土佐異文禄
1
空は突き抜けるほどに青く、海はきらきらと太陽の輝きに包まれていた。
夏の室戸岬は、一年の中で最も潮の匂いが優しい。これが故郷の匂いだと、小早船の舳先に立った少女は肺いっぱいに空気を吸い込んだ。
安政二年。土佐藩。
関ヶ原の戦い以来、三百年にも及んだ長い江戸幕府の太平は、浦賀に到来した四隻の黒船によって揺らぎ始めていた。
江戸では、中間から小者、足軽。そして旗本から将軍までが、巷に満ちた騒乱の気配に怯えている時勢。しかし、海を越えた島の藩では、そんな気配などどこ吹く風の穏やかさが広がっていた。
梅雨を過ぎ、稲が植わった青々とした田園風景が続く。港で船を下りた少女は、その中を抜けながら土佐藩の城下町を目指した。
彼女にとって、嬉しくも懐かしい風景だった。江戸での遊学を終えての、三年ぶりの帰国。実兄の権平の催促や、父が病床に伏してさえいなければ、もう少し長く向こうにいたかった彼女だが。それを今さら言ったところで、始まらない。
「しかし、困ったな。このような汚れた身なりでは、最近はやりの不逞浪人と間違われるかな」
少女は困った顔で、道中の土埃にまみれた自分の旅装を顧みる。
故郷を出るときに実兄に買い整えてもらった筒袖と袴は、長い道中を共にするうちに、すっかり色あせて百姓の野良着も同然となっていた。
腰には父・八平より譲り渡された備前長船・二尺三寸の太刀があり、これだけが辛うじて侍の子たる彼女の威厳を保っていた。が、反面では、刀のせいで汚らしい食い詰め浪人に見えなくもない。
実際、最近では世の乱れに応じるように、そうした輩が多くなっていた。
長く太平に浸かって腰が砕けた幕府に代わり、尊王(朝廷)を立てることで外敵を追い払おうと唱える過激派の浪人が現れた。これも時勢なのだろうが、そのほとんどは商家に押し入っては軍資金と称して金銭を巻き上げる盗賊のような連中だった。それと間違われては、たまったものではない。
やがて、城下町に入った彼女を、
「待て。問い質したき儀がある」
「そうら、来た」
見回りの侍数人に囲まれて、少女は声を上げる。
騒がしい江戸とは違い、土佐の城下町はひどく平穏な場所だった。事件らしい事件を経験したことのない彼らは、現れた薄汚れた女侍に対し、
「怪しい奴め。もしや、近頃京に集まりだしたという不逞浪人の一味か。土佐に物盗りに来たか、それとも怪しげな思想を広めに来たか」
「ち、違うっちャ。私は、本町筋一丁目の坂本じゃ」
慌てるあまり、思わず国の訛りが出てしまう。
しかし、同じ故郷の訛りを聞いた男たちは、警戒心を緩めるどころか、ますます厳しい顔になって、
「たわけめ。本町筋といえば、侍町の屋敷が並んでいる場所ではないか。お主は、女だてらに侍の姿をするばかりか、当家の者まで騙るのか」
「阿呆。騙る、ではなく、私は正真正銘の侍じゃ。おンしらは、同じ藩の人間の顔も分からんか」
「侍だと。では、これは何だ」
と、男は少女の足下に目を向ける。
そこには、革でできた足袋のような履き物。ブーツと呼ばれる見慣れないものを彼女は履いていた。
草鞋が当たり前の時代において、この革靴は人目を引くものだった。
「侍は、そんなもの履かん」
「そ、それは」
少女は、慌てる。
弁明ができないこともなかったが、この靴のまま来たことは失策だった。彼らは、明らかに警戒心を強くしている。
こりゃ、自分が本当に土佐者だと分かってもらうまで時間がかかるぞと思った。最悪の場合、話も聞かずに城の牢に連れて行かれる恐れもある。
少女は早々の帰宅を諦め、どうにか切り抜ける方法を考えていると、
「主ら、何をしちょる」
通りから、別の声がかかった。
そこには、藩の城に出仕した帰りらしい侍が立っている。紋付き袴姿の男は、通りの騒がしさを見咎めるように、
「ここは、土佐の城下町じゃ。人目も憚らずに騒ぎ立てるは、この地を治められる殿の名を落とす振る舞いぞ」
「た、武市様」
と、男たちは慌てる。
武市と呼ばれた男は、額が大きく出た白皙の侍だった。腰に差した大小の刀よりも、書物が似合いそうな顔つきで、侍というより学者といった風体だった。
