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第十五話 執行課とはそういう仕事

 佐久間課長の問いかけで、執行を躊躇ったことが間違っていたことは理解した神坂だが、それでも迷いは残る。もちろん、やっていることが人の命を奪うことなのだから、どんなに正当な理由があっても割り切れないものが残るのは仕方のないところだ。でもそれだけではないものがあるような気がしてならない。神坂はもう少し尋ねてみる。

「でも、今回の執行対象者が幼子のいる母親を襲うと決まったわけじゃないですよね?」

 だが、そんな疑問はすぐに無意味なものだとわかる。

「いえ、対比がわかりやすいように母子の例で説明しましたが、幼子がいなければ犯罪被害にあっていいということではないですよね?」

「あっ、それはそうです。」

「それに、踏み込んだ場所に子供はいたんですか?」

「そういえば見かけなかったような……。」

「子供はいなくて、その場を切り抜けるための、適当な作り話だったかもしれませんね。」

「は……、はい。」

 一々もっともだ。踏み込んだ瞬間の咄嗟の考えだったとはいえ、自分の考えの浅さに神坂は恥じ入るしかない。


「でも、だったらどうして執行対象者の詳しい情報が与えられないんですか? あらかじめもっと情報をもらっていれば、もし嘘だったらすぐわかって、その場で迷う必要もなかったじゃないですか。」

「ふむ。」

 佐久間課長はちょっと呼吸を置いて、説明を続ける。

「情報があったらあったで、かえって迷うことや、罪悪感を抱くこともあるんじゃないかな? それを防ぐために、執行官には最低限の情報しか伝えないことにしてるんだけれどね。」

「そう言われてみると……、そういうこともありそうですね。」

「それに情報があったら君は執行の可否を判断できるの? 個人の恣意的な判断、誤った判断にならないと言い切れるの? そもそも一個人が執行の是非を決めることそれ自体に問題はないの?」

「それは……、そうですね、情報があっても正しい判断ができるとは限らないと思います。」

 言われてみればそうだ。情報が提供されていたとしても、情報の確かさも、情報量も、必ずしも十分とは限らないし、十分な情報があったとしても一人で判断するのは危険が伴う。刑事事件について考えれば、検察と弁護とのそれぞれ違った立場からの主張を元に、プロの裁判官が多くの時間をかけて判断する上、三審制になっていて一度の判断では決められないことになっている。まして強制処分の執行は対象者の命に係わる判断なのだから、幾ら十分な情報があったとしても、一人の判断で決めて良いわけがない。乱暴な言い方に聞こえた河上班長の『考えるな』という言い方も、このことを言っているのだと思えば納得できる。


「執行課の仕事は、凶悪犯罪を防いで不幸な被害者を出さないためのものですが、そのために人の命を奪うのですから、決して間違いがあってはいけません。だから強制処分の是非を判断する過程で、独立した違った立場の人や組織の判断を経ることで、間違いを防ぐ仕組みになっています。」

「はい。」

「まず私たち執行課の人間は、令状に従って職務を執行します。そこに執行官の判断が介在する余地はありません。もしも執行官に何らかの決定権があると、執行官個人に人の生死を左右する権限があることになってしまいますから、執行官は一切決定には関与できないようにしています。」

 つまり、それが考えるなということで、考えることを積極的に禁止しているという、公正さを担保するための仕組みだということだ。そういうことなら最初に説明しておいてくれれば悩まないで済んだのに、と思わないでもない。

「令状を出すのは裁判所です。裁判官が是非を判断して令状を出します。証拠などを元に判断を下すプロである裁判官が判断することで判断の正確性を担保するとともに、執行が厚労省の管轄なのに対して、裁判所は行政から独立していますから、相互の独立性が担保されていて、人的つながりや置かれた立場の影響等で判断がゆがめられることを防いでいます。」

「はい。」

「そして、調査して令状の請求を出すのは厚労省人権保護局の調査課です。調査専門の組織を置くことで正確性と客観性を担保し、令状の請求側と発布側を分けて独立した判断をさせることで、相互牽制を働かせています。」

「なるほど。」

「調査課と執行課は同じ人権保護局ですが、役割を完全に分けた上、原則として相互に接触や情報交流を持たせないようにしています。」

 そういえば、執行に必要な情報の書面が回ってくるだけで、調査課とは一切相互連絡は取っていない。執行課の事務所が本省にないのも、調査課との相互接触を避ける目的があるのかもしれない。人の生死にかかわるだけに、厳格に管理された仕組みの中で回っているようだ。そのような仕組みの中で動いているのであれば、個人のその場の判断など介入させる余地はない。


