表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
7/8

第七話

 十一月も終わりに近づくころ。

 列島内では比較的温暖なこの町にも、どうやら冬がやってくるようだ。秋は長引いた夏を埋め合わせるがごとく足早に過ぎ去っていく。山の緑は次第に色あせて、海の水は飛び上がるほどに冷たい。


 正月休みに両親が遊びにくるのだと、和叉が嬉しそうに話してくれた。一緒に初日の出を見に行く約束も、初詣に行く約束もした。


 今日は和叉の家で勉強会だ。佐藤のおっちゃんが出してくれた醤油せんべいを食べ食べ、二人は期末テスト前の課題に悲鳴をあげている。なんかこの光景前にも見た気がするな、と祥李も和叉も思っていた。


「なにこれぜんっぜんわかんないんだけど。いやなにこれ。なにこれ」


 頭を抱える祥李を見て、和叉は消しゴムを机に叩きつけつつ無邪気に微笑む。ちなみに彼の握りしめているシャープペンシルは、祥李が誕生日プレゼントとして贈ったものだ。


「安心して、俺もぜんっぜんわかんない」

「ああなるほど、それなら安心だ」


 もはやなにが安心なんだかよくわからないまま、祥李は和叉に笑い返した。目に生気がないのはお約束である。


 一ページ自学とかいう意図の不明な宿題はいい。あんなものは適当に数式を書いておけばやったことになるのだ。問題はワークの類である。勉強が苦手、というのは学生時代を生き抜く者として致命的すぎる欠点だった。例によって解答編は回収済みである。


「頭いいやつはいいよなあ。答え見なくたって問題が解けるんだからさあ」


 ついにちゃぶ台に突っ伏す祥李。和叉も腕組みしながらうんうん、と頷く。


「俺たちみたいなアホにも配慮があるべきだよね」

「そうそう」


 祥李はぐいっと大きく伸びをして、そのまま畳の床に転がった。天井を見上げ、ちょうど真上にある模様を凝視する。じっと見つめていると、それはなんだか人の顔のように見えてきた。


「だいたい数学が、大人になってからなんの役に立つって言うんだよ。せいぜい算数までだよ、使えんの」


 学生のありがちなぼやきを口にしながら、祥李は目を閉じた。なんだか気怠くてなにをする気にもなれない。


 十数秒間、その場ではなんの言葉も交わされることはなかった。不自然さを覚えて、祥李は瞼を開くと同時に飛び起きる。


 和叉が祥李を見ていた。その底なしの漆黒が、ただ祥李を捉えている。それだけ。


「……和叉?」


 しかし、それは祥李が見たことのない彼の姿だった。

 同時に、息を呑むほどに美しい光景だった。


 薄くほころんだ赤い唇。気だるげにやや細められた瞳。傾げられた首に合わせて、陶器のような額をさらりと流れた黒い前髪。ただただ麗しい少年が、冬のかすんで白い日差しを背負ってそこに存在していた。

 まるで世界がその刹那のためだけに全てを示し合わせたように、完璧な一瞬がそこにあった。


 そして、あまりにも恐ろしかった。

 それはもしかしたら、長い睫毛が瞳に落とした影のせいかもしれない。どこか青ざめて見えた色のない頰のせいかもしれない。あるいは、いっそ作り物めいて見えるほどの美貌のせいかもしれない。けれど確かにその瞬間、祥李は得体の知れない恐怖に囚われ、同時に和叉の持つ謎の魅力にどうしようもなく惹かれていたのだ。


「和叉? なあ和叉。なあってば」


 和叉がそのままふっとかき消えてしまいそうな気がして、祥李は怖くなった。ゆらり、引き止めるように手を伸ばす。と、和叉はきゅっと唇を噛み締めたままその手首を掴んだ。


「しょう、り」


 彼は泣いていた。仰天した祥李は、なにも言うことができずにその嗚咽を聞いて、溢れる雫を見ていた。


「おれ……ここから、はなれたくない。ここにいたい」


 訴えるように紡がれる舌足らずの言葉。彼が涙を拭おうとしないものだから、ウインタードリルのページにぽたぽたと染みが作られていく。


 ここから離れたくない。その言葉が何を意味するのか、祥李にはよくわからなかった。

 もしかしたら、和叉は東京に帰ってしまうのだろうか。彼は環境の良いところにいるためにここへきたと言っていた。最近検査結果がよくなっているとも言っていた。病が治ったから家に帰るとしたら、それは幸せなことではないのか。そう考えた祥李は口を開いた。


「あのさ、おれ」

「ねえ」


 その言葉を遮り、和叉はちゃぶ台の脇をすり抜け、祥李に限界までにじり寄った。彼が瞬きするたび、睫毛に涙がきらきらと光る。右手の自由を奪われたままの祥李は、再度仰向けに倒れた。