彼は、騒ぎの中にあった少女に目をやって、
「放してやれ」
「し、しかし」
「その者は、確かに当家の侍だ。腰に差す『桔梗』の紋の入った刀は、坂本の家の者である何よりの証拠。私も、八平殿から見せてもらったことがある」
それに、と武市は付け加えて、
「この者は、この先にある日根野道場で小栗流の目録を得て、江戸に出ては千葉の門で北辰一刀流の奥義に達している。無理に連れて行こうとしても、主らでは難しいだろう」
「まさか」
男たちは、もう一度少女を見る。
だれの目にも、彼女がそこまでの剣の達人であるようには見えなかった。
しかし、武市という侍の言葉は重みが違うらしく、彼らは一様に少女から身を引いて、抜き打ちに刀で斬られる範囲外にまで遠ざかった。信じられないことと、信用しないことは別の感情なのだ。
やがて男たちは、この厄介な少女を武市に引き渡すことで一致したのか、
「武市様に、礼を言うのだぞ」
それだけ言い捨てて、見回りたちは去った。
その背中が遠くなるのを待ってから、
「相変わらずだな、竜乃。息災で何よりだ」
厳しかった表情から一転して、親しげに笑いかけてくる。
少女は、そんな武市を睨みつけて、
「相変わらず、はお前じゃ。半平太。どうしたことじゃ、先ほどの偉ッらそうで嫌みで嫌みで嫌みな態度は。とても私の親戚とは思えん。あれではまるで、町人が嫌う侍の姿そのものではないか」
「事実、私は侍なのだ。お前だってそうだろう」
「違う。侍の前に、私は日本人じゃ」
と、城下町。侍屋敷が並ぶ道筋を並んで歩きながら、少女は空に拳を突き出す。
「士農工商、生まれは違えども、私たちは同じ土の上で生きちょる。頭が固いばかりの侍が国を守るのではなく、日本人が国を守るのだ」
「それが、黒船騒ぎからお前が学んだ教訓か?」
「そうじゃ」
反論せず聞き入る武市に、少女は大きく頷いてみせた。
事実、浦賀に黒船が襲来して以来、武士というものがいかに役に立たない存在なのかが分かった。今から揺れるであろう世界に、刀というものは役に立たない。
「では、何が役に立つ」
「知れたこと。これじゃ」
と、少女は小さな自分の口を大きく広げ、武市に開いて見せる。
謹直な武市は、その様子になぜか恥ずかしさを覚えて、
「これ。竜乃。年頃の娘が、はしたないぞ」
「何を言うちょる。この口八丁の弁舌が、今からの世を動かしていく。恥ずかしいことなどあるものか」
むしろ、そんな武市を叱りつけるように、
「おンしも、いつまでも威張りくさって侍をやっちょる場合ではない。今からの時代は、武器ではなく人。人こそが、この国の運命を動かしていくのだ。刀などは古い。南蛮の人間は、このような武器まで持っている」
少女は、懐から黒い筒を出した。
鉄で作られた、重くて引き金まであるそれは『懐鉄砲』と呼ばれる短銃だった。彼女が江戸での遊学中に、親しくなった江戸の町学者から贈られたものだ。
武市は呆れて、
「そんなものを持ってるなら、助けに入る必要もなかったかな」
「言うな。私は、本気なのだ。この国の行く先を本気で心配して、本気で変えようとしちょる。侍ではなく、日本人として」
「しかし、お前は侍の家の人間だ」
「それも分かっちょる。だから、この機会に父上と兄上を説得して、もう一度江戸に向かいたいと思う。侍の家にいるのも、一時のことじゃ」
それは、彼女が江戸を発つときから決めていたことだった。
向こうでは、国の行く末を憂う人間が多かった。上は幕府の重臣から、下は町学者や浪人までが、何か自分にできることはないか焦りながら毎日を過ごしていた。それに比べて、土佐は平穏すぎる。
武市も、そんな少女の気持ちが分かっているので、
「しかし、お父上が嘆くぞ。お前は幼少より剣の筋に恵まれ、娘ではなく男として期待されてきたのだ。子の中で誰よりも可愛がられたのを覚えているなら、せめて病状が落ち着くまで待ってはどうだ」
謹直な彼らしく、遠回しな言い方で忠告する。
武市と少女は、幼い頃から兄妹のようにして育った。剣術も彼を師として手ほどきを受け、字も学び、武士の精神に至るまで武市を『理想』として見てきた。だから、実の兄よりも、彼からの忠告のほうが説得力があった。
