七十八章 カウントダウン 3
オルクスは悠々と空を飛び、夕闇の塔の真上に着いた。
(最上階の西側、左から二番目でしたね。ここですかね?)
はめ殺しの窓には取っ掛かりになる段はないが、石積みの隙間に足の爪を引っ掛けてとまる。人間には難しいことでも、小さな鳥の身なら簡単だ。
窓から中を覗きこむと、備え付けの机と椅子、ベッド、簡易トイレしかない殺風景な部屋に、粗末な白の上下の服を着た銀髪の少年がいた。ディルだ。姿勢正しく椅子に座り、本を広げながら考え事をしている様子だ。
オルクスは窓をコツコツと嘴で叩いた。
ディルは怪訝そうにこちらを振り返り、驚きに水色の目を丸くした。彼はさっと鉄扉を確認すると、気分転換をするような風情で窓辺に寄ってきた。
「オルクス……に随分似ているな。この辺りに野生のオウムがいるのか」
まじまじとオルクスを眺めて、ディルはつぶやいた。彼のことだ、真面目に言っているのだろう。オルクスは呆れた。
「オルクスですよ、騎士見習い殿」
「本当に!?」
驚いて声を上げると、鉄扉の上にある覗き窓が開いた。看守が顔を出す。
「うるさいぞ、なんだ?」
「綺麗な鳥がいたので、話しかけているだけだ。こんな所にずっといるのは暇なんだ。鳥でも話し相手がいるとマシだ」
「そうかい、気の毒に。とうとう螺子が一本外れたかね? ずっとここに押し込められてる奴の中には、恐怖に耐えきれなくておかしくなる奴もいる」
看守は言葉の内容にしては、興味のなさそうな調子で言い、覗き窓を閉じた。
ディルは鉄扉の方に、歯を出して苛立ちを表してから、オルクスに向き直る。
「……私はおかしくなったのか?」
「いい加減にして下さい。そんなにどうかなりたいのでしたら、この窓を蹴破って、頭をかち割って差し上げますヨ」
辛辣な物言いで、オルクスはばっさり切り捨てた。
そもそも臨時主人の流衣以外には、人間に優しくする義理はない。だがその冷たい物言いは、ディルには効果的だった。
「おお、その話しぶり、リドと喧嘩している時のオルクスそのものだな! 元気が出たよ。どうしてここに?」
「こんな言葉で元気が出るとは、不思議な方ですネ。まず、ノエルは無事ですよ。風の精霊が運んできました」
「風の精霊が?」
「餌を取れずに弱って死にかけていたそうです。今は坊ちゃんが面倒を見ているので、安心して下さい」
また流衣が倒れては困るので、魔力を込めた魔昌石を与えている。
ディルはほっと息を吐いた。
「そうか、ノエルは無事か。そのまま預かっておいて欲しい。それから、イザベラ嬢への伝言はどうだろうか?」
「伝えるとしたら、あなたが死んだ後デス。それが嫌なら、自分で伝えなさい」
オルクスの言葉に、ディルはなんともあいまいな顔をした。
「それはもしや、遠回しに励ましてくれているのか? 生還しろと発破をかけているように聞こえる」
「そうかもしれませんね。安心なさい、あなたの師匠はもうすぐ兵を上げます。そして坊ちゃん達はあなたを助けるために、反乱軍――元女王軍を手伝うことになりました。簒奪者を追い出したら、あなたは自由ですネ」
ディルの心に希望が芽生えた。
何より喜ばしい知らせである。
「ありがとう。今日はよく眠れそうだ」
じわっとにじんだ目元を服の袖で拭う。いくら騎士になる為に鍛えていようと、いつ死ぬともしれない場所で、その日が来るのを待つのは容易ではない。ぐらつきそうな心が揺らぐのを、繋ぎ止めておくので精いっぱいだ。
生を諦めるには、ディルはまだ若すぎた。
「わての言葉は励みになりましたカ? あなたの様子見と励ましが、坊ちゃんの命なんですがネ」
「それはもう、元気が出たよ。私は良い友を得た」
「当たり前です、わての主人ですよ。かりそめではありますガ」
オルクスは器用に胸を反らしてみせた。
ディルがぶっと噴き出す。
「ああ、懐かしい。久しぶりに見たな、君のその自信満々なところ。ルイ達は元気か?」
「ええ。この間まで、セトという教師とともに青の山脈に出向きましたが、怪我もありませんよ。そこでツィールカ様の降臨に立ち会いましてね。坊ちゃんのゴールは、遺跡ではなく中央神殿のカザニフだと分かりました。帰還できるかは分かりませんが、そのための準備もしています」
「青の山脈……あんなとんでもない場所に行ったのか? セト先生とリドなら分かるが、ルイだろう?」
オルクスは頷いた。
「そしてアルモニカ嬢とその護衛のサーシャもですね。ふん、わてが傍にいるのに、みすみす主人に害をなさせるわけがないでしょう。余計な心配というものデス」
「相変わらずだな、君は……」
呆れ返っているディルの言葉を、オルクスは聞き流す。
「さて、わてはそろそろ主人のもとに戻りますヨ。たびたび顔を出します。用がある時は、外に向けて話しかけてみなさい。風の精霊があのクソガキに伝えてくれますよ。その場合はクソガキの名前を付けるのを忘れずに。腹の立つクソガキですが、あの才能は稀代のものですからね。風の精霊によく愛されている。喜んで伝えるでしょう」
「分かった」
神妙な顔つきでディルは頷いた。
「ところでオルクス……、私は」
「分かっておりますよ、逃げる気はないのでしょう? しかし挙兵した後ならば構いませんよね?」
ディルは少し考えた後、首を縦に振った。
「ああ」
「わてはあなたの抱く家族愛は嫌いではありませんよ。あなたのそういうところは気に入っております。あなたにツィールカ様の愛と慈悲のご加護がありますように」
「ははっ、女神様の使い魔に加護を祈ってもらえるなんて、心強い。ありがとう」
「感謝は救出後に直接承りますよ。もちろん、坊ちゃんに言って下さい」
「もちろんだ」
しっかりと頷いたディルだが、その顔には再び呆れが混ざった。
「ではまた。よく休んで、体力を付けておきなさい」
オルクスは最後にアドバイスを付け足してから、空へと勢いよく舞い上がった。
ディルがこちらを見上げて、手を振る。
一仕事を終えたオルクスは満足して、風に乗る。
主人の喜ぶ顔を想像して、にやりと笑った。