第三話
その日の帰り道。
祥李と和叉はいつもどおり、他の生徒たちより少し遅めに校門を出た。盛り上がるのは、いつも通りのどうでもいい馬鹿話だ。数学の先生がハゲている話、国語の先生が問題演習中に居眠りをしていた話。
和叉がうっすらと眉をしかめたのは、学校を出てわずか数十メートル歩いたところだった。
「ん……けほっ」
乾いた咳払いをする彼に、祥李はすぐに異変を察知する。
「和叉? 大丈夫か?」
「いや、なんか……んん、息が苦しいっ……けほっ」
「え……どうしよ、どうしたらいい?」
「げほっ、おれも、わかんな、うっげほっ」
わたわたとしている間に、その表情は次第に苦しげに歪んでいく。ひゅうひゅう、ぜいぜいという激しい呼吸音が、その発作が非常に重いものであることを示していた。気休めのように和叉の背中をさすってみるが、そんなことでそれが終わるはずもない。不測の事態。祥李は一気にパニックに陥る。
何をしたらいい? 今何ができるんだ。病院? 救急車? 無理だ。学校? ここから連れて行けるのか? 先生を呼んでくる? ここに和叉を置いて?
「やばっ、ひゅ、おぇっ……げほっ、げほ」
「和叉、和叉!」
「しょ、り」
混乱する祥李の腕を、和叉が縋るように掴んだ。むき出しの腕に爪が立てられる鈍い痛みで、祥李は現実に引き戻される。和叉は背を丸めて咳き込みながらも、涙の溜まった目で祥李を見つめた。
刹那、祥李の心臓がどくりと音を立てて鼓動した。
潤んだ黒い瞳。苦しみに耐える表情。今祥李にしがみついているのは、ひょっとすると簡単に握り潰せてしまう、あまりにも美しく脆い命だ。
綺麗だった。むせるように呼吸するその顔が。酸素を求めて喘ぐようなその声が。びくびくと震えるその身体が。もっと見ていたい。もっと聞いていたい――
「きゅっ、ごほっ、げっ、きゅうにゅう……だし、て、ごっほ、ひゅうっ」
祥李は我に返った。
「きゅ、吸入? 吸入薬?」
一秒にも満たない今の瞬間。自分はなんてことを考えていたんだ。絡まった思考を振り払い慌てて聞き返すと、和叉はぶんぶんと首を振って肯定する。今や立っていられないのか、彼は祥李に全体重を預けていた。
「わかった」
祥李は大きく頷いた。このまま和叉が死んでしまいそうな気がして、怖くて怖くてたまらなかった。和叉の背後に手を回してリュックのファスナーを開け、彼がいつも使っている吸入器を袋ごと取り出す。何種類か入っていた薬を和叉に見せると、震える指が一つを指した。
「これ、か」
ひとまず和叉を路上に座らせ、ブロック塀に寄りかかれるようにする。交通量の少ない場所だったことがせめてもの救いだ。
手作りらしき巾着袋をひっくり返すと、何やら服用の方法を書き留めたメモのような紙切れが入っていた。それを参考に、慣れない手つきで準備を進める。手が震えるせいでなかなか上手くできない。
今和叉の命が自分の手にかかっていると言っても過言ではない、かもしれないのだ。そんな状況で冷静にいられるほど、祥李は大人ではなかった。
「……できたっ!」
やっとの思いでそれを終え、和叉の口もとにあてがってスイッチを押す。と、そこに走り寄る人影があった。祥李たちの同級生の少女だ。
「ちょ、植村くん⁉︎ どうしたの!」
「ごめん、先生呼んできて!」
「わかった!」
祥李の剣幕に気圧されつつも指示を受けた彼女が走り去る頃には、和叉の呼吸もやや落ち着いていた。まだ咳と呼吸音は治らないものの、なんとか話せる程度には回復したようだ。
「ごめ……けほ、ごめん、ほんとに、うっ」
「喋んな喋んな。謝ることないからさ。今先生呼んでもらったから、落ち着いて待とう」
ぐったりと壁に寄りかかったまま、力なく頷く和叉。このたった二、三分の間にひどくやつれたような気がする。その端麗な横顔を眺めていると、不意に先ほどの感情が蘇った。
必死で自分に助けを求める和叉はたしかにどこか色気のようなものを感じさせて、でも――――いや、やめよう。後ろめたさと恥ずかしさで自己嫌悪に陥る。
「……こっちこそ、ごめん」
気休め程度にぽそりと謝罪の言葉をこぼすと、和叉は閉じていた瞼をうっすらと開いた。長い睫毛が目もとに影を落とす。和叉が伸ばした手が、祥李の肩に触れた。
「? なんで……?」
きょとん。祥李を見つめる瞳はちゃんといつもの和叉で、少しだけ安心した。そのせいか、祥李の中に込み上げてくるものがあった。なんだかわからない。なんだかわからないけど、泣きそうだ。どうしていいかもわからなくて、祥李は和叉を抱きしめた。和叉は少し驚いたような様子を見せながらも、されるがままになっていた。
「和叉、死なないで」
やっとの思いで絞り出した言葉は、どうにも冴えない響きで落ちていった。