少女は、昔からの癖で、袂に両手を突っ込みながら武市の言葉を考えた。しばらく黙って歩いていたが、やがて彼のいうことも道理だと理解できた。
やはり、武市も侍であり、竜乃も侍の家の人間なのだ。
しばらく家に留まることを決めた彼女に、武市はほっと息をついてから、
「それと、竜乃。お前も侍なら、恩人に礼くらい言ってはどうだ?」
「何じゃ。恩人とは」
「とぼけるな。先ほど、見回り組に連れて行かれそうになったのを助けたではないか。満足に詮議もせず決めてかかったあの者たちも悪いが、お前はお前で悪いところがある」
と。暗に、武市は少女の身なりの汚さを言った。
昔から、美人なのに自分の身なりを構わない少女なのだ。いくら一人前の姿をしても、手がかかることに変わりはなかった。武市は育ての兄として、昔から何度も注意をしてきた経験がある。
同時に、武市はからかってもいた。彼は、竜乃が自分の女の子らしい顔立ちを嫌っていることを知っているのだ。
少女は、そんな武市の魂胆が分かって、
「好かぬ。武市半平太なんぞに、礼は言わんぞ」
「ほう。なぜだ?」
「おンし、顔が笑っちょる」
自分でも気づかないうちに相好を崩した武市を、竜乃は睨みつける。
それから、大股で通りを歩いて行く少女に、武市は苦笑して、
「怒らせたかな」
と。武士らしくないと知りつつも、頬をかいた。
2
長きに渡る闘病の甲斐もなく、父・八平が没したのは、その年の末。十二月のことだった。
父は、最後まで竜乃の身を案じていた。
「竜乃よ、竜乃よ」
と、意識も朦朧とした病床で何度も呼んだ。
竜乃よ、お前は自分の足できちんと立てるか、と。
女だからといって、馬鹿にされていないか。男として育てた父を恨んでないかと、何度も言った。
竜乃は、そのたびに父の手を取って、
「恨んでおりませぬ」
と言った。
事実、竜乃は少しもそんなことを思っていなかった。幼い頃から武市半平太という友を得たせいなのかもしれなかったが、彼女は自分が女だからといって引け目を感じたことはなかった。
むしろ、女であるが故に、坂本家の武士として縛られずに生きてこられたのだと思っていた。
侍は偏屈、侍は嫌いだった。
彼女は、もっと自由になりたかった。先祖代々の扶持に縛られることもなく、武士の格式にとらわれることもなく、もっと自由な日本人としての考え方。大空に羽ばたく鳥のような自由な生き様。それに憧れていた。
だから、竜乃にとっての父は、最良の父だった。
息を引き取る直前まで、彼女は父の前では泣かなかった。せめて、父には最後まで彼女が強い武士であったと信じてもらいたかった。
坂本家の菩提寺で、彼女は最後まで父の墓石の側にいた。
親族も帰り、一人になった竜乃に、
「お父上は、立派な侍だったぞ」
と。声をかける者がいた。
見ると、それは葬儀に参列したままの格好の武市だった。
「なんじゃ。半平太か」
「そう嫌な顔をするな。人は悲しいときには泣き、大切なものを失ったときは大声で悔しがるものだ。お前がどういう顔で泣こうが、今日の私には見えんよ」
「おンしにだけは、見られたくなかった」
ぐじっと、竜乃は袂で顔を拭いた。
師でもあり、兄でもあり、目標でもある人間。それが、彼女にとっての武市半平太だった。
武市にも、その辺の感情は分かっていて、
「知ってる。しかし、放ってはおけなかった」
「なぜ」
頷いた武市に、竜乃は目を向ける。
「お前、この足で土佐を離れる気でいるだろう」
竜乃は、黙った。
武市は葬儀のときの彼女の様子を見て、そんなことまで察していた。
「家には、帰らんか。お前の兄上だけではなく、他の一族もお前のことを気にかけている。これ以上の心配をかけるは、人の道に外れるぞ」
「分かっちょる」
竜乃は、父の墓石の前から立ち上がった。
「が、あそこに帰ると二度と世間には戻れん。兄上は、私を女の道に戻らせようとするだろう。二本の刀を外して、可愛らしい着物を着て、女としての生き方が待ってるだけだ」
