003 邂逅03
うっすらと目を開くと、さほど遠くない目の前に、木目の美しい壁があった。そしてそれが壁ではないと気付いたのは、背中にかかる重力からだ。
どうやら自分は眠っていたらしい。身体をふわりと包む、ひと月ぶりの柔らかい感触に、このまま起き上がることを全身が拒否しているようだ。もう少しだけ眠らせて――幸福なひととき、二度寝を堪能しようと再びまぶたを閉じたとき、一瞬、視界の端に何かが映った。
いつもの彼女であれば、すばやく起き上がってそれを確認しただろう。しかし残念なことに、今のレインはふわふわのお布団の魅力にとりつかれた、ただのねぼすけな女の子なのだ。彼女の頭の中にはもう睡眠欲しかなく、それ以外のあらゆる欲や感情はぺったんこに押し潰されてしまっている。
だからこそ――
「おい、お前。そろそろ食事の準備ができるぞ。起きてこい」
聞き馴染みのない声――それも自分とほぼ同年代の男から声をかけられたとなれば、面白いくらい慌てて飛び起きるのだった。
上半身を起こして首を巡せると、室内の様子がよく分かる。
広めの寝室で、ベッドはひとつ。この家屋の外見で大体分かってはいたが、内装もひどく一般的だ。壁に設置されたちいさな窓。外はやはり真っ暗だったが、天井の中央に浮かぶ球体が、温かい光でもって室内を照らしている。ベッドの向かいに位置する扉は半分ほど開き、その奥から例の青年――魔王アルヴァリオスが顔を覗かせていた。
まったく似合っていない、真っ白なエプロン。片手にはフライ返しを持って、それを器用にくるくる回しながら、レインの様子を眺めている。
そうだ。私はこの男の前で倒れて――慌てて自分の身体をまさぐるが、思ったとおり、剣も鎧も外されていた。幸い服は着たままだったが、この男が彼女の身体を触り、装備をひとつずつ外していったであろうことは想像に難くない。
「ちょっとあんた! 私の身体に、さっ、触ったでしょうっ」
「そりゃあ、触らなきゃ鎧を脱がせられないからな」
「な、なんで脱がせたのよっ」
「いや、鎧を着たままだと寝違えるぞ。見たところお前は剣士みたいだし、肉体労働で疲労した身体ってのは、正しい姿勢で休息をとらないと回復しないんだ。そのくらい知ってるだろう」
魔王の言うことは正論である。しかし敵対する相手に言われると、それが自身に刺さるほど腹が立つのも当然のことだ。
口の立つ彼とは違い、どうにも感情論で押し切ってしまいがちなレインがもっとも苦手とするタイプだった。
「ところで食事の用意ができたんだが。お前も食べるだろう?」
「……変なものは入っていないでしょうね」
興奮したら、途端に腹が減ってきた。
街を出てからここ一ヶ月、ろくなものを食べた記憶がない。
「人間が食べられるものしか使っていない」
「私の剣と鎧は?」
「ああ、それなら隠しておいたぞ。また妙な真似をされたら困るからな。……まあ、困ったことになるのはお前のほうなんだが」
「うぐっ……」
ここに辿り着いてからの一連の出来事を思い出し、返答に詰まる。たしかにまた息を止められたり、一切の動きを封じられたりしたら、彼の気分次第では今度こそ終わりだ。
ここはひとつ彼の思惑に従い、隙を見て脱出する。装備のことはこの際すっぱり諦めたほうがいいだろう。街に戻って状況を報告し、今度は多数の猛者を率いて再び魔王に挑むのだ。
そのためにも今はおとなしくしておくべきだ――ごくりと唾を飲み込み、レインは魔王の背を追って寝室から歩き出た。
「ええ? うわあ……」
ダイニングルームらしき空間に足を踏み入れると、レインは感嘆の声を上げた。
広々としたスペースに、大きめの丸テーブルが三脚。そのそれぞれに椅子が四脚ずつ収納されており、シンプルな造りではあるものの、よく掃除が行き届いた洗練された空間という印象を受ける。
「すごく綺麗……」
「いつも掃除くらいしかやることがないからな。暇つぶしの成果だ」
ほうっと息をつくレインに、しかし魔王はそっけない。
「なんでテーブルが三つもあるの?」
「いつ客人が来てもいいように並べてある。まあ、使われた試しはないが」
「ふうん……」
そういえば、ここに客が訪れるのはレインが初めてだと言っていたような記憶がある。ということは、彼はここに居を構えてからずっと、たった一人で過ごしてきたということか。
どのくらいの間、彼は独りきりだったのだろう――そう思うと、不思議に憐憫の情さえ湧いてくる。相手は人間の敵、魔王だというのに。
「どこでもいいから座っていろ。いま料理を持ってくる」
「うん」
そう頷いて、一番近くの席へと踏み出したレインの背後から、「あ、それとな」と魔王が声をかける。
「やはり下は履いておいたほうがいいぞ。風邪を引くといけない」
「……え?」
彼の言葉に視線を落とすと――たしかに上は着ていた。先ほど自分で確認もしたし間違いない。だが、そのすぐ下にはスカートではなく、顕になった太ももが伸びていた。
ずっと彼の背を警戒しつつ追ってきたものだから、ベッドから起き上がるときに気付かなかったのだ。
「あ、そういえば外したものはまとめて隠したんだった。すまん、やはり気にせずそのまま……」
「やかましいわ! 早く返せええええ!」
服の裾を押さえたレインの絶叫は、魔王がスカートを返すまで止まることはなかった。