③
ダイブして逃げるか?
いや、零戦の急降下速度ではムスタングに簡単に追いつかれてしまう。
ならば急上昇で。
しかしこれも尚更無理だ。二千馬力のエンジンと千馬力のエンジンでは上昇力に差が有りすぎて話にならない。しかも高度が高くなればなるほど相手は有利になる。
距離がグングン詰められる様に相手の顔から発せられる表情の輝きがます。
「この時私はぞっとした。ヘルキャットの編隊かと思って後方より接近したら、実はドーントレス急降下爆撃機の六機編隊で、全部で十二丁ある後部座席の機銃の照準がピタリと私の機に当てられていた。
田中信子著・「激空のサムライより抜粋」
正にそんな感じだ。
この状況から脱するには…。
「え~と、ニコンって昔は旭光学って言われてたんですよね」
こうなっては照準もクソも無い!やたらめった乱射だ!てかアワくってニコンとペンタックスが頭の中でごっちゃになった。
「あははは!それはペンタックスですよ」
「あれ?そうでした?」
私は苦笑いをしながら立ち上がった。
「でも、ペンタックスの古い呼び名よくご存知ですね~」
「あ、昔住んでいた所の近所にペンタックスの工場があってそこの看板が旭光学になってたんで」
事実、板橋にはペンタックスの工場があり、そこの看板は旭光学とペンタックスのダブルネームになっていたのを記憶している。
「へ~なるほど」
カメラマンの彼はどうやら納得したような感じの表情を示した。
「因みにニコンは日本光学ですね」
「あーそうなんですか~」
いや、知ってるって。でもそこは同調しなければ。私は白々しい相打ちを打った。
しかし、このままカメラ談儀に持ち込まれては私は防戦一方な上に更に厳しい戦いを強いられる事になってしまう。
勿論、私のカメラに対する知識は無いに等しい。
それだがここで話を少し戻そう。先程言った測距の方法だ。
戦艦大和の場合ステレオ式といい、レンズが二つ離れてあり、それは鏡などを使って両眼で二つのレンズを覗き込めるようにできてある。
主砲の射程距離が四十キロ以上ある為、三角測量の都合上、大和の測距儀はレンズの離れた距離がなんと15メートルもあるのだ。「15メートル測距儀」と言われる由縁はそこだ。
その覗き込んだ映像は真ん中から上下に分かれていて、ダイヤルなどを使ってその映像を合わせる。俗に言うピントの合わさる所を探り出す訳だ。それを三角測量の要領をつかって距離を割り出す。
ピントの合うところ。すなわち、目標となるものの距離という訳だ。
文字では中々説明しづらい所もあるが、詳しい説明をしようとすると
「光学視差式距離計」
などと言う難解な日本語の壁にブチ当たるので、今の段階では割愛させて頂く。
このような話しは「定例会」でゲップの出るほどするので後ほど…。楽しみにしたい方は銘々で。
「あのー。私カメラの事良く分からないんですけど…。やっぱりピント合わせる時って今の機種でも、映像が上下二つに分かれてるのを合わせるんですか?」
私は何も知らない体で質問を飛ばした。そしてコレはカメラの知識ではなく測距儀の知識だ。
「映像が上下…」
しかし、カメラマンさんの表情が少し曇った。
あれ?やってしまったか?
愛想笑いが苦笑いになるのを必死にこらえるが、背筋に冷やりと冷たいものが一筋流れる。
OPL照準器に目一杯写っているはずなのに何故か弾道が下方に反れていく。そんな感じ。
どうした?なぜだ!?
私はその原因を頭の中でまさぐった。
いかん!大型機の場合は照準環からはみ出る位接近しないと命中弾は得られない!
高空にいるためか?酷いマイナス頭になっている。
ホントもう坂井ナニ郎だっつーの。このままだと高高度でサイダーの栓を抜きかねないワ。
早くなんとかしないと又墓穴を掘ってしまう。
掘るのはタコツボで十分。とか言ってる場合じゃない。
「リタさんの御年だとファインダーを覗いて撮るカメラに馴染みはないんじゃないですか?」
私が下らない思考に頭を割いているスキにカメラマンさんの鋭い指摘が入った。
「え!?」
思わず出る素っ頓狂な声。
しまったァァァ!!
この瞬間。私の駆る乗機のコックピットに盛大にサイダーが噴き出した。
現在の飛行機で高度三千メーターというと低い部類に入るが、第二次世界大戦中であれば比較的高い方になる。
なにせ、富士山と変わらない位の高さな訳だから気圧、気温は当然変化している。
なのでそれに対応する為、当時のパイロットはいつでも暑苦しい格好をしている。第一次世界大戦などは更に顕著だ。
では、そんな状況の中で炭酸飲料の栓をあければどうなるか?
地上では感じないが高い圧力を封印している炭酸飲料は栓を開けた瞬間に、その圧力を放出してしまう。
それはもう、噴水の如く。
なのでその手の飲み物は一度地上で栓を抜いて気を抜いてから乗機に持ち込むか、高度を下げるかしなければエライ事になるのは想像できるだろう。
これは現在の飛行機みたいにキャビンや、コックピットの気圧、気温が地上と同じように保つ、エアコンを強力にしたような装置がない為だからだ。
今でも旅客機の手荷物検査の際に非常に事細かく荷物の事を聞かれるのは、預かった手荷物を入れる貨物室にはこのような装置がない為、気圧、気温の変化によって中身が破損、最悪、飛行に支障のでる重大事故に繋がるのを防ぐ為だ。
皆さん。飛行機の安全運航、定時運行の為にも手荷物の状況は把握しておきましょうネ。
って人の事を心配している場合か!
どどどどうしよう。私の駆る零戦の操縦席はサイダーでベトベトになりそれが乾いて風防から計器から照準器まで全てが擦りガラスの様に曇ってしまった。
「あーあ、やってしまったダヨ」
なぜか小川さんの声が頭の中に響く。
チクショウ…。
心の中で悔やんでも始まらない。本当に口は災いの元だワ。
首に巻いているマフラーでとりあえず拭ってはみるが繊維のケバが擦り付いて余計に曇ってしまった。
嗚呼…。終わった。
「ひょっとしてお父さんとかカメラ好きなんですか?」
正にオーバーシュートなカメラマンさんの質問!!
ハハハハハハ!絶対的な速度差が裏目に出たか!
零戦に後ろを取られて逃げれると思うなよ!私は反射的にスロットルレバーを叩き込む様に答えた。
「ハイッ。父が趣味で古いカメラを集めてて」
「ほー、ライカとかですか?」
ぐほっ!ライカとかカールツァイスとかWW2ならガンガンに出てくる光学器機のメーカーじゃないか。そんなの常識の範疇だろ。しかしこれに釣られて答えてしまったら私の出せる解答は
戦艦ビスマルクの測距儀
か
Revi照準器
位だ。また敵機が遠のく。つーか言ってしまったらこんどこそ撃墜確定。
照準環の機影がどんどん小さくなる。こちらが後ろを取っても相手は馬力にものをいわせて引き剥がしにかかる。
クソッ、何とか話題をカメラからそらさなければ!
「そんなにいい物じゃないですよ~。アハハ~」
ぬふぉ!正に二十ミリ機銃のションベン弾的解答。
五二型の零戦で二号二十ミリでもこの解答はマヌケすぎる。これじゃぁ私がカメラのなんたるかを多少なりとも知ってる事になってしまう。
「では国産のを主に?」
だー!やっぱりキター!そりゃそうだろう。海外のメーカーじゃなければその矛先は必然的に国内メーカーになるだろ。しかも、先刻わたしは「旭光学」だの「日本光学」だの現カメラメーカーの旧社名を得意気に言ってしまっている。
これはもうカメラに興味が無いという方がかなり難しい。
くれぐれも言っておくが私のカメラに対する知識は少しもない。あるのは光学兵器に関する知識でこれ等はカメラの技術を利用したものが多いいだけだ。
大体、東芝の事を東京芝浦電気と言ったり、NECの事を日本電気と言ったからって冷蔵庫やエアコン、パソコンに詳しい訳ではない。
ぐおおお、マイナスGで頭から血の気が引いていく気がする。
しかも相手は悠々と旋回しながら私の機体の背後に迫ってくる。
くぅ、この零戦が旋回で背後を取られるとはなんたる屈辱。
どうやってかわす。ラフベリーサークルなんてP51みたいに大出力のエンジンを積んだ機体には最早過去の戦法だ。そんなミエミエの手を使ってくる筈がない。
せめて、空戦フラップか現在のジェット戦闘機みたいにアフターバーナーでもあれば…。
機体の絶対的な性能には敵わない
チッ、思わず舌打ちが出そうになる位忌々しい。