「それもいいではないか。土佐には、女としてのお前を待っている者もいる」
「誰が」
と言いかけて、竜乃は再び黙った。
目の前の、武市。彼の目が、真剣な眼差しで彼女に向けられていたからだ。
その目を見てしまった竜乃は、声に力をなくして、
「私は、武家の妻になどなれそうもない人間だ。求められることはあっても、期待には応えられない」
「なぜ」
「私が、日本人だからだ」
真剣な目で、竜乃は武市に向き合う。
この当時、日本人という概念そのものが珍しい時代でもあった。土佐人や長州人、薩摩人などは言うが、それらを総称して国の一人とする考え方はまったくといっていいほど存在しない。
竜乃は、江戸の蘭学者から影響を受けたその言葉を使って、
「私が、純粋に侍の家の娘だったならば、こんなことは言わなかったと思う。今が、これほど騒がしくない太平の世なら、また違った。しかし、私は今の世に生まれ落ちた。坂本竜乃として生まれてしまったのだ」
少女は、熱心に自分の気持ちを言葉にする。
もう、この故郷に戻ることはないだろう。すると、目の前の男とも会わないことになる。どれだけ親交を深めた間柄であっても、別れるときは一瞬なのだ。
悔いのないように、自分という人間を分かっていて欲しかった。
「だから、おンしにだけは言っておきたかった。半平太。私は、日本人として生きる。武士でもなく、商人でもなく、農民でもない。坂本竜乃という日本人が、この国を変えていく」
「それは。楽しみなことだ」
武市は、もう元の兄の顔に戻っていた。
苦笑する彼に、少女は躍起になって、
「笑い事ではない。私は、真剣なのだ」
「分かっている。私も、真剣だ」
と、武市は苦笑を収めて、
「真剣に、お前ならば日ノ本を変えてくれると思っている。竜乃。考えの凝り固まった男子などには無理なことを、お前ならばやってくれる。飛び立ってみせよ、竜乃」
と、武市は背中に隠していた風呂敷を見せてきた。
そこには、旅装の一式と、道中の金子。そして、先ほど用意したばかりだと思われる笹に包まれた握り飯が入っていた。
どうやら武市は、最初から竜乃を引き留められないことが分かっていたらしい。
それを見た竜乃は、
「おンしは、ズルい」
「ん?」
「そこまでされたら。ますます別れるのが辛くなるではないか」
泣き顔をもう見せまいと決めていたのに。また、少女は袂で顔を拭った。
3
それから、二年と数ヶ月。竜乃は江戸の空にあった。
表向きは剣術の修行のための逗留だったが、この間に彼女は自分に何ができるのかを知るために、より多くの勉学に励んでいた。
江戸の蘭学者に聞いて、西洋式砲術に興味を持ち始めたのもこの頃だった。
西洋には、軍艦と呼ばれる船がある。いくつもの砲台を備えて、まるで海上を進む砦のような立派な船が。
それが数隻、日本湾に現れただけであの浦賀の黒船騒ぎだ。
もし、日本に軍艦があったら。
そしたら、どうなっただろう。幕府は外国からの圧力に、あんなにも弱腰な態度になどならなかったはずだ。もっと、外国と話し合う余地もあった。
力がなければ、見下されて、脅される。
力とは、軍備。軍備がなければ、他国との平和な話し合いなどできないのだ。
(もし、私に黒船があれば)
江戸の寄宿してる旅籠の一室で、竜乃は洋船の書かれた巻物から顔を上げた。
女の自分には、誇大妄想な夢かもしれない。
しかし、日本に海軍力がなければ、作ればいいではないか。すでに幕府は開国に踏み切ってしまったが、まだ戦争が起きたわけではない。まだ戦ってもいないし、まだ負けたわけでもないのだ。
(女の私が、日ノ本一の船団を率いる)
それは、とても素敵な夢に思えた。
この頃から、竜乃の頭の中は軍艦のことでいっぱいになった。後に彼女は海軍を学び、長崎にあっては『海兵隊』を立ちあげることになるのだが、その構想はこの時期に生まれたと言っていい。
ともかく、今の日本にないのは軍艦だった。
と。
「坂本様、坂本様」
ばたばたと、旅籠の廊下を歩いてくる者があった。
竜乃は慌てて巻物を丸めると、枕にしていた座布団から飛び起きる。実は、寝転がりながら書物を読むという格好をしていた彼女は、その情けない姿を人に見られないよう体裁をつくった。
