第三話 格闘技訓練はあまり得意じゃない
「今日は格闘法の訓練として柔道の訓練を行う。胴着に着替えて格技場に集合しろ。」
河上班長の指示が飛ぶ。これも仕事なのだから、ぐずぐずしているとどやされる。新人たちは急いで胴着に着替えて集合する。しかし、神坂は実は柔道はやったことがない。そればかりか、格闘技全般やったことがない。やはり仕事の性格上、執行対象者を格闘の末取り押さえねばなければならない場面も出て来るのだろうから、格闘技の経験がないのはいささか不安だ。だが、これから柔道の訓練をするのだから、ここでしっかりマスターすれば良いのだろう。
格技場に集合した新人の中で、猪又は経験があると言っていたが、なるほど胴着姿が決まっている。そんなに柔道を見たことがあるわけではないけれど、それでもどっしりと構えたその姿は程良く落ち着いている。清水と仲村も、猪又程ではないが馴染んでいる感じだ。河上班長から鋭い声で号令がかかる。
「気を付け!」
新人4人が姿勢を正したところで、一転穏やかな口調になって問いかける。
「この中に受け身の練習をしたことがない奴はいるか?」
未経験の神坂は、おずおずと手を上げながら素早く左右を見る。
「わ、わたしだけ?」
他の3人は姿勢を正したままで、手を上げたのは神坂一人だ。
「よし、初心者がいるのなら、少し丁寧に行こう。横一列に並べ……、足は肩幅。」
一瞬、できる人の模範演技を見る所からかな? と思ったが、そういう甘いことはない。
「まず前周り受け身を行う。前周り受け身は基本だから、しっかり体に覚え込ませろ。少し膝を曲げて前かがみになって、左足の前に左手をつけ。指先は内側に向けろ。右手は指先を内側に向けて、両手がハの字になるような形だ。ゆっくりと体を回して、肩、背中、腰の順に回転して行け。腰がついたら左腕で畳を強く叩く。」
肩から入るでんぐり返しのような感じだ。ぐるりと転がるようにして、腰まで着いたら左腕でぺしっと畳を叩く。
ばあんと、すぐ隣で激しく畳を叩く音がする。ちらりと視線を流すと、丁度猪又が受け身を取った所だ。さすが、経験者は受け身一つ取っても迫力が違う。河上班長から声がかかる。
「畳を腕で強く叩け。それで衝撃を和らげるんだ。しっかり叩かないと受け身にならんぞ。」
なるほど受け身とはそういうものか。だから猪又はあんなにいい音を立てて畳を叩いたのだ。
「次は右から回れ。」
指示に従って右肩から入ってくるりと回り、思い切り良く腕で畳を打つ。
「痛た。」
ちょっと打ち方がまずかったようで、腕が痛い。
「腕全体で打て。腕全体で均等に打たないと、手首を痛めたりするぞ。それから、顎をしっかり引け。引かないと頭を打つぞ。」
「はいっ。」
左、右と交互に繰り返しながら進んで行く。道場の反対側まで着いたら、折り返してまた受け身の練習を繰り返す。何度もやっているうちに少しは形になってきた。更に、後ろ受け身、前受け身、横受け身と受け身の訓練が続く。
一通り受け身の訓練を行った後は、投げ技の訓練に移る。
「次は投げ技の訓練だ。猪又と神坂、清水と仲村で組め。」
「え、わたし猪又さんとですか?」
上背も幅もあってがっしりした体格の猪又は見るからに重そうで、神坂としてはとても投げられる気がしない。戸惑う神坂だったが、猪又は生真面目そうに神坂の前に立つとお辞儀をする。
「よろしくお願いします。」
「こ、こちらこそよろしくお願いします。」
慌ててお辞儀を返して、もうやるしかない。
「右手で相手の襟を、左手で相手の袖をつかめ。右足は半歩前。」
言われるままに神坂は猪又と組んでみる。猪又の襟と袖をつかんでも、猪又の体はどっしりと深く地面に根を下ろしているような印象で、とても投げられそうな気がしない一方、猪又に襟と袖をつかまれただけで、つかまれた所から猪又の力強さが伝わって来るようで、今にも投げ飛ばされそうな気がしてくる。
「神坂さん、まず神坂さんから技をかけてください。」
猪又はそう言って来るが、神坂は技を掛けると言ってもどうすれば良いのかわからない。もっともそこは、初心者がいることはわかっているので河上班長から具体的な指示が出る。
「まずは大腰をやる。大腰は腰技の基本だ。まず相手を前上方に引き上げながら右足を相手の右足先に踏み込む。」
言われたように、神坂は力を込めて猪又を両腕で引き上げる。
「ふんっ。」
気合を込めて引き上げるが、生憎猪又の体はびくともしない。
「ふんっ、ふんっ。」
繰り返し引き上げようとするが、やはりびくともしない。そもそも、猪又の方が上背があるので引き上げにくい。
「神坂さん、あまりそこにこだわらずに、まずは踏み込んでみてください。」
猪又に言われて我に返る。確かにそうかと思い直して、神坂は右足を踏み込む。
「腰を落としながら右足を軸に体を左に開いて、左足を相手の左足の内側に引き、同時に右手を離して相手の脇の下から右腰まで深く回す。」
