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第一話

 夏からちまちま書いていた小説がようやく書き終わりました。

 だいぶ季節外れの投稿になってしまいましたが、楽しんでいただければ幸いです。

 毎日更新です。


 久しぶりに、ここに帰ってきた。家を出てもう六年になるのだろうか。潮風がほのかに薫る、ひなびた田舎町。あいつの面影がそこかしこに残った、大好きで大嫌いな町。


 ダークグレーの浜辺に人の気配はなく、たださざ波だけが寄せては返し、寄せては返しを繰り返していた。目を閉じて大海原の鼓動たる海鳴りに耳を傾け、遠いあの日に想いを馳せる。

 やけに最近のことのように感じる、十年前の、あの日に。


§


「おいショーリ、もう行くぞ!」

「はーい!」


 午前四時。荷物を慌ててひっつかみ、中学生の祥李しょうりは父の後を追った。港町の朝は早いのだ。

 週末は少し早起きをして、漁師である父について海に出る。憧れである父と一緒に潮風に吹かれる時間が、祥李のお気に入りだった。

 五月初めの今日、朝夕はときたま涼しくなるものの、季節はすでに移り変わろうとしていた。木々の緑はそろそろ若葉の姿を脱ぎ捨て、強い日差しに負けないかたい皮を持ち始めている。鮮やかな夏が、今年もやってくるのだった。


「今日も大漁だといいな!」

「うん!」


 港は、家のすぐ近くにある。家を出たその瞬間から、十三年間嗅ぎ慣れた海のにおいが鼻をくすぐる。潮のにおいは血のにおいだと、今は亡き祖父が教えてくれた。海は生命の世界であると同時に死の世界でもある。無限に広く無限に深い、魂の息づく世界だ。それでも祥李は海が好きだった。


 船が停めてあるそばまで行けば、漁師たちがみな海に出る準備をしている。近所に住んでいる佐藤のおっちゃんも、いつも通りその中にまじっていた。


「おっちゃん、おはよう!」

「おう、ショー坊。今日も朝から元気があっていいっぺなあ」


 おっちゃんと短い会話を交わした時、祥李は見慣れぬ人影に気づいた。

 おっちゃんの広い背中に隠れて、色白でほっそりとした少年が一人、所在なさげに様子を伺っていたのだ。

 白い襟付きシャツに細身の黒いズボン。洒落た上着を羽織ったりして、田舎者という感じは全く受けなかった。


「ねえおっちゃん、そいつ誰?」


 気になって尋ねると、おっちゃんは待ち構えていたようにニカっと笑い得意げにこう言った。


「こいつはな、俺の親戚の子なんだぁよ。ショー坊と同い年じゃねえかな。ほれカズ、挨拶しなっしぇ」


 少年が前に出るよう、おっちゃんがそっと促すと、彼はまだ少し遠慮がちに姿を現した。

 朝のまだ白っぽい光に照らされた彼の容貌を見て、祥李は息を飲んだ。


「……植村和叉(かずさ)です」


 声変わりの終わった低く柔らかい声。いや、それよりも。

 なんて綺麗な人なんだろう。

 顔立ちは完璧としか言えないほどに整って、肌は全く日に焼けていない乳白色をしている。長い睫毛と紅い唇はまるで女の子のようだ。手足は長く華奢で、生まれてこの方羽根より重いものを持ったことがないのではと思うほど細い。こちらを見つめる黒々とした瞳はどこかわびしげで、吸い込まれるような不思議な魅力があった。決して綺麗なものだけを混ぜたわけではなく、背徳だとか無気力だとか、そんなものも隠し味に加えたような少年だった。

