第二話 不満も生まれる執行課勤務
朝、神坂は電車に揺られている。通勤通学のラッシュの時間帯だが、都心から郊外に向かう電車なのでそれほどひどい混雑というわけではない。でも神坂は浮かない顔だ。小さくため息をついて呟く。
「あーあ、霞が関で勤務できると思ったんだけどなぁ。」
てっきり霞が関の本庁舎の勤務になるものだと思っていたのだが、説明の後で、翌日からは郊外にある執行課単独の事務所の勤務になると聞かされて、ちょっとがっかりしているのだ。運動場、格技場、そして何より射撃場がなければいけないので、本庁舎というわけにはいかないと言われれば納得するしかないが、中央省庁に勤める以上、やっぱり霞が関勤務が良かったなと思う。
駅からほど近い執行課の事務所は、周囲をぐるりと高い塀に囲まれている、一見すると刑務所の雰囲気に近いようにも思える。
「わたしは囚われの身になるってことかな?」
つまらない軽口を叩きながら、門内に入る。事務所の建物は敷地の広さの割にはこぢんまりとしているが、勤務している職員の人数は20名そこそこだから、まあこんなものだろう。
「おはようございます。」
事務所に入って声をかけると、すぐに庶務担当のベテランと見える職員が顔を出す。
「やあ、おはよう。今日からの新人さんだね。」
「はい、神坂香苗と申します。よろしくお願いします。」
「うん、こちらこそよろしくね。廊下を右に行くとロッカー室があるから、そこで運動着に着替えて、左の第2会議室で待っててね。」
「はい、わかりました。」
神坂はぺこりと頭を下げる。庶務担当の人は親切そうな人でやりやすそうだが、目の奥に何か複雑な気持ちを宿しているような印象がある。それが何なのか、配属されたばかりの神坂には知る由もない。
4人の新人と、河上班長が揃って今日のスケジュールが始まる。
「任務には相互協力が不可欠だ。そのために相互理解を心掛けろ。まずは自己紹介だ。猪又からやれ。」
「はい。」
立ち上がったのは一番体格が大きく、がっちりした体形の新人だ。
「猪又勇人です。以前から柔道をやっていて、大会にも出た経験がありますが、それが犯罪防止のための活動で役に立てるんじゃないかと思って、執行課を志望しました。頑張ります。」
続いて上背のあるもう一人が立ち上がる。
「清水敦と言います。よろしくお願いします。学生時代に射撃をやっていたので、拳銃の扱いにはなじみやすいと思います。」
そして次は女子に偏見を持っていそうな仲村だ。
「仲村修平です。社会正義のために全力で頑張ります。」
最後に神坂だ。
「神坂香苗と言います。犯罪被害の防止という理念に共感して、この部署を志望しました。一日も早く貢献できるように力を尽くしたいと思います。よろしくお願いします。」
さっと見回すと、猪又は少し意外そうな表情をしている。多分、女子である自分の事は事務職か何かだと思っていたのだろう。清水の表情は硬い。冷静な人間なのかと思って見ていたが、ひょっとすると単に緊張しているのかもしれない。仲村は相変わらず冷たい視線だが、どうも自分に対する視線だけが冷たいようで、この部署に女子が配属されたことに対する反感があるように思える。むしろ冷たい視線を投げかけているのは河上班長だ。新人が未熟ながらも決意表明をしているのだから、先輩として、上司として、もっと温かい視線で見てくれても良さそうなものだが、むしろ憐れむような気配すら感じさせる視線だ。ひょっとすると嫌な上司に当たってしまったのかもしれない。しかし、社会に出たら上司は選べない。何とか上手くやって行くしかない。幸い、1年の訓練期間が終われば実動部隊に配属になるようなので、もし合わなかったとしてもこの人の下にいるのも最大で1年間だろうというのが救いだと思う。
全員の自己紹介が終わると、河上班長は自分の紹介をするでもなく、何か一言あるでもなく、すぐに次の指示に移る。
「よし、次はグラウンドを走る……。」
すると遮るように仲村が手を上げる。
「班長、質問があります。」
河上班長は咎めることもなく、仲村に質問を促す。
「何だ。」
「どうしてこの部署に女子が配属されているんですか。女子がちゃらちゃらするような仕事じゃないと思うんですけれど。」
「ちゃらちゃらって……。」
神坂はもちろんむっとする。その言い草もそうだが、わざわざ質問するようなことかとも思う。その一方、河上班長から何か自分を採用した理由が聞けるかもしないとの期待も浮かんで来る。理由が分かれば、それを意識して頑張って行きたい。しかし、河上班長の答えはその期待感を軽く一蹴する。
「知らん。それは採用と配属を決めた奴らに聞いてくれ。」
あまりにそっけない回答に、仲村も二の句が継げない。神坂もちょっと期待しただけに落胆は大きい。まあでも、大きな組織では新人の配属なんてそんなものかもしれない。
