七十五章 亡霊と不死鳥
洞窟を出ると、眩しさに目がくらんだ。
目の上に右手をかざし、外へ一歩踏み出した流衣は、眼前に広がる銀世界にしばし見とれた。
足首が埋まる程の積雪は地面を覆い隠し、なだらかな白い絨毯が広がっている。まるで粉砂糖を振りかけたケーキのようだ。
清々しく冷えた空気を胸いっぱいに吸い込むと、後方のリドやアルモニカを振り返る。
「見てよ! とっても綺麗だ!」
これほど雪が積もったのは、青の山脈入りして初めてだ。故郷でも雪は降るが、山中での積雪は物珍しくあり、流衣には違う世界に見えた。
興奮している流衣に、リドが笑い返す。
