第五章
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「おじいさん、手伝ってくれてありがとうございました」
ヘンリクは、アスファルトの地面を歩きながらおじいさんに感謝を言った。太陽は既に、西の空に傾いている。彼は大きく頷くと、それから一拍おいて、ヘンリクに質問した。
「君たちは家出をして、ここまで来たのだろう?」
ヘンリクは目を丸くして、おじいさんの事をじっと見つめて、
「……僕たちの事を警察に言いますか」
と低い声で言った。彼は今度は首を横に振って、
「いやいや、そんな事はせんよ。しかし、この先の道は歩いたら今日の夜までに街までは辿り着けないだろう。その分だと野宿をする用意もしていないのではないのかね」
とヘンリクに訪ねた。ヘンリクは、黙ってうつむいてしまった。
「強制はせんが、私の家に泊まって行ってはどうかね」
おじいさんは優しい声で僕たちに言った。ヘンリクはまたしばらく黙った。
「それは嬉しいのですが……」
「いいんですか? 僕は泊まりたいなぁ」
僕が喜んで言うと、ヘンリクはあわてて、
「いえ、あの、ご提案は大変ありがたいのですが僕たち急いでいて……」
と言った。
「私の事が怖いかね」
「……失礼ですが、僕たちに対してそんなに優しくしてくれる意図が分かりかねます。何か良からぬ事があるかもしれないと僕は思っています」
ヘンリクがそう言うとおじいさんは、沈黙の後急に大声で笑い出した。ヘンリクは驚いたが、僕は何だかわざと怖がらせようとして笑っているのではないかなぁと思い、怖いとは思わなかった。
「ワッハッハ!君は、私が君たちをとって食おうとしているように見えるのかね」
そう言うと、彼はにっこりと笑った。
「心配しなくてもよい。それならとっくに食べている。今腹ぺこでな」
ヘンリクは困惑しているようだったが、僕はこのおじいさんがどうしても悪い人のようには見えなかった。
「なぜ、そんなに親切にしてくれるのですか?」
ヘンリクが訪ねると、おじいさんは僕の事をあごでしゃくった。
「そっちの子が私の息子に似ていたというだけの事さ」
僕たちはおじいさんの家に入った。おじいさんは暖炉のガラス戸を開け、薪を入れ始めた。うまく空気が通るように組み終わると、今度は薪の間に古い紙をねじ込んで、マッチで火をつけた。最初は小さく着いていた火は、おじいさんが息を吹き込むと薪に燃え移り、大きくなっていった。
「君たち、コーヒーは飲めるかね」
「いただきます」
ヘンリクはそう言ったが、僕はコーヒーなんて飲んだ事がなくて、戸惑った。おじいさんは僕も飲めると思ったらしくて、構わずお湯を沸かし始めてしまった。
ブリキ製のケトルを暖炉の上にのせ、おじいさんは奥へ引っ込んで行った。僕たちは椅子に座って待っていた。彼はまた戻ってくると、ソーセージとパンを切って並べた皿を持っていた。
「お腹も空いただろう。食べなさい」
僕はお腹がぺこぺこだったので、「やった」と感嘆の声をあげた。ヘンリクも目を輝かせてソーセージを見つめている。ソーセージをフォークで取り、口に運ぶとスモークした味わいが舌に広がり、歯で皮を突き破ると香ばしい肉汁が飛び出してきた。
「息子さんとは会っていないのですか?」
ヘンリクが聞くと、おじいさんは
「死んだよ。三十八年前にな」
と言った。ヘンリクは口を動かすのを止めた。
「どうして死んだのですか?」
僕が聞くとおじいさんは空を見つめて、とつとつと語り始めた。
「君たちが通ったかどうか知らないが、ホフヌン駅の先の線路から列車が落ちてな。私の妻と子供が、その下にある工場にいた所を直撃してしまった。私の子供は、その日私の妻が忘れた弁当を届けに工場にたまたま行っていたんだ。それがこんな結果になるなんて、誰が分かっただろうな……」
おじいさんはしばらくの沈黙を置いて、続けた。
「それから私は、街にはほとんど行かず、この家で暮らしている。独りぼっちになってしまったけど、私はもう人と関わるのが怖くなってしまった」
「何故です?」
僕が聞くと、彼は、
「人と関わると、どうしてもいつか別れが来る。それは避けられないものなんだ。そしてそれは大抵、いくらかの痛みを伴う事が多い。私はもう、その痛みに耐えられるような心を持ち合わせなくなってしまったのでね」
と答えた。僕たちが黙っていると、おじいさんはさらに続けた。
「いや、すまないね。君たちにこんな話をしても、分からないだろう。それに、あまりにも人と会う事が少なくなってしまったから、今日は嬉しいんだ。君たちの事を、話してくれるかな。君たちの名を聞いていなかったね」
「オットーです」
「ヘンリクといいます」
「どこから来たのかね」
「僕たちは、ゼーゲンデルグロッケ駅から、列車に乗ってやって来ました」
「ふーむ、驚いた。ずいぶんな長旅だね。目的地はあるのかな」
「それは……」
僕がヘンリクに目配せをすると、彼は、
「僕の生き別れの母親に会いに行きたかったんです」
「……」
おじいさんは深呼吸をしながら口を動かし、大きな息を鼻から出した。
「そうだったのか……」
それから、指を絡め合わせて、何か祈るような事を呟いた。僕はその間、さっきおじいさんが言った事を頭の中で反すうしていた。いつか、必ず別れは来る。ヨハン兄さんとの別れは唐突にやってきたけれど、そうじゃなくてもいつか別れは来たのだろうか。兄さんが死んだ時、そういえば僕は、大泣きしたっけか。何日も胸が痛くてたまらなくって、食事もろくに食べられなかった。そんな気持ちを、おじいさんも感じたのかなぁ、そして、僕はこれからまた、何度もそんな思いをしなきゃいけないのかなぁ、と思うと、僕は幾分気分が沈んだ。
「じゃあ、そちらの友達は、何故付いて来たのかな?」
「僕は……ただの家出です」
僕が言うとおじいさんは何故だか吹き出してしまった。僕は少々不服だった。
「そうか、それは結構。親が嫌いになってしまったのかな?」
「兄さんと比べられるのが、嫌になったんです」
「お兄さんは今いくつ?」
「死にました、二年前に」
そう言うと、おじいさんは面食らった顔をして、それから腕組みをして息を吐いた。
「そうか、それは気の毒に……君も、大事な人を亡くしていたのか」
おじいさんはそうかそうか、と頷くと、沸騰したケトルを取りに行った。コーヒー豆を挽いた粉を、フィルターに入れると、彼はその上からお湯を静かに注ぎ始めた。香ばしい香りが立ち上り、粉が泡立ち始めると、おじいさんはお湯を注ぐのを一旦止め、それから少しずつ注ぎ始めた。
「どうやら、君たちは大きな壁を越えようとしているのだね」
大きな壁? それは、一体どういう事なのだろう。僕は思わず首をかしげた。
「僕は家出したいだけで、特に障害は持ってないのです」
「ふふ、そう思うだろう。しかし、その壁は誰しもが持つようになるものなのだ。ちょうど君たちの年頃になるとね。その壁を越えるには大変な労力がかかり、何年も経って、結局越えられなかった人もいる。しかしそれを越えられたとき、君たちは途方もない大きな宝物を手に入れる事になるんだ」
「宝物ですか?」
僕はそう聞いて少し胸が躍った。
「それは何ですか?」
「自分自身、というものだ」
おじいさんが言った事は予想に反してよく分からないものだったので、僕はがっかりした。それを横で聞いていたヘンリクは目を伏せて、何か深い考え事をしているようだった。自分自身を手に入れるなんて変な事を言うもんだ。僕は何をしなくたって、ほら、自由に動かせる体を持っている。考えられる頭を持っている。自分自身なんて生まれたときから持っているじゃないか、と僕は思う。
「自分自身を手に入れたって、何か嬉しい事でも起こるんですか? おじいさんは持っているという事ですか?」
僕は質問した。
「それは、今言っても良く分からないだろう。君たちが自分で探し出した方が、はっきりと分かるかもしれない」
そう言われたので僕はますます意味が分からなかった。今まで出されたどんななぞなぞより、難しいような気がした。コーヒーを出されたので、ヘンリクは口をつけた。僕もそれにならって、一口飲んだ
「ぐぁっ」
僕は情けない声を出した。何て苦くて酸っぱくて、まずいのだろう。こんなものを好んで飲んでいる人たちの事を僕は理解できなかった。
「砂糖とミルクを入れれば、幾分味が和らぐだろう。しかしヘンリク君は、ブラックでいけるのだね」
ヘンリクは涼しい顔をして飲んでいる。
「まぁ、君たちはまだまだ子供だ。ゆっくりと、考えていけば良い」
おじいさんはそう言って、席を立った。僕は眠くなってきて、大きなあくびをした。
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