、顔を出すように、その眩しさを受け止めた。

(昨日は、なんだったんだろう? 夢だったのかな)

 自分の着ている物を見て、現実だと突き付けられる。

(深夜のシャツだ。逃げる時に、着せて貰った)

「おはよう」

 隣で、声が聞えた。

 深夜が、顔を寄せてきて、キスしてきた。

(……!)

「ご、ごめん。俺も怖くなった?」

「ううん……ごめんなさい」

 信用していた澤井さん。大人で優しくて、カッコイイ。

 なのに、どうしてあんな事をしたんだろう。

 私が悪いのかもしれない……あんな風にさせてしまったのかも。

 でも、深夜が来てくれなかったら、どうなってしまっていたのか。

 考えると、怖くなった。

 まるで別人みたいだった。

 澤井さんは、今頃どうしてるんだろう。


 楓が澤井の事を考えていた頃、澤井は一人で海に来ていた。

 楓と一緒に以前来た海辺。

 なぜ、あんな事をしたのか、分からない。

「愛しすぎたから」

 言い訳のように、呟いた。

 吸っていた煙草を、携帯灰皿に落とす。

「それも違うかもしれない」

 今まで、深夜だけを見つめて生きてきた自分。

 天才と言われる、自分だけの先生。そこに、妙なモノが舞い込んできた。

 妙なモノ。可愛すぎる一人の女性。

 大神明日香とは、比べものにならない程、美しく綺麗で純粋。

 芸術を愛する者なら、必ず彼女に目をつけるだろう。

 初めて見た時から、その魅力に吸い込まれた。

 初めて見た時から、好きになった。

 初めて見た時から……。

 澤井は、いきなりその場に座り込んだ。

「あはははは……」

 声を上げて、笑った。

 いつまでも、笑っていたい気持ちだった。

―― もう手遅れなのに ――

 あんな事をして、許されるはずがないのは知っていた。

 深夜とも、二度と交流はないだろう。

 楓からも、軽蔑され恐れられる。

「一度に、二人を失うのは辛いね」

 また、煙草に火をつけて吸う。

 楓の前では、なるべく一本しか吸わないようにしていた煙草。

 でも……もう一度だけ、楓を見る事が出来たら……嬉しいだろうな。

 海外行きの話は、もう決まった。もうすぐ、予定の日は訪れる。海外で、もっと絵の勉強を、本格的に出来る。澤井が、昔から考えてきたプランだ。ようやく、自分の夢が叶う事になる。二人の事も、忘れられる気がした。

「よっと」

 腰を上げて、砂浜を歩き出した。彼の背中を、海風が強く煽った。俯いて歩く、澤井を潮風の香りが包み込んだ。


 深夜に渡すものがあると、はっきり言った。

―― 大神明日香さんからの手紙 ――

 読める範囲で、私が清書した。本当に読める範囲だけど。

「楓!」

 名前を呼ばれて、振り返ると、深夜がやって来た。

 深夜の提案で、今日は外で会う事にした。

「いつも、俺のアトリエ兼自宅だと、息がつまるでしょ」

 深夜はそう言って、はにかんだように笑った。

 深夜は、さりげなく私の右側に来て、手を繋いだ。

「あ、あの……」

「なに?」

「これ、生前の大神さんの手紙なんだけど」

 深夜の表情が、凍りついたようになっている。

 私は、妹の静香さんの事も、手紙の内容も、全て話した。

 手紙を、深夜に渡した。

 深夜は、最初は開かなかったが、ゆっくりと手紙を開いた。

 深夜の瞳から、涙が流れた。

 私は、隣でただ見守るしかなかった。何もしてあげられない。

 私は、先に内容は読んでしまっている。

「やっぱり、そうだったんだ」

 彼は、手紙をギュっと握りしめた。

「あの記憶は、正しかったんだ」

 フラフラと歩き出す深夜に、私は抱きついた。

「深夜! 落ち着いて……お願い」

 私の声で、ハッとなったように深夜が立ち止まる。

「ご、ごめん。俺、動揺しちゃったみたい」

 そう言いながら、ますます大粒の涙を流した。


 手紙の内容は、まず深夜への謝罪が述べられていた。

 なぜ、自分が死を選んだのかと。

 深夜の事を、どれだけ愛しているか。

 そして、最後に奇妙な事が書かれていた。

 小さく、鉛筆が上手く擦れる事なく、見えない部分。

 これは、イニシャルかな? うーん、違うかな?

