第五話
「あああああなにこれ。なにこれほんと」
勉強机を前にして、祥李は頭を抱えた。
「ん……時制……あいあむ……でぃど……ほわっつ?」
和叉に至ってはもっと重症である。ワークの一ページを眺めながら、何事かをぶつぶつと呟いている。
夏休みが終わる三日前。神様から知恵という贈り物を貰いそこねた二人は、揃いも揃って残った宿題に押しつぶされそうになっていた。
読書感想文と福祉に関する作文みたいなのはどうにか書き上げたものの、和叉は英語、祥李は数学のワークがちんぷんかんぷんなのだ。頼みの綱の解答編は「丸写し防止」という大義名分のもと終業式の日に没収されていた。そのせいで、一体何人の生徒が何リットルの涙を流したのだろう。なんと横暴な教師陣。到底許される行為ではない。
「俺、アメリカ人に生まれてなくてよかった」
和叉はついにそんな意味不明なことを言って机に突っ伏した。その横で祥李はスマホをいじり始めている。
「いや……アメリカ人だったら英語喋れただろ」
「アメリカ人ってなに勉強すんの」
「知らね。ロシア語とかじゃない?」
「ロシアってアメリカ?」
「インドじゃなかったっけ」
祥李と和叉の関係は、驚くほど今までと変わらなかった。例の事件から二週間が経っても、相変わらずお互いの家を訪ねあっていたし、泳ぎもしないのに海に行ったりしていた。祥李もいつからか、あれはなんとなくの悪ふざけか気の迷い、よくあるじゃれあいだったのだと片付けるようになっていた。
「もういいよ! 頭の悪い俺たちに居場所なんてないんだ!」
ついに自暴自棄になり、スマホをベッドに放り投げる祥李。哀れなスマホは無事タオルケットの上に着地し、故障を免れる。
「そんな悲しいこと言わないでよ祥李、反論はできないけど」
顔を起こした和叉は光のない目でそう言った。庭でうるさく鳴いているセミの声を聞きながら、彼はふとあることを思いつき口を開く。
「話変わるけどさ」
「ん?」
祥李が自分に視線を向けたのを確認してから、和叉は言った。
「今度二人で東京、行かない?」
「えっ」
祥李は反射的にそう言ってしまった。身体は大丈夫なのかとかい急にどうしたのとか、そんな意図は当然のごとく伝わらない。結果否定的に聞こえたその声色に、和叉はたちまち表情を曇らせた。
「あ、忙しいから無理だよね。えへへ……」
しゅんと肩を落とす和叉に、慌てる祥李。
「いやいやごめん。そうじゃなくて、こう、病気のためにこっち来たんだったら、戻っても大丈夫なのかなって」
実際、和叉の生まれ故郷として訪れる東京には、なにかしらの興味を抱いてはいた。一緒に行こうと誘われれば、是非ともというのが本音だ。
「それなら全然、大丈夫。ちょっとなら都会に帰っても平気って、病院で言われたから」
嬉しそうに笑う和叉を見て、祥李はどこかもやっとした寂しさを感じていた。
「……帰るの? 東京の家に」
「まさか。まだ帰んないよ。じゃあ日にちとかはまた後で決めようね」
あっけらかんとした和叉の返答に多少の安心感を覚えながら、祥李は再び方程式とにらめっこを始めたのだった。
§
ついに二学期初日を迎えてしまった。
八月が終わったとはいえ、まだまだ秋は遠い。セミは遠慮なしに鳴き喚いているし、昼間は暑くてたまらない。かろうじて、夜が寝苦しくなくなった程度だ。道端の枯れたひまわりが、この町の夏に妙な物悲しさを加えていた。
そして数学と社会を合わせてあと四ページ残したまま、結局宿題は終わらなかった。
「いってきます」
沈む声でそう言ってから、祥李はすぐさま和叉の家にダッシュで向かい、その勢いのままチャイムを押す。ピンポンというその音を待ち構えていたようで、和叉は五秒と経たないうちに顔を覗かせた。遠足当日の幼稚園児のような、なにかを心待ちにしている顔だ。
「宿題終わった?」
切羽詰まって尋ねる祥李に、和叉は幼い子供のような微笑みをみせて言い放った。
「ぜんっぜん!」
揃ってげらげら笑う二人を、ランドセルの小学生たちが訝しげに眺めながら歩いてゆく。ああ今日も平和だな、とか教科書に載っている詩人みたいなことを思った。
「いや、あんなの全然終わんないって。もう基本だけで手一杯なのに、応用ってなに」
「ほんと、和叉の言う通り。一年生の復習とか今やるなっての」
ひとしきり笑ったあと、祥李たちは口々に宿題への文句を垂れながら学校に向かう。久々に見る和叉の学ラン姿は、相変わらずちょっとしたコスプレみたいに見えた。