 祥李もよく容姿を褒められる方ではあったが、正直張り合う気にもなれない。


「……どうも、岩崎祥李です」


 どこか人間離れした美しさに圧倒され尻込みしていると、おっちゃんが腹を抱えて笑いだした。


「はっはは、ショー坊びっくりしてやがんな。どうだ、俺に似ていい男だっぺ」

「いや別に、おっちゃんに似ちゃいないと思うけど」

「言うことが可愛くねえべなあ、お前さんはよ。カズはなあ、こっちに越してきたんだぁよ。まだ友達もいねえから、仲良くしてやってくらっしぇよ」


 そう言われて、昨日だか一昨日だかはやけに騒がしく車が行き来していたことを思い出す。相手をもう一度見ると、なんだか落ち着かなげにもじもじしていた。こっちまでどうしていいか分からなくなり、ぎくしゃくと声をかける。


「なんか……よろしく、ね」

「……うん」


 ぎこちなく頷いた笑顔は、やっぱり完璧に美しかった。細いけど意外に小柄ではなくて、並んでみると百六十少しの祥李よりちょっとだけ背が高かった。


「どこから来たの?」


 多少の図々しさを装いながら質問すると、おずおずと答えが返ってくる。


「東京から」

「へえ、すげー! 都会じゃん」

「僕の住んでたとこは、そうでもなかったけど……」

「ここよりは、全然都会だろ?」

「……まあ」

「おいショーリ! ちょっと手伝ってくれ!」


 じゃあさと話を続けようとしたところで、父の荒っぽい声が飛んできた。

 なんだか話が盛り上がりそうだったのに。祥李はややがっかりする。


「おおっと、ごめん。またあとで色々聞かせてよ!」


 和叉がうん、と頷いたのを横目に、祥李は父のもとへと駆けて行った。


§


「起立」


 いつのまにか始業の時間になっていたようだ。ぼけっと外を眺めていた祥李は慌てて立ち上がる。


 考えていたのはもちろん、例の東京から来た少年のこと。昨日海から帰った時にはもういなくなっていた。なんだか会ったこと自体が夢のような気がしてくる。眩しい日光に照らされた途端消えてしまいそうな、透き通るような美しい少年。おそらくは普通に人間だろうし、中学校なんてここしかないんだから、同い年なら今日会えるはずだ。


 予想通り、いつもよりちょっと遅れて入ってきた教師の後ろに少年はいた。その姿を目にした途端、女子がざわつき色めき立つ。


「おはようございます。すみませんね、ちょっと遅れちゃって。みんな気になるでしょうから、先に転校生さん紹介しちゃいますね。植村くん、どうぞ」


 教師が和叉に微笑みかけ彼もこく、と頷いた。絹糸のような髪がさらりと揺れる。


「植村和叉です。東京から来ました。よろしく……お願いします」


 簡素な自己紹介と、軽いお辞儀。どこからかうっとりとしたため息が聞こえてきた。田舎くさい同級生にうんざりした少女たちの目に、彼の整った容姿や柔らかな物腰は十分すぎるほど魅力的に映っただろう。


「まあ細かい自己紹介は後でしてもらうとして、とりあえず席はそこで」


 和叉の席は、最後列の一番はじに決まった。ずっと空いていた場所に、今日になって机が置かれていた。机の間を縫って歩く彼と、一瞬目が合う。その形のいい唇の端がわずかに上がった気がした。