仲村の質問が一蹴された所で、全員グラウンドへ出て走る。河上班長は先頭に立って走る。率先垂範型の指導なのか、あるいは班長自身が実動要員で、常に鍛えておかなければならないからなのか。無愛想なのも、そのせいなのかもしれないと思うと、案外実務上は良い上司なのかもしれないとも思える。配属の理由に興味がなさそうなのも、誰でも配属されれば一人前に鍛え上げてやるという意思の表れなのかもしれない。そんなことを考えるうち、ある程度体が温まって来たと考えたのか、河上班長から指示が出る。
「ペースを上げるぞ。ついて来い。」
ペースは上がっても、神坂はそれほど苦にはしない。走り込みはこれまでにずいぶんやって来たから慣れている。しかし、大柄な猪俣はちょっと走るのは苦手なようだ。ペースが上がるにつれてやや遅れ気味になってくる。清水と仲村は、このペースではまだ問題ないようだ。
先を走っていた仲村がちらりと振り返って神坂を見ると、河上班長に声をかける。
「先行きま~す。」
そしてさっと飛び出して先行する。飛び出す前にちらりと振り返ったのが意味深だ。神坂について来られまいと挑発するかのようだった。どうせ女は体力が劣ることを見せつけてやろうという魂胆だろう。むっとして、まだ余力はあるし追いかけてやろうかと思うと、そんな気負いを逸らすように、清水が声をかけてくる。
「なあ、神坂、仲村と何かもめてるのか?」
「いえ、別にもめてません。」
「そうか? 何かやたらと突っかかって来るみたいだけど。」
「向こうが勝手に突っかかってくるだけです。女がここにいるのが気に入らないみたいで……。」
清水がくすっと小さく笑う。神坂は口を尖らせる。
「何で笑うんですか。」
「いや、子供の喧嘩みたいで……。」
「うっ、どうせ私は子供っぽいですよ。」
神坂も自覚はないではない。直情径行な所はあるし、ちょっとしたことですぐむっとするところもある。ただ、言われて見ると、やたら突っかかってくる仲村もずいぶん子供っぽい。子供だと思えばそんなに腹も立たないかと、ちょっと落ち着いた。しかしこうやって軽くあしらわれるあたり、清水にはこの先頭が上がらないかもしれない。
落ち着いてみると、気になるのは敷地を囲む高い塀だ。ただグラウンドを走っているだけなのに、周囲に目隠しをする必要があるのだろうか。
「清水さん、どうしてここの敷地って高い塀で囲まれているのか知っています?」
「知らないけど、まあ見られたくないからだろうね。」
「でも、こうやって走っているだけで、見られて困るようなことしてないじゃないですか。」
「そこはほら、ここで見たことは一切他言無用だって言われただろう?」
「そうですね。」
「多分やってることが秘密なら、やってる人も秘密なんだろう。まあ、秘密って程じゃあないのかもしれないけど、あんまり人目に触れさせたくないんだろう。」
「ああ、なるほどね。」
人の出入りを見ていれば、誰がここに所属しているのかはわかるけれど、だからと言って訓練しているところを積極的に見せたくはない、そんな所なのだろう。もちろん悪いことをするわけではないが、おおっぴらにしたくもない、そんな仕事なのだ。
走り終えて整列すると、河上班長が口を開く。
「仲村、勝手に先走るな。」
だが、仲村は黙ってはいない。
「えっ、先に行くって言っても止めなかったじゃないですか。」
「まああそこで飛び出されても実害はなかったからな。だが、ここの仕事はチームプレイだと言っただろう。勝手に先走って良いことは何もない。」
「はい、わかりました。」
わかりましたと言いながら、大して反省している風でもない。仲村はその内また似たようなことをやりそうだ。
「それから清水と神坂は少しうるさいぞ。走るときは黙って走れ。」
「はいっ。」
神坂はちょっと冷や汗だ。確かに、学生気分が抜けていなかったかもしれない。
「それから神坂。」
「はい。」
まだ何か怒られるのかと、神坂はちょっと身を固くする。
「あの程度の事で一々釣られるな。もっと冷静になれ。」
「うっ、はい、わかりました。」
冷汗三斗だ。むっとして飛び出そうとしたのを気付かれていたようだ。河上班長は、どうやら思ったより新人たちの事をよく見ているようだ。
「猪又。」
「はい……。」
少し遅れた猪又はややうつむき加減だ。
「別に刑事じゃないんだから、犯人をずっと追いかけるようなことはない。だから少し走るのが遅い位の事を気にするな。」
顔を上げた猪又の面に赤味がさす。
「はい、わかりました。」
どうやら猪又はいきなり課題を抱えることにはならずに済んだようだ。しかし、これまで鍛えてきたおかげで走るのが得意になっていた神坂としてはちょっと残念だ。
「そうかぁ、走るのが得意でも、あんまり仕事の役には立たないんだな。」
ではこの仕事では何が必要になるのか、神坂の執行課勤務は始まったばかりだ。