 深夜は、気が付いていないみたいだ。

 シャツの袖で、涙を拭っている。


 大神さんの手紙を読んでから、深夜は自宅に引き籠もる事が多くなった。

 余程、ショックだったのか、食事もあまり摂らない。

 絵も、描く事もなく、いつもソファーに座って、ぼんやりしている。

 声を掛けにくいが、勇気を持って話しかける。

「深夜……夕飯、食べた方がいいよ」

 会社の帰りに、食材を買って、夕飯の準備をした私が言う。

「あ、うん。食べるよ。有難う」

 彼は、食事を並べたテーブルに近づいてきて、椅子に座った。

 頂きます。と言うと、深夜は、食べ始めた。

 私は、何となく深夜を眺めていた。

―― 失われた左腕 ――

 深夜を、あの時、突き飛ばした犯人は、大神さんだった。

 手紙には、その為に深夜の左腕が失われた事や、一つ間違えれば死んでいたかもしれない事など書かれていた。

 そして、何度も謝罪の言葉が書き綴られていた。

 大神さんは、この手紙を届けて、自殺しようと思っていた。

 手紙が届かないうちに、大神さんは自ら命を絶ってしまったけれど。

 深夜を、裏切って別れてしまった事にも、彼女は執着していた。

 ストーカーのように、いつも深夜に分からないように傍にいた。

 別れても、大神さんは深夜を愛していた。

 それなのに、相手にされない事と悔しさが鬱々と構築されて、犯行に及んだみたいだ。

 歪んだ愛情。と言ってもいいのだろうか。

 最後に、彼女はこう書いてあった。

―― この事は……に伝えてある ――

 そこだけ、読めない。

 誰かに、この手紙の内容を伝えたって事?

 私が、頭の中を整理しようと思っていると

「お、おかわりいいかな」

 深夜が、ほとんど食べ尽くされた食器を見ながら、私に言う。

「うん、たくさん作ったから、食べて」

 良かった。今日は、食欲があるみたい。

 深夜は、美味しそうに食事を平らげた。

 このまま、元気になってくれればいいのだけど……。

 深夜の、この後がとても心配だ。

 元に戻るのだろうか……時間が解決してくれるのだろうか。

 心の回復までは、私が知る事は出来ないけれど。

 