 佐久間課長の説明は続く。

「そもそもね、この役割を厚生労働省が担うことになったのには、調査、請求と判断、決定の機能を別省庁に分けるというのも一つの大きな要因になっているんですよ。」

「それはどういう……。」

「神坂さんは、この仕事が厚生労働省の管轄になっていることを、不思議に思ったことはありませんか?」

「そうですね、損害賠償金の回収はともかく、強制処分のための調査や執行は、普通に考えたら警察が担当しそうに思えます。」

「そう考えてもおかしくないですね。でも、犯罪捜査の場合、警察庁は国家公安委員会の管轄ですが、実際に起訴する検察庁は法務省の管轄で、独立しているとはいえ裁判所と法務省の間では長く人事交流が行われていてつながりが深いですね。そもそも、検察官も裁判官も同じ司法試験に合格した後、一緒に司法修習を受けて、その後分かれるわけで、相互の人的関係は浅くないんですね。それが、99%以上とも言われる刑事裁判の有罪率の高さとも関連しているんじゃないかとの批判もあります。それで相互の独立性を高めて牽制機能を強化するために、調査、請求の機能を法務省と分けたという面があるんです。」

「なるほど、それで厚生労働省の管轄になったんですね。」


 感心する神坂だったが、それだけが理由ではないと、佐久間課長は続ける。

「それだけが理由ではなくてですね、基本的に官庁というものは何かというと権限や財源の縄張り争いをしたがるもので、犯罪被害者保護法ができたときも、管轄がすんなり決まったわけじゃないんです。」

 神坂はまだ新人なので、省庁間の勢力争いがどの程度のものなのか知らないが、争いなしには済まないものだろうということは想像できる。

「犯罪と言えば警察庁、人権擁護と言えば法務省、といった所が管轄に取り込もうとずいぶん動いたみたいなんですね。」

「それで、どうして厚生労働省の管轄になったんですか? 厚生労働省ってどっちかというと省庁の中では力が強くないような……。」

「うん、言いにくいことをさらっと言いますね。まあ結局は実務能力だったんですね。業務の大半を占めるのは損害賠償請求権の買い取りと損害賠償金の回収ですから、社会保険などの業務を通じて支給や徴収の実務に長けていた上、公共職業安定所で職業紹介をやっているし、雇用促進住宅で宿舎の供給もやっていたから、損害賠償金の回収のために必要な作業と宿舎の提供にも通じていたんですよ。この辺りは警察庁や法務省にはちょっとできない仕事ですね。さらに、麻薬取締部で捜査や摘発もやっているということで、これだけ全ての業務に通じているとなると、厚生労働省が管轄するしかないということになったんです。」


「なるほど、いろいろな条件を考慮した上で今の仕組みが出来上がっていて、だから執行の際に現場で状況を判断して動く必要も、余地もないようになっているんですね。」

「そうなんです。だから執行の現場で迷う必要はないんです。安心して業務を遂行して貰えばいいんです。」

「よくわかりました。でもそれなら最初にそういう説明をしていただけていたら良かったのにと思うのですが。」

「うん、それはそうなんですけれどね……。」

「何か問題でも?」

「いえ、問題というわけではないのですが……、執行官になった人たちは、そういった背景は別に知りたがらないんですよ。しっかりしたルールがあって、上からのはっきりした命令があれば、業務を遂行する上で不都合はありませんから。」

「えっ? そうなんですか? こういう仕事だからこそ、確かな背景に裏打ちされていることを知りたいと思うんですけれど。」


 佐久間課長は少し考える風を見せてから、続ける。

「うん、どうせいずれわかることだから話しますけれど、執行課のメンバーは課長の私と神坂君を除いて全員一般職採用なんですよ。というか、課長を除けは原則として総合職採用の配置はしません。」

「えっ、そうなんですか? どうしてですか?」

「今言った通り考える余地のない仕事ですからね。言われたことを言われたようにする、そういう仕事に総合職の人はなじみません。それにまあ、言ってみれば汚れ仕事ですからね、総合職で採用された人は普通はやりたがりません。」

「じゃあ、どうして私は配属されたんですか?」

「君が希望したからというのがベースにあります。もちろん希望しても総合職にはそぐわない仕事だから配置しないという考え方もあります。執行課っていうのは言ってみれば組織の暗部みたいなものですから、知らないで済むなら知らない方がいい、そんな仕事です。でも一方で、そういう仕事もあるということを知っていて、実際に経験している人もいた方が良いだろうと、そういう判断で配属しました。組織は多様な知識や経験を持った人が集まっている方が強くなります。だから将来幹部になった頃に、神坂君が他の誰も持っていないここでの経験を、政策立案などの際に何らかの形で活かしてくれることを期待して、希望に沿うことにしました。」

「あっ、そこまで考えて配属を決めていただいていたんですね。」

「そうなんです。だから、職務は躊躇わずに実行して欲しいんですが、できればただ漫然と執行するんじゃなくて、考えながら執行してください。」

「はい、わかりました。ありがとうございます。」

 これだけ丁寧に説明して貰えば、神坂の疑問も氷解する。そして、この丁寧な説明は異例のことだということも感じ取った。それはある意味期待されているということでもあるのだろう。期待には応えなければならないと思う。ただ、考えながら執行して欲しいと言われたけれど、考えなくても良い職務を遂行しながら、何を考えたらいいんだろう。まだ新人で知識も経験も圧倒的に不足している神坂としては、まずそこから考えなければならない。


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