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第四話

 それからまた、ひと月。和叉は一回だけ熱を出して学校を休んで、それ以外は至極健康に過ごしていた。彼は時折少し遠いところにある病院へ行って、その次の日には必ず「良くなってるって」と嬉しそうに言った。


 そして、今は夏休みである。

 こんな田舎でも一応は観光地だからか、国道を走る車の量はいつもより増え、海水浴場は人で溢れかえっていた。だだっ広く灰色なだけだった砂浜のそこかしこに、色とりどりのパラソルが並ぶ。まるで飴玉みたいだな、と祥李は思うのだ。あと、水着のお姉さん。海辺の田舎町に欠かせない彩である。


「うわあ、すごい。海だ」


 眼前に広がる青い海を見て、和叉は歓声をあげた。そんな様子を、祥李は少し呆れつつも笑って見ている。


「前にも来たじゃんか」

「そうだけどさ。やっぱり夏の海は特別だよ」


 和叉は海が好きらしい。この町へ来た時もしきりに海が海がと言っていたし、何かにつけ海に行きたがる。泳ぐことができないのが残念だと、毎回眉尻を下げて言うのだ。今日も海水浴に来たわけではなく、気分だけ味わいに来ているのだった。


「あんまし、はしゃいじゃあおいねーよ」


 そう言って自分はかき氷を買いに行くのが、おなじみ佐藤のおっちゃんだ。彼も全く普段通りの格好で祥李たちについて来ていた。まあおっちゃんの場合、何かあればふんどし一丁で泳ぎに行けるのだけれど。


 祥李と和叉はビニールシートに並んで腰かけて、かき氷の到着を待つことにした。

 波打ち際で、小さな子供とその父親らしき人が遊んでいる。子供がこけて、父親が慌てて助け起おこす。その子は顔を泥まみれにして笑っていた。


「広いなあ……」


 どこか遠いところを見つめながら、和叉がぽつりと呟いた。


「な。広いよな」


 祥李も同意する。


 この青黒い無限のずっと向こうに、教科書やテレビでしか見られない別の国があるのだ。もしかしたらそっちでも、誰かが海を眺めて、遠い隣人に思いを馳せているのかもしれない。


「俺ね」


 和叉が急にこちらを向いてにっと笑った。さらり、生ぬるい風に前髪が揺れる。その向こう側を、ちょっと巨乳なお姉さんが通り過ぎていく。パラソルの影はきっちり和叉の全身を太陽から守っていた。その中で、彼の黒い瞳は宝石みたいにきらきら輝いているかのように見えた。


「海上自衛官になりたいんだ」


 眩しい。和叉の笑顔が、眩しい。その感覚に続いて、言葉の意味が入ってきた。


「いいじゃん」


 祥李は言った。

 日陰のはずなのに、暑さがじわじわと染み込んでくるようだった。涼しさを求めて、手でぱたぱたと風を作る。


「あの制服、お前、似合うと思うよ」

「ほんと? ありがとう」


 照れたように笑う和叉。

 彼に屈強な自衛官のイメージはあまりないけれど、単純にあの真っ白な制服を和叉がまとったらそれはそれは綺麗だろうと思った。


「誰にも言ったことなかったんだ。無理だって言われそうだったから」


 和叉はその長い睫毛を伏せた。少し寂しそうな気配はしかし、数秒にも満たずに消えていった。


「祥李は? 将来、何になりたいの」

「漁師。父ちゃんの後継いで、この町一番の漁師になる」


 祥李は迷わずそう答えた。

 父の姿は幼い頃から変わらない憧れだ。


「そっか。じゃあ二人で海の男だね」


 和叉は嬉しそうにそう言った。その時、佐藤のおっちゃんが海の家から怒鳴った。


「おおいショー坊! 手伝ってくらっしぇよ!」


 見ると、彼はかき氷をやっとのことで三つ抱えている。


「はーい!」


 慌てて駆けていく祥李の背中を、和叉がぼんやりと見つめていた。


§


 その翌日。和叉はふらりと祥李の家にやってきた。


「えへへ。来ちゃった」


 玄関でてれっと笑う彼はいつも通りだったが、連絡もせずに遊びに来たのは初めてだった。


「いや、いいけどさ。部活あったらどうするつもりだったんだよ」


 祥李が冷凍庫からアイスを出しながら聞くと、和叉は悪びれもせずにこう答えた。


「夏休みのしおりに書いてあるじゃん、部活動予定表」


 ぱたぱたと手で扇ぎながら下手なウインクをよこす和叉に、祥李は半ば呆れながら笑うしかなかった。はいよ、と和叉にソーダ味のアイスを手渡す。


「ありがと」


 和叉は微笑んだ。彼がアイスの包装を開ける一部始終を、祥李は無意識のうちに眺める。Tシャツの袖から覗く和叉の腕は真っ白だった。部活やら外遊びやらで真っ黒けの祥李たちと違って、和叉はいつになっても焼ける気配がない。昨日の海水浴ごっこを経てもそうである。祥李はいつからか、彼が本当に人形かなにかなのではないかという漠然とした疑念すら抱き始めていた。