 深夜は、途中になっていた、絵を描き始めた。

 彼は、色んな絵の具を使いながら、一筆一筆、丁寧に描いてゆく。

 私は、深夜が絵を描いている姿も好きだった。

「そんなに見られたら、何か恥ずかしい」

私の視線に、気が付いていた深夜が言う。

「あのね」

 深夜が、急に真面目な顔をして、私に向き合う。

「明日香の事は、恨んでないよ」

 大きな瞳は、瞬きもせず、私を見つめている。

「片腕になったけど、その代わり……楓と出会えた」

 筆を置くと、私の隣に来た。

「初めて会った時から、好きになりました」

 いつもと違う、深夜の口調。

「俺と、結婚して下さい」

 そう言うと、彼は頭を下げて、一礼した。

 私が驚いて、動けないでいると、深夜は困ったように息を吐いた。

「やっぱりダメだよね……俺なんて」

「そんな事、言ってないよ」

「こんな身体だし、年下だから」

「身体も、年齢も関係ないよ」

 私から、深夜の柔らかい唇にキスした。

「結婚します」

 私は、彼の申し出を承諾した。

 深夜の瞳が、大きく開かれた。

「ほ、本当にいいの?」

「うん! 深夜、愛してるよ」

 私は、深夜の胸に飛び込んで、彼を抱きしめた。深夜も、強く抱きしめてきた。

「愛してる、楓」

 お互いの瞳と瞳を合わせて、微笑む。

 深夜の、形の良い朱めいた唇が近づいてきた。

 キスを何度も交わす。

 私達は、今とても幸せだった。こんなにも、幸せでいいのかと思うくらい。

 夢中でキスをする、私達二人を祝福するかのように

 今日は、澄み渡る美しい青空が広がっていた。


 私の携帯が鳴った。自分の部屋で、深夜との将来を考えている時だった。

 澤井さんだった。

「はい……」

 恐る恐る、電話に出る。

「楓さん? 澤井です」

 急に、あの異常な行動をした時の、彼を思い出した。

「なんでしょうか?」

 今、私は深夜と婚約して、満ち足りた日々を送っている。

「明日、日本を発つ事になってね」

 以前言っていた、絵の勉強に出掛けるのだろうか。

「どうしても、貴女にだけ知らせておきたいと思ってしまって」

「私、深夜と婚約したんです」

 少し間があいて、返事が返ってきた。

「それは、良かったね。おめでとう」

 澤井さんの声は、自然そのものだった。

「出来れば、明日……楓さんに会いたいな。最後に」

「……」

 私は、何も答えなかった。

 澤井さんは、静かに電話を切った。



 私は、空港のロビーにいる。

 深夜には、昨日の澤井さんの電話の事は話してある。

「俺は行けない」

 深夜は、そう言うと唇を噛みしめた。

「私は行くわ」

 最後に確かめたい事がある。澤井さんが、しっかり答えてくれればいいけど。

 どうしても、澤井さんの口から聞きたい事がある。

 澤井さんの姿を、探すがなかなか見つからない。

 空港は、時期的に混み合っていた。

「どうしよう、時間がなくなってきた」

 澤井さんに教えて貰った出発時間が、どんどん迫ってきている。

 その時、人混みから、澤井さんがチラっと見え隠れした。

「澤井さん!」

 彼の名を呼ぶと、気が付いたようで、手を上げて微笑んでいる。

「来てくれたんだね。嬉しいよ」

 澤井さんは、キャリーバックを持ち直しながら、微笑んでいる。

「お聞きしたい事があって」

 彼は、最初に会った頃と何も変わっていない。深い栗色の髪。長身でスラっとしたスタイル。

「何かな? 結婚式の事なら私は分からないよ。未経験者だからね」

「そんな事ではないです」

 私は、息を吸い込んで、一気に言った。

「大神さんの自殺の本当の原因。貴方ですよね、澤井さん」

 澤井さんは、微笑んでいるだけだった。

「深夜を突き飛ばしたのは、大神さん。それを、彼女は貴方にだけ伝えた」

 続けて言った。

「そんな彼女を、貴方は酷く非難して、彼女はますます追い詰められた」

「そして、助けもなく、大神さんは自殺した」

 澤井さんは、表情一つ変えないで、ただ黙って聞いている。

 私に、一歩近づき、顔を寄せた。

「一緒に来ないか」

 私は、澤井さんを睨んだ。背が高いので、下から覗くようになる。

「もう、一度だけ言う。一緒に来て欲しい」

 澤井さんは、私の腕を掴んだ。

「質問に答えて下さい」

「大神さんの手紙に、貴方のイニシャルが書かれていた。どういう事ですか」

「関わっていたのは、分かります。そうじゃないんですか?」

 澤井さんは、フフフっと鼻で笑った。

「どうなのかな? あの女は汚らしくて、嫌いだったから」

「嫌いだった?」

「そう、先生にも相応しくないし、見ていてイライラしたよ」

「だから、相談にも乗らなかった。そうですね?」

「深夜の事は、どう思ってるんです?」

「先生は先生だよ。例え嫌われていたとしても、私はこれまでと変わらず慕っている」

 顔を持ち上げて、目を細めた。

「嫉妬はしていたと思う。先生の才能にだけど。嫉妬しながらも、尊敬していた」

「先生については、これ以上は言えないな」

 澤井さんは、自分の唇に人差し指を押しつけた。

「楓さん……本気だった。本当に、結婚したいくらい好きだった」

「怖い思いをさせて、ごめんね」

 澤井は、腕時計を見て、周りを眺めた。

「もう、行かないといけない」

 私を掴んでいた手を離した。

「じゃあ、またいつか会えるといいな……さようなら」

 私をすり抜けて、ゲートの方へ向かう。

 澤井さんの姿が、どんどん小さくなってゆく。

 私は、いつの間にか、泣いていた。

 何かを、失った実感が、沸きだしてきた。もう、戻る事のない、もう一つの欠片。

 私は、涙で何も見えなくなるまで、澤井さんの姿を見続けた。

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