第四話 緊張と覚悟の射撃訓練
夕暮れ迫る都心のオープンカフェで、神坂はテーブルに突っ伏すようにしながら、愚痴るような調子で訴える。
「あー、もう、毎日訓練ばっかりでくたくただよー。」
そんな神坂を微苦笑気味の微笑みで見つめながら、美知留は問い返す。
「やっぱり、警察官みたいに武道とかやるの?」
「うん、走り込みとか基礎体力作りの他に、柔道とか、逮捕術とか、多分警察官と同じような訓練なんじゃないかな。」
「まあ、犯罪を実行した後で拘束するか、実行する前に拘束するかの違いで、役目も似てるものね。」
「それはそうなんだけど……。」
神坂はちょっと言葉を濁す。警察には本来防犯の役割もあるのだが、実際には犯罪被害が発生しないと動かないことが多い。犯罪ではないが、事故の危険性の高い交差点などで、いくら警察に危険性を訴えても何もしないのが、実際に交通事故が起きると急にミラーや信号機を設置するのがその典型だ。軽微な犯罪だと、面倒くさがって被害届を受理したがらなかったりするとも言う。神坂は警察のそんな体質を嫌って、犯罪を未然に防ぐことが役割の執行課に入ったのだから、警察と似たようなものだと言われるのはどこが癪に障る。そんな神坂だが、付き合いの長い美知留は、ちょっと不満気な神坂の表情を見るだけで何が言いたいのかはわかる。そこで、ちょっと話題をずらして神坂の不満を逸らす。
「それで、そろそろ訓練から実践に移行するの?」
しかしそんな美知留の気遣いは功を奏さず、神坂は相変わらず不満顔だ。
「ううん、まだまだ。まあ、今度拳銃を渡されて、射撃の訓練に移るみたいだけど。一段階進むことは確かだけど、当分訓練続きだよ。」
拳銃など触ったこともない神坂なのだから、当分訓練が続くのは仕方がないところだろう。でも、折角希望する部署に配属になったのだから、早く実際の仕事に取り組んで成果を出したいと、逸る気持ちがあるのも致し方ないところだ。何しろまだ若く、初めて社会に出たばかりなのだから。
しかし焦っても仕方がないことくらいわからないわけではないので、神坂は気を取り直して話題を変える。
「ねえ、本省の方はどんな感じ?」
漠然としすぎた問いで答えにくいが、まあ具体的に何を聞きたいわけでもない、雑談の域を出ない問いなので、美知留も漠然と答える。
「そうねぇ、やっぱり忙しいわよね。そんなに難しいことをするわけじゃないけど、やらなきゃいけない仕事の量は多いわよね。」
「でもいいなぁ、やっぱり都心の本省で勤務したかったってのはあるよね。」
「あら、香苗もその内本省に異動になるんじゃないの? いつまでも現場で走り回ってるってことはないわよね。」
「そうだろうけど、今の所はそういう未来は全然見えないなぁ。」
「そりゃそうよ。まだ何か月も勤めていないんだから。その内本省勤務になったら、毎日デスクワークなのが嫌になって、今の仕事が懐かしくなるわよ。」
「ううん、そうかなぁ。」
まだピンとは来ないが、言われて見ると毎日机に向かって、朝から晩までキーボードを叩いている仕事というのは、ちょっと遠慮したい気がする。
「美知留はどんな仕事してるの?」
ある意味島流し状態の神坂としては、本省の仕事の様子も知っておきたい。
「そうね……。」
ちょっと考える風を見せた後、美知留は自分個人の仕事より、局全体の仕事の説明をした方が良さそうだと思って、説明を始める。
「基本的な役割は香苗も知ってると思うけど、裁判で損害賠償を認める判決が出たら、被害者や遺族の希望を確認して、債権の買い取りを希望したら事務費用を差し引いて買い取って、あとは債権管理課が回収事務を担当するのよね。」
「うん。」
このあたりは基本なので神坂も良くわかっている。
「制度で先行していたノルウェーやスウェーデンなんかの北欧の国々では、政府はあくまで被害者が損害賠償金を回収するのを手助けする立場だけど、うちは政府が損害賠償金回収の当事者になる所が違いね。」
「でもそうすると、回収しきれなかった時に、国民の負担になるってことだよね。」
「うん、だから回収は本当に厳しくやっているわ。税務当局と連携して財産は残らず把握して、確実に徴収しているわよ。差し押さえとか競売とか、他の省庁とも連携して、どんどん回収して行くのよ。このあたりは、政府が回収を直接やっているからこそできることよね。」
「うん、でも賠償金を支払えるほどの財産を持っているとは限らないよね。」
