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第一話 不安と希望の新人生活

 東京郊外のややくすんだ印象の雑然とした住宅街、その一角に建つ古ぼけた木造のアパートの一室に、忍び寄る二人の影がある。扉の左右に分かれて、身を潜めるようにして立つ二人。一人は若い、20代前半と見える女性だ。もう一人は30代半ばと見える男性だ。いずれも冴えない印象のスーツに身を包み、その割には身のこなしはきびきびとしていて隙がない。男性の方が何かの端末を確認して、低い声で女性に告げる。

「執行対象者は室内だ。やるぞ。」

 女性が無言でうなずく。男性は周囲に目を配ると、そっと扉を開ける。そこに女性が素早く滑り込み、後から男性が続く。室内に入った女性はスーツの内側から拳銃を取り出すと、背中を壁に沿わせながら警戒しつつ奥へと踏み込んでゆく。女性の漂わせる緊張感とは無縁の様に、奥の部屋からテレビの明るい音声が流れてくる。奥の部屋では、散らかった部屋の真ん中に40代後半と見える男が胡坐をかいて座り込んでテレビを見ていたが、侵入者の気配に気付いて振り返る。

「何だ、てめーは。」

 胡乱気に睨みつけてくる男の声を無視して、女性は拳銃を男に向ける。

「強制処分を執行します。」

 銃声が一発響いた。

 


 春 - 新しい年度の幕開けと共に、多くの人たちが、不安と希望を胸に新しい世界へと踏み出して行く。

 春 - 新しい世界は、踏み出してきた人たちにどんな未来を用意しているのだろうか。



 陽が傾く街中を、一人の若い女性が靴音を響かせながら、急ぎ足で歩いている。細身の体をぴっちりした黒いスーツに包んでいるが、スーツ姿がどこか板に付いていない所を見ると今年の新人だろうか。彼女の名前は神坂香苗こうさかかなえ、この春大学を卒業して社会人になったばかりだ。整った顔立ちだが化粧っ気はなく、細身ながら引き締まった筋肉質の体つきや、短く切りそろえた髪型からは、活動的で普段から体を鍛えている風が伺える。まだ肌寒さの残る季節だが急いで歩いてきたせいで暑いのか、スプリングコートを小脇に抱え、勢いよく足を踏み出すたびにそれがゆらゆらと揺れている。やがて、仕事帰りの人たちでにぎわうオープンカフェの前で歩みを緩めると、少し硬い表情できょろきょろと誰かを探すような仕草を見せる。どうやら待ち合わせに遅れて急いでいたようだ。


 一人の、こちらも若い女性が片手をあげて合図する。彼女の名前は柳美知留やなぎみちる、神坂とは大学の同級で、やはりこの春社会人になったところだ。美知留は緩やかにウェーブのかかった柔らかそうな長い髪が揺れて、対照的な雰囲気だ。神坂と一緒に社会人になったばかりだが、スーツの着こなしは割合板に付いていて、品を感じさせる淡い化粧がぱっちりした印象的な目と相俟って、大人っぽく落ち着いた雰囲気を醸し出している。

「香苗。」

 声を掛けられて待ち合わせ相手に気付いた神坂が、ふっと笑顔に変わる。

「ごめん、遅れた。」

 そう謝りながら向かいの席に腰を下ろす神坂に、待っていた美知留が笑顔を返す。

「ううん、そんなに待ってないわよ。もう忙しいの?」

「うーん、別にまだ忙しいってわけじゃないんだけれど……。」

 神坂はちょっと眉根を寄せる。これと言って遅れたわけがあるわけじゃない。色々とまだ慣れていないせいで要領が悪くて、無駄に時間がかかってしまっただけなのだ。


「美知留はどう? 仕事の方は?」

 誤魔化すわけではないが、答えにくかったので神坂は聞き返す。聞き返された美知留は、特に意に介する風もなく、笑顔で返す。

「うん、やっとオリエンテーションが終わって、ぼちぼちってところね。」

 まあ、二人とも同じ厚生労働省人権保護局に配属されているのだから、課が違ってもおおまかな状況は変わらないようだ。

「美知留は債権管理課よね。どんな仕事になるの?」

「うん、課の名前の通りよ。犯罪被害者の希望を聞いて、希望があれば賠償請求権を買い取って、後は債権回収を進めるってところね。管理債権は管理対象者のものと非管理対象者のものがあって、まずは対応が比較的簡単な管理対象者の債権管理を担当するってことよ。」


