第十八話 死ぬことと見つけたり
夜、床に就いた神坂は、まんじりともせずに考え続けている。昼間は河上班長から覚悟しておけと言われて、わかりましたと返事をしたが、改めて考えてみると何がわかったというのだろうか。いつでも死ねる覚悟とはどういうものなのだろう。そもそも、社会に出て1年にも満たない、若干23歳の新人にそんな覚悟ができるものなのだろうか。それだけの覚悟をしなければ務まらないというのであれば、そもそも自分には執行課の職務は務まらないではないかしら。
そんなことを悶々と考えていたところで、まだまだ人生経験の乏しい自分に答えが出せるわけがない。こういう時は先人の教えに習うことが近道だ。そう考えて神坂は参考になりそうな先人の言葉、格言、箴言、警句といったものを探してみる。
「ええと、そういえば、夕べに死すとも可なりっていう言葉があったっけ。いつ死んでも悔いはないってことかな? 本来はどういう意味だったっけ?」
検索してみると、『朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり』という言葉が見つかった。孔子の論語に載っている言葉で、『朝、真理を聞くことができれば、その日の夕方に死んでも悔いはない』という意味だと解説されている。
「それ程真理を得ることが大事ってことだよね。ええと、むしろ生きていることに忠実であれという解釈もあるのか。うーん、重なるところもあるけど、ちょっと違うかな。」
神坂が執行課の仕事に惹かれるのは、世に居る普通の人々の平穏な生活が凶悪犯罪によって無残に断ち切られることなく、それぞれが望むように生きられるような、そんな社会を実現する力になりたいからだ。それはある種真理を求める道に近いのではないか。そしてそんな社会を実現させることができたなら、それこそ『夕べに死すとも可なり』と思えるのではないか。そう考えれば確かに今の自分の置かれた位置と重なるものがある。
「ええと、他にもっとぴったりくるものはなかったかな?」
神坂はあれこれ考えながら、あてどない検索の海を漂う。そしてふと思いついた。
「そういえば、『武士道は死ぬことと見つけたり』っていう言葉もあったよね。」
確か江戸時代の佐賀藩に伝わっていた『葉隠』に出てくる言葉だ。
「ええと、『武士道と云うは死ぬことと見つけたり』、か。武士なら潔く死ねってことだよね。覚悟するってそういうことだろうけど、でも私武士じゃないし……。」
危険を伴う任務なので最悪の事態も覚悟しなければならないということではあるが、積極的に死地に飛び込んで行けということであればちょっと違うんじゃないか。執行課員が執行できずに死ねば、凶悪犯罪者が野放しになってしまうのだから、執行課員はおいそれと死んではならないのではないか。そう思いながら詳しい解説を探してみる。すると『葉隠』本文の後段に、『毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕果すべきなり』とあるのを見付けた。
「これって、いつも死を決していれば一生失敗することなく職務を全うできるっていうような意味だよね。そうか、常に死を思い、死を覚悟していれば、職務を全うできるんだ。これって死ねって言ってるんじゃなくて、死ぬ覚悟を固めて生きろって言ってるってことだね。」
若い身空で、死ぬことを覚悟して死んでも悔いのないように職務に当たれと言われてもなかなか難しいというのが正直なところだ。だが、日々死を思い、死を覚悟していることで職務を全うすることができるということであれば、若いとか若くないとか関係なく、執行課の職務を遂行する上での心得としておくべきものになるのではないだろうか。『武士道は死ぬこと』の部分だけが強調されるから、右顧左眄することなくただ死ね、というような妙な誤解を生むのだ。『葉隠』には『朝毎に懈怠なく死しておくべし』とも書かれている。自分に置き換えて考えてみると、日々自分が死ぬ様を思い描いておく、具体的には例えば自分が殺されかけた状況、仲村が殺された状況、その他任務中に命を落とすことになるような状況を思い描いておく。そうすればそんな状況に陥ったとしても、必要以上に動揺せずに、冷静に切り抜けられるようになるかもしれない。日々そういった状況を思い描いて、それと同時にあらかじめそこを切り抜ける方法を考えておけば、もはや逃れることなどできないかというような絶体絶命の窮地に陥ったとしても、そんな窮地を切り抜けられるようになれるかもしれない。あるいは一瞬の違いで生死が分かれるような場面でも、瞬時に反応して乗り切ることができるようになるかもしれない。毎朝怠りなく死んでおけ、というのはつまりそういうことなのだろう。だから『常住死身』になれば職務を全うできるというのだろう。
そうやって考えがまとまってきてみると、なんだかすごく腑に落ちて、神坂はすっと気持ちが楽になる。昼間からの緊張と興奮でひどく疲労していたので、気持ちが楽になるのと同時に意識が遠のいていく。ふたつ、みっつと息をするだけで、神坂は深い眠りに落ちた。
