075 潜入04
大きな着水音と水飛沫を上げて湯の中に落下したのはヤニクだった。
打ちどころがあまり良くなかったのか、なかなか顔を上げようとしない。やがて水面に浮かんだ彼は頭に大きなコブを作って気絶しているようだった。
「きゃああああ!」
シスタノは今度こそ悲鳴を上げる。アルが彼女の口を塞ぐ間もなかった。
「な、なんでヤニクさんがここにっ?」
「落ち着け、シスタノ。よくあることだ」
「こんなことがよくあってたまりますか!」
タオルで前を隠しながらじりじりと後退するものの、足を滑らせて尻餅をついてしまうシスタノ。湯の中に転んだので平気そうではあるが、もし石面だったら腰の骨を打ち付けてしまっていたかもしれない。
シスタノは立ち上がることなく、今度は座った状態のまま器用に後退し始める。
「大丈夫だ、この男は気絶している。お前の裸は見られない」
「なんで『自分は見てもオーケー』みたいな空気を出してるんですかっ」
「駄目か?」
「当たり前ですっ」
「しかし俺たちは――」
俺たちは仲間だろう――アルがそんな的はずれな言い訳を言い切る前に、二人の目の前で再び大きな水飛沫が上がる。どうやら上から落ちてきたようだ。
「きゃっ! こ、今度は何ですかっ?」
狼狽えるシスタノの声に応えるように水面から姿を現したのは――
「ふむ。ヤニクはこいつに驚いて落ちてきたのだろうな」
全身毛むくじゃらの猿に酷似した魔物、ゲンティチだった。
人間と変わらない体躯に盛り上がった筋肉。その腕力は大人三人が両手を回してようやく幹を一周できるくらいの巨木を一撃でへし折れるほどだとか。魔物研究所の報告によると、この魔物は滅多に人前に現れることはないが、無類の温泉好きとしても知られているという。
ゲンティチは二人を敵を認識したようで、しきりに唸り声を上げている。
「そ、そんな……。こっちは丸腰なのに……」
タオルで身体を隠すことも忘れ、シスタノは魔物の盛り上がった筋肉に驚愕している。そんな彼女を見やり、ゲンティチは彼女を最初の標的に定めたようだ。
甲高い奇声を上げてシスタノへと飛び掛かる魔物。為す術もないシスタノは強く目を閉じて――
「……えっ?」
急に自分の背を押される感覚に、思わず目を見開く。
彼女の目の前にはアルの胸があった。彼がすばやくシスタノを抱き寄せ、魔物の攻撃から救ったのだ。
「あ、あの……」
「心配するな。お前は俺が守る」
攻撃が空振りして体勢を崩している魔物にアルは手を伸ばす。
次の瞬間、ゲンティチの身体は空高く舞い上がり、その身体を何本もの魔力の槍が貫いた。そして強風によって温泉の外へと吹き飛ばされ、以降、魔物が温泉内に戻ってくることはなかった。
「シスタノ、怪我はないか?」
「え? あ、ああ、大丈夫です……」
自分の胸がアルの肌に密着している。だがなぜか嫌な気持ちにはならなかった。
と、その時――
「ろうしたの、シスタノお? なんか悲鳴が聞こえたんらけろ……」
脱衣所の引き戸が開く。先ほどのシスタノの悲鳴が聞こえたのだろう、若干酔いの覚めたレインが浴場に戻ってきた。そして風呂場でシスタノを抱き寄せる全裸のアルと、湯船に浮かんで気絶しているヤニクを見やり――
「何やってんのよ、あんたらはああああ!」
一気に酔いの覚めたレインは、こちらも肌を隠すことなく突っ込んでくる。
「待て、レイン。これには深いわけが……」
「知ったことかああああ!」
アルとヤニクの男二人はレインにぶん殴られ、魔物の後を追うように夜空の彼方へと飛んで消えていった。
部屋に戻ったレインとシスタノは、留守中に敷かれていた布団に潜り込む。
「いやあ、お布団でぬくぬくしてる時間ってほんと至福のひとときよねえ」
「そ、そうですね……」
布団から顔を出したレインに、シスタノは笑顔を貼り付けて返す。
さっきアルを力一杯殴ったばかりだというのにこの切り替えの早さ――シスタノはレインの怖さをまたひとつ知ったような気がした。
「と、ところでアルさんは?」
「一晩お仕置き。今夜は部屋に戻らないわよ」
レインがそう言って笑っていた頃――部屋の外では大きな蓑虫が二体、屋根から吊るされていた。その正体はもちろんアルとヤニクである。
どこから取り出したのか全身をロープでぐるぐる巻きにされ、指一本動かせない状態である。今はヤニクが気絶しているから静かなものだが、彼が目を覚ましたらどうなるか、あまり考えたくはない。
「ふむ、今夜は星が綺麗だな」
やることもなく空を見上げていたアルは、誰にともなくそう呟くのだった。





