009 子どもですから
「リズちゃんも子どもだったんじゃなぁ」
「……マサ先生、わたしはちゃんと子どもだよ?」
「ほっほっほっ」
理修が駆け込んだ先は、自宅から車で十五分程のこの辺りでは有名な大きな総合病院の一室。
前医院長である主治医の『関口正』先生の部屋だった。
「まぁ、普通の子どもは、自宅から三キロも離れた場所に文字通り『飛んで』来たりせんぞ?」
そう、理修は自宅横の路地裏から、空を飛んで来たのだ。着地点はこの病院の屋上だ。脅威の速度で、片道一分で到着する。
「むぅ……だって、ここじゃなかったら、トゥルーベルの屋敷だよ? そのまま帰らなくてもいい?」
「それは『家出』の粋を越えそうじゃ。良くないのぉ」
正は、トゥルーベルにある、今はもう理修の屋敷となったかつての友人の屋敷を思い出し、苦笑いを浮かべる。
(あそこの使用人達は、理修ちゃん大事じゃからな……今の家族との実態を知れば、二度とこちらへは帰さんじゃろうて……)
そんな嫌な心配をよそに、理修はむっとしながらも、出されたお茶やお菓子を消化していく。次第に落ち着きを取り戻した理修は正に尋ねた。
「ねぇ、先生。どうしたら母さんはじぃさまの事を分かってくれると思う?」
「そうさなぁ……今はまだ、そっとしとくのが一番かもしれん。感情と言うのは、記憶に直結しとる面が大きい。人は、忘れる事ができる。記憶が薄れれば、心に余裕も出来る。必要なのは、時間じゃ。時間にしか解決できんもんがあるんじゃよ……」
そう言った正の顔が、一瞬歪むのを理修は静かに見ていた。
(先生にも、時間じゃなきゃカイケツできなかった事があったのかな?)
理修は敏い。そして、切り替えも早かった。
「なら、わたしは少しキョリをおくことにする。うんっ、そうしようっ。よしっ、じゃぁ帰るねっ。ありがと、先生」
「ほ? う、うむ……気を付けて見られん様に帰るんじゃぞ?ランドセルを忘れんように」
「はぁい」
理修は、バイバイと手を振りながら、家路につくのだった。残された正はと言えば。
「……あぁ言う所、本当にリューさんソックリじゃなぁ……」
『即決、即行』
正は、かつての友人との短いが、濃い日々を思い返し一人嘆息するのだった。
◆ ◇ ◆
理修の初の『家出』はこうして一時間にも満たぬ間に終わった。
当然、その事に父『義久』も気づかなかった。しかし、義久は妻を落ち着かせ、部屋へ帰すと、外に干してある洗濯物が気になっていた。
先程、拓海が帰って来た。真面目な長男は、今ごろ、部屋で宿題をやっているだろう。次男の明良が帰って来ないのは、いつものことで、心配はしていない。だが、理修が帰ってこないのはおかしい。
友達付き合いは悪い訳ではないようだが、真っ直ぐ家へ帰ってくるのが理修だ。遊ぶのは、家に一旦帰ってからと決めている様で、何処で誰と遊ぶのかも報告してから出かけるのが常だ。
とりあえず、洗濯物をよせながら待とうと、外を気にしながら丁寧に、慣れない手付きでよせていく。すると、小さな足音が門の方から聞こえてきた。理修が帰ってきたのだ。
「あっ、ありがとう、父さん。ちょっと寄り道してた」
「そうか。けど、危ないからもう寄り道してはダメだよ」
「はぁい」
そう素直に返事をする理修に苦笑する。どうも、理修は『良い子』過ぎる。
義父と二人で田舎暮らしをしていたからか、料理も掃除も洗濯もできる。今もランドセルを家に入れると、すぐに一緒に洗濯物を取り込んでいく。
手がかかならない。既に自立している様にさえ感じてしまう。こういう所が、妻の神経を逆撫でしてしまうのだろう。仕事で精神が不安定になる妻には、正直困ってしまう。
だが、分からなくもないのだ。嫌っていた父親に、娘を完璧に育てられてしまった。それが妻には耐えられない屈辱なのだ。
「ねぇ、父さん」
「ん?」
そんな事を考えていれば、理修がいつの間にか不安そうな顔で目の前に立っていた。内心戸惑いながらも何でもない振りをして平静を装う。すると、理修が改めて口を開いた。
「父さんは、じぃさまの手紙が置いてあるところ、しってる?」
「?あ、あぁ……読みたいのかい?」
義父の形見と言える物は全て、まだ家ごと田舎にある。だから、恋しくなったのかと気になった。しかし、理修はそれに首を横に振る。
「?……場所なら教えるよ?」
「それは知ってるから大丈夫。そうじゃなくて……」
こんなに話してくれるのは、初めてかもしれない。だから、何が言いたいのかちゃんと知りたいと思った。
じっと次の言葉を待っていると、理修の妻譲りの綺麗な瞳に、強い光が宿るのを見た。
「じぃさまの手紙を、母さんにちゃんと読んでほしいの」
「……それは……」
難しいかもしれないと口にする前に、理修は続く言葉を理解して答える。
「うん、母さんが、じぃさまのこと、よく思ってないのは知ってる。それが、全部ゴカイだってこともしってる。だから、ちゃんと読んで、知ってほしい」
その言葉に、目を見開いた。そんな動揺に気付かぬふりをする理修は、更に続ける。
「じぃさまと、いっしょにいたわたしを、母さんがきらってるのも知ってる」
「っいや、それはっ」
慌てて弁明しようとすれば、すかさず返される。
「大丈夫。好きできらってるんじゃないってのも分かってるから……」
(この子は……っ)
全部分かっているのだ。自分の置かれた状況もその原因も全てを理解した上で、波風を立てない様に過ごしていたのだと分かってしまった。
「っ……理修……」
子どもに、自分達は一体何を強いているのか。何とかしなければと思い、考えを巡らせていれば、理修が言った。
「だから、母さんがちゃんと、じぃさまのことに、むきあおうとするまで、わたしはキョリをおく。わたしを見て、つらくなるなら、その方がいいと思うの。父さんは、今までどおりでいい。ただ、母さんの味方でいて。おねがい」
そう言うだけ言うと、理修は家の中へと駆けて行った。
その後、理修は食事ですら一緒に取らず、極力妻に会わない様に生活するようになった。それはとても自然で、暫くすると皆慣れてしまった。
『居るのに居ない娘』
それが、どんなに奇妙で間違っている事だとしても、それが自然になってしまったのだ。
理修ちゃんのボッチ生活の始まりでした。
次は、弟くん。