「しょうり」


 金縛りにあったかのように動けない祥李の頰を、和叉のなめらかな手のひらがするりと撫でた。優しくてこそばゆくて、甘いような錯覚を覚える。


「あいしてる」


 答えは聞きたくない。そんな声に出さない一言が聞こえた気がした。祥李がなにか言う決心がつく前に、その唇はふさがれていた。

 静かな長いキスだった。そして終わった時には、またもや和叉はいつも通りの彼に戻っていた。


 それが、祥李の覚えている最後の和叉だ。


 次の日から、和叉は祥李の家にも学校にも来なくなった。


§


「カズ、熱出ちまってよぉ。じきによくなんべ」

「和叉さんは……今日も体調不良で欠席ですね」


 そんな言葉を聞いて、今日で二週間が経つ。


 何度か見舞いにいったものの、うつすといけないからと毎回門前払いを食らうのだ。風邪なんか引きやしないから大丈夫と、いくら言ったところで聞き入れてもらえない。こういうのをノレンに腕押しと言うんだっけ、と家に帰りながら思い出したりした。


「いってきます」


 どこか釈然としないような、そんな気持ちを抱えたまま祥李は玄関を開いた。そして次の瞬間、彼は目を見開いて固まった。


 ドアの前に立っていたのは、一人の美しい女性だった。三十代ほどに見える彼女が一体誰なのか、祥李は聞かなくともわかっていた。


「あなたが、祥李くん……?」


 彼女は戸惑ったような、迷うような声色でそう尋ねた。祥李は黙って頷く。


 見知った誰かにそっくりなその顔には、濃い疲労の色が浮き出ていた。それを無理矢理かき消すように、彼女は笑ってこう言った。


「和叉の、母です」


 そうだ。やっぱりそうだった。祥李は一気に全身の力が抜けるような気がした。同時に一つの嫌な予感が、彼を蝕んでいた。


「あのね、祥李くん」


 そんなはずはない。和叉は元気だ。きっと東京へ、彼の本当の家へ帰るのだ。なにも言わないのはおかしいが、きっと祥李に面と向かって別れを切り出すのを嫌がったのだろう。ばかなやつ。本当に、ばかな和叉。


「和叉は――」

「和叉はどうしたんですか? 熱出たって聞きました。東京に帰っちゃうんですか? 元気にしてるんですよね?」


 言いかけた言葉を遮るようにまくし立てる祥李を、和叉の母だというその女性ひとはただ悲しげに見つめていた。その視線がなによりの答えだった。


「元気に、してるんですよね……?」


 祥李の瞳から涙がこぼれ落ちる。続きを言わないでほしかった。ただ頷いてほしかった。嘘でもいいから、あいつがなにも言わずに帰ったと、そういうことにしておいてほしかった。そうしたら、なんだあいつとちょっと呆れて、笑って、思い出にできたのに。


 彼女は微笑んだ。


「祥李くんみたいな子に出会えたんだったら……きっと和叉は、幸せだったのね」


 そう言って差し出されたのは、一封の封筒だった。かさついた手から渡るそれを、祥李は恐る恐る受け取る。


「これ、祥李くんに渡してほしいって……私もまだ読んでいないの。じゃあ、もう行くね。また後でね」


 祥李はしばらくそれを未知のなにかだと言わんばかりに凝視していたが、やがて決心したようにセロハンテープの封を切った。


…………


 祥李へ



 祥李がこれを読んでるってことは、おれはもうこの世にいないのかな。なんか、実感わかないや。苦しくないといいな。


 まず、なにも言わずにいなくなってごめんなさい。いつか言わなきゃって思ってるけど、多分おれは最後まで言う勇気が出ないまま終わるんだと思います。


 よくなってるって言ってたのは本当です。気管支の方はだんだん治ってきてました。でも今度は、心臓のほうがちょっとダメっぽい。手術できないとこらしいです。夏休み前ぐらいにヨメイセンコクされました。どうなってんだよ、おれの体。


 祥李と過ごした数ヶ月間、とっても楽しかったです。ほんとはもっと、フツーの子みたいに走り回ったりしたかったけどさ。転校してきたばっかのおれに色々話しかけてくれたり、ほんとに嬉しかった。


 最初に祥李に会った時、すごく綺麗だなって思いました。なんか、朝の海と祥李がすごくぴったりで、かっこいいなって。今もかっこいいと思ってます。がんばって町一番の海の男になってください。幸せになってください。


 生まれ変わったら、その時こそいっしょに遊ぼうね。



 和叉より



 ついしん 大好きだよ


…………


「……なんだよ、それ」


 祥李は便箋を握りつぶした。へらへらと笑う和叉の顔が頭に浮かんでどうしようもない。最後の文にふざけたように添えられたハートマークは、にじんだように汚く広がっていた。


「意味わかんないっ、意味わかんねえよっ」


 胸が痛いってこういうことなのか。祥李は今さら理解していた。肺のあたりがぎゅっと握り潰されたような。涙が止まらない。


 勝手口前にぺたりと座り込んだまま、彼は誰にともなく哀しい悪態をつく。


「なんだよ、なんだよもう。俺だって、俺だって……」


 もう学校なんか行く気にもなれなかった。


「すきだったのに」


 その気持ちを自覚するのが、あまりにも遅すぎたんだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