第二話
放課後、和叉は祥李の家に遊びに来ていた。なんかゲームとかしなさそうだな、という祥李の心配は杞憂に終わり、和叉は無類のゲーマーだった。画面上の敵を数秒もかからずに打ち倒していく手つきはあまりにも鮮やかで、祥李は唖然として見ているしかなかった。一緒に宿題もやった。ちなみに、和叉は祥李とどっこいどっこいなくらい――祥李は学年三十六人中三十四位である――勉強が苦手だった。二人してああでもないこうでもないと言い合っているうちに、いつの間にか問題集を放り出して遊んでいる始末だ。
今コントローラでゲームをしながら時折大笑いしている和叉は、間違いなく祥李と同じ十三歳の少年であり、容姿が整っているという点を除けばどこにでもいるただの人間だった。
「なあ」
意を決して祥李は口を開いた。黒水晶のような瞳がす、とこちらを向く。手元を見ないまま、和叉はゲームをポーズ画面にしてコントローラを置いた。やめる、つづける。二つの単語が無感動に液晶に並んでいる。
「なーに」
にこりと笑ってみせる顔は、なんだかぽやんとした能天気な表情だった。
「今朝さ、俺だけになんか教えてくれるって言ってたじゃん。あれ、何言おうとしてたの?」
そういうと和叉は一瞬きょとんとして、すぐに思い出したようにああ、と呟いた。一呼吸おいて、一度俯いて、また顔を上げて。まるで内緒話でもするように楽しそうに、彼はこう言った。
「あのね。俺さ、死んじゃうかもしれないんだ」
小声でさらりと告げられたのは、祥李にはどう反応していいのかわからないような一言だった。黒い瞳はじっと祥李に注がれている。試すような視線だった。
祥李の視線から不可解のメッセージを感じたらしく、和叉は苦笑した。祥李の目を見つめたまま、淡々と喋り出す。
「気管支だか肺だかの病気が酷くて、外で走るとぶっ倒れちゃうんだよね。あとなんか、心臓もちょっとおかしいらしい。胃腸は小さい頃から弱いかな。あとはなんだっけ、肝臓だか腎臓だかも弱めで……」
「ちょ、ちょっと待って待って……それ大丈夫なの?」
なんとか言えたのは、そんな馬鹿みたいな一言。聞かなくてもわかる。大丈夫じゃないに決まってる。そんな身体中の内臓という内蔵がちゃんと動いてないのに、むしろなんで生きていられるのだろう。
「うーん、わかんない。大人になれないかもしれないって」
和叉はあっけらかんと言い放った。
「えっ」
「ここへ来たのも病気を治すためなんだ。都会の環境は体に悪いから、って。そんなんで治るもんなのかな……ちょっとショーリ、なんて顔してんの」
きっとこの世の終わりのような顔をしていたのだろう。そりゃそうだ、大人になる前に死ぬかもしれないなんて、こんな軽々しく言われたらたまったもんじゃない。
「大丈夫だから心配しないでよ。無理しなければちゃんと生きてられるから」
だからか。こんなに色白なのも、細身なのも。どこか陰の気配を秘めた、弱々しく儚げな美貌も。
「部活とか体育とか、やってみたかったなあ……でもちょっと、運動とか楽器は無理かも」
なんだか悲しそうに言うものだから、こっちまでやるせなくなってくる。祥李は自分の日焼けした腕に目を落とした。自分が何も考えずに生きてきたのが申し訳なく思えた。
「なんか……ごめん。変なこと言わせちゃって」
しどろもどろに謝ると、いいよ気にしないでと逆に慰められてしまった。
「そんなことよりさ、俺今度海で遊びたい。あんまり暑くなっちゃうといけないから、五月か六月のうちに」
楽しそうに話す和叉を眺めながら、祥李は去年の九月に亡くなった祖父のことを思い出していた。棺の中に横たえられた祖父は、瞼を固く閉ざしていて、冷たくて、こわばっていて、まるで蝋人形のようだった。目の前のこの美しい少年も、いつかああなってしまうというのか。祖父よりずっと若いうちに、息絶えて土に還ってしまうのだろうか。
来週二人で海に行く約束をして、和叉は家に帰っていった。
§
和叉が転校してきて、はやくも二ヶ月が経った。