翌日からは、いつも事務処理と待機をしている部屋には神坂一人だ。4月にはここには4人いて、それぞれがこれからの仕事に意欲を燃やしていたのが嘘のようだ。その中でも必ずしも出来が良かったとは思えない自分だけがここに残っている。人の運命とは不思議なもので、わからないものだ。呆然とそんなことを考えていたところへ河上班長が入ってくる。
「神坂、どうだ、調子は。」
同僚を亡くして衝撃を受けていないはずはないと考えての、河上班長なりの配慮なのだろう。普段はぶっきらぼうで、往々にして切って捨てるような物言いの多い河上班長だが、新人教育を任されているだけあって、そういった配慮には長けているのだろう。質問が茫漠としているのは、まあ口下手な河上班長だから仕方がない。しかし神坂は多少寝不足ではあるものの、ある意味吹っ切れた状態なのでむしろ笑顔を浮かべて答える。
「はい、元気です。」
落ち込んでいるのではないかとの河上班長の懸念は外れたが、まあ元気なら良い。元気で、任務をちゃんとこなすことができるのなら、後はそう文句を言う理由もない。
「神坂、訓練生はお前一人になった。だから、これからの実地訓練では全てお前が執行役だ。」
「えっ、全部ですか?」
神坂は驚いてはみたが、言われてみれば他に人がいないのだから、自分が全部やらなければならないのは当然とも言える。しかし、この後どの程度の頻度で任務が回ってくるのかわからないにしても、一人でひたすら殺処分を繰り返すのかと思うと気が滅入る。
「えと、河上班長はやらないんですか? 他に人がいなくなったら、班長と交替でやるってことにはならないんですか?」
「ならんな。それでは訓練にならん。」
河上班長は冷たく言い放つ。でも神坂もあっさりと引っ込みはしない。
「でも、サポート役の訓練も必要じゃないですか? だから河上班長に執行してもらって、私はサポートの訓練をするっていうのはどうでしょう?」
「だめだ。」
「何でですか?」
「そりゃあそうだろう。俺が執行役をやったら、サポート役のやることなんか何も残りはしない。」
「うっ、それもそうですね。」
河上班長の言うことも大概で、傍からはすごい自信だと見えなくもないが、神坂はそんなところに疑いは差し挟まず、あっさりと肯定する。自分よりはるかに経験豊富だし、班長に登用されているくらいなのだから、その実力は折り紙付きなのだろうと素直に考える。あれこれ小難しく考える所はあるが、神坂は基本的には素直なのだ。
「河上班長はこれまでたくさん執行してきたんですよね?」
「それはそうだが……。」
経験豊富な河上班長から何か参考になる話が聞けるかと思って尋ねた神坂だが、河上班長にしては答えの歯切れが悪い。
「執行するときって何を感じているんですか? それとも、繰り返しているうちに何も感じなくなるんですか?」
河上班長は苦い顔をして答える。
「お前な、人を機械か何かのように言うな。俺だって普通に人間だ。執行すれば胸が痛むことだってある。」
「すみません。だっていつも冷静で眉一つ動かさないから……。」
「ばかもの、それはわざと冷静を装っているんだ。強制処分の執行中に動揺して良いことなど何もない。それに表面的に冷静を装うだけでも、実際に精神の動揺が緩和されるんだ。だからお前もなるべく平静を装うことを心がけろ。」
「あ、はい、わかりました。」
なるほど、それが習い性になって、河上班長はいつでも鉄面皮の様に表情が動かなくなっているのか。でも、動揺を抑える効果があったとしても、結果的に河上班長のような鉄面皮になるのはちょっと遠慮したい。
「昨日覚悟だけはしておけって言っていましたけど、河上班長はどんな覚悟をしているんですか?」
どんな覚悟と言われても、覚悟など形のあるものではないからなかなか説明しにくい。だからこの質問には河上班長もちょっと考え込んでいる。しかしそんな答えにくい質問でも、それがこの職務を遂行していくうえで必要なことだと思えば、ちゃんと説明して理解させようとする。そんなところが河上班長が新人教育担当に選ばれている所以なのだろう。
「そうだな、どんな覚悟というのとは少し違うが、この仕事は人々を凶悪犯罪から守るための、特にかけがえのない命を守るための仕事だと思う。だから、自分の命を危険にさらすこともできるし、執行対象者の命を奪うこともできると思っている。」
そう言って河上班長は少し遠い所を見るような目をした。神坂はそんな河上班長を見て、単に自分の命を危険にさらすというだけではなく、この仕事をすることで、自分自身の普通の人間としての平凡で平穏な生活も擲たなければならなくなっていることに思いをはせているのではないかと感じた。
ただ同時に思う。長い経験を積んできた河上班長でも、思っていることは案外普通のことだった。人々のかけがえのない命を守るということなら、神坂にしてみればそもそもこの仕事をしたいと思った動機に過ぎない。この仕事を長く続けることで得た、普通の人では到達することのできない、何か特別な境地について聞けるかと思ったのだが、どうもそういうものでもないらしい。しかし考えてみれば、たまたまこの仕事を担当することになっただけで、執行課員といえども普通の人間なのだ。厳しい修行を積み重ねた高僧のような悟りの境地に至ることなどないのが普通なのかもしれない。『葉隠』の精神に思い至った神坂も、その精神を自分のものとできるかどうかはまだわからない。