畳の上で正座した竜乃に、
「入って、よろしゅうございますか」
「うん。遠慮なく」
からりと、障子が開いた。
現れたのは、いつも面倒を見てもらっている旅籠の女将で、
「坂本様に、国元から知らせを持ってきたという者が見えましたが」
「知らせ? 土佐からか」
意外だった。この旅籠の場所を教えているのは、ごく親しい友人の何人かだけだった。
「名は、なんと言っている」
「確か、沢村様とか」
「ああ。沢村殿ならば知っている。通してくれ」
沢村とは、沢村惣之丞という土佐の貧しい地下浪人の子だった。
武市に目をかけられ、竜乃のところにも何度か使いにやってきた。彼は、後に関雄之助と名を変えて竜乃の海兵隊に加わり、外交役として重要な役割を担うことになるのだが、このきはほんの駆け出しの若侍で、
「さ、沢村です」
と、ろくに竜乃の顔も見ずに平伏した。
「これは、懐かしい顔が見られたものだ。ささ、沢村殿。もっと近くに」
「いえ、滅相も。それがしは、このままで」
竜乃が親しげに近づこうとすると、沢村は恐縮して後ずさった。
亀が後退するような不格好さで、その足が廊下にまではみ出してしまう。
「遠慮なさらずとも、よいのに」
「いえ。このほうが落ち着きます。このままでいさせて下さい」
「それは。あなたが、そのほうがよいと申すなら」
竜乃は、そう言うしかなかった。
土佐藩には、他の藩には見られない厳しい身分制度がある。大名と平侍が対等ではないのは当然だが、侍の中にも、上士、白紙、郷士、地下浪人と階級があり、身分の低い者になると、自分の賤しい生まれに対して負い目を抱くことも多い。
竜乃も郷士という比較的低い家の生まれだったが、この沢村はもっと低い浪人の子なのだ。
だれでも平等な日本人、と考える竜乃だったが、その考えを人に強要はできなかった。
「それで。本日は、どのような用向きで?」
「武市様からの使いでございます」
やはり、武市からかと竜乃は思った。
以前であれば飛び上がるほどに喜ぶところだったが、最近ではそうもいかなくなっている。どちらかと言えば、この手の知らせと会うのは億劫さが伴った。
というのも、最近の武市はおかしかった。
前まで、あんなに温厚で実直だった武市が、近頃は人が変わったように政治に関心を向けるようになっていたのだ。
いや、前々から土佐藩の政治には不満を持っていたのは、竜乃も知っている。
三百年もの間、ずっと続いた陳腐な身分制度と政治体制は、爛熟した社会そのものだった。果物が熟して腐り落ちるように、長年にわたって蔓延った門閥体制が藩の政治を動かしていた。
武市は、土佐藩の侍だった。
竜乃などとは違い、郷土に対する愛が体の隅々にまで流れているような男だった。
だから、昨今の情勢下における藩の動きが、我慢できなくなったらしい。ここ数年で、武市は急激な革命家に変貌してしまっていた。
内にあっては、国事を担う老人どもを巧みな弁舌で懐柔してみせ、外にあっては過激派の攘夷浪人とも関係を結んでいた。
藩政を、変えようとしているのだ。
「つきましては、坂本様に書状を預かっております」
沢村は、懐から一通の書状を取り出した。
それに目を通した竜乃は、
「よ、よせ」
思わず声を上げた。
そにあったのは、信じられない計画だった。
土佐藩の藩政は、現在は藩主のお気に入りの吉田東洋という人物が握っていた。
彼は革命家でもあり、独裁者だった。
古きを廃す、といったことで門閥政治の老人どもから権利を取り上げ、殖産事業に力を注いでいる。同時に、港を開いて外国との貿易を始めてしまった。
政治を追われた老人どもは彼を憎み、攘夷派の浪人は売国奴として彼を狙っているという。
その、土佐で生まれた軋轢を利用して。
武市は、吉田東洋を『斬る』という。
「間違っている」
竜乃は、ついに叫んだ。
「なぜでございます」
「考えてもみろ。藩の政治を救いたいからと言って、それを正そうとする人間が暗殺や闇討ちをしてどうする。さらなる外道になるだけではないか」
この時代、テロリズムという便利な言葉はなかった。
