第一章
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教会から少し離れた広場には、たくさんの人が見物人として集まっていた。無論僕ら家族もそれ目当てで来たんだ。古くなった教会をダイナマイトで爆破しようってんだから、豪快だ。
「そろそろ時間だね」
隣のヨハン兄さんがそう言った。彼はぴかぴかの懐中時計を、ちらりと見た。僕はそれが欲しくてたまらなかったのだけれど、黙っていた。
ズン、という鈍い音と共に噴煙が上がった。僕がその様子を見ようと目を目いっぱい開けていると、瞬間、何かが僕らの横を通り過ぎて行った。
気づいた時には、ヨハン兄さんとつないでいたはずの手が空をつかんでいた。何が起こったのだろう?僕がのんきに考えていると、それに似つかわしくない悲鳴が聞こえ、血だまりと、目を閉じた兄さんと、それから大きな岩が目に入った。
いつのまにか周りは葬儀場となっていて、誰かの棺に土がかけられていた。僕はそれが兄さんだと分かっている。なぜ分かっているのか、僕は気にならない。
「あの子は神様に選ばれたのだわ」
ハンカチを真っ赤な目に当てているお母さんがそう呟いた。そうなんだろうか?僕がそう思案していると、周りが急に静かになった。僕が目をあげると、その場にいる皆が僕を見ていた。凍り付くような目で、誰もが瞬き一つせず、僕の事をじっと見ていた。
僕は飛び起きた。寝ていたというのに、息が切れている。やけに寒い。と思ったら、どうやら僕は気づかない間に布団をはいでいたようだ。
寝坊はしていないだろうか。ベッドの横の棚の上にある懐中時計を手に取る。兄さんが死んだ後、それは僕の手に入ったのだけれど、僕は全然嬉しくなかった。時計は七時四十五分を示している。うむ、寝坊には早いが、早起きには遅すぎる、と言った所だろう。僕は顔を洗いに洗面所に向かった。
顔を洗い、鏡を見る。そこには毛に包まれ、長い耳を二つぶらさげた僕の顔が映っている。ヨハン兄さんに似てきたような気がして、僕は少し嬉しくなった。
「早いわね、オットー」
お母さんが後ろから声をかけ、にやにやしている僕を見て怪訝そうな顔をしている。
「おはよう、お母さん」
僕はタオルで顔を拭くと、朝食を食べに食卓へ向かった。
食卓でゆで卵を頬張りながら、僕はお父さんが読んでいる手紙をちらりと見た。
「お父さん、今日も手紙は時間通りに来たの」
「うん」
僕は手紙を配っているヤツを知っている。そいつはヘンリク、僕の親友だ。彼は貧乏で、片親がいない。手紙を配達する仕事をしているけど、いつも時間ぴったりに届けるから、仲間からは重宝されているらしい。親友ながら凄いヤツだ、と僕は思う。
「ごちそうさまでした」
僕は口を拭くと、意気揚々とトイレに向かった。トイレで考え事をするのが僕は好きだった。
学校の授業が終わると、僕とヘンリクはいつも一緒になって歩く。ヘンリクは忙しいからあまり一緒にいられる時間はなかったけれど、僕は彼の話す事は博識じみていて好きだった。
「いつも君はどこかで拾ってきた知識を当たり前のように持ち合わせているけど、誰かから聞いたのかな?」
僕が聞くと、彼は、
「他でもない、歴史的な偉人だよ」
と答えた。僕が戸惑うと、
「お母さんが残して行った本がたくさんあるから、仕事の合間に読んでいるんだよ」
彼は切れ長の目を細めて言った。
その日、僕は彼のお気に入りの本を借りる、筈だった。今になって思うと、借りれば良かったと思っている。何故なら、いくら話したって時間はとてもたくさんあったから、退屈しのぎにちょうど良かったから。
彼の家に着くと、彼はほとんど入った事がないという父親の部屋に入り、いない事が分かるとまた出てきた。
「僕はもうすぐ、この町を出て行く」
そう彼が藪から棒に言ったもんだから、僕は言葉が出てこなかった。
「母親に会いに行くんだ」
彼は抑揚のない、いつも通りの口調でそう言った。でもそう言う彼の目は、どこかいつもより深みを帯びていて、宇宙みたいに沈んでいた。
「見つかったの」
僕はやっと言葉を見つけてそう言った。そもそも、彼の母親が生きていたなんて初耳だった。
「偶然、手紙の差出人に書いてあったんだ。見るのは良くないんだけど、いつかもしかしたらと思って、そしたら案の定、この町に手紙を出していた」
どうやら彼は手紙の配達中、彼の母親が出した手紙を見つけたらしい。
「会いに行ってどうするの」
そう言うと、彼はふいっと視線を空に投げて、それから目を閉じた。そしてこう言った。
「さぁ。ただ、会ってみたいなって。母親ってどんな生き物なのかなって思ってさ」
そして彼は微笑を浮かべた。
「出て行くとは言ったけど、戻ってくるよな、この場合」
そう聞くと僕はほっとした。なんで出て行くなんて言ったのだろう。
「行くのはいつになるの」
「明日、午後四時。夜行列車に乗って、五日かかる道を行くんだ。長旅だよ」
僕は彼を羨ましいと思った。十一歳でそんな大人びた事ができるなんて、実際彼は大人なんだろうと思った。
そしてできる事なら、僕も行きたいと思い始めていた。でも、それを口に出すのははばかられた。だって学校もあるし、親はなんて言うだろう。それに、何日も親と会えないなんて、僕からすれば灯台のない船出くらい怖い。