「あー、夏休みが永遠になればいいのに」
祥李の身長はこの夏の間に七センチも伸びて、もっと言えば体格も少しよくなっていた。サッカーで酷使された手脚は細いままだが、ふとした瞬間に浮き上がる筋肉が彼を華奢には見せなかった。
「あはは、でもそれ、そのうち夏休みのうちに学校に来ることになりそう」
一方の和叉は五月の時点からあまり変わっておらず、それどころかまた痩せたようにも見える。柔らかそうな頰のばら色は変わっていないものの、その厚みのない身体や象牙色の肌は今にもかき消えそうな儚さを持っている。しかしそれらは結局、彼の持つ病的な美しさを一層高めているようなのだ。
「そういえばさ、俺和叉のお父さんとお母さんに会ったことないよね」
ちょうど図書館の前を通り過ぎるあたりで、祥李はそう言った。
「ああ、お盆は忙しくて来られなかったらしいよ。お正月は遊びに来るって」
和叉は気にもとめていない様子だった。
両親に会えなくて寂しくないのかな、と祥李はちらりと思ったが、特に必要無い気がしたので聞かなかった。
タイミングよく青になった横断歩道を渡って駄菓子屋の横を抜ければ、もう中学校に着く。吹奏楽部がもう登校しているらしく、ラッパやその他いろいろの音色が聞こえてきた。始業式の恒例だ。
「一時間目なんだっけ」
祥李のとぼけた質問に、和叉はぷっと吹き出した。
「アホか、始業式だよ」
「そうだった」
「あ、俺ちょっとトイレ行ってくるわ」
先行ってて、と方向を変える和叉に軽く手を挙げて応じつつ、祥李は約ひと月ぶりの教室へと向かう。
宿題の言い訳はどうしよう、と内心頭を抱えながら彼は荷物を下ろした。
§
祥李は教室の机に一人で突っ伏していた。
人が多いのにクーラーがないここは端的にいえば死ぬほど暑くて、いるだけで体力を消耗しているような気がする。和叉は熱中症になって保健室に行った。想定内といえば想定内だが、いつも一緒にいる彼がいないとどうしようもなくつまらない。教室のざわついた空気も、今はわずらわしくて仕方がない。
そんな祥李に、ふざけたような声音で話しかける人影があった。
「しょーうーり」
「んん?」
祥李がのそりと頭を上げると、彼女――凛はとってつけたような笑みを浮かべる。
「植村くんいないからって、仕事サボるのはどうかと思うけど」
「……は?」
わけがわからない、とでも言いたげな祥李の様子に、凛はやれやれと言った様子で大げさなため息をついた。彼女のこういうところに、祥李は若干の苦手意識を抱いている。
「給食当番。あんた、一班でしょ」
「ああ」
祥李はすっかり忘れていたが、学年集会のあとは早めの昼食だった。そういえば、さっきから味噌汁のむわっとした匂いが漂ってきている。この立ち上がるのさえ億劫なときに、なんてタイミングの悪さだ。
「めんどくさいって顔に書いてあるよ」
「いいだろ、別に」
むっとして言い返すと、凛は苦笑して、それから少し表情を変えた。なにか考えているような顔だった。
「不思議な人だよね、植村くんってさ」
ふしぎなひと。祥李がその意味を理解しかねて眉をひそめると、彼女はこう言い足した。
「なんか、ふわふわしてるっていうか。綺麗な顔してるっていうのも、あると思うけど。どこか、絵画的」
数日前のできごとが頭をよぎる。たしかに、和叉は時折人間らしく見えないというか、一種の神々しさや不気味さすらまとうことがあった。それは凛の言う通り、彼の絵画的な部分と言い換えられるのかもしれない。しかしそれを踏まえた上で、祥李は凛に反論する。
「……あいつ、意外と普通だよ。俺ぐらいアホだし、すごい音痴だし、すごいゲーマーだし」
まあイケメンだけど、と言い足す祥李を、凛はじっと見下ろしていた。いやに達観したその視線に子供扱いされた気がして、祥李は面白くなかった。
「そう。じゃあ、そうかもね。それでいいんじゃない」
凛は思いのほかあっさり引き下がり、最後になんだか不明瞭な言い方をしてから教室を出ていった。祥李はその背中をどうにも釈然としないまま見送る。
和叉のことを他人からいろいろ言われるのが、最近いやになってきた。和叉は和叉。それでいいではないか。なんにせよ彼は明るくて、無邪気で、裏表がなくて、美しい。
むくれたように手提げ袋に手を突っ込んで、
「あ、エプロン忘れた」
祥李はまたため息をついた。