③
「あしたは編集部で次の仕事の打ち合わせだから」
マネージャーさんはそう言うと表に待機してあるタクシーに私を促してくれた。
青山にある撮影スタジオ。そこから私は自宅のある板橋区へと向かう。
「お疲れ様でした」
私はかるく会釈をしながらタクシーへと乗り込む。
「板橋ですね」
「はい」
運転手さんの問いかけに私は答えると彼はメーターをオンにして車を発信させた。
青山といえども大通りを少し外れるとそこには住宅街が広がる。そしてここの路地は狭い。おまけに道路標識も複雑だ。方向感覚を失いそうなるくらいにグルグルと路地を走ると幹線道路へと出た。
外苑西通りという道に出るとタクシーは246号線。青山通りに出た。そこをちょっと都心寄りに走ると外苑東通りに接続される。
そこを北上する感覚で四谷に向う。そして防衛省脇を抜けると、世間一般の東京とはかけ離れた瓦葺の屋根の目立つ住宅街が現れる。そしてそれらを横目に見ていると、T字路が現れる。ここで外苑東通りは途切れる。
首都高の高架がそれを遮るようにあり、それに沿う様にタクシーはひた走る。
そこから音羽通りに入ると少し大きめのビルが目に入る。そこのビルにJ&Jの編集部はあり、それを過ぎると音羽のシンボル。護国寺がある。
青々しい境内のさらに向こうには池袋を象徴するサンシャイン60が鎮座する。
タクシーは首都高速五号線の高架にそって走っていく。
私は車窓から見えるサンシャイン60をぼんやりと眺めていた。
ほんの五分位でタクシーは池袋に入る。先ほどまで見えていたサンシャイン60は近すぎるのと周りのビルと首都高の高架で遮られて見えなくなった。
昼間でも少し薄暗いそこを通り過ぎると一気に景色が開ける。そう、そこが私の住むまち板橋区だ。
東京といえば高層ビルなどを連想するが、ここ板橋区に関していえば、高層建築物は今通り過ぎた板橋区役所位しかなく、大体が雑多な住宅街が広がる。
まぁ、大型のマンションがあるにはあるがタワーマンションみたいなものとは少し趣きが違う。ようするに下町なのだ。
なので地元に根ざした商店などが多く、中には激安を謡う大手チェーン店が尻尾を巻いて逃げるほどの滅茶苦茶な店もある。
しかもそれだけではない。大手出版社の印刷工場や、食品メーカー、光学機器、健康用品のメーカーなどが昔からの軒を連ねている。
一言で言えば板橋という街はハイローミックスなカオスタウンなのだ。
なので板橋の商店街はどこも活気があり、情報化社会、グローバリズムの波のなかで我々日本人が忘れた何かが、あるような気がする。
若輩者の自分ですらその心の奥深くにあるものが何か掘り起こされる感覚になる。
昔から宿場町として栄えてきた歴史的背景がそれに繋がるのだろうか?