でも、でも。
「僕も……行きたいな」
自然と口から言葉は出ていた。ヘンリクは少し背が高いから、僕を見下ろした形で言う。
「それは駄目だろう。君に迷惑をかけられないよ」
「家出したいんだ」
そう言うと、しばらく彼は黙った。それから、あごに手を当てて言った。
「ふーむ、それは本気かい」
「うん。本気だ」
「でも、君は親と仲がいい」
僕は、そこで初めて僕の、隠していた思いを他人に見せる事となった。
「僕は……死んだ兄さんと比べられているんだ」
「……」
「兄さんは頭が良くて、スポーツも得意で、その上面倒見も良かった。僕は愚図でのろまで、テストも全然できやしない。そんな僕を置いて死んだ兄さんを、僕の親は僕に重ねてる。この前お皿を割った時なんて言われたと思う?『ヨハンならこんな事しないのに』だってさ」
「……なるほど?」
「だから……僕は、必要とされていないんだ。兄さんじゃなくて……」
そこから先は怖くて言えなかった。
しばらく彼は腕を組んで足を鳴らして、思案していたけど、そのうちこう言った。
「十日間の短い家出になるぜ」
「構わないよ」
僕は即答した。そう言うと彼は、にっこりと笑った。
「切符を買うお金は、あるのかい」
僕はお母さんが夕食を作っている間に、お父さんの書斎からお金を失敬した。そして僕の部屋の机で、置き手紙を書く事にした。
『おとうさんおかあさんへ
僕は、しばらくこの家を出る事にします。理由は言えません。お金は必ずいつか返します。帰ってくるまで、色んな事を勉強して必ず帰ってきます。それまでどうか、安心して待っていてください。
それと……』
そこまで書いて、僕は「それと」を消した。お父さんやお母さんに言いたい事はあったけど、それを書くのはどうかと思った。僕が家出する事で、おそらく二人は少なからず心を痛める事になる。その姿を思い浮かべるとかわいそうで書けなかった。手紙の最後に「オットー」と書いてそれを棚にしまった。二人が見つけてくれる事を祈って。
リュックに、着替えと歯ブラシ、歯磨き粉、タオル、周辺の大まかな地図、コンパス、チューインガムとお金、折りたたみ式の果物ナイフ、毛布、マッチ、ろうそく、それから懐中時計を入れた。
その夜僕は眠れなかった。どんな壮大な冒険になるだろうと、ワクワクした。旅先で起こる様々な出来事を思い浮かべては、早く明日にならないかと目をつぶった。
次の日、思いがけない事態が起きた。僕の試験の結果が悪かったもんで、先生に居残りをさせられたのだ。僕は僕のできうる最高のペースで課題を切り上げると、先生に目をくれず教室を飛び出した。後ろから先生が、
「戻りなさい、字が汚い!」
と言ったような気がしたが、僕は聞こえないふりをした。
ゼーゲンデルグロッケ駅は街の中心にあり、前に小さな広場を構えている。そこにあるへんてこりんな銅像に脇目もくれず、僕は駅に走り込んだ。
僕はヘンリクが僕を置いて言ってしまったのではないかと思ったが、幸運な事に彼は待ってくれていた。
「早く切符を買ってくれ、列車が出てしまう!」
僕は息も絶え絶えに切符を買いに行った。後ろから急かすヘンリクの声に僕は焦り小銭をなかなか財布から出せなかった。
切符を買うと、列車が出るとのアナウンスが叫ばれた。僕らは走って列車に向かった。ヘンリクが、人にぶつかって転んだ。僕は立ち止まってしまった。ヘンリクは立ち上がり、また走り出す。僕だったら泣いちゃうな、偉いなと思いながら客室に走り込んだ。
列車が汽笛を鳴らした。遠くの鐘が鳴るのが聞こえた。僕らは汗だくで革張りの椅子に座り込むと一息ついた。
「ない!」
ヘンリクはそう、いつになく戸惑った声で言った。
「お金がない!」
僕は思わず、えぇと叫んだ。
「きっとさっき、すられたんだ。取り返しに行こう」
「君ね、どうやって戻るって言うんだよ」
ヘンリクはあきれた声で言う。それから申し訳なさそうな声で、
「ごめん、君のお金を分けてもらえないか」
そう下を向きながら言った。
僕らは持っている限りのお金を出し合ったが、二人分の往復の分には届かなかった。
「どうしよう」
「ごめん。僕が愚図でのろまなばかりに」
「いや、僕のせいだよ。君は卑屈になる必要なんてない。……」
「……」
僕らの席は暗雲が立ちこめたような雰囲気になった。
しかし、僕はある名案を思いついた。
「僕の懐中時計を売ってはどうだろうか?」
ヘンリクはきょとんとしたが、すぐ真剣な顔になった。
「それは駄目だ」
「構わないよ」
「君のお兄さんの形見を売る訳に行かないよ」
「いいんだよ。君のお母さんは生きている。僕の兄さんは死んだ。死んだものは戻らない。それより、生きた人のためにものを役立てなきゃ。違うかな」
「……」
彼は目を思い切りつぶって頭を抱え込んだ。
「まぁ、他に考えが浮かぶかもしれないし、気長に行こう」
僕は窓の外を見やった。遠くの方を、ガンが編隊を組んで飛んでいる。
そのうち僕は眠くなってきたので、目を閉じた。
ここまで読んでいただきありがとうございました。
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