 犯罪被害者の賠償請求権を買い取って、被害者に代わって回収を行うのが人権保護局の主たる役割だ。犯罪被害者は、加害者に対する損害賠償請求が裁判で認められても、強制力が乏しいために実際に賠償が完全に行われるケースは全体の3割ほど、より被害の深刻な殺人事件に至っては7%足らずである一方、全く賠償が行われていないケースが7割を超えるという、ほとんど空手形のような状況で、犯罪被害者、被害者遺族に対する人権侵害の程度は極めて深刻だった。その状況を改善するために、北欧の一部の国では早くから行われていた、被害者に代わって国が損害賠償金の回収を行うという、犯罪被害者支援の仕組みを大胆に取り入れる画期的な法律、犯罪被害者等の権利の保護並びに犯罪被害発生の防止に関する法律、通称犯罪被害者保護法が制定され、その実行機関として設立されたのが人権保護局だ。それと同時に、例え損害賠償が完全に実行されても、それで被害者の人権の補償が十分に行われているとは言い難い実情に鑑み、犯罪被害の発生を未然に防止する役割も付与されている。そもそも、犯罪被害が発生しなければ、犯罪被害者に対する補償の問題など起こらない。


「美知留の部署は、正に人権保護局の中核の仕事だよね。」

「うん、まあそうだけど、組織の規模は小さくても、香苗の配属された執行課は人権保護局のもう一つの柱よね。それが無かったら、犯罪被害者支援局とか、犯罪被害補償局とか、そんな組織の名前になっていたはずだもの。」

 美知留にそう言われて、執行課への配属を強く希望して、それがかなった神坂としては率直に嬉しい。

「そうだね、国が被害者に代わって損害賠償の回収をする制度ができた時は、被害者の人権保護の意味で画期的だと思ったけど、同時にできた犯罪被害発生防止の制度はさらに画期的だと思ったんだ。犯罪被害を受けたら賠償金を貰っても割に合わないものね。それに本来犯罪防止の役割を持つ警察が相応に手を尽くしてはいるけど、とてもじゃないけど十分に犯罪被害の発生が防止できているとは言えないしね。だから私はその役割を担う執行課に入って、自分の手で犯罪被害の発生を防ぎたかったんだ。」

 それは、昔からの親友の美知留は何度も聞いた話だ。その思いをぶれずにずっと持ち続けて、ついに実現した神坂の事は、素直に尊敬に値すると思う。


「でもさあ、執行課って犯罪の防止のために強制処分を執行するっていうけど、具体的には何をするのかしら。刑事みたいに捜査して、犯罪の実行準備をしている人を見つけて捕まえるのかな?」

「うーん、あんまり詳しいことはまだ聞いていないからわからないんだよね。調査は調査課がするって話だから、捜査みたいなことはしないみたいだけど。何をするのかわからないと、正直自分に務まるのか不安なんだけどね。」

「うふふ、弱気なんて香苗らしくないわね。でも、務まらないと思ったら役所の方で配属しないでしょう? だから大丈夫よ。」

「うん、そうだよね。」

 何をするのかわからないことから来る不安はあっても、恐らく体力は必要になるだろうと考えて、自分なりに厳しく体を鍛えてきたつもりだ。もちろん、採用試験に合格しなければ仕方がないので、勉強にも力を注いできた。その甲斐あって、希望の部署への配属を勝ち取ることができたのだ。例えどんなに厳しくても必ずやり抜いてやると、神坂は改めて決意を固めつつ、配属初日の事を思い返す。