彼は驚くほどすばやくクラスに馴染み、新しい仲間たちともすっかり仲良くなっていた。彼のどこかとぼけたような性分は同性の友人たちにとても好かれたが、逆に女子一同はそれのために彼を恋愛対象から外してしまったようだ。
和叉の体質については例の「呼吸器の持病」のことだけがクラス全体に知らされ、生徒のうち詳細を知っているのは本当に祥李だけのようだった。
そんな間に、季節は春から夏へと進んでいく。もうすぐ夏休みがやってくる。
「かーずーさぁ」
「あ、今行く」
待ちくたびれた祥李が呼ぶと、和叉は少し慌てた様子でやってきた。とん、と隣に並ぶ彼を、祥李は一応たしなめる。
「おいおい、走っちゃダメじゃん」
「大丈夫だよ、少しくらい」
次の授業は体育だ。和叉は病気を理由に毎回見学している。日陰の涼しいところにちまっと三角座りをしている姿が少し可愛らしくて、祥李はついついちらりと見てしまう。
祥李があまりにも和叉にくっついて回るためか、二人がセットというのは一種の新しい決まりごとのようになっていた。移動教室は大抵一緒に移動しているし、祥李の朝練がない月曜と木曜は二人で学校に来る。転校生と最初に話しかけたやつ、というどこか特別な友情が二人の間に生まれていた。
「なあ和叉、今日うちおいでよ」
何の気なしに祥李が誘うと、和叉はちょっと眉を寄せて答える。
「ああごめん、今日病院行かなきゃ」
これも、日常。
「そっか、頑張れよ」
「何を」
「わかんない」
いつもとなんら変わらない、他愛もない会話。二人してくすくすと笑いながら靴を取り出すと、祥李の下駄箱からぱらりと白っぽいものが落ちた。
「ねえ、なんか落ちたよ」
和叉が気づいて拾い上げたそれは、どうやら折りたたまれた紙片だった。
「なにそれ、俺知らない」
「開けてみなよ。ラブレターじゃないの?」
「んなわけあるか」
はい、と渡された紙片を開くと、薄いピンク色にハートが散らばったメモ用紙のようなものだった。そして、いかにも女子な丸っこい字でこう記されていた。
『昼休みに卓球場の裏手に来てください』
祥李はため息をついた。
「ラブレターじゃん。それか決闘の申し込み」
覗き込んだ和叉が楽しそうに茶化す。
ちょっと嬉しくないわけではない。でも、幼馴染だらけのこの環境で誰を好きになれと言うのだ。
「俺としては決闘の申し込みの方がまだ嬉しいんだけど」
「ついてってあげようか?」
「うーん……いや、来なくていいよ。あーもう、今日サッカーやろうと思ってたのにな」
それを聞いて、和叉がふふっと笑った。いつ見ても魅力的というか、なんとも美しい微笑みだ。中二の男がうふふとか、普通は許されるものではない。
「祥李は優しいんだね」
「え、なんでそうなる」
「なんとなく」
「はあ」
優しい。あまり言われることのない言葉だ。面白いとか明るいとかはよく言われるけれど。和叉は何をもってして祥李を優しいと思ったのだろう。考えたけどいまいちわからなくて、祥李はくせ毛気味の頭を掻いた。
「じゃあ、行ってらっしゃい」
「おう」
和叉は涼しい木陰に座り込み、祥李はクラスメイトたちが並んでいるところに走っていった。成長期の少年たちにとって、四時間目の体育というのは結構きつい。朝食をいくら詰め込んだって、終わる頃にはみんなふらふらだ。
じりじりと夏の太陽が照りつける。高い空をすべりながら、トンビが鳴いている。
§
おいおい、まじかよ。
蒸して暑い、昼休みの小体育館裏。祥李は相手に聞こえないようにそう呟いた。
てっきり同級生の誰かが来るものだと思っていたら、立っていたのは一つ歳下の後輩だった。特に美人なわけでもスタイルがいいわけでもない、平凡な少女だ。確かテニス部の子だったと思う。そして少なくとも、祥李が小学校を卒業したよりも後にこの土地に来たのだろう。もしかしたら学区外から通学しているのかもしれない。つまり、名前も知らないし話したこともない子だった。
「あ、岩崎先輩」
