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第十六話 絶体絶命

 佐久間課長からの詳しい説明を受けて、ひとまず疑問や迷いが解消した神坂だったが、今度は考えろという指示を受けて新たな悩みを抱えることになった。考えろと言われても、まだ新人で訓練途上の身とあっては、何をどう考えたらよいのかわからない。とりあえずできることは、業務に邁進することくらいだ。真剣に仕事に向き合っていれば、何かそこから手がかりがつかめるかもしれない。


 そんなところへ次の任務が与えられる。

「今回の執行対象者は島田悠雄、男、37歳。現場はさいたま市見沼区だ。」

 そう言って渡された資料の写真は、いかにも一癖ありそうで、何かとんでもないことをやりそうな面構えだ。まあ、顔写真だけ見ての印象などほとんど意味のある情報にはならないのだが。

「今回の執行役は神坂だ。」

 河上班長の指示に、仲村がお約束のように突っ込む。

「今回は俺じゃないんですか。前回も神坂が執行役でしたよね。」

 仲村のちょっと不満げな問いに、河上班長は眉一つ動かさずに答える。

「前回は、神坂は何もしていないからな。」

 そして背筋がひやりとするような冷たい視線を神坂に向ける。神坂はおっしゃる通りと思うが、それだけではなく、この視線の冷たさは前回執行を躊躇ったことに対する非難以上に、次も執行できなかったら適性欠如として執行課から外すという意味合いがありそうだと感じる。そういえば猪又は二度続けて何もできなかったことで執行課を外された。それが執行課のルールなのかもしれない。しかし、神坂は既に迷いを振り切っているので、次は外すと言われたところで、次は躊躇なく執行するに決まっているからどうということもない。むしろ見ていろというくらいの気持ちだ。そんな気持ちを背景にして、神坂は力強く答える。

「はい、了解しました。」


 今回の現場のさいたま市見沼区は、さいたま市が埼玉県の県庁所在地であることに似合わず、東部から南部にかけて田園地帯が広がっている地域だ。一方で、昭和30年代から県営住宅団地が開発され、住宅密集地帯も広がっている。そんな住宅地の一角にある、簡素な造りのアパートが今回の現場だ。

「よし、行け。」

 河上班長の指示が下ると、仲村がかちゃりと小さな音を立てて鍵を外し、すっと扉を開く。神坂はいつもの様に足音を忍ばせながら、静かにかつ迅速に部屋の中へと踏み込んで行く。幸い執行対象者はテレビを見ているようで、部屋の奥から聞こえてくる音で神坂の踏み込んで行く気配は察知されにくそうだ。奥の部屋には胡坐をかいて座っている男が一人。振り返った顔は執行対象者に間違いない。神坂は拳銃を向ける。

「島田悠雄だな。」


 その瞬間執行対象者が足元に転がった。

「あっ!」

 執行対象者は転がりながら神坂の足元に体当たりしてきて、神坂が動く暇もなく足をすくわれる。神坂はばったりと床に倒れ込んだ。次の瞬間、投げ出された神坂の両足を押さえつけるようにして、執行対象者がのしかかってくる。

 しまった! と神坂は心の中で叫ぶ。執行対象者に両足の上に座り込まれてしまって、仰向けに押さえ付けられたような状態だ。押さえ付けてくる力は強く、力を込めて体を左右に振っても抜け出すことができない。いや、単に強く押さえつけられているというより、身動きができないように巧みに固められているようにも感じる。そんなことができるとしたら、この執行対象者は格闘のプロなんじゃないだろうか。その執行対象者は神坂を押さえ付けたまま無表情に見下ろしている。突然銃を向けられたことに対して、驚くでもなく、怒るでもなく、憎しみを見せるでもない、その表情からは何を考えているのか読み取ることはできない。執行対象者が右手を左腰のあたりに持って行くと、さっと振り上げる。振り上げた右手には抜き放たれたサバイバルナイフが光る。


 殺される! 神坂の全身を戦慄が走る。振り上げられたナイフを突き立てられたら、恐らく命はないだろう。しかしがっちりと押さえ付けられているから、逃れるすべはない。執行対象者は相変わらず無表情で、それが不気味だ。その何も考えていないような表情からは、何のためらいもなくナイフを振り下ろしてきそうな恐怖が迫ってくる。死ぬんだ。私はここで死ぬんだ。折角長年希望してきた執行課に配属になったというのに、まだ正式に執行官になってもいない訓練途上で死ぬんだ。考えてみるまでもなく、こういうことが起きる危険性があることは当然予測されてしかるべきことだ。例え凶悪犯罪を実行しようとしていても、いや、むしろ凶悪犯罪を実行しようとしているからこそ、大人しく執行されたりなどせずに、返り討ちにしてやろうとするのは必然だ。そんな危険を伴う任務を遂行しているという自覚が、自分は余りにも薄かったのではないか。そういう危険な任務だからこそ、対象者が気付いて動き出す前に、素早く執行してしまわなければならなかったのだ。対象者は黙って大人しく執行されるものと、そんな甘い考えに無意識のうちに陥っていなかったか。そんな甘さの当然の帰結として、私は殺されるのだ。


 しかし……、

 こんなところで殺されてたまるか!

 猛然と反発心が湧いてくる。何としてでもこの絶体絶命の窮地を切り抜けて、生き延びてやるんだ。そう思って手に力を入れたはずみに、握り締めた手の中に、足をすくわれて転倒したはずみに取り落としもせず、まだ拳銃があることに気付いた。反射的に拳銃を執行対象者に向ける。執行対象者の表情がわずかに動いたが、それ以上は動じる気配も見せずに、ナイフを握る右手が何のためらいもなく振り下ろされた。無表情のままでナイフを振り下ろしてくる執行対象者を睨み付けながら、神坂は引き金を引く。


 ダン!