しかし、竜乃はそれに近い感覚を武市の計画から受けた。いくら立派なことを言っても、行為を正当化しても。結局は、暴力で他人から権力を奪うのだ。
これでは、三百年もの長きに渡って、『武力』で民衆を押さえつけていた徳川幕府と何も違わないではないか。
「阿呆め。おンしらは、侍か!」
竜乃は激するあまり、土佐の訛りが出てしまった。
沢村は、浪人の子とはいえ、礼節が武士を作り上げると信じている人間だ。あくまでも冷静さを崩さずに、
「侍でございます。他に、なんでありましょう」
「違う。私が言いたいのは、そんなことではない。刀ばかりを振り回す侍では、もうこの国は救えんのだ。どうして、おンしらにはそれが分からん」
竜乃は、急に悔しくなった。
武市は。武市だけは、そのことを分かってくれていると思っていたのに。
日本の侍の考え方は、時代に遅れていた。何か新しい政治を生み出そうとする者がいるのに、その者たちは封建体制のままの藩を動かすことしか考えていなかった。
日本人である竜乃にとっては、殿様も侍も必要ないのだ。
武士たちの血なまぐさい争いでは、その下の民衆までは救うことができないのに。
武市だけは、竜乃の味方だと。そう思っていたのに。
「こんなものッ」
と。竜乃は、手にした書状を粉々に破り捨てた。
何度も、何度も、念入りに破って。猿みたいに癇癪を回す少女の姿に、沢村が呆然としていると、
「坂本様、坂本様」
と、旅籠の女将が、また廊下を走ってきた。
「今度は何じゃッ」
「それが。また、土佐から使いが参りまして」
その知らせに、沢村も驚いた顔をしていた。
どうやら彼も知らないことらしく、束の間だけ沢村と目を合わせた竜乃は、
「それで? その者は、なんと言っている」
「それが。武市が、切腹したと」
4
武市半平太がこの世を去ったのは、慶応元年の五月一一日のことだった。
吉田東洋の暗殺は、成功したらしい。
しかし、その後も目まぐるしく動いた政変により、藩論は次第に彼に厳しくなった。
相次ぐ土佐藩の政変の中で、彼は命を落としたのだ。
享年、三十七歳であった。
「馬鹿者めが」
竜乃は、その書状を旅籠の一室で読んだ。
半ば放心して、格子の外に見える青空を見上げる。部屋には、竜乃だけしか居なかった。
「どうして、私が日本を変えるまで待てなかったのだ。どうして、土佐のような国で一人で死んだのだ」
いや、答えなら書状に書いてあった。
その書状は、切腹する前の日の夜。獄中で、武市がしたためたものらしい。
内容には、こうある。
竜乃よ、これから日本を変えていくのは刀か人か。
答えは人だろう。私も、そう思う。
その人を育むものは、何であろうか。
私は、その答えが故郷の地であり、また、田や川、城下の町並みだと思う。
お前は離れてしまった土佐だが、私はこの国の姿を好もしく思っている。
下らぬことかもしれんが、室戸の海からとれる塩鮭に、悪酔いばかりさせる土佐の酒が毎年の楽しみだった。
その土佐が、争いの火種に包まれようとしている。
つまらぬ派閥争いによって、藩政が揺らぎ始めた。小者どもが奸計ばかりを巡らし、日に日に政治は悪化するばかりだ。このままでは藩の権威は地に落ち、後日、必ず他藩の食い物にされるだろう。
騒ぎは、大きくなる前に手を打つに限る。
私は、この国に身を捧げようと思う。
坂本竜乃が日本を救った後に、戻ってきた故郷が荒れているわけにはいかんだろう。前のままの美しい姿で、お前を迎えるのが土佐の国だ。
よって、私は土佐に仇なす人間を自分の手で葬った。
覚悟は、している。
明日の朝には、私は執政殺しの大悪人として裁かれるであろう。それでいい。
この日本を変えていくのは、手を血で染めてしまった私のような悪人ではない。汚れのない心を持った、おンしのような人物だ。
負けるなよ。竜乃。
私は、いつまでもお前を応援している。
土佐の侍 武市半平太
それを、読み終わった竜乃は。
ごしごしと。袂で顔を拭いて、外に広がる空を見上げる。
「だから、侍は嫌いなんじゃ」
この日も、江戸の空には、文句ない青さが広がっていた。