景色は中山道に変わる。首都高の高架は消え、空がどこまでも広がる東京らしからぬ光景がそこにはある。
「ふぅ」
私はその景色を目にすると思わず安堵の溜息をついた。
「落ち着く景色だねー。都内ばっかり走ってるとやっぱり息き詰まるよー」
そんな私の様子に感づいたタクシーの運転手さんが話しかけてきた。
いや、彼にそんな堅苦しい言い方は似合わない。どちらかといえば「運ちゃん」だ。
「本当」
「いろいろ大変そうな業界でしょー。モデルとかファッションとかって?」
「ふふ。大変なのは私より周りの人達ですよ」
「いやー、お客さん大したもんだよ。そんな事言えないよー普通」
「ありがとうございます。あ、あのスーパーの近くでお願いします」
「あいよ」
下町生まれっぽい彼は巻舌まじりの返事をするとその間も何かと話しかけてきた。
何か落ち着く。そんな雰囲気を醸し出す板橋区。
ここが私の住む街。モデルらしからぬ場所に拠点を構えるにはそれなりの訳があるからだ。
そしてそれは私だけの秘密を守る為でもある。
私はタクシーを降りると一旦背伸びをした。
そして自宅であるマンションまで一人で歩き始めた。
日は傾き始めている。高島通りは薄っすらとではあるがその表情に少しばかり赤みを持ちつつあった。
大型のスーパーは丁度、都営三田線の沿線上にある。夕方なのでそこの周りは主婦や学校帰りの学生などで賑わっていた。
キャアキャアというはしゃぎ声は私のいる対向車線にまで聞こえてくる。この光景だけ切り取れば極ありふれた日常の景色にしか見えない。
東京だからなにかオシャレな所ばかりではない。
私はそんなほのぼのした雰囲気の中を軽やかに歩く。
都心みたいに歩道には人が大勢いる訳ではないのでここでは私は自分の事を隠す事は無い。
それに板橋区という地域の特性上、そこに…、自分でいうのもはばかれるが名の知れた有名人が歩いてるなんて思いもしないのだろう。
先ほどから高校生や主婦の乗った自転車が私とすれ違うが彼女達の反応は何もない。
私は夕暮れの高島通りを歩き続ける。五分位すれば自分の住むマンションに着く。
一階がレンタルビデオやコンビニの入るちょっとした商業施設になっており、二階はチェーン展開する居酒屋とマンションのエントランスになっている。
比較的新しめに建てられたもので板橋区にしては珍しいオートロックのマンションでエントランスには管理人が駐在する、何気にセキュリティの厳しいマンションだ。
まぁ、板橋にもオートロックのマンションはそれなりに有るだろうが私の住むこの高島平の近辺には高層で尚且つオートロックのマンションは少ない…。はずだ。
と、いうか先ほど述べた通り板橋の代表的な高層建築物は区役所位だ。
私はエントランスに通じる螺旋階段を登るとそこにあるオートロックの自動ドアを解除してマンションの中へと入った。そしてポストを見ようとメールボックスに近づこうとした時、声をかけられた。
「あ!田中さん」
「はい?」
「いつもの来てるよ」
私の気の抜けた返事を返すが、エントランス内にあるカウンターからいそいそと管理人さんは出てくると私に一つの茶封筒を渡してくれた。
「あぁ!」
私は感嘆の声をあげる。その茶封筒には「文学堂」と書いてありずっしりとした重みを放っていた。
「いつもすみません」
「いえ、ポストに入らないからしょうがないよ」
彼はそう言いながらまたカウンターへと入っていく。
私はその茶封筒を小脇に挟むとエレベーターへと向かった。
「↑」ボタンを押すとチャイムと共にエレベーターのドアは開いた。私はそれに乗り込むと一番上の階のボタンを押した。
幸いだれも乗ってこなかったので先ほど管理人さんから受け取った茶封筒をうえからまさぐった。
中は見えてないが中身は一緒のものが三冊。まぁ、ヤツのする事だから間違いはないだろう。
もし間違えようものなら彼は三式弾の染みになるだろう。
私は怪しくにやけながらもエレベーターが目的階へと着くのを待った。
そして到着のベルが鳴るとエレベーターから茶封筒を後生大事そうに抱え降りた。
最上階はなんと私を含め二部屋しかなくその広さはかなりのものになる。一国一城。そんな言葉さえ浮かびかねない豪華さ。絵に描いた成功者の住まい。
別に私自身はこのような所に住む気はないが何せ今自分自身の置かれている立場と自分自身の秘密を守るにはこれはしょうがない事なのだ。
私はエレベーターを背にして左側のドアの施錠を解いた。
ディンプルキーで二重ロックの扉を開けるとガランとした玄関になる。
ファッションモデルの癖に自分の身につける物に何も興味のない私の家の玄関は近所を歩くためのサンダル位しかない。そこに今履いているパンプスを脱ぎ捨てる。
「ぶはっ、着いた」
そこで全ての気が抜ける。
そのままだらしない調子で私は廊下を抜けるとリビングへと赴いた。
リビングと廊下を仕切る扉を開ける。そこは私を私たらしめたるものが溢れる場所だ。いうなれば
要塞