「何やってんの? 袋の中でアイス溶けたら大惨事だよ」


 そんな祥李に気づいて、和叉がそう茶化した。


「あ、うん」


 慌てて袋を破る祥李。アイスは和叉が言った通りになる一歩手前だった。急いでかぶりついて、その大事故を回避する。もしゃもしゃ。甘い氷の塊を咀嚼しながら、祥李はふと思いついたことがあった。


「和叉ってアイス食べるの遅いよな」

「へ?」


 和叉はアイスを舐めつつ、きょとんと祥李の顔を見た。やがて彼はその意味と理由に気づいたらしく、笑いながら答えた。


「ああ、あんまりかじらないからかな。一気に食べるとお腹壊すから」

「なるほど」


 祥李の相槌を最後に、しばらく二人ともなにも言わず、無言でアイスをかじり、もしくは舐めていた。


 暑い。そしてなんだか、今日は一段と蝉の鳴き声がうるさい。これを食べ終わったら、窓を閉めて冷房をつけなければ。和叉の身体に悪いから。


 忌まわしき夏休みの宿題のことが頭をよぎった。ドリルは全く手をつけていない。読書感想文に至ってはテーマの本すら決めていない。どうしよう。


「そうだ」


 和叉が急に声を上げたものだから、ぼんやりと考え事の中にいた祥李は驚いてアイスを取り落としそうになった。否、なんとなくまだ咥えたままだったそれに、すでに空色はついていなかった。木の味しかしない棒をくずかごに放り込み、和叉の方に視線をやる。彼の分はまだひと口分ほど残っていた。


「祥李、先月歳下の子に告白されてたじゃん」


 青い雫を綺麗に舐めとってから、和叉は言った。そういえばそんなこともあったな、と祥李はあいまいに頷く。


「それがどうした?」


 祥李が言うと、和叉は興味津々といった調子でこう尋ねた。


「俺のどこが好き? って聞いたって、ほんとの話?」


 最初は彼の言っている意味がわからなかった。しかし記憶の糸をたぐり寄せてみると、たしかに言ったような気がしないでもない。祥李はそれも頷きながら肯定した。


「多分」

「で、振ったんだ」


 和叉は首を傾げた。祥李はまた、頷く。


「女の子たちが言ってたよ、アズちゃんかわいそー、って」

「そういうもんなの?」

「そういうもんだよ。普通、自分の好きなとこ確認してから振ったりしないよ」

「はあ……」


 呆けた顔をする祥李に、それを笑う和叉。むき出しの喉がくつくつと揺れた。そこから、沈黙の時間が数秒、いや、十分の数秒。


「ねえ」


 ふと、和叉が顔を俯せた。もう一度顔を上げた時も、彼はいつも通り無邪気に微笑んでいた。その表情のままで、彼は少しだけ祥李ににじり寄る。


「その子、なんて言ってた?」


 ぼんやりと暑さにやられたようになりながら、祥李は和叉が美しいと思っていた。きめ細やかな白い肌に汗がにじんでいる。頰と唇は上気して赤くなっている。そんなはっきりしない頭のまま、祥李は答えた。


「なんか、サッカーやってるとこがカッコイイとか、俺の後輩から色々聞いたとか」

「ふうん」


 和叉は祥李の額を指でなぞりながら、嘲るように笑った。


「見た目と、人づての評価。それだけだね」


 そう言われればそうだなあ、と祥李は思う。和叉は話し続ける。


「話変わるけどさ」

「うん?」

「祥李は、俺が死んじゃったらどうする?」


 祥李は思わず和叉の顔を凝視した。彼はその愛らしい微笑みを全く崩さないまま、今では祥李のすぐ近くにいた。


「いや、そりゃ悲しいだろ」


 こいつに「死」という概念を突きつけられるのは一体何度目だろう。そんなことを思いながら、祥李はしどろもどろになってそう答えた。


「あっはは、嬉しいな」


 和叉は祥李の耳もとへと唇を寄せる。ふわり。和叉から甘い匂いが漂う。


「ね、好きだよ、祥李」


 まるでそれが当たり前のことであるかのように、簡単に言う和叉。あまりの出来事に、祥李は目を見開いたまま硬直していた。汗をかいているはずの和叉からは、頭がくらくらするような何とも言えぬいい香りがした。触れそうで触れない距離感。息づかいが近い。柔らかい髪がはらりと落ちて耳をくすぐった。