 銃声とともに執行対象者が仰向けにひっくり返る。振り下ろされたナイフは、間一髪、神坂の体には突き刺さっていなかった。激しく脈打ちながら、頭に血が上ってくる。かっと見開いた目が顔から飛び出しそうだ。生きている。私はまだ生きている。激しい動悸で胸が苦しく、ぱんぱんに張ったように感じる頭が脈打つたびにずきずき痛むが、それが間違いなく自分が生きていることを教えてくれる。神坂は仰向けに倒れ込んだままで、煤けた天井をただじっと睨むように見つめ続けている。



「ふう。」

 暫し横たわっていた神坂は、一つ息をつくとおもむろに身を起こす。ようやく少し落ち着いてきた。足元には額を撃ち抜かれた執行対象者の死体が、血の海に浸るようにして転がっている。こんな凄惨な場所で横になって息を整えているとか、とてもじゃないがまともな神経の持ち主のやることとは思えない。これでもうら若き乙女なのにと思うと、こんな場で不謹慎だと思いつつも、くっくっと小さな笑いがこみあげてくる。ふと顔を上げると、呆然として立ち尽くす仲村が目に入った。

「あれ? 仲村君何してるの?」

 声をかけられてうろたえた仲村は、視線が泳いで神坂を正視できない。

「え……、いや、俺サポート役だから……。」

「サポート役って、ただ見てただけじゃない。」

 そう言った自分の言葉で気付いた。そうだ、仲村はサポート役のくせに何もしなかったのだ。人が絶体絶命の窮地に追い込まれているのを目の前で見ていたくせに、私がむざむざと殺されるのを、助けようともせずに見過ごすつもりだったのだ。神坂の怒りが爆発する。

「あんた肝腎な時に何もしなかったじゃない! いつも偉そうなこと言ってるくせに、サポート役もまともにできないの?」

「い、いや……、その……。」

 仲村は口ごもるばかりで、まともに言葉を返せない。

「何よ! 私が殺されるのを黙って見てるつもりだったの? いっそ死ねばいいって思ってたの?」

「う……、そんなことは……。」

「何よ! 何よ! なによ!!」


 怒りに任せて責め立てていた神坂だったが、不意に殺されようとした瞬間がフラッシュバックして、怒りが恐怖に変わる。

「もう逃げられないと思ったんだよ。殺されると思ったんだよ。怖かったんだよ……。」

 神坂はぶるっと体を震わせると、その震えを押さえようとするかのように両腕で自分の肩をしっかりと抱き、はらはらと涙をこぼす。涙をこぼすなんてみっともないところを見られたくない、涙なんかこぼしたらまただから女は駄目なんだとか言われる、そんなことを頭の中の冷静な部分が言ってくるが、自然に溢れ出してきた感情は止められない。神坂は細かく震えながら涙を流し続けている。その前に立ち尽くす仲村は、言葉をかけることもできずに、ただ苦渋の思いを噛みしめている。


 なかなか出てこない二人を不審に思ったのだろう、河上班長が入って来た。室内の様子を一瞥した河上班長は、それだけで何があったのかを理解したのだろうか、わずかに表情を動かして、でもすぐにまたいつもの硬い表情に戻ると、何事もなかったかのように告げる。

「撤収するぞ。」

「あ、はい。」

 この単純な応答で、神坂はさっきまでの激情が静かに退いて行くことを感じる。河上班長に声をかけられるまで、そもそも自分は強制処分の執行に来ていて、執行が終われば速やかに撤収しなければならないという、ごく当たり前のことが意識から消えていた。河上班長は多分何があったのか気付いていて、それでもいつも通りに何事もなかったかのように指示をする。案外そんなことが、日常への回帰を促して気持ちを楽にしてくれるのかもしれない。それをわかってやっているのだとしたら、やはり班長の経験と地位は伊達じゃないと思う。神坂は撤収しながら、河上班長の一言で冷静さを取り戻したおかげで、どうにか今日の衝撃と恐怖を振り切って、明日からまた職務に精励できそうだと思う。


 事務所に戻ると河上班長が仲村を捕まえて叱責する。

「仲村、お前何やってたんだ。サポートの役割を何だと思ってるんだ。」

 仲村もサポートの役割がわかってないかったわけではないし、自分がやるべきことをできなかったことも自覚している。だから言い訳のしようもない。

「は、はい。ええと、あっという間の出来事だったので、結果的に何もできませんでした。」

「ばかもの。執行対象者が何かしてきたら、それより素早く対処して機先を制するんだ。結果的に大事には至らなかったから良かったものの、もし神坂が刺されていたら、お前の責任は重大だぞ。」

「はい、わかっています。」

「いいか、俺たちがやられたら、それだけでは済まないんだぞ。対象者の犯行を未然に防ぐことができず、何の罪もない人が犠牲になるんだ。それを忘れるな。」

「はい、肝に銘じます。」

 さすがの仲村も、今日ばかりは調子のいいことも言えず、神妙にしている。神坂にしてみれば二度と経験したくない事態だが、結果的にこれで仲村が成長して、執行課の実力が向上するのなら、良い経験だったとも言えるだろう。そうとでも考えなければ、神坂としては収まりがつかないという気持でもあるのだが。しかし、自分が格闘している間仲村は呆然として見ているだけだったのだと思っていたけれど、あれは仲村が身動きする暇もないほどの、あっという間の出来事だったようだ。ずいぶん長い時間だったような気がするのだけれど。


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