河上班長の指示に従って、右腕で猪又の腰を抱きかかえるようにしながら、左足を踏み込んで猪又を腰に乗せる。
「膝を伸ばして相手を突き上げながら、体を左に捻って左から投げる。」
腰で猪又を押し上げつつ、左腕を引きながら体を捻って投げる、と、猪又の体がふわりと浮くようにして、大きく回転しながら前へと落ちた。
「わっ、猪又さんを投げられた。」
神坂はびっくりだ。見よう見まねという感じでやったのに、体重が自分の2倍はあろうかという、実際にはそんなにはないが、猪又を見事に投げられたのだ。しかし、河上班長の厳しい声で神坂は現実に戻る。
「猪又、それはやり過ぎだろう。」
猪又が答える。
「いえ、投げ技の練習では掛けられた方が自分から投げられて行かないと危険ですから。」
「それにしても今のは自分から投げられ過ぎだろう。」
「まあそうですが、投げる感覚を体験させるのも、初心者には必要かと……。」
「それはあるが、今のはやり過ぎだ。もう少しちゃんと投げさせろ。」
「はい。」
二人の話からすると、どうやら今のは、技がかかっていないにもかかわらず、猪又が自分から投げられて見せたということのようだ。一瞬投げられたと思って喜んだことが恥ずかしく、神坂は顔に血が上るのを感じる。
「じゃあもう一回やりましょうか。」
猪又に言われて気を取り直す。
「いいですか、真直ぐ立っている人を投げるのは難しいので、相手の体を崩すことが大事です。それから、相手が構える暇を与えないように素早く打ちこむことが大事です。」
猪又の注意を参考に、神坂は素早く踏み込む。だが、猪又はピクリともしない。もう一度、思い切り腰をぶつけるような勢いで技を掛けるが、やはり猪又は動かない。
「いいですか、ただ引き上げて崩そうとしても、腕力だけで崩すのは無理です。だから例えば、一旦手前に引きます。」
そう言って猪又は、神坂を手前に引きながら下方へ押さえつける。
「そうすると、引かれた方は上体を起こして踏み止まろうとしますから、そこで引き上げます。」
猪又の言う通り、神坂は踏み止まろうとして上体が起きる。そこへ、上体が起きるのに合わせるように引き上げられると、両足がやや浮き上がったような状態になって前側に体勢が崩れる。次の瞬間、猪又が踏み込んで神坂の体は宙に舞う。そしてどすっと鈍い音と共に神坂は畳に打ち付けられる。
「うっ、痛た……。」
「ちゃんと受け身を取ってください。下手に落ちたら頭を打ちますよ。」
確かにそうだ。しかし、猪又の打ち込みが速すぎて、受け身に慣れていないこともあって受け身を取っている暇もなかった。もっとも、神坂の右腕を猪又がしっかりと引いているので、上体が引き上げられていて頭を打つ心配はなかったようだ。投げる側が下手だとこうはいかず、変な落ち方をして体を痛める場合もある。初心者の神坂を経験者の猪又と組ませたのには、そんな配慮もあったようだ。
「神坂さん、もう一度やりましょう。」
「はい。」
猪又に促されて、神坂は再び組み合い、そして打ち込む。もちろん、容易に投げることはできない。何度も打ち込んで、そして時々投げられる。それだけでは練習にならないからと、時々猪又もわざと投げられる。汗が噴き出す。息が上がる。投げられた時に打ち付けた腕や足が痛む。汗もかかずに平然としている猪又が小面憎い。神坂にとっては過酷な訓練が続く。
やがて、ようやく訓練が終わると、神坂は思わず座り込む。疲れ果てたのもあるが、自分がまるでできなくて情けなくなったというのもある。初日とはいえ、こんなことで執行対象者を取り押さえることなどできるのだろうか。そんな神坂に、河上班長が声をかける。
「どうした神坂、もう立てない程疲れたか。」
神坂は振り返って答える。本当は、立ち上がって姿勢を正して答えるべきなのかとも思うが、さすがにそれをやるには疲れ過ぎている。
「はい、こんなにできなくて、先々やって行けるのかと思って……。」
「初日からいきなりできるわけがないだろう。猪又なんかは何年も練習を重ねてきているんだ。そう簡単に追い付かれたら、猪又の立場がない。」
「はい、それはそうですが……。」
「それにな、何も一人で全部できなくてもいいんだ。それぞれが得意分野を活かして役割分担すればいい。」
「あ、はい、そうですね。」
「それからな、我々は執行対象者と格闘して取り押さえるようなことはあまりない。だから柔道や、そのうち訓練する逮捕術なんかはそこそこできればいいんだ。」
「え? そうなんですか。」
河上班長は小さく肯く。そう言われると神坂も気が楽になる。確かに、格闘して取り押さえるようなことは警察の仕事かもしれない。しかし、そうなると疑問が残る。走って追いかけて捕まえたり、格闘して取り押さえたりすることがないとしたら、執行課ではどうやって執行対象者が起こそうとしている凶悪犯罪を未然に防ぐのだろうか。