第二章
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夢の中で、僕は公園に来ていた。ヨハン兄さんが、公園に設置された花壇を挟んだ向こう側で、ボールを蹴って遊んでいる。兄さんは人気者だから、他にも背の高い、僕よりもずいぶん年上の人たちが兄さんの周りに集まって、楽しそうに話をしていた。
僕は混ぜて欲しいと思い、兄さんの所へ走って行った。
「ヨハン兄さん」
僕がそう叫ぶと、兄さんはこちらを向いた。しかし、また周りがスイッチを切ったかのように静かになり、いつのまにか公園には僕ら二人だけになっていた。
「お前だったら良かったんだ」
兄さんはそう冷ややかに言った。
「オットー、お前が俺の代わりに、あの大きな岩に当たれば良かったんだ。そうだろう?」
兄さんはボールを蹴り上げながら続けた。
「皆そう思ってる。かわいそうなオットー、みじめなオットー。お前は余り物だ」
兄さんはこちらをじっと見ながらボールを蹴っている。僕はいつになく、感傷的になって泣きたくなった。大声で泣きたくなった。僕がゆがんだうめき声をあげると、あめ玉みたいな涙がぽろぽろこぼれてきた。
僕は目を開けた。夢の中ではあんなに大声で泣いていたのに、現実では涙は一粒も出ていなかった。横を見ると、雨が暗闇を映す窓を叩いていた。その窓を、ヘンリクは頬杖をついて眺めている。いや、眺めているというよりは考え事をしていると言った方が正しいのかもしれない。ヘンリクはこちらに気づくと、小さめのあくびをした。
「さっき三つ目の駅を通り過ぎたから、おそらく七時四十分といった所かな。夕食は持ってきているんだろうね?」
そう言うと彼はカバンから包みを取り出すと、それを広げて見せた。彼の好きな、小魚を挟んだパンだった。僕はリュックから、今日の昼に食べるはずだったジャガイモ料理を取りだした。すっかり冷えてしまっていたが、お母さんの料理は冷めてもおいしいはずだった。
「それじゃ、いただきます」
ヘンリクはパンにかぶりついた。僕も彼にあやかって、弁当に口をつけた。ほんのりとした甘みが口の中に広がる。すると僕は、その料理を今朝作っているお母さんの顔を浮かべてしまった。
お母さんは鼻歌を歌いながら、バターをフライパンに熱する。今日、僕にいい事があるように、お母さんは願っただろうか。切ったジャガイモを並べ、炒める。お母さんは僕が家出をするような子だと思っただろうか。野菜を加え、フライパンをゆする。お母さんは、僕が出て行った事についてどう思っただろうか。
お母さんはたった今、僕の事を心配しているだろうか。
胸が急速に縮んだ気がして、僕はその痛さに呻きをあげた。
「大丈夫かい?」
ヘンリクが心配そうに顔をのぞき込んだ。僕は彼に正直に状態を打ち明けようか迷った。僕が具合が悪いと分かったら、彼は戻ろうと決心するかもしれない。でも、隠しきれるほどの事でもなかった。なぜなら既に痛みは水分となって、僕の目の上に集中したからだ。
「うぅ……」
僕は涙をこらえきれず、下を向いた。それが行けなかった。涙は目の中から解放され、重力に従って床に落ちた。
「おなかが痛いのか?」
僕は正直に言う事にした。
「……お母さんの事を思ったら、胸が痛くなって」
「……ホームシックか」
ヘンリクは呟いた。そうして彼はため息を大きめにつくと、僕の背中をさすってくれた。
「どうやら、僕は間違った判断をしたみたいだね。君を連れてくるべきじゃなかった。君は、次の駅で折り返して帰るといい。僕は一人で行く事にするよ。お金の問題は何とかする」
「そんなの、嫌だよ」
僕は嗚咽をあげながら、切れ切れにそう言った。ヘンリクは承知しないようだった。
「駄目だ。君は、家出をするほど大人じゃなかったって事だよ。今帰れば、君のお母さんは許してくれるだろう。むしろそうした方がいいぜ。後になればなるほど、大ごとになるんだからな」
そう聞いて、僕も帰った方がいいんじゃないか、と思えてきた。今戻れば暖かい食事と、ベッドが待っている。それに、親を心配させる事もない。お父さんにげんこつ位はもらうかもしれないけど。今となってはげんこつをもらう事すら、してほしいと思える程僕は寂しかった。
「ね、君は帰りな」
ヘンリクの声を聴いて僕は思った。
ヘンリクは?
ヘンリクは僕が帰った後、一人で母親に会う事になる。十日間一人で行動し、その間はずっと一人だ。いや、これまでも母親がいなく、父親も働きづめで、ヘンリクは独りぼっちだった。そして多分、これからも、彼は一人で生きて行くのだろう。それが彼は平気なのだろうか?当然だ、彼はさっき言ったじゃないか。僕は子供だって。彼はもう、大人なのだ。
本当に?
そう思って僕は顔をあげてヘンリクの顔を見ようとしたが、顔が涙でくすんで見えない。
「ヘンリク、君は平気なの」
「……僕は慣れてるからな」
声が心なしか震えている気がした。
僕は目をこすって、今度こそ彼を見ようとしたが、それはできなかった。ヘンリクが僕の顔に手を被せてきて、目の前が真っ暗になったからだ。
「何をするんだ」
「……今、僕の顔を見るな」
顔を見るなだって?変な事を言うもんだ。僕はそう思ったけれど、それはある確信に変わった。彼の手は、濡れていたのだ。
「君も怖いんじゃないか?」
「うるさい」
いつのまにかヘンリクも嗚咽をこぼしていた。僕はもう泣き止んでいたから、彼の背中をさすろうとしたが、彼に止められた。
「やめてくれ」
「何が行けないんだ」
「うるさい、少しほっといてくれ。くそ。僕は大人だ。大人なんだ。父親なんていなくて十分だ。母親なんて、母親……」
彼はそこで堰を切ったように泣き出した。僕は何故だか安心した。ヘンリクだって、心細くない訳ではないんだなと思った。僕はヘンリクの背中をなでた。しばらくそうやって、二人で座っていた。
しばらくするとヘンリクは鼻をすすって、僕に顔を向けた。
「ありがとう。実の所僕も、不安だったんだ。もう、泣かないよ。泣くもんか」
ヘンリクは最後の方を、語気を強めて言った。やっぱり、ヘンリクは僕と比べたら、大人なんだ。
僕たちの町から四番目の駅を、列車は通り過ぎた。周りは針葉樹林に覆われ、溶け残った雪に三日月の光が反射している。僕は眠くなってきた。
「明日、午前五時四十分に列車は目的地の終点に着く。それまで眠っておいた方がいい」
ヘンリクは毛布を肩までかけ、瞬きをした。僕は大きなあくびをした。
「さっき眠っていたって言うのに、君は寝付くのが上手いみたいだな」
ヘンリクがおかしげに言うので、僕も笑った。もう外はトンネルに包まれ、真っ暗だった。
「おやすみ」
僕たちは目をつぶり、それぞれの暗闇に吸い込まれて行った。ぐっすり眠った僕は、今度は夢を見なかった。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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