 コツコツと足音を響かせながら、神坂は霞が関の厚生労働省本庁舎の廊下を歩く。一応社会人らしく、少し踵のあるパンプスを履いて来たので、慣れていなくて歩きにくい。

「ええと、会議室は……、ああここだ。」

 指定の会議室を見つけると、開いたままになっている入り口から中に入る。上の人が早くから来ているかもしれないので、第一印象を悪くしないようにと入り口で一旦立ち止まって頭を下げる。

「失礼します。」

 返事はない様子なので頭を上げて会議室内を見ると、3人の若い男性が落ち着かない様子で座っている。3人ともいかにもといったスーツを着ているので、自分と同じ新人だろう。一人はがっちりした大柄な体格で、髪は短く刈り込んでいて、いかにも運動を、それも格闘技でもやっていましたという風貌だ。もう一人は上背があって引き締まった体躯をしていて、これも体を鍛えていそうだ。もう一人は、髪がやや長めで、スリムな体型をしているが痩せている感じでもなく、スポーツマンというほどではなくても、勉強一筋といったタイプではなさそうだ。その痩せ型の彼が振り返ってこちらを見返してくる。ちょっと冷たそうな印象の視線だ。

「お前も新人か?」

 そう言うお前も新人だろうと、ちょっと横柄な口ぶりにむっとするが、ここは礼儀正しく応対しておいた方が良いだろう。どこに上司や先輩の目があるかわからず、この先長くお世話になる可能性が高い職場で、悪い第一印象は与えたくない。

「はい、新人の神坂です。よろしくお願いします。」

 ちょっとむっとしたことなどおくびにも出さない明るい声で答えて頭をぺこりと下げる。多分悪い印象は与えていないだろう。

「俺は仲村だ、よろしく。」

 そう返した仲村が、前に向き直りながら小さく呟いたのを神坂は聞き逃さなかった。

「ちっ、執行課に女かよ。」

 そういう反応もある程度覚悟はしていたが、実際に直面するとやはりむっとする。しかし、そんな感情は押し殺して、神坂は静かに席に着く。だが、最初からこれでは同期で仲良くというわけにはいかなさそうだ。


 やがて上長と思しき2人が入ってきた。一人は年配で、40代くらいかと思う。温和そうな表情をしているが、目は笑っていない。もう一人は30過ぎくらいだろうか、厳しい表情で、目つきが険しく、どこか暗い。年配の方が前に立つと、30過ぎくらいの方が号令をかける。

「起立! 礼! 着席!」

 社会人になってこういうことをするとは思わなかったと思いながら、神坂は礼をして座る。何となく、執行課はその役割から警察に近い雰囲気があるかもしれないと思っていたが、どうやら当たっていたようだ。前に立った、多分この部署の責任者であろう年配の人が口を開く。

「執行課課長の佐久間です。皆さん、入省ならびに当部署への配属おめでとうございます。既に承知しているかとは思いますが、人権保護局執行課の任務は、凶悪犯罪を実行する恐れの高い対象者に対して、強制処分を執行して犯罪被害の発生を未然に防ぐことにあります。正に凶悪犯罪を実行しようとしている者と直接対峙することになる、困難で危険を伴う任務ですが、社会と国民の安寧を守るため、職務に邁進してください。」


 思ったより丁寧なしゃべり方だ。凶悪犯罪者、まだ実行前だけれど、と対峙する部署のトップなのだから、よく刑事もののドラマに出てくる刑事のトップのようなタイプかとも思ったが、そうでもないようだ。ただ、はっきりと説明を受けて、自分が希望していた犯罪被害の発生を防ぐ役割を、実際に担うことになったことが実感される。もちろんまだ配属されただけで、何ができるかもわからない段階だが、やはり気持ちが高揚してくる。