「ふふっ」


 耳たぶのすぐ近くで抑え気味な笑い声がする。祥李の答えを待ちあぐねたように、和叉は身を起こして、そして甘えるように言った。


「ね、ちゅーして」

「え」


 やっとの事で発した掠れ声はしかし、不明瞭なただの雑音として湿気た空気に溶けていった。心臓の音がうるさい。自分がなにをやっているのか、もはや祥李自身にもわかっていなかった。ただ、目の前にいるこの美しい少年を手に入れたくて仕方がないのは、おそらく彼自身の意思であった。

 やや遠慮がちに和叉の前髪をかきあげ、そのなめらかな額にそっとキスをする。ふる、と密着した細い身体の反応を感じた。一瞬にも満たない愛情表現。ただ少し触れ合うだけ。するりと唇を下に這わせて、今度は閉じられた瞼に。ゆっくり顔を遠ざけると、そこには満足げな和叉の笑顔があった。はたり、と彼が瞬きをする。祥李は行動の意図を尋ねようと口を開いた。


「なあ、かず……んんっ⁉︎」


 しかし和叉はおもむろに手を上げ、いささか乱雑に祥李の顎を掴んだ。彼の華奢な腕の持つ力は決して強くはなく、その気になればいとも簡単に振りほどけてしまうものだった。祥李が自分の身に起こったことを理解するよりも先に、唇が重なる。


「ふっ……ん……」


 舌を絡めるような口づけではない。ただなにかを言いかけた祥李の口をふさぐような、軽やかで冗談混じりのそれ。息を止めたままだった祥李が我に返ってじたばたし始めたころ、ようやく和叉は唇を離した。


「えへへ」


 放心状態の祥李の目の前で、和叉はごく自然に無邪気にそう笑ってみせた。


§


「ショーリ。ショーリ!」

「うぇっ⁉︎」


 大声で名前を呼ばれて、祥李は変な声を上げた。慌ててすっとんでいた意識を現実に引き戻す。母、美智子みちこが巨大なボウル入りのポテトサラダを片手に、祥李の顔を覗き込んでいた。


「どうしたの、あんた。さっきからぼーっとしてばっか。それで、ポテトサラダもっと食べるの? 食べないの?」

「えっ? あ、う、うん。食べる食べる。うん」


 和叉が帰ってからというもの、祥李はずっとこんな調子だった。暇さえあればぼんやりと思考を宇宙遊泳させている。そんな彼を家族は訝しげに眺めているが、当の祥李からしたらそうならない方が無理な話だった。


 好きだよ、と囁いた時のあの笑み。触れるだけのキス。忘れられるはずがない。なんてったってあれは、祥李にとって人生で初めての接吻なのだ。いわゆるファーストキスというやつである。彼の人生プランにおいては可愛い女の子に奪われるはずだったのが、なにが狂ったんだか和叉に捧げてしまった。


「でも、不思議と悪い気はしないんだよなあ……」


 ポテトサラダに味噌を入れながら呟く祥李に、岩崎家一同首を傾げるのであった。


「ねえちょっと勝洋さん、祥李、どうしちゃったの?」


 佐智子は最後の頼みの綱とばかりに勝洋に耳打ちする。しかしさすがの勝洋も、突然息子の様子がおかしくなった、という現状しか把握できていなかった。


「いや……わからん。あれじゃねえか? なんかこう、年頃の男の子にありがちな」


 そんな曖昧なことでお茶を濁すしかないのだ。


「兄ちゃん、味噌ポテトサラダはちょっと、美味しくないと思う」


 微妙に論点のずれたツッコミを披露するのは、祥李の妹の浩美ひろみだ。小学校四年生の彼女にとって「兄がバカ」という事実はもはや当たり前のことであったが、今回は目にあまると思ったようだった。


「あんが、うっちゃっときなしぇ。なるようになる」


 大して興味なさげに味噌汁をすするのは、一家の最年長で実質上の最高権力者たる祖母、洋子ひろこ。その一言で、他の三人はどうにも釈然としないまま会話を締めくくる。

 そんな家族の心配も知らず、祥李は白米に中濃ソースを注いでいるのであった。

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