首吊り
炬燵に入ったまま動けない。
外にでることができない。テレビを点けたまま横になり、なにもしない。
人生たるものがこんなことでいいのだろうか、青春という二文字が遠く昔に霞んで消えているかのごとく、灰色、真っ暗。子供の時には余裕があって、若さという武器があって、それが人生を真っ黒に染めるのを防いでいた。でも現在は、灰色。人間的に、自殺したほうがマシ。
首吊りをしようか、と思った。生きていてもろくなことがない。
で、実際に実行した。定型ではなく非定型。一分間のハイパーベンチレーションをしてから、ハングマンズノットを結んである電気コードに首をかけて、階段の傾斜を利用して体重を掛ける。
頚動脈と椎骨動脈にびったりと電気コードが食い込んだのだろう。
数秒で、意識が真っ白になった。
その瞬間は非常に心地が良くてトロトロとしたスープに入り浸るような感覚だった。
が、その後が地獄だ。
失神していたはずの意識がなぜか復活し、気道がばっちりと押さえ込まれて窒息死する寸前。真っ白の世界が橙色へと転じていた。手足が麻痺しているせいで絞まっているロープを外すこともままならず、えぐ、えぐと、絶え間ない窒息の苦痛を味わう。
しかし電気コードが吊っている途中でプチンと切れてしまい、結局、助かってしまった。
窒息死せずには済んだが、死にたい死にたいと念じていた脳にとっては、最悪な結果とも言えた。
縊死を狙ったにも関わらず窒息しそうになるだなんて間抜けすぎだ。
窒息は苦しい。そんな体験をしたにも関わらず生き延びてしまって、辛い。
辛いから、現実逃避のために、炬燵に入ってパソコンを点ける。時間は腐るほどあるから、気にもせずに色んなサイトを見て回る。お気に入りに登録している『夢見ヶ島』を見ると、今日も社会からあぶれてしまっている暇人たちの書き込みがあった。
『人生、どうしたら最高な気分で生きていけるのだろーか』
そんな書き込みを見かけて思わず、吹き出しそうになった。だが、実際、どうしたら最高な気分で生きていけるのか。
少なくとも自殺未遂などをする人生は碌なものじゃない。
先ほどまで電気コードの索状が食い込んでいた首元に、手をやる。一階に降りて洗面台で光を当ててみると、赤い痕が残っていた。しばらくはタートルネックを着て、首吊りの痕を隠す必要があるだろう。
次はロープを使おう。途中で切れたりしない、太くしっかりとした。
そう誓ってから、洗面台の鏡を離れ、玄関から靴を履き、夜の散歩に出かけることにする。家の中で眠りこける気分ではなかったをくくったばかりのせいか、気分が落ち着かない。
玄関のドアノブをひねる。
すると朧月が出ていた。雪が降った後の町並みで、雪が信号機に帽子のように覆いかぶさっていた。
雪景色を踏みしめながら、先ほどの『人生、どうしたら最高な気分で生きていけるのか』という一文を思い出す。人間、それがわかれば苦労はしないと思う。
雪道を歩きながら人生の幸福とはなんぞやと考えてみるが、良い案は思いつかない。お金があればいいのか、愉快な友人がいればいいのか。
公園のベンチに座ってコーヒーを飲む。暖かいな、いいな、と幸福感がある。幸せとはこういうことの積み重なりだろうか。
首吊りのせいでぼーっとした感覚の脳味噌ではわからない。
首吊りを次にするとしたら、雪の降る日ではなくもっと暖かい日にしよう。
そう決めてから自宅に戻る。
大学を中退したことが、俺の最大の人生転換点だったと思う。
その間特に何かをしていたわけでもない。バイトを始めたわけでもなかったし、何か大きな目標を持って活動をはじめた訳でもない。しかし俺は、大きな時間を費やして取り掛かる大学受験で合格したせっかくの大学に、数ヶ月で行かなくなり、そしてひとり暮らしの一室にひきこもり、外界との接触を一切絶ってしまった。
そしてひとり暮らしの生活も長くは持たず、実家に戻ることになった。
当時は人が怖くて仕方がなかった。社会と関わりを持つことが恐ろしくて仕方がなくて、どうしようもなかった。四年間という長時間を実家の一室にこもって過ごし、なにもしないままに時を過ごしてしまった絶望感で満たされ、そして今日、自殺を図ってしまった。