「そうね、その場合は分割での支払方法を協議して払ってもらうのよね。その場合債務者を管理対象者と非管理対象者に分けて、自力での弁済が難しいから身柄や仕事を含めて管理するのが管理対象者で、自力での弁済を前提に債権だけを管理するのが非管理対象者ね。非管理対象者の場合、支払い状況をチェックして、遅延があれば督促して、それでも払えない場合は話し合いの上で管理対象者になってもらうことになることもあるのよ。管理対象者は施設管理課が管理する施設に収容して、労務管理課が割り振った作業に従事してもらって、その報酬から支払ってもらうことになるのよ。」
確かにそこまでやれば、回収可能性は飛躍的に高まるだろう。だが、幾つか疑問がある。
「でも、施設に収容して、仕事を割り振るっていうと、人権侵害とか、強制労働とか言われたりしないのかな?」
「そこは自由意志だから。別に何も強制はしないから。でも詰めて行くと、結局は管理下に入る方が楽だから、自力で稼げる一部の人以外、大体は管理対象になるわよね。」
「払うのが嫌で、逃亡したり、身を隠したりする対象者は出ないの?」
「うん、発信機付きの首輪を付けているのよ。全額の支払いが終わるまでは外せないから、とにかく働いて支払うしかないのよね。最初の頃は腕輪だったんだけど、手首を切り落として逃亡した馬鹿が出たから、首輪になったのよね。」
手首を切り落として逃亡するとか、どう考えても自分の損にしかならないだろう。そうまでして逃げても結局捕まって連れ戻されたというから、無駄以外の何物でもない。なぜそんなことをするのかさっぱりわからないが、それを言ったら犯罪自体結局は損にしかならないのだから、どうやっても理解できない無駄な行動を取る人間というのは、一定数は出て来るものだと考えるしかない。
「でもね、もし全額払い終わる前に死亡したらどうなるの? それは国民負担になるの?」
全員が長生きするとは限らないし、犯罪が重いほど損害賠償額も大きくなるので、払い終わらないうちに死亡するということも起きるだろう。そうなると、罪が重いほど全額払わなくて済んでしまうということになって、何だか不公平だ。しかしそこにも抜かりはない。
「うん、だから全員に生命保険を掛けて、払い終わらないうちに死亡した場合は保険で充当するのよ。だから取りっぱぐれはないわ。その保険事務を取り扱っているのが保険課ね。」
「保険料が結構かかるんじゃない?」
「そのために事務経費を差し引いて債権を買い取るのよ。事務経費には保険料分も入っているのよ。いくら犯罪被害者保護のためと言っても、無制限に国費を投入するわけにはいかないものね。」
「仕事はどんなことをさせてるの?」
「詳しいことは労務管理課の人じゃないとわからないけど、公共工事なんかを割り振っているのが多いみたい。主に人里離れた山の中の作業を割り当てるから、給料をもらっても無駄遣いのしようがなくて、弁済が案外早く進むっていうわよ。弁済の効率を良くするために、経費のかかる大型機械なんかは極力使わないようにして、人力に頼って作業を進めるらしいしね。」
なるほど、確かに機械に使う経費分も人に報酬として割り振れば、より多くの人間がより速く損害賠償金を払い終えることができるだろう。晴れて払い終わる頃には、規則正しい生活習慣や労働の習慣、無駄遣いをしない金銭感覚も身に付いていて、本人が社会に復帰する上でも良いだろう。それで再犯が減れば社会のメリットも大きい。一石何鳥にもなる制度だ。でもそれで再犯がなくなったら、再犯を対象に犯罪の実行を未然に防ぐ役割の自分達執行課には、仕事がなくなってしまうのではないかしら。
「でもさあ、美知留ってずいぶん詳しいよね。本省で仕事をしていると、自部署以外の各部署の仕事も詳しく覚えさせられるの?」
神坂の素朴な疑問に、美知留は笑って答える。
「ううん、もちろん仕事上関係のある部署の事はある程度知っておく必要があるけど、それ以上の事は教わらないわよ。」
「じゃあ自分で調べたの?」
「ううん、わたしのおじさんが厚生労働省にいるのよ。柳尚征って言って、人権保護局担当の大臣官房審議官をやっているの。局長の下のナンバー2の地位なんだけど、局長は必ずしも専門じゃない人が短期でローテーションするから、企画段階から参加していたおじさんが一番詳しいのよ。で、そのおじさんに、就職先を考えていた時に詳しく聞いたのよ。やっぱり、就職先を考える上で、どんな仕事をしているのかは知っておかなきゃいけないと思ってね。」
「そうなんだ、美知留はそんな所も周到だねぇ。」
