086 ディモルフォセカ01
少しであれば走れるくらいの広さを活かし、扉を除く三辺には色とりどりの花が並んでいる。大人三人が余裕で眠れるほどの大きなベッドは、大小さまざまな動物のぬいぐるみで埋め尽くされている。脚の細い丸テーブルには同じデザインの椅子が二脚。天板には一輪挿しの花瓶が置かれており、名も知らぬ可愛らしい桃色の花が活けてあった。
部屋中を満たす花の甘い香りに、シスタノはうっとりと目を細める。
「どうぞゆっくりしていってね」
シスタノを見やり、女は言う。
「お薬と包帯を持ってくるわ。その辺に掛けて待っててね」
「あ、ありがとうございます……」
正直、立っているのもやっとだったシスタノは、すかさず椅子に腰を下ろす。
これがもしソファーだったら即座に眠っていたかもしれない――ギリギリの所で意識を保ちながら、シスタノは部屋の主の帰りを待つのだった。
そういえば、と今さらながらに気付くが、女の名前を聞いていなかった。部屋に通してもらいながら名前さえ知らないなんて、失礼ではないだろうか。少々不安を抱きながら室内を見回していると、さほど時間をかけずに件の女が戻ってくる。
「ごめんなさいね、しーちゃん。待たせちゃったかしら」
「あ、いえ。大丈夫です」
「普段お薬と縁のない生活をしているものだから、どこにしまったか忘れちゃったのよ。うふふ。あたしって忘れっぽいところがあるわねえ」
「あの、すみません」
自分の頭を軽く小突いて舌を出す女を見上げながら、シスタノは割って入る。
「わたし、まだあなたのお名前を聞いていなくて……」
「あらあら。そういえばそうだったかしらね」
別段気にすることもなく、女は笑う。しかし――
「うーん。名前名前。あたしの名前。何だったかしら」
「ええ……」
ふざけている様子ではない。頬に手を当て、彼女は真剣に悩み始める。
まさか名前を訊いて悩まれるなどとは想像もしていなかったシスタノは、そんな彼女の様子に思わず戸惑いの声を漏らした。
「ねえ、しーちゃん。あたしの名前、知らないかしら?」
「わたしが訊いてるんですけど……」
「あら。そうだったわね。うふふ。あたしって本当に忘れっぽくてダメねえ」
「……いや、自分の名前まで忘れちゃダメでしょう」
すると女は何か思い付いたように、周囲の花へと首を巡らせる。
「ねえ、しーちゃん。この中であなたが一番好きなお花はなあに? あたしの名前はそれと一緒にするわ。みんなあたしの大好きな可愛いお花だから、どれを選んでもいいわよ」
「ええ……」
飛び抜けすぎた彼女の発想に、シスタノは眉間にしわを寄せる。
とはいえ、この話が終わらないと治療してもらえないだろう。うんざりした心の中を悟られないよう気を付けながら、ぱっと目についた花を指さす。それは子供の握り拳ほどの大きさの花弁を持つ、黄色の花だった。
「あの花……、ですかね」
「まあ。ディモルフォセカね」
胸の前で手を合わせ、女は嬉しそうに声を上げる。
「じゃあ決まりね。あたしの名前はディモルフォセカ。ディモルって呼んでね」
「…………はい」
彼女――ディモルは本当に、こんなことで名前を決めてしまったようだ。上手い切り返しが思い付かないシスタノは、ただ頷くしかできなかった。
「で、では……、ディモルさん」
「なあに、しーちゃん?」
「申し訳ありませんが、治療の方を……」
「あらあら。そういえばそのために招いたんだったわね。忘れてたわ」
うふふと笑い、ディモルは手のひらを上に向けてシスタノへと伸ばす。だがその上には何も乗っていない。どう反応すべきかシスタノが悩んでいると、突然、何もないはずの手の上の空間が小さく発光し始めた。この部屋に移動したときと同じ、薄紫色の光だ。
光はすぐに消え、代わりにちょうど手に収まる大きさの箱が現れた。どうやら光は物質を移動させる魔法だったらしい。
「す、すごい……」
「うふふ。そうでしょう。最近この色がお気に入りなのよねえ」
「いや、そっちじゃなくて」
シスタノの指摘に「分かってるわよう」と微笑み、ディモルは箱を開けた。
中に入っていたのは魔封石だった。
「……なんで魔封石が箱に入ってるんですか?」
「だってえ、魔封石って可愛くないんですもの」
可愛くないから箱に入れて隠しておいた、と。
確かに魔封石は一見ただの丸い石だし、箱には可愛らしい装飾が施されている。
「ではさっそく治療しましょう。しーちゃんが倒れちゃったら大変だもの」
今まで散々引き伸ばしておきながら、このセリフである。天然の一言で済ませるにはちょっと度が過ぎている気がする。
自分の名前すら忘れてしまった彼女を眺めながら、シスタノは嘆息する。
シスタノにとって唯一幸運だったのは、魔封石の魔法を解放する『力ある言葉』をディモルが憶えていたことだった。





