第九話 脱落者
執行課3班の事務室には微妙な空気が流れている。2件続けて強制処分の内容が殺処分だったことで、次も殺処分なのではないかと予想され、次に執行担当となることが予想される清水と猪又の2人には、異様な緊張感が漲っている。一方既に執行経験済みの仲村は妙にハイな状態になっている。
「実際にやるまでは自分にちゃんとできるか不安もあったけど、やってみれば訓練と何も変わらないよ。清水と猪又も、やってみれば訓練通りだから別に緊張するほどのことでもないぜ。」
饒舌にしゃべる仲村に、清水が眉をひそめてたしなめる。
「わかったから少し黙れ。お前の声は神経に触るんだよ。」
しかし、仲村はやめようとしない。
「そう冷たいこと言うなよ。一緒に突入訓練を繰り返してきた仲じゃないか。経験者の俺が未経験のお前にちょっと助言してやろうっていうだけじゃないか。」
「だから一緒にやってきたんだからわかってるって言ってんだよ。お前だってやる前は結構緊張してたじゃないか。」
いつもは温和な清水が、珍しくいらだつような調子で返す。それでも仲村は止まりそうもない。
自分の番を待っている2人じゃなくてもちょっとうるさいなと思って、神坂はぼそっと呟く。
「任務の内容を考えたら、そんなに浮かれることじゃないじゃない。」
そう呟きながらも、仲村のこともわからないではない。実行する前の緊張と重圧は結構重いから、任務が無事に終わった時のその重圧からの解放感は相当のものだ。つい浮かれてしまうのも無理はないところがある。まあその解放感を、今重圧を感じている2人にぶつけてしまうあたり、仲村には人に対する配慮に欠けていると言わざるを得ないのだが。第一、理由はどうあれやっていることは人の命を奪うことだ。それに浮かれるというのはいくらなんでも不謹慎のそしりは免れないだろう。
猪又が誰に話しかけるでもなく小声で心情を漏らす。
「この、いつ命令が来るかわからずに待っているのはプレッシャーですね。しかも2、3日で来るのか、ひょっとして10日も20日も来ないのかもわからないとなると、神経が持ちませんね。」
それもそうだと思う。次の任務がいつ来るのか、どの程度の間隔で来るのかなど、まるで分らないのだ。今日来るか、明日来るかとじりじりしながら待ち続けるのは辛い。
「そうですね、そういう意味ではいきなり最初に振られたわたしは、待つ時間がなかった分だけ楽だったかもしれませんね。」
「いえ、一番最初にやる重圧は凄かったと思うから、楽だったということはないでしょう。」
「それはそうですね。指名された時は胃が絞り上げられるような感じがしたなあ。」
神坂の答えに、猪又がちょっと微笑んだ。そういう意味では、待つ苦しみを味わわないで済むのは、最初に甚大な重圧を受けた代償ということか。
そこへ河上班長が入ってきた。緊張感が漂いながらもどこか少し緩かった室内の空気が、一瞬でぴりっと引き締まる。
「令状が出た。次の実地訓練だ。執行対象者は山中多加志、男、32歳。神奈川県厚木市在住だ。現場は5階建ての市営住宅、3階の302号室だ。」
4人は緊張の面持ちで、無言でうなずく。
「今回の突入は猪又と神坂、猪又が執行担当で、神坂がサポートだ。」
前回が清水と仲村の突入だったのだから、まあ必然と言って良い人選だろう。未経験の猪又が執行役というのも順当だ。
「なお今回の対象者には、殺処分を執行する。」
やはりか、と神坂は思う。多分、まずは全員に殺処分の執行を経験させようという考えなのだろう。猪又の表情をちらりと盗み見ると、表情は硬い。ただ、それが緊張のあまり硬くなっているのか、実行する決意を固めているために硬く見えるのかは、うかがい知れなかった。
執行当日が来て、例によってワゴン車に乗り合わせて現場へ向かう。目的地までは少し距離があり、圏央道を使っても1時間半近くかかる。河上班長の運転する車の後席で揺られながら、猪又は声を落として神坂に話しかける。
「神坂さん、その……、人を殺した気持ちってどうですか?」
「えっ?」
突然の答えにくい質問に驚かされる。例え実際にそうだったとしても、達成感があるとか、上手くできて嬉しいとか、ちょっと答えられないではないか。しかしこういう質問をしてくるということは、やはり猪又には執行対象者を撃つことに躊躇いがあるのだろうと思う。だが、それが任務の執行課では、そういう発言は問題視されるのではないかと、少々危うく思う。ただ、高速道路を走る車の走行音に覆い隠されて、前席の人たちには何を話しているか聞こえていないようだ。神坂も声を落として、少しでも猪又の助けになればと考えて、答えにくいことも率直に答える。
「あの、期待に沿える答えじゃないんですけれど、わたし撃った時に執行対象者が暴れたから、まだ生きていると思ったじゃないですか。」
「そうでしたね。」
「それでそのまま止めも刺していないんで、撃ったのは確かでも、殺した実感がないんです。」
「そ、そうなんですか?」
「はい。だから人を殺した罪悪感とか持っていなくて……。あ、無事執行できた安堵感とか、犯罪被害の発生を防いだ達成感とかはあるんですよ。え……、と……、参考にならない……、ですよね。」
神坂がちらりと上目使いに猪又を見やると、自分の答えに呆れるかと思っていた猪又は、意外にも深く考え込んでいる風だ。
「なるほど……、そういうこともあるんですね。……つまり……、やってみなくちゃわからないってことなんですね。」
猪又は一人で納得したかのように、うん、うん、とうなずいている。神坂はこんな話しでは参考にならないかと思っていたが、どうしてどうして、猪又には何かの役に立ったようだ。強制処分執行を前に、これで猪又の気持ちが少しでも楽になるのなら良い。
目的地の市営住宅は築40年にもなろうかという古ぼけた建物で、5階建てだが階段しかない。全体にすすけた感じの建物の薄暗い階段を上って、3階の目的の部屋の前に行く。河上班長が執行対象者の在室を端末で確認し、猪又がドアの陰で拳銃を構えれば突入開始だ。神坂がドアの鍵を開ける。ドアを静かに引けば、猪又が躊躇いも見せずに突入して行き、神坂は後に続く。猪又は大柄な体躯にもかかわらず、静かに、そしてきびきびと動き、奥の執行対象者がいると思われる部屋に向かう。後に続く神坂は、バックアップのために拳銃を抜きながら、猪又の大きな背中に何か安心感のようなものを受ける。どうやら、特に不手際もなく任務を達成できそうだ。
無言で静かに突入していた猪又が、部屋に飛び込むと初めて声を上げる。
「山中多加志だな!」
それまで寝転がって雑誌を見ていた執行対象者が、突然の闖入者に仰天したのだろう、跳ね起きるようにして半身を起こす。驚愕した表情のすぐ下には発信機の首輪が見える。執行対象者に間違いない。猪又が拳銃を執行対象者に向ける。
「強制処分を執行する。」
執行対象者は突然の出来事に現実と認識できていないのだろう、自分に向けられた銃口に視線が吸い寄せられたかのように、銃口を凝視したまま固まっている。
ふと、神坂は異変に気付く。
「猪又さん?」
猪又は銃口を執行対象者に向けたまま、顔面をひきつらせながら額から脂汗を流している。全身が固まったように、拳銃を構えたまま微動だにしない。いや、よく見ると全身が細かく震えているようにも見える。後は引き金を引くだけだというのに、一体どうしたというのだろう。その時、呪縛から解かれたかのように執行対象者が声を上げる。
「う、うわあぁぁ。」
両腕、両足をバタバタさせ始めるが、腰が抜けたような様子でじたばたするだけで立ち上がることができない。しかし、このままではまずい。
「いけない、執行対象者が逃げる!」
この状況から逃走を許すわけにはいかない。神坂は反射的に拳銃を執行対象者に向けると、躊躇なく引き金を引く。銃弾は狙いたがわず執行対象者の眉間を貫いた。執行対象者の体は床に叩きつけられるように倒れこむと、細かく痙攣を始めた。銃弾が貫いた額から流れ出した血液で床が赤く染まってゆく。
ふと見ると、猪又はまだ拳銃を執行対象者に向けた姿勢のままで、顔面をひきつらせて脂汗を浮かべている。
「猪又さん! どうしたんですか?」
神坂が声をかけても、猪又はまだ硬直したように拳銃を構えた姿勢のままだ。そこへどかどかと足音を立てて河上班長が踏み込んでくると、猪又の手首をつかんで強く引き寄せる。
「猪又、撤収だ。」
「あ、はい。」
猪又は憑き物が落ちたように硬直した表情を緩めると、拳銃を下ろし、ホルスターに収める。河上班長に引きずられるようにして外へ出ていく猪又の背中は、なんだかひどく小さく見えた。
翌日、3班の事務室に珍しく佐久間課長が姿を見せる。
「はい、全員注目。えー、今日まで一緒に訓練を重ねてきましたが、猪又君は本日付で異動に決まりました。さしあたり総務課長付になり、後日別の部署に配属になる予定です。」
全員の視線が猪又に集まる。猪又はややうつむき加減に、じっと机に視線を落としている。
「猪又、お前知ってたのか?」
清水の問いかけに、猪又は小さくうなずく。
「昨日の夜、言われた。」
神坂も思わず声を上げる。
「猪又さん、言われたって、それで納得するんですか?」
そして、佐久間課長に向き直って強い口調で問いただす。
「課長、どうして異動なんですか? 折角訓練も最終段階まで来ているところだっていうのに。これまでの訓練が無駄になるじゃないですか。納得できません。」
それに対しては河上班長が答える。
「強制処分が執行できない奴には、執行課の職務は務まらん。仕事のできない奴を置いておくわけにはいかん。」
やはりそうか、昨日の実地訓練で執行対象者を撃てなかったから、それで異動させられるのか。しかしまだ初回だ。余りにも見切るのが早過ぎやしないか。
「執行できないってまだ1回だけじゃないですか。次はできるかもしれないじゃないですか。1回だけでできないって決めつけるのは早過ぎます。」
「いや、1回だけじゃない。神坂、お前が執行したとき、やはり青くなって硬直して、何もできていなかったじゃないか。バックアップすら務まらないようでは、ここでやっていくのは到底無理だ。」
「でも……。」
さらに言いかける神坂だったが、河上班長に遮られる。
「この仕事には向き不向きがある。不向きな奴に無理にやらせるようなことじゃないんだ。むしろ不向きな奴に無理にやらせる方が酷に過ぎると思わんか?」
「……。」
言われてみればそうだ。強制処分の執行は、嫌がる人に無理にやらせようとしてやらせられることではない。無理にやらせ続けたら、精神に重大な傷害が生じてしまう恐れすらあるのではないか。だとしたら、早期に異動させるという課長の判断は、むしろ猪又のためであるのだ。
うつむいていた猪又が顔を上げる。
「みんな済まない。ぜひともやりとげたい仕事だったけれど、俺には向いていなかったみたいだ。俺は脱落するけれど、みんなは俺の分まで執行課の仕事をやりぬいてくれ。犯罪被害の発生を防止するこの仕事は、不幸な人を出さないためのとても重要な仕事だと思う。だから頼む。」
そう言って猪又は深々と頭を下げる。
「猪又さん……。」
恐らく、こうやって適性に欠ける人を早期に除くために、新人には実地訓練の最初に殺処分を担当させるのだろう。でももっとじっくりと段階的に訓練を進めればあるいは猪又も殺処分を執行できるようになるのではないかと思うと、志半ばで諦めなければならない猪又の辛い心情を思って神坂は涙が滲む。多分、猪又はこの仕事をするには優しすぎたのだろう。例え善良な市民を犯罪被害から守るためでも、猪又には目の前の人に向けて引き金を引くことはできなかったのだ。そういう意味では、躊躇うことなく引き金を引いた自分は非情な人間なのだろうか。考えても答えの出るようなことではないけれど、神坂の胸にもやもやしたものが残る。