第十九話 常住死身
さて、『葉隠』の精神を知り、その境地を目指そうと考えた以上、『毎朝毎夕、改めては死に改めては死』ななければならない。とにかくまずは死んでみることだ。そこで、仲村が命を落とした状況を、自分に引き写して思い描いてみる。自分が執行担当だったとして、執行対象者が隠し持った拳銃で自分を撃ってきたとする。執行対象者が下手くそで、弾が当たらなければいいが、そもそも拳銃を隠し持っていて、侵入者を直ちに銃撃するような人間が、射撃の練習を碌にしていないとは考えにくい。当然銃弾は自分の体を貫いて、神坂は若い命を儚く散らして、無残な死体となって転がるしかない。自分が死体になって転がる光景を想像すると、ずきりと胸が痛む。
「そうならないためにはどうすればいいかというと……。」
しかしこれは考えるまでもない。相手が撃ってくるより早く撃てばいいのだ。もし相手が不審な動きを見せたら、それが何をしようとしているのかを確認することもなく、直ちに撃つのだ。これが犯罪者を逮捕しようとしている警察官なら、相手が銃を向けてきたことを確認する前に撃つことは許されないが、幸い自分は相手に殺処分を執行するために臨場しているのだ。相手が何をしようと関係なく、躊躇なく撃てば良いのだ。
「うん、そうだね。名前を呼び掛けて確認する間もなく執行したっていいよね。後で素早く撃つための練習をしよう。」
多少乱暴な気がしないではないが、命を捨てる危険を冒してまで、呼び掛けなどの手続きを踏むことを重要視する必要はないと思う。もちろん、間違えて他の人を撃たなければだが。
「じゃあ次は私が殺されそうになった時の状況だね。」
しかし、その状況を思い返すとその時の恐怖がよみがえってくる。床に押さえ込まれて逃げられないと思った時の恐怖、執行対象者が抜いたナイフの先端が自分に向けられた時の戦慄、思い返すだけで頭が凍るような感覚が生じて、全身に震えがくる。そしてもし機先を制して射殺することができなかったとしたら、相手はプロの殺し屋だ、よもや狙いを外すはずもなく、ナイフは確実に自分の心臓に突き立てられていただろう。切り裂かれた心臓から血液が一気に胸腔内に溢れ、全身に血液が回らなくなって急激に強烈な貧血のような状態になっていたのではないか。目の前が暗くなって、全身に力が入らなくなって、強烈な寒気に襲われたかもしれない。同時に、胸腔内に溢れた血液が傷口から肺に流れ込み、ちょうど溺水した時の様に窒息状態に陥ったのではないか。血液循環不全と呼吸不全、それに血圧低下によるショック状態、長く苦しむ暇もなく命を落としていたことだろう。ナイフを胸に突き立てられたら相当な痛みを覚えるのだろうか。血液が肺に溢れて呼吸できなくなったら、さぞかし苦しいことだろう。そのような苦痛に苛まれ、のたうちまわりながら最後の時を迎えたのだろうか。そうだとしたら、こんな仕事を選んだことを、心底後悔しながら死ぬことになったのではないか。あるいは、ほとんど即死に近い状態で、苦しんだり後悔したりする暇もなく死ぬことになったのだろうか。そうやって短い人生の幕を下ろすことになる自分が哀れで、惨めで、涙が溢れてくる。
「はあ~。」
神坂は大きくため息をつく。何だかすっかり気力を無くしてしまった。毎朝死んでみることがこんなに精神的なダメージが大きいものだとは知らなかった。どうやら死ぬことをとても軽く考えていたようだと気付かされる。もう起き上がる気力もない。でもいいや、どうせ私はもう死体なのだから。
「そうじゃなくて……。」
神坂は気力を奮い起こすようにして身を起こす。朝毎に死んでみるのは本当に死ぬのが目的じゃない。職務を全うすることが目的だ。死んで終わりじゃなくて、ここからどうすれば死なずに済むかを考えなければならない。実際の場面では間一髪助かったが、かなりきわどい状況だったことを考えると、次に同じような状況になった時にまた助かるとは確信できない。もっと余裕を持って確実に助かる方法を考えなければならない。
「とにかく最初に足をすくわれたのがいけなかったんだから、そうならない方法を考えなきゃだめだよね。ええと足をすくわれないためには……。」