実際生きていても仕方がない。
こんな屑どうしようもない。
社会への復帰が仮にできたとしても、一生、地の底を這うような目に遭うだけだろう。
現実逃避をするしかないと思ってしまう。ハードルが高すぎて何も前進できやしない。
雪だるまを作りたくなった。
また真っ白い寒空に出た。
スコップでかき集めた雪をゴロゴロと転がして大きくしていく。
体の部分と、頭の部分。
いいバランスで組みあげることができた。最後にバケツを持ってきて頭頂部に被せると、可愛らしく仕上がった。目鼻口を作るのは面倒なのでやめて、雪だるま作りのせいで存分に冷え切った体を暖めるために家の中に逃れる。
そして、炬燵に入った。
体が存分に暖まってきたらノートパソコンを起動し、また『夢見ヶ島』をチェックしてみる。
新しい書き込みがあった。
『声が聞こえる』
妙に怪しい題名だったが、クリックして中を確認したら、さらに怪しい内容が待ち構えていたものだから焦る。
『先日二月十日頃から声が聞こえます。人間の声です。頭の中で疼くような音量のせいで毎日の生活に差し支えます。どうしたら良いと思いますか。頭痛や耳鳴りも一緒に症状として出てくるので、もう病気なのではないかと思います。一度病院にも行ってみたのですが、精神科への受診を勧められました。しかし私にはこれが精神的な面からくる病気だとは思えません。どうしたら良いのか、助言をお願いします』
浮浪者のような連中が書き込みをする『夢見ヶ島』では珍しく、とても丁寧な物腰の文章で明らかに浮いているし、その内容もやけに深刻でマジな感じがあり、冗談めいた内容の多い『夢見ヶ島』には似つかわしくない。勿論、こういう深刻めいた相談は稀に見かけるのだが。
とりあえずスルー。
首吊りで痛めた部分をさすってから、パソコンを閉じる。
天井を見上げる姿勢になって、ゆったり。
すると過去がフラッシュバックした。ひどい目に遭ったこと、嫌な思い出ばかり思い出す。小学校の低学年の時に友達にぶん殴られたせいで口が開かなくなったこと。中学校の時にいじめにあってしまい、制服の後ろにチョークで死ねとつけられてしまったこと、嫌なアダ名で毎日呼ばれて、周りからいじめられているんだなあという視線を向けられたこと。高校時代ではいじめられはしなかったが、精神の調子をおかしくしてしまい、心療内科に通ったこともあった。社会不安障害だとその時には診断された。
様々な過去に襲われて、気が狂いそうになる。
テレビを点ける。
大勢がマラソンをしているCMがやっていた。はじめはそれの意味することが一つのレールとしてなぞられて全員が一つの進路を競争し合っているということの比喩だった。が、途中から主役の人がマラソンのレールから外れる。そして人それぞれに生きる道がある、個人のレールがある、という比喩に変わっていった。ついにはマラソンをしていた人のほとんどが自分のレールを走り出すのだ。
ありきたりなCMだ。
マラソンレールを走るのだろうと、違うレールを自分で見つけて走るにしても、思うのだが、結局は運だ。幸運かどうかがレールの先の明暗を分けるのだ。極端な話、運が良い人であれば宝くじをちょっと買うだけで何千万円とお金を手にしてしまうのではないか。なんとなくだが。人生において大事なのは、重要なのは、運が良い自分を逃さないことじゃないだろうか。今、自分は運が良いんだなぁと思った時には、すぐに大金を叩いて、大量の宝くじでも買うべきなのだ。
と、ジャンボ宝くじのCMを見ながら思う。
それにしても寒い。
炬燵に入っていても寒いなんて、どういうことだと思う。
雪の日は寒い。
暖まりたい。
暖まるには、どうしたらよいのだろうか。
裸で暖め合うと早いなんて話を聞いたことはあるが、ひきニート生活を送っている自分には土台無理な話だ。
いや、まてよ。
子供に還ればいいのでは。
雪が降れば馬鹿みたいにはしゃぎ回り、雪をかき集めてはきゃっきゃとはしゃぎ回るような、そんな子供に還れば、寒い心身も、いい感じに熱を帯びるのではないか。健康的な面においても、炬燵でずっとぬくぬくしてるよりは、外ではしゃぐ方がよほどマシだ。
ならば、やってみるか。
しかし、腰が重い。