§
「ただいまあ」
「おう、帰ったか。」
祥李が疲れた身体を引きずりながら帰宅すると、父――勝洋が台所で魚をさばいていた。いつ見ても見事な包丁さばきだ。料理人になれるんじゃないか。普段ならすぐに駆け寄って手伝いを申し出るが、今日はそんな気分にもなれない。
「今日はまたえらく遅かったな。カズくんと寄り道でもしてたのか」
え、と思って時計を見れば、普段家に着く時刻より三十分も遅かった。まあ今日は仕方がない。祥李は隅の方にリュックを放り投げて、崩れ落ちるように椅子に座った。
「……今日は一人」
沈んだ声でそう返すと、勝洋は驚いたような顔で祥李を見、やがてにやっと笑って包丁を置いた。彼は適当に手を洗い、そのまま祥李の向かいに腰かける。
「どうしたお前、そんなシケた面下げて」
祥李は何も言わなかった。しかし父親というのはそんなことで折れるような生き物ではない。怪しい微笑を浮かべながら畳み掛けるように、
「ふーん、さては女の子に振られたんだな。可哀想なやつ。しっかしうちの可愛いショーちゃんを振るたあ……」
なんてことを言い出す。
「違う違う! 違うから!」
慌てて否定する祥李。
今日の場合、どちらかというと振ったのは祥李のほうだ。しかもその出来事ですら、今の今まで頭の隅へと押しやられていた始末である。そんなことで落ち込んでいると思われたらたまったものではない。
「じゃあなんだ。父ちゃんに話してみろ。一人で機嫌悪くしてたって始まんねえぞ」
祥李はむっつりと押し黙った。しかし穏やかな声や視線というのは、時に怒鳴り声などよりも強い影響力を持つことがある。尊敬する父に優しく諭され、ついでに頭など撫でられ、ついに祥李はぽつりぽつりと帰り道でのことを話し始めた。
和叉が突然発作を起こしたこと。なんとか手当てはできたが、急なことにどうしていいかわからなかったこと。通りすがりの子に頼んで先生を呼んでもらったこと。
勝洋は一部始終を柔らかな表情で、しかし時折頷きながら聞いていた。
「……そのあと先生が来て。和叉は車で帰って、俺は普通に歩いて帰ってきたんだ」
発作が治まった時、安心するあまり自分が泣いてしまったことは黙っておこう。
「なるほどなあ。そりゃ災難だったな」
勝洋は納得したように頷いた。こんな話を聞いて全くいつも通りの父が、祥李には不思議でならない。
「なんか俺、怖くてさ。和叉が身体弱いのは知ってたけど、なんか、あんな感じ? なのかって。発作自体はそんなに珍しくないって言ってたし。毎度毎度あんな咳出て、生きてんの嫌になんないのかなって」
最後は呟くように言いながら、祥李は机に突っ伏した。
喘息持ちの友人なら、身近にもいる。和叉のことだって似たようなものだと思っていた。しかし祥李の安易な想定とはわけが違った。もしあの時祥李がいなかったら、和叉は一体どうなっていたのか。死んでいたんじゃないだろうか。誰も彼に手を差し伸べないまま、息絶える和叉。想像もしたくないのだ。
「なんか、和叉がそのまんま死んじゃいそうでさ。ちょっと怖かった」
感じたのは、なにも死に対する恐怖だけではない。和叉があの瞬間に見せた表情が忘れられなかった。思い出せばぞわりと震えが走るような、祥李が目にしたこともないような艶かしさ。その後発生した感情が途方もない罪悪感であったにせよ、たしかにあの時の和叉を美しいと思ってしまった。それはもしかしたら、濡れた睫毛だとか、汗で額に貼りついた髪の毛なんかのせいだったのかもしれない。それでも、そんな自分がたまらなく嫌だった。
「……疲れた。俺、疲れた」
「はは、ショーリは元気っ子だもんなあ。びっくりしたよなあ」
くぐもった声を、勝洋がそう言って笑い飛ばす。そうだけど、そうじゃない。続いて、また髪をわしゃわしゃと撫でられる。こりゃ髪が魚くさくなるなあと祥李は思った。
「身体が弱い子っていうのは、その逆に言えばメンタル強かったりすっからな。カズくんもそうだろ」
「そうなの?」
祥李が顔を上げてぱちくりと見つめ返すと、勝洋はにかっと笑った。
「そうだぞ。カズくんもああ見えて内面はムキムキマッチョマンかもな」
「……やめて、イメージが崩れる」
ムキムキマッチョマンという言葉がどう考えても和叉には似合わなくて、祥李は吹き出した。
でも、案外勝洋の言っていることは的外れでもない気がした。和叉は外見こそ折れそうに儚いが、中身はそこまで繊細すぎるわけでもない。むしろいい意味での鈍感さというか、おおらかさがあった。
「まあな。困ってそうだったら助けてやれよ」
「うん」
父の言葉に、祥李の心はいくらか軽くなったように感じたのだった。
§
「あ、おはようムキムキマッチョマン」
「……え??」