神坂は執行対象者が足元に転がりこむように体当たりしてきた状況を思い出す。その状況で足に体当たりされずにかわすには……。
「そうだ、飛び越えちゃえばいいんだ。」
その場でぴょんと飛んで、足元を転がる執行対象者をやり過ごし、すぐに振り返って通り過ぎた執行対象者を撃つ、これでいけそうだ。
「あ、でも……。」
考えてみると飛び上がった状態では、執行対象者の上で空中にほとんど静止しているような状態になる。もし執行対象者が転がりながらも手を伸ばして足をつかんで来たら、空中に静止しているような状態の自分は避けることもできずに足をつかまれ、そのまま引き倒され、押さえ込まれて一巻の終わりだ。
「これじゃあだめだよね。」
プロの殺し屋と目される執行対象者をかわして、生き延びるのはそんなに簡単じゃない。
では横っ跳びに跳んでかわすというのはどうだろう。いや、やはりだめだ。横跳びに飛び退いたとしても、踏み足が残るのでそこをすくわれて引き倒される。やはり押さえ込まれてナイフの一撃を受けることになってしまう。相手が悪いからなのだが、生き延びることは容易ではないことに気付かされ、今こうして生きていることが奇跡の様に思えてくる。
しかし諦めたらそこまでだ。そもそも、全く予想していなかったからその時は気が動転してぎりぎりの瞬間まで手の中に拳銃があることに思い至らなかったが、一度経験した今なら、たとえ足をすくわれたとしても、押さえ込まれたとしても、拳銃を手放さなければそれを相手に向けて引き金を引けば勝てること、生き延びられることはわかっている。だから、足をすくわれても、足をつかんで引き倒されても、そのせいで強く床に叩きつけられても、決して拳銃を手放すことなく、可能な限り素早く拳銃を対象者に向けて引き金を引けば良いのだ。そうすることで生き延びられる確率は大幅に上がるはずだ。
しかし、足をすくわれて床に叩きつけられれば、拳銃を取り落す危険性は否定できない。さらには、倒されたところで、もし拳銃を撃てないような体勢で押さえ込まれたとしたら、もはや一方的に殺される他ない。やはり何とか足をすくわれない工夫があった方が良い。神坂はさらに頭をひねる。
「そうだ、前回り受け身の形で飛び越えればいいんだ。」
飛び込んで前回り受け身をすれば、両足とも高く上がるので足を取られる恐れはかなり軽減されるのではないか。受け身を取ったらその勢いで起き上がって、素早く振り返って執行対象者を撃てば良い。
「うん、これならいけそうな気がする。」
ようやくより高い確率で生き延びられそうな対策が見つかって、光明が見えてきた。
そうと決まれば早速練習だ。神坂は格技場に移って飛び込み前方回転受身の練習を繰り返す。より高く、より速く、足元に体当たりしてくる敵をイメージしながら、それを飛び越えるように回転する。そしてそのまま起き上がると、素早く振り返って標的に拳銃を向ける。一連の動きをスムーズに、そして素早く行えるように、何度も、何度も、練習を繰り返す。格闘技は苦手と思って敬遠気味だった神坂だが、今は真剣かつ熱心に取り組んでいる。何しろ自分の命がかかっているのだ。
しばらく練習していると、息が上がって汗が滴ってくる。受身といえども繰り返せば結構な運動量になるものだ。しかし繰り返し練習したおかげで何とか形になってきた。こうなるとより実践的な練習をしてみたい。誰かに練習相手になってもらって、足元に転がり込んできてもらうのだ。とはいうものの、既に同僚は誰もいないので頼める相手のあてがない。強いて挙げれば河上班長か。
「でも、班長がそんな練習に付き合ってくれるかな?」
何となく無理そうな気もするけれど、他にあてもないし、頼んでみるだけなら悪くしても叱られる程度のことで、刺殺されるよりずっとましだ。とりあえず頼んでみよう。
神坂は河上班長を訪ねて声をかける。
「班長、ちょっとお時間よろしいですか? お願いしたいことがあるんですけれど……。」
振り向いた河上班長は、相変わらず険しいとも取れるような表情だ。なんだかその表情を見ただけで断られたような気分になりそうだ。でも、河上班長はいきなり拒絶したりはしない。
