第四章
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朝食を食べ終えると、僕たちは再び歩き出した。今度は、僕たちは色々な話をした。僕は話にヘンリクの父親を出さないよう考慮した。主に話の内容は、彼から借りた本についての事だった。
ヘンリクから借りた本はどれも面白かった。どきどきするような壮大な冒険ものや、涙がこぼれるような心温まる話や、爆笑してしまう四方山話など、物語は多岐に渡った。
でもそれは彼の家に所蔵してあるほんの一部であると言う事をヘンリクは言ってくれた。彼はそれ以上に、偉人の伝記や歴史書や、地理に関する本を読んでいるらしかった。
僕がヘンリクに本の中で分からなかった事や、一部について聞くと、彼は全ての質問に戸惑いもなく答えてくれた。彼は本を一度しか読んでいないと言うが、細かいセリフから登場人物まで全て網羅していた。ヘンリクは頭が良かった。僕はお気に入りの本でさえラストが曖昧なのに、彼の頭の中はどうなっているのだと思った。
そう、そんな彼はどことなくヨハン兄さんに似ているのだ。だから僕は彼に憧れのような感情を抱いているのかもしれない。ヘンリクは僕の誇りだった。
そんな事を話しながら歩いていると、ふいに鳥の鳴き声が激しく響き渡った。あまりに大きな声だったので僕はびっくりして、背中に鳥肌が立った。
「待てよ?」
ヘンリクが戸惑った声で言った。
「道が途切れているぞ。間違えたのかもしれない」
「戻った方がいいかな?」
僕はそう言って振り返り、ぞっとした。今まで歩いてきた道が、見えなくなっていた。
「どこから歩いてきたんだっけ……?」
「しまったな。木に印をつけて歩けばよかった」
ヘンリクはそう言ってコンパスを取り出した。
「駅から西に歩いてきたのがここだから……」
そう言って地図をじっと見ながら彼はしゃべった。
「こっちに歩けば、いずれ道路にぶつかるはずだ」
指さしながらヘンリクはまた歩き始めた。僕は自然とその後を追う形になった。
木々の間を、焦りからか少し早足になって僕たちは歩く。足下はけもの道ではなく草がぼうぼうと生い茂るようになり、時々木に絡まったツタが僕たちの行く先を阻んだ。
僕たちはそれを退けたり、よけて通ったりしながら先へ進んだ。だけど、中々道路には出会わなかった。進んでも進んでも、見えるのは枯れ木と曇り空とまばらな雪だけだ。ヘンリクの足がさらに速くなり、僕はだんだん歩くのが疲れてきた。息が荒くなってきて、足が徐々に重くなって行くのを感じた。山はだんだんと上り坂になってきて、それなのにヘンリクはどんどんスピードをあげ、僕たちの距離が離れ始めた。
「ヘンリク、待ってよ」
そう言ったが彼がこちらを気にせず歩き続けるので、僕はもう一度、
「待ってよ!」
と言った。するとヘンリクはこちらを振り向いたけど、その表情は、かなり険しくなっていた。
「ヘンリク、少し休みたいよ」
「君は少し考えてものを言ってくれ。迷ったまま、夜までこの山から出られなかったらどうなる?昨日と違って眠る場所なんてないぞ。なんとしても夜までに、ここを抜けなきゃ行けないんだ。急がないと、置いて行くぞ」
ヘンリクはかなり苛立っているようだった。僕は疲れと悲しさがブレンドされて、凄く嫌な気持ちになった。
「そんな事言ったって、僕は体力がないんだ。そんなに怒らないでくれよ」
「怒ってない。急いでいるだけだ」
「じゃあ、もう少しゆっくり歩いてくれよ」
ヘンリクは目を閉じて、肩を大きく上下させてため息をついた。
「そうかい。じゃあ、君はそこで休んでくれ。オットーを誘った僕が馬鹿だったよ」
そう言われて僕はひどく打ちのめされて、うつむいた。僕が馬鹿だったって?付いてきた僕のせいにすれば良いのに、彼は変な所で自分のせいにするから、僕は余計に傷ついた。
しばらくした後顔をあげると、ヘンリクの姿が見えなかった。僕はどきっとした。まさか、本当に僕を置いて行ってしまったのだろうか。僕の心の中に、一気に寂しさが襲いかかった。
「ヘンリク!」
僕は大声で叫んだけれど、僕が期待した彼の間の抜けた「なあに」と言う返事はなかった。僕は急いで立ち上がった。
「ヘンリク、どこにいるの」
もう一度叫んだが、返事はない。今やヘンリクがさっきいた方向さえ、僕には分からなくなった。僕は駆けだした。独りぼっちになってしまった僕の事を、山は冷たく覆っていた。
ウソだ。ウソだ。彼は僕を置いて行くような人間じゃない。きっと特別な理由があるに違いないんだ。僕はすぐそこに彼がいると信じて、走った。彼に会ったら僕が悪かったと言って、何度でも謝ろうと思った。彼が許してくれるまで、謝ろうと思った。
僕は結局、彼がいなければ何もできなかった。まるで迷子の子猫のように、生き抜く術さえ持ち合わせていなかった。ヘンリクがいなければ、僕は死んでしまうだろう。この冬山に一人残された僕は、春先まで冷凍保存されて、見つかった頃にはミイラになっている事だろう。いや、もしかしたらいつまでもそのままで、僕は眠り続けるかもしれない。ヘンリクが大人になって、年を取って息を引き取っても、僕はこの山に取り残されたままなのだ、独りぼっちで。
走っていると目から涙が溢れてきた。僕は拭う暇もなく、涙を流しっぱなしにして走った。涙は顔の後ろに流れ、空中に放り出されて行った。
どれくらい走っただろう。急に視界が開け、目の前に黒いアスファルトの地面が広がった。僕は幸運な事に、正しい方向に走って道路まで抜け出たらしい。ただし運が悪い事に、ヘンリクがいない。彼は今、どこにいるのだろう?僕は走り出した事を後悔した。あのまま待っていればもしかしたら、どこかへ行っていたヘンリクは戻ってきてくれたのかもしれない。事態はさらに悪化したと言って良かった。どうしたらいいのだろう。僕は途方にくれた。今来た道を戻ろうとも思ったが、それはさらに悪い結果をもたらしそうだった。しかし、僕一人でこの状況をどうにかする自信はなかった。
ひとしきり考えた後、僕は結局、誰かに助けを求める事にした。この道路を行けば、その内生きた人間に会う事ができるはずだ。その人にヘンリクを探してもらう方法を考えてもらう事にした。情けなさ極まりないが、今の僕にはそれしか思いつかなかった。
僕はなお一層スピードをあげて走った。道路の固い地面はある程度走りやすかったが、もう体力はほとんど残っていなかった。それでも僕は走った。すぐに息が切れて、早歩きになったけど、何より、一人でいる事に耐えられなかった。誰かの声を聞きたかった。そしてできればそれは、ヘンリクの声であって欲しかった。
すると前方に、木組みでできた一軒の家が見えてきた。どこか外国の建築方法なのだろうか、僕が今まで見た事もない屋根だったが、その事に興味を取られている暇はなかった。僕は急いで階段を駆け上がると、少し躊躇した後にドアをノックした。
「どなたかね」
しばらくすると、扉を開けておじいさんが出てきた。東洋の仙人みたいな外見に僕は少し戸惑ったが、意を決して話しかけた。
「あの、僕、友達と山を歩いていて、はぐれちゃったんです。もしかしたら彼は今も、山の中にいるのかもしれない。彼を探したいのですが、どうすれば良いのでしょう」
「……」
おじいさんはしばらく黙って、毛むくじゃらの顔の奥にあるつぶらな瞳でじっと僕の事を見つめた。それは五秒か十秒かだったが、僕には永遠のように感じられた。彼の瞳はしんと静まりかえっていて、まるで洞窟の中にある地底湖の底のように、真っ暗だった。僕はある種の恐怖さえ感じた。しかし、彼は踵を返して、
「入りなさい」
と僕を家の中に迎え入れてくれた。
家の中は山小屋のようで、家具がほとんど置かれていなかった。しかし、綺麗に掃除が行き届いていて、木のすえた香りが僕の鼻を膨らませた。
「残念ながら、ここに電話はないから警察を呼ぶ事はできん」
おじいさんは背中を僕に向けながらそう言った。僕はそれを聞いて、警察を呼ばれてもまずいなぁと思った。僕たちは家出をしているのだから、すぐに家に連れ戻されるだろう。
「……あの、どうすれば」
僕が申し訳なさげに言うと、彼はコートを羽織り、玄関の脇に置いてあった鉈を手に取り、僕を外に出るように促した。
「大体、道が分かりにくい所は決まっている。そこへ向かおう」
彼は協力してくれるらしかった。僕は丁寧にお礼を言うと、おじいさんの後に付いて行った。
山に再び入り、僕たちは木々の間を縫って歩いた。つたが邪魔をすると、おじいさんは鉈でつたを叩き切って進んだ。僕はその後ろを一生懸命付いて行った。今日、既に僕は一日の歩いた距離の最大値を更新したと思う。僕は筋肉痛にさらされた足を、進める事を強制した。
「うむ、雪に足跡が付いている。君の靴の裏を見せてくれるかね」
僕は靴を脱いで彼に差し出した。彼はそれと足跡を比べると、
「この足跡はどうやら、君の友達のもののようだな」
彼はそこから足下を注意深く観察しながらなお歩を進めた。おじいさんは時折後ろを振り返って、僕が付いて来ているか確認しながら進んでくれた。そして、しばらく進んだ頃僕に話しかけてきた。
「君たちはこの辺の子供ではないね」
僕は動揺した。なんて答えたら、問題なく話を終えられるだろうと思ったけれど、僕の遅い回転の頭では良い考えは浮かばなかった。
「その、旅行に来ていて……」
「親は?はぐれたのかね」
「いえ、その……」
僕が黙りこくったのでおじいさんは沈黙にある程度場を委ねた後、
「家出かね」
と言った。あまりにも突然言い当てられてしまったので、僕は何も言う事ができなかった。おじいさんはそのまま何も言わず、歩き続けた。
その時、かすかな叫び声が聞こえた。それはオットー、と叫んでいるようだった。ヘンリクだ。僕はすぐに気が付いた。
「ヘンリク!」
僕は叫び返した。するとまた叫び声が返ってきた。だんだんと声は大きくなっているようだった。そして、木々の間に小さな影が動いているのが見えた。
紛れもなくそれはヘンリクだった。
「オットー!」
ヘンリクは走り寄ってきた。僕は泣きそうになったけど、かっこ悪いから我慢しようと思った。ヘンリクに習って、僕もなるべく涙を節約しようと思った。
でも、駄目だった。
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