下半身が外へと動こうとしない。
やっぱり炬燵がいい。
なんだこれ、俺は家畜の豚か。
実際、家畜の豚と言って過言ではない生活を送っている。社会に出れない恥ばかりが大きい人生を歩んでいて、もちろん、人生に絶望している。家族や親戚も陰では俺に対して絶望しているがための発言を日々していることだろう。現在二十三歳。人生の逆転は不可能ではないだろうか、あがくだけ無駄なのだろうか。
首吊りをしなければならないという焦る気持ちを抑えて、こつこつと日々、絶望が積み上がっていくのを経験しなくてはならないのだろうか。
五感で絶望を体感し、真の絶望に辿り付き、俺はそこで何を見聞きするのだろう。
それはまったくわからない。
ああ、どうしよう。
本当はアルバイトをはじめればいいだけのことなのだ。いや、どうだろう。どっちにしろ絶望ばかりが広がっていくのではないか。
アルバイトを経験して、俺の絶望値がより深まるのではないかと想像してしまい、恐ろしい。ずっとひきニートに等しい生活を送っていた俺は、対人関係の構築に関しても下手くそだ。アルバイトでは対人関係も重要とされると思うのだが、ずっと篭っていたせいでその能力も消失しているだろう。接客業なんてやったら、仕事場で血を吐いて死ぬんじゃないだろうか。
それはいいすぎだろうが、とにかくすぐにクビになるに決まっている。
やはり首吊りをするべきだ。
ホームセンターでロープを買うのも億劫なので、ネットで注文した。
コミュニケーションの取れる男になれたなら。
流暢に会話のできる男になれたなら。
世の中に簡単に適応できる男になれたなら。
しかし俺は、あまりにも篭もり過ぎてしまった。そんな人間にはなれない。社会で生きていけない。死ぬしかない。
ロープの用意はできた。
あとは誰もいない時間を見計らって、階段の傾斜を利用して首をくくるだけだ。
手すりに三メートルの縄をくくりつけて、体重をぐっとかけて、首を吊る。ハイパーベンチレーションも忘れずに。安楽死に近い体験ができるだろう。
楽に死ねるはずだ。
しかし、それなのに、死ぬことが怖く感じられてしまう。
死ぬというのは一大イベントだ。生から死へと移りゆくという、奇妙な体験だ。誰もが必ず一度は経験しなくてはならない、死ぬという大事。早いか遅いかだけの違いで、誰だっていつかは地球の地表から消失する。
なんで俺がそんな経験を二十三歳でしなくてはいけないんだと考えてみれば、いや、やはり当然、死に値する怠惰な生活を送り続けたのがその原因で、こうなってしまったのは完全に自業自得だ。死ぬしかない。首吊りは後日確実に決行しなければならない。
そんなことを思いながら、ベッドに横たわって目を瞑った。
しかしなかなか寝付けない。
仕方が無いので、ノートパソコンを起動し『夢見ヶ島』にアクセスする。そして様々なスレが乱立している中、『声が聞こえる』という題のそれは人気が無かった。しかし俺はそういう人気の無いスレッドに返信をするのが好きなのだ。という訳で、返信の文を作ってみる。
『統合失調症を疑った方がいいかもしれません』
幻覚、幻聴が聞こえる病気といえばこれだ。
百人に一人はこの病気にかかるという。
この返信は今日はもう遅いから来ないだろう。ノートパソコンの電源を落とし、再度ベッドに横たわり眠ろうとする。が、やっぱり寝付けない。こんな夜はよくあることなので、しばらく目を覚ましたままぼーっと考え事をする。
自分自身の今の生活を振り返ってみたり、今日はどんなことをしたっけかと懐古したり、どうしたら眠れるだろうとため息をついたり。そんなことを考えていたら、どでかい二文字が俺の脳内で登場した。
まさしくそれは、「将来」、という二文字。
二十三歳、かつ働いたことがろくになく、ずっとヒキニートをやっていたせいで頭がぴんぼけしている。怠けた毎日の連続のせいで脳みそが弛緩している。
脳だけじゃなく肉体のほうも弱っている。筋トレもしばらくやっていないし、スポーツなんてもっての他だ。ひきこもりが外に出て運動する機会なんて滅多にない。
こんな生き物が長生きできるはずがない。俺の未来は鉛を一億個くっつけたかのごとく重たい。
俺の希望は、首吊りだけだ。