「何だ。」
「あの、私、前に殺されそうになった時の状況を想定して、上手く切り抜ける練習をしているんですけれど、やっぱり執行対象者役がいる状態での練習が必要だと思って、その……、その練習にお付き合いいただけないでしょうか。」
おっかなびっくり頼んでみた神坂だったが、別に神坂が恐れるようなことは実際には何もない。
「そうか、わかった。相手をしてやる。」
思いもかけず、どやされるでもなく、あっさり受けてもらえて、ある意味ちょっと拍子抜けだ。気が変わらないうちにやってもらおう。
「では、挌技場までお願いします。」
神坂の求めに応じて、河上班長は腰を上げる。
挌技場に向かいながら、神坂は上目使いに河上班長の表情を盗み見る。いつも通りの硬い表情だが、別に怒っている風も、面倒くさそうな風も見えない。不意に河上班長が神坂の方に顔を向ける。神坂は慌ててうつむいた。
「どうした、俺の顔に何かついているか?」
神坂は慌てて首を振る。
「いえ、別に何も。」
「じゃあなぜ人の顔を伺うようなまねをする。それにさっきの意外そうな表情は何だ。」
「あ、そ、それは、こんなお願いを簡単に聞いてもらえるとは思わなかったもので……。」
神坂の答えに、河上班長はちょっと苦笑する。
「何を言っているか。俺はお前らの訓練担当だ。お前らの訓練に付き合うのが本業だ。」
「そ、そうですね。」
言われてみればそうだ。これまでも散々訓練をつけてもらっている。
「それに、訓練生がお前一人になって、時間に余裕もできたしな。だからいくらでも付き合ってやるぞ。」
「あ、ありがとうございます。」
そうか、別に遠慮する必要などなかったのだ。そう思うと神坂はちょっとうきうきした気分になる。
「それでどういう練習をするんだ。」
「はい、そのあたりに座って、振り向きざまに私の足元に転がり込んできて、足をすくって倒してください。倒したらそのまま押さえ込んでください。」
「わかった。わかったが……、お前大丈夫か?」
「はい?」
「その時のことがフラッシュバックしたりしないか?」
「あ……。」
神坂はそこまでは考えていなかった。言われてみれば、そっくりな状況を再現したら、フラッシュバックする恐れはありそうだ。しかしそんなことは気にしていられない。そもそも、死んでみるのが目的なのだからフラッシュバック上等だ。フラッシュバックが起こっても、それを日常とすることで、平常心を保てるようにする、それが常住死身だ。
「大丈夫……、じゃないかもしれませんが、それも含めて克服するのが訓練です。」
「そうか、わかった。」
神坂の覚悟を認めたように、河上班長は小さくうなずく。
神坂の指示通りに座り込んだ、と思った瞬間、河上班長は振り返りざま神坂の足元に転がり込んでくる。思わず全身がびくっとした神坂だったが、次の瞬間には飛び込み前方回転受身に入る。ぱっと高く上がった両足が、転がり込んでくる河上班長の上を高く跳び越える。すかさず、河上班長は転がりながら神坂の足をめがけて腕を伸ばしてくる。つかまれる! と思ったが河上班長の手は空を切った。神坂は小さく回転して身を起こすと、素早く振り返りながら右腕を伸ばして河上班長に向ける。一方の河上班長も素早く起き直ると、神坂が姿勢を立て直す前に体当たりして押さえ込もうとダッシュをかける。しかし、神坂の動きの方が早く、伸ばした腕がまっすぐに河上班長を捉えている。
「ばん!」
神坂は口で銃声を真似てみる。河上班長がにやりと笑った。
「神坂、この短期間でよく練習したな。何より体験した絶体絶命の窮地から目をそらすのではなく、その時は無事だったからと楽観視するのでもなく、積極的に克服しようとする姿勢が良い。その姿勢があれば大丈夫だ。この仕事はやっていける。」
滅多に褒めない河上班長からの思いがけない過分な賛辞に、神坂は躍り上がりたくなるほどの気分だ。
「はい、ありがとうございます。これからも頑張ります。」
神坂は、恐らくこの仕事について以来、一番の晴れやかな気持ちを抱いて表情を輝かせた。