「我々が対象とするのは、凶悪犯罪を実行し、逮捕されて刑事処分を受け、刑期を満了して、または仮釈放で出所した既犯者です。残念ながら検挙者に占める再犯者の比率は高く、一般刑法犯の検挙者の40%近くを占めています。総犯歴数別の初犯者と再犯者の人員構成と件数構成を見ると、人員構成比では約30%の再犯者が、件数構成比でみると約60%を占めている事実が認められ、犯罪防止のためには再犯者対策が重要であることが分かります。再犯防止のためには、検察・裁判による適正な科刑の実現や、矯正における支援や指導、更生保護施策の実施に努めていますが、それでも再犯率を十分に下げることはできていません。そこで、犯罪被害発生の防止には、特に既犯者に着目して、再犯の可能性を調査分析し、犯罪の実行を未然に防止する施策が必要です。そのために調査課が置かれており、ここで再犯の危険性を調査分析し、差し迫った危険性が認められた場合は裁判所に令状を請求し、裁判所から令状が発付された場合に、我々執行課が強制処分を執行して犯罪の実行を阻止する、という仕組みになっています。」


 犯罪を実行する者が出ないか全国民を監視することなど到底できないし、全国民の監視をするとなるとプライバシーの問題に関わってくるのだから、どうやって犯罪の発生を防止するのかと思っていたが、なるほど、犯罪実行率の高い層に限定して調査することで、効率良く犯罪の兆候を発見しているのかと理解する。でもそうだとすると、初犯に関しては防止することはできないことになる。まあ、そこは警察の役割ということだろう。


「執行課はそれほど大きな部署ではありません。実動部隊の1班と2班、それから、君達新人が配属される教育班の3班、その他事務、管理系の人員が若干です。具体的なことは3班班長の河上さんから説明してもらいます。」

 そう言って佐久間課長は河上班長と交替する。相変わらず険しい目つきのままで、河上班長は説明を始める。

「今課長から説明があった通り3班は教育班で、新人は3班に配属し、1年かけて訓練を行う。訓練と言っても、最終的には実際に出動して強制処分を執行するところまでやってもらう。最初は基礎訓練だ。基礎体力の養成や、格闘技の基礎の訓練を行う。それから、全員拳銃を携帯することになるので、拳銃の取り扱いや、射撃の訓練も行う。そういった訓練が一通り終わったら、実地訓練に移る予定だ。」

 強制処分の執行まで行うと言われて、4人の新人たちの間に緊張が走る。そんな緊張をさらにあおるように、河上班長の説明は続く。

「なお執行課で見聞きしたことは全て秘密事項だ。友人や親兄弟といえども話してはならない。同じ人権保護局の連中にも話してはならない。仮に将来別の部署に異動することがあったとしても、ここでの経験は絶対に話してはならない。もし話した場合には、厳重な処分を行う。」

 厳重な処分と言われて、新人たちの緊張は一段と高まったようだ。心なしか顔色が蒼白になっているようにも見受けられる。そんな新人たちをじろりと眺め回して、河上班長は続ける。

「お前たち、今着ているような体にぴったりしたスーツはやめろ。もっと余裕のあるスーツでなければ、拳銃を携帯した時に目立ち過ぎるし、拳銃が抜きにくくなる。それから、リクルートスーツなんだろうが、その黒いスーツは変に目立つからやめろ。」


 そして河上班長は視線を神坂に向ける。

「それから、神坂。」

「はい!」

 突然自分に向けられて、びくっとして返事の声が裏返りかける。強制処分の執行や拳銃の携帯、そして厳重処分と続いた説明に、思った以上に緊張しているのが分かる。

「その踵の高い靴はやめろ。必要な時に走れないぞ。」

「はい、わかりました。」

 答えながら神坂は思う。本省の会議室だし、社会人なのだからと思って踵の高い靴を履いて来たが、どうやら裏目に出たようだ。でもこの程度なら減点という程の事でもないだろう。だが、ある程度想像はしていたが、執行課の仕事は、走り回って対象者を取り押さえたり、必要によっては拳銃を使ったりと、凶悪犯を捕まえる刑事とあまり変わらない仕事になるようだ。見た感じ屈強な男性ばかりの職場で、自分に務まるかとの不安が湧いてくる。でも、昔から目標にしてきて、ついに就くことができたこの仕事だ。苦しいこと、困難なことがあっても必ずやり抜いて見せると、神坂は決意を固める。


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