祥李の姿を捉えた彼女はぱっと頰を染め、ぴんと背筋を伸ばした。がちがちに緊張しているようだ。結果はもう自分の中で決まりきっているだけに、いたたまれない気持ちになった。頼むから、決闘の申し込みとかであってほしい。どんなどんでん返しがあったってそれはないだろうけど。
「ええっと……」
彼女は顔を赤らめたままそう切り出した。祥李が何か言う隙もない。と思いきや、何をためらっているのかもじもじと言い淀む。そして大きく息を吸い込み、勢いに任せるように言った。
「岩崎先輩のことが、好きです。付き合ってください!」
ぺこりと頭を下げる彼女。やっぱりか、という落胆とともに気まずい沈黙。いつまでたっても何も言わない祥李を訝しく思ったのか、彼女は顔を上げた。いまにも泣きそうな顔だ。その顔を見ながら、祥李はふと浮かんだ疑問を口にする。
「ひとつだけ、聞いていい?」
「はい」
彼女は慌ててこくりと頷いた。
「俺のどこが好きなの?」
それを聞いて彼女は目をぱちくりとさせ、しばし考え込む様子を見せたが、やがて恐る恐る口を開いた。
「最初は、部活してるところがかっこいいなって。あといつも、サッカー部の子たちが祥李さんは優しいしサッカー上手いしかっこいいって言ってて、憧れだなあと……」
夢見心地、といった表情で語る少女。
「そっか。ありがとう」
祥李は下を向いたままそう言った。見ず知らずの誰かに好意を告げられることが、こんなにも何の感動も呼ばないものだなんて知らなかった。つま先で石をひっくり返すと、ダンゴムシが這い出てきた。お前はいいよな、気楽に生きられて。
「……あのさ。ごめん。ほんとごめんだけど、断らせて。俺お前のことよく知らないし、なんか、うん」
こういう時何と言ったらいいのかわからなくて、祥李は口ごもりながらそう言った。最後は不明瞭になって、自分でもなんと言っているのかわからなかった。途端に少女はしゅんと落ち込んだ様子になる。
「そうですか……いえ、こちらこそごめんなさい。わざわざ、来てくれてありがとうございました……さようなら」
無理やり作ったような笑顔を見せたあと、走り去った彼女の声は震えていた。泣かせてしまっただろうか。どうしようもなく居心地が悪い。
「あーー」
不透明な呻き声を上げて、祥李は手で顔を覆った。和叉のところへ戻ろう。
§
「どうだった?」
机に突っ伏していた和叉は、祥李が戻ってくるや否や目をきらきらさせながらそう言った。
「果たし状じゃなかった」
疲れ果てた様子でそう言う祥李。和叉は頬杖をつき、祥李を見上げて興味津々といった様子だ。人の不幸、とまで言ったら少し可哀想かもしれないが、こんな下らないことによくそこまで関心が持てるものだ。
「で? どんな子だったの」
「知らない後輩」
「可愛かった?」
にやりと笑みを浮かべる和叉を、祥李は死んだ魚の如き目で見る。
思い返せば思い返すほど、無意味な時間だったように思えてくる。自分はもう少し単純単細胞なやつだと思っていたが、実は違うようだ。女の子にかっこいいと言われて、嬉しくならないとは。
祥李はため息をつきながら答えた。
「普通。すっごい、普通」
「あっははは。祥李、目に光がないよ」
楽しくて仕方がない、といった様子で笑ったのち、和叉はふっと目を細め再度机に頰を寄せた。
「どうした?」
もしかして体調が悪いのかも、と祥李は少し心配になった。実際、和叉が調子を崩して保健室に行くことは稀ではない。数日前は熱だと言って学校を休んでいたのだ。しかしそんな心配も杞憂に終わり、和叉はきょとんと祥李を見た。
「なにが?」
「ああいや、いきなり突っぷすから」
この調子なら安心だとほっとするも、
「ああ……なんか、ね」
はぐらかすように目を逸らす和叉。やはり様子がおかしい。
「なあ和叉、お前なんか……」
ここでチャイムが鳴ってしまった。
「あーほら、次家庭科だよ。準備して行かないと」
これ幸いとばかりに逃げ出す背中を、祥李は訝しげに眺めているのであった。
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