007 怪物01
崖や岩場がないのがせめてもの救いだった。
腐ってはいても大地は大地。足を踏み込めば、同じだけの力でもって自分の体重を支えてくれる。多少ぬかるんでいる部分もあったが、滑って転倒してしまうほどではなかったし、こうして普通に歩く分には何も問題はなかった。
夜のうちに魔王城を出た二人――魔王アルヴァリオスと少女剣士レインは、日の出を待つこともなく歩き続けた。
「暗いなあ。表現としては黒いのほうが近いかもしれないわね、これ」
「お前が明かりを灯すなと言ったんだろう。文句を言うな」
「まあ言ったけどさ……。てか、文句じゃないし。ただの感想だし」
魔王の腹心たるエンダナがいつ主の不在に気付き、探し始めるとも知れないこの状況下において明かりを灯すのは、わざわざ自分たちの居場所を相手に教えているようなものだ。いくら頭の回らないレインであっても、そのくらいは分かる。
アルから返してもらった装備を身につけ、静かな闇夜によく響く金属音を響かせながら、レインは自身の名采配に胸を張る。
「それよりあんた、瞬間移動とか高速移動とかの魔法はないの?」
「瞬間移動の魔法は使えないな。使う機会がないから覚える気もなかった」
「そういえば引きこもりだったわね……」
魔王城の近辺から出たことがないという彼にとって、瞬間移動はたしかに不要な魔法だったのだろう。本人から聞いた話によると、どうやら彼は今日までの毎日を掃除や料理、城――もうこの際屋敷と呼ぶが、その周辺をぐるりと散歩して過ごしていたらしい。
彼を討つために何人もの戦士たちが街を旅立っていったが、屋敷まで辿り着いた者は一人もいないらしく、アルにとってレインは初めての客人だったとのことだ。
「って、ちょっと待って。あんた今、『瞬間移動は』使えないって言ったわよね」
「ああ、言ったぞ」
「じゃあ高速移動の魔法なら使えるってこと?」
「もちろん使える。だが、あらゆる動きが早くなる分、心臓の鼓動も連動して早く打つからな。人間が使えばあっという間に寿命が縮まるぞ」
「あ、やっぱいいです……」
結局は自分の足で地道に歩くしかないというわけだ。魔王城へ向かうときも似たようなルートを通ったはずだが、そのときと今とでは緊張感がまるで違う。もちろん今も緊張していないわけではないが、命をかけた戦いに赴く心境と街に戻る心境とでは比較にならないだろう。
ともあれこんなに真っ暗では、目隠しをして歩いているのとなんら変わらない。先ほどから何度も、となりを歩くアルに肩をぶつけている。当初はぶつかるたびに謝りを入れたものだが、こう何度も繰り返すと、もう謝ることさえ気まずい。
幸いアルはそれに関して何も言ってこないし、だったらもう謝らなくてもいいやというのがレインの正直な胸の内だった。
「アルはすごいわよね。こんなに真っ暗なのに、まるで前が見えているかのようにまっすぐ歩くんだから。私なんて足取りも定まらなくて……」
「まあ実際、見えているからな」
「そうよね。アルには見えているから……、ん?」
露骨な引っ掛かりを覚え、レインは立ち止まる。
アルも足を止めて振り返る。その様子はレインには目視できないが、彼の足音は聞こえてこない。彼もきっと立ち止まったはず――わずか五、六歩の距離だというのに、それを判断できる材料は音しかない。
「あの……、いま、何て?」
ひょっとしたら聞き違いかもしれない。空耳かもしれない。だって指の先も見えないくらい真っ暗なのだから、いくら彼の目が良くてもそんなはずは……。
特に気取ったふうでもなく、アルは平然と答える。
「見えているぞ。前も地面も、お前の顔も」
「だ、だったら早く言いなさいよ!」
時折強く吹く風の音しか聞こえない静寂の大地に、レインの叫びが響き渡った。
それからというもの、レインはアルの外套を片手で握り、彼に先導してもらう形を取ることにした。彼の目が見えているのであれば、危ない地形は通らないだろうという思いからだ。
しばらくは黙々と歩みを進めてきた二人だったが、不意にアルが思い付いたように声をかける。
「しかしレイン。お前もよく一人でこんなところを歩いてきたな」
この辺りは濃い魔力の影響で日中も薄暗く、ずっと昔から棲みついている危険な魔物だって出るはずだ。並の人間であれば、ほんの一撃で葬られてしまうだろう。
しかしレインはいくつもの危険を掻いくぐり、切り抜け、乗り越えてきた。それは強運だけではない、彼女の類まれなる剣の腕にこそある。そしてもちろん、自身を奮い立たせる強い意志。
アルの外套を離さないよう、ぎゅうっと握りしめている今の彼女の姿からは想像しづらいが、人間たちの世界では相当強いはずだ。
「たった一人で我が邸宅に乗り込むとは見上げた勇気だ」
「……本当は四人だったんだけどね」
「うん? 他のやつらは死んだのか?」
この一帯は人間が生息できない地域である。レインを除けば魔王城に辿り着いた者が一人もいなかったのが、それを証明している。
ともすれば、三人は道中で魔物に襲われて絶命したのだろうが――
「逃げたのよ」
風に消え入りそうなその声は、静寂の中だからこそアルに届いた。
恨んでいるふうではない。まるで他人事のように、レインはこぼす。
「みんなが逃げ出すとき、リーダーだったやつに言われたわ。『お前は怪物だから一人でも大丈夫だ』って」
「怪物?」
「あはは。ひどいよね、女の子に怪物だなんて……」
うまく笑えている自信はない。この闇夜でも視界が利くというアルが、このときばかりは疎ましかった。