085 シスタノ04
女が前方に両手を伸ばすと、何もなかったはずのそこに薄紫色の光が現れた。
きっと魔法の類なのだろうが、彼女は詠唱しなかった。
「こ、これは……」
本来魔法とは、それを構築するための詠唱が不可欠である。家で言えば設計図を描き、材料を揃え、実際に建築するまでの部分であり、そこまで完成してようやく人が住める――魔法が発動できる状態となる。
それを彼女はほんの一瞬で家を建ててしまったということだ。
こんな芸当ができる人間を、シスタノは一人だけ知っている――いや、人間ではないか。なぜなら彼はシスタノが憎むべき敵、魔王なのだから。
「うふふ。驚いたかしら」
驚愕するシスタノを眺め、満足そうに女は数度頷く。
「そうなのよ。真っ白じゃ味気ないから、薄紫色に染めてみたの」
「いや、そこじゃなくてっ」
いや、それもすごいけど――心の中でそう付け足して、改めて光を見やる。
おっとりと上品に笑う彼女はあまり世間を知らなそうで、どこか抜けているふうである。しかしアルと同じように詠唱を必要としない魔法の使い手である彼女は、その実力も人間離れしているように感じた。
女よりひと回り大きな光は、消えることなく煌々と彼女を照らしている。
「さあ、行きましょ」
「行くって……、どこへ?」
シスタノには成すべき使命がある。東の魔王を討伐するまでは他事に気を回している余裕はない。まあこの抜けた女に出会うまでは、それも半分諦めかけていたのだが。
「すみません。わたしにはまだ、やらなきゃいけないことが……」
そう強がってみるものの、いまだ腕の流血は止まらない。持ってきた分の魔封石はすでに使い切っているため、このまま放っておけば確実に気を失い、ひどければそのまま死んでしまうだろう。
女はそんなシスタノの身体を支えることもなく、
「うふふ。そんな怪我じゃあ無理よ。さあさあ、一緒に行きましょう」
「で、ですから、わたしには……」
「やらなきゃいけないことって言っても、倒れちゃったらできないじゃない。まずはその怪我を治さないと、ね?」
にこやかにシスタノを眺め、手を差し出す。
「……どこに行くんですか?」
項垂れていた顔を上げ、シスタノは問う。
女の提案にも一理ある。いや、一理どころではない。死んでしまっては元も子もないのだ。彼女が怪我の手当てをしてくれるというのならば、シスタノにとっても悪い話ではない。
「さっきも言ったじゃない。あたしのお家よ」
「でも、この辺りに家なんて……」
この一帯は背の低い丘の只中であり、多くの凶悪な魔物が徘徊しているため人間が住めるような家屋などないはずだ。
そんなシスタノの反応を見て、女はまた満足そうに頷いた。
「うふふ。そのための空間移動じゃないの」
「空間……、移動?」
「この可愛い光の壁がそうよ。ここをくぐればあたしのお家までひとっ飛びなの」
「こ、これが……」
女が顕現させた光はいわゆるワープの魔法らしい。なるほど、この魔法があればどこにだって一瞬で移動できるのだろう。
自分がよく知っている魔王はこの魔法が使えなかった。使う機会がないから、と本人は言っていたが、今となってはどこまで本当なのか疑わしいものだ。
「……分かりました。一緒に行きます」
後のことは怪我が回復してから考えよう――そう決断する。
女は優しげに微笑み、薄紫色をした光への道を開けた。
「お先にどうぞ、可愛らしい剣士さん」
「シスタノです。シスタノ・ゾーン」
「シスタノ……。じゃあ、しーちゃんね」
「し、しーちゃん……」
可愛いでしょ、と女は微笑む。しかし今は呼び方に不服を述べている暇はない。早く治療してもらわなければ、そろそろ本当に気を失ってしまいそうだ。
おぼつかない足取りでもって、シスタノはゆっくりと光に向かって進む。
「じゃ、じゃあお先に……」
「はあい。どうぞどうぞ」
女に促されて恐る恐る光に腕を伸ばすと、何の抵抗もなく手の先がその中に飲み込まれていく。まるで空気を押しているように、反発力は一切ない。
ちらりと女の方を見やるが、彼女は変わらずにこにことシスタノを眺めている。
そして――シスタノの姿はすっぽりと光の中に消えていった。
「……わあ」
ぎゅうっと瞑っていた目を開けると、そこは広々とした室内だった。
そういう系統が好みなのだろう、目に映るすべてのものが淡い少女チックな色で統一されている。パステルカラーを薄めた、しかし目がチカチカするような色合いに、シスタノは思わず感嘆の声を上げる。
「すごい……。お姫様の部屋みたい」
「うふふ、ありがとう」
後から姿を現したこの部屋の主は、シスタノの反応を見て嬉しそうだ。
「ようこそ、あたしのお家へ」