「はいはい、静かに、静かに。日直さんは……安藤さんですね、お願いします」


 先生が穏やかにたしなめると、クラスはさっと静まり返った。つまらない朝のホームルームは、だいたい全部聞き流して問題ないだろう。


 そういえば今日は月曜日だ。授業が五時間だし部活もないから、いつもより三時間は早く帰れる。和叉を家に招こうか。会ったばかりだが、彼にはやけに興味をそそられた。


 色々上の空で考えていれば、ホームルームなんてすぐに終わった。号令が終わるが早いか、祥李は和叉の席に駆け寄った。


「あ、祥李……おはよう」


 和叉は祥李の姿を捉え、微笑んでみせた。白磁の肌と黒い上着の対比が印象的だ。イケメンって学ラン着てるだけで様になるのか、と一人謎の納得。


「おはよ!」

「同じクラス、だね」


 心底嬉しそうにとぼけたことを言う和叉に、祥李は思わず吹き出した。そんな様子を、和叉はきょとんと見ている。


「いや、二年生一クラスしかないから」

「あっそうか、あははは」


 どうやら、見た目に反してぽやんとした性格らしかった。人見知りもやや緩んだようで、昨日より幾分か打ち解けた態度で接してくれた。屈託のない笑顔は、昨日は見られなかった表情だ。人形のように寸分のミスなく整った顔が無邪気に崩れる。


「次理科だけど、理科室わかんないだろ。俺が案内するよ」

「いいの? ありがとう」

「うんうん。ちょっと待って、教科書出すから」


 いつもはギリギリまで教室で喋ってから猛ダッシュするが、今日はいつもより五分も早い。理科室は同じ階の反対側だから、話す時間はたっぷりあった。三年生だろうか、集団でガヤガヤと一階に降りていく音が聞こえる。


「和叉が前いた学校ってさ、全校で何人ぐらいいたの」

「三百人ちょっとかな」

「あれ、意外と少ない。五百人とかいるのかと思ってた!」

「ふふ、結構そんなもんだよ。ここって何人くらい?」

「百十三人。半分より少ねーよ」


 話しながらずっと、祥李は和叉の顔を眺めていた。テレビなんかに出てくる芸能人よりよほど整った顔が、目の前で動いて喋っている。いつかバラエティでやっていた、ジェンダーレス、という言葉を思い出した。あの時のゲストのモデルより、和叉の方が何倍も中性的で綺麗だ。


「校舎広いのにね」

「そうなの?」

「最初ここ見た時、校舎も校庭も広くてすごいなって思って。前のとこはもっと狭かったから」

「ああ……たしかに、東京の学校って結構狭い……?」


 頭の隅に置いてある、都市の記憶を引っ張り出す。東京なんて年に二、三回しか行かないが、記憶の限りではそうだった。都会というのは物が多い分、一つ一つが小さいのかもしれない。


「そうそう。校庭とかこの中学の半分ぐらいだった」


 ああでも、と和叉が首をかしげる。耳の形も綺麗だな、とその時気付いた。先だけほんのりと薔薇色に染まっている。


「校舎が五階建てだったから、全部伸ばしたら同じくらいの広さだったのかもしれない」

「おお、五階建てかぁ……あれ? 開かない」


 祥李が手をかけた理科室の扉は、がたがたいうばかりで開かなかった。まだ鍵がかかっているようだ。


「えー嘘だろ……せっかく早く出てきたのに」


 祥李がぼやきながら壁に寄りかかると、和叉もそれに並んだ。窓から射す日の光に照らされて、小さな埃がキラキラと舞っている。それを意味もなく指先で追いながら、何とはなしに問いかける。


「カズサは部活やんの?」

「部活?」

「うん。まあここ部活強制参加だから、なんか入んなきゃなんないだろうけど」


 それを聞いて、和叉は一瞬困ったような顔をした。形のいい眉がひそめられるのを、祥李は見逃さなかった。


「どうしたの?」

「いや……ううん、なんでもない。なんでもないよ。何部があるの?」


 明らかに何かありそうな和叉の様子に多少不安を覚えつつ、答える。


「男が入れんのはサッカー部と野球部と吹奏楽部。でも、吹奏楽は女子しかいないよ」

「そっか」


 和叉は俯いた。真新しい教科書を、細い指が神経質に引っ掻く。


「ねえ、どうしたのカズサ。なんでもない顔じゃねーよ」


 次に顔を上げた時、和叉はいたずらっ子のような微笑を浮かべていた。


「うーん……じゃあ後で、ショーリにだけ話してあげる」


 ばたばたという足音とともに、クラスのやつらが先生を引っ張ってきた。

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