神坂は執行課の役割に共感しただけで、具体的にどんな仕事をしているのかまでは知らずにこの職に就いた。そういう、思い込みだけで突っ走る性格は少し直した方が良いのかもしれないと思う。ただ、執行課は業務について一切他言禁止だから、調べても詳しい仕事内容を知ることはできなかっただろうけれど。
翌日になればまた訓練が続く。今日からはいよいよ拳銃射撃の訓練だ。河上班長に連れられて、敷地内にある射撃訓練場に行けば、これまではテレビドラマぐらいでしか見たことのない光景がそこにある。河上班長が物々しいロッカーの鍵をガチャリと開ければ、中には黒光りする拳銃が並んでいる。その拳銃が、一人一人に順番に手渡される。受け取ると、その大きさの割にずしりと重い。手に伝わる硬くひんやりした触感が、いかにも鉄の塊という感じを伝える。射撃訓練場の中に立って、本物の拳銃を握りしめているなど、何かドラマでも見ているような現実感のなさに、足元がフワフワしているような不安定さを感じる。しかしこれは紛れもない現実だ。これから実際に自分が拳銃を撃つのだ。
そんな神坂の感じている不安定感など全く関係ないように、河上班長が事務的に説明する。
「この拳銃はベレッタ85というイタリア製の拳銃で、小型軽量で携帯に適している。オリジナルモデルのベレッタ84はダブルカラムマガジンで装弾数が13発だが、シングルカラムマガジンにして装弾数を8発に減らしたタイプで、秘匿携帯により適している。同じ厚生労働省の麻薬取締官も採用している拳銃だ。」
説明を聞きながら、神坂は緊張と興奮とで頭がぼうっとしてくる。他のメンバーはと見ると、清水が割と冷静そうにしている以外は、猪又も仲村も表情が硬く、顔色が白っぽい。緊張しているのは自分だけではないと思うと、少し落ち着いてきた。しかし、河上班長がロッカーから取り出して、机の上にごとりと置いた箱の中を見て、再び緊張感が高まる。中に詰まっていたのは拳銃の実弾だ。
「弾薬を弾倉に装填しろ。装填の仕方は……、見ていろ。」
河上班長は実弾を一発取り出すと弾倉に装填する。慣れた手つきでもう一発、もう一発と装填し、たちまち全弾装填を終えると新人たちに指示する。
「よし、お前たちも装填しろ。」
清水がすっと前に出ると弾薬をつまみ上げる。そう言えば清水は競技射撃の経験があるのだった。だから銃に対する抵抗が少ないのだろう。神坂も意を決して弾薬を一つ、つまみ上げる。弾は.380ACP弾で、径9mm、全長25mm、弾頭重量は6gの弾丸だ。初めて触った実弾だが、他と比較のしようもないので、こんなものかと思うしかない。弾倉に装填すると、金属同士がこすれ合う嫌な感触があって、ちょっと背筋が寒くなる。全弾装填し終わって、弾倉を拳銃本体にセットすれば射撃準備完了だ。後は標的に向かって撃つばかりなのだが、何だか現実感が薄い。前方には人型の標的があって、同心円状に的が描かれている。
「いいか、前方に人がいないことを必ず確認しろ。拳銃を両手でしっかりと保持して、両腕を伸ばして標的を狙え。肘は少し緩めて、射撃の反動を受けるようにしろ。それほど反動の強い拳銃ではないが、それでも中途半端な構え方をすると手首などを痛めることになるぞ。」
「はいっ!」
緊張のあまり全身が硬直するような感じがする。それでもしっかりと拳銃を握り、標的めがけて引き鉄を引く。ダンッと射撃音がすると同時に、両手に強い反動がある。硝煙の臭いがツーンと鼻を刺激する。標的は……外したようだ。
「よし、拳銃を下ろせ。」
河上班長の声で、神坂ははっと我に返る。気付けば、射撃姿勢のまま硬直したようになっていた。ゆっくり拳銃を下ろすと、腕がふるふると震える。
「まあ初めてだから仕方ないが、そんなに緊張するな。アメリカでは子供でも射撃練習位しているぞ。」
「そ、そんなこと言っても……。」
「アメリカの事は直接関係ないが、警察官なら誰でも射撃訓練はやっているぞ。それに厚生労働省でも麻薬取締官なら誰でも射撃訓練はやっている。そんなに特別なことじゃないんだ。もっと気を楽にしろ。」
「は、はい……。」
確かに言われて見ればその通りだ。一般市民なら拳銃に触れることはまずないが、凶悪犯罪者と対峙する人間は、誰でもやっていることで、できなければいけないことだ。自分は凶悪犯罪を実行しようとしている執行対象者に対して強制処分を執行しなければいけないのだから、意識を改める必要がある。そうして、訓練を重ねて拳銃の取り扱いにも習熟しなければならない。神坂はこの時初めて、執行課員としての覚悟が本当に定まった気がした。