第三章
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次の日、僕が目を覚ますとヘンリクは既に毛布を片付けて、何やら手帳にメモを走らせていた。外は丸裸の樹木が手のひらを空に掲げるように枝を上に向け、朝日は、半熟の卵の黄身みたいなオレンジ色を、深く沈んでいる薄い紺色と黄色のグラデーションの空に浮かべており、同じ色の雲が料理の添え物みたいに朝日の隣にぽつぽつと浮かんでいた。
僕が何をしているのか聞くと、ヘンリクはペンを止めた。
「おはよう、オットー。これは日記だよ。いつもはつけないけど、この旅は記録につけておいた方がいいなと思ってね。きっと大冒険になるからさ」
僕はそう聞いて、昨日僕が一緒に泣いた事も書かれるのかな、と思い、恥ずかしくなった。それに僕の事を情けないヤツだ、泣き虫だなんて書かれたらどうしようと思った。もしこの日記が後世まで残った場合、僕の事がそう書かれていたらとても困る事になる。思わず手帳を覗こうとしたが、彼は書き終えたらしく手帳をしまってしまった。
「さぁ、もうすぐ終点だよ。オットー、準備はできているかい」
ヘンリクはリュックを背負って立ち上がった。僕は急いで毛布をしまって荷物を整理した。その時、列車は大きな汽笛をあげて減速し始めた。終点である、ホフヌン駅に着くようだ。
「あれ?」
僕は外を見て、小さく言った。左に大きく曲がった先、小さな丘の上にそれよりも遙かに小さい目的の駅が見える。
「おかしいな、終点なのに線路がその先にも続いているよ」
そう言われてヘンリクも一緒に窓の外を見た。終点の駅のその先にも、線路が伸びている。
「君にこの先で起きた事件について書かれた本を、いつだか貸さなかったっけ?」
ヘンリクは怪訝な顔で僕に聞いた。僕は申し訳なさそうに、
「ううん…」
と考えて見せたけど、それはポーズだった。前に読んだ本の事なんて、僕はほとんど覚えている事はなかった。
「それじゃあ、後で教えてあげるよ。行こうぜ」
僕たちは止まった列車から降りる事にした。ステップを降りるのに、少々苦労した。僕は足が短いからだ。ヘンリクが難なく降りるのを見て僕は少し羨ましくなった。
僕はもっと厚着をして来ればよかったかなぁ、と後悔した。ヘンリクはやっぱり準備が良く、モザイク模様のストールを首に巻きつけていた。
「ここに水道は引いてあるのかな?」
僕たちはひとしきり探したが、駅の周りにそのような設備がなかった。駅は無人で、小さな納屋のような駅舎の他には何もない所だった。駅からすぐの所から山道が始まっており、駅の隣に、このさもしい駅に不釣合いな大きな看板が立っていた。
「そう、この駅はもともと終点ではなかったんだ」
ヘンリクは白い息と共に僕にそれとなく教えてくれた。三十八年前、この先の陸橋が老朽化によって崩れ、列車が転落し、下にあった工場にぶち当たった。列車の乗客、工場の従業員など、おびただしい数の死人が出て、それ以来陸橋の復興は難航している、という事だった。
僕は看板の説明をしげしげと読んでいたが、そのうちヘンリクが、
「行こう。立ち止まってたら凍えちゃうよ」
そう言ったので歩を進める事にした。
駅を離れると、しばらく、山の中をけもの道が続いていた。最近ここを通る人は少ないのか、道は曖昧に刻まれていて、ともすると見失ってしまいそうだった。山は造成林で、一様にスギの細い幹が生えている。時々アカゲラの、電動ドリルのような木をつつく音が響く以外、山は静まり返っていた。
僕たちは最初、言葉を交わさなかった。ヘンリクも僕も、黙ってあちこちを眺めながら、枯れ葉を踏みしめて歩いていた。
その内僕の頭の中に、今流行のグループのチャン・ハヨンの歌が聞こえてきた。僕はチャンの歌っている事は全然分からないけれど、彼の歌を聴いているとワクワクしてきて、自然と体が動き出すから好きだった。頭の中に浮かんでいた歌は、自然と鼻から出てきていた。鼻歌を歌いながら僕は、リズムに合わせて足を出して歩いた。
「君は、色んな歌を知ってるな」
ヘンリクが話しかけてきたので、僕は鼻歌を一時中断した。
「そうかなぁ。あんまり知らないけれど」
彼はふぅん、と言うと、落ち葉を蹴っ飛ばして波を作った。
「というより、色んな歌を恥ずかしがらずに歌うね」
そう言われれば恥ずかしい気もするけど、でも僕は気にした事はなかった。いつだったか学校に向かう時、お気に入りの歌を僕にしては大声で歌っていたら、いじめっ子のベンヤミンがからかってきた事があった。流石にベンヤミンとヘンリクを重ねるのはヘンリクに申し訳ない気がしたから、僕はあわてて頭を振った。ベンヤミンの事を思いだしたら、一気に胸が重くなった。
ベンヤミンは体格が大きくてずるがしこくて、大嫌いなヤツだった。でも一番僕が彼の事を嫌いな大きな理由は、ヨハン兄さんと大の仲良しだった事だ。彼が僕をからかった事を、ヨハン兄さんは知っていたかどうか、僕は分からない。もしかしたら知っていたのかもしれない。
僕が一度、帰り道で殴られ、家で一人泣いていると、ヨハン兄さんが後ろを通り過ぎた事がある。ヨハン兄さんは僕には目もくれず、何も話しかけずに部屋に入って行った。いつもは僕が泣いていると慰めてくれるのに、その日は何も言ってくれなかった。その理由はなんとなく分かる。
僕が殴られた時、ベンヤミンの後ろに、ヨハン兄さんがいたような気がするからだ。
一時間程歩いたのち、僕たちは朝食を食べる事にした。しかし僕は昨日の夜ご飯しか持ってきていなかったので、ヘンリクのを少し分けてもらう事にした。
ヘンリクの持ってきた朝食は、彼自身が作ったものだった。彼は料理もできるのか、と僕は感心した。それは保存も利く、魚の燻製とピクルスだった。父親が帰ってこないから、いつも食べ物はヘンリクが作っているらしかった。
「君のお父さんは、何の仕事をしているの?」
僕が聞くと、ヘンリクは咀嚼を止めた。そして目を伏せて、苦々しい顔を作った。
最初僕は、彼の父親の仕事が好ましくないものなのかと思った。でもそれは違った。
「……父親の事はしばらく考えたくないんだ」
そう聞いて僕は聞いた事を後悔した。
「ごめん、嫌な事を聞いたかな」
そう言うとヘンリクは手をあげて制した。
「そうじゃない。今は彼の事は、存在を消したいんだ。僕の思考の中に彼が登場しては行けない。彼の考えや、価値観を考慮しては行けないんだ。」
「それは何故?」
「僕が一人前になるためさ」
ヘンリクはそう言って、魚の残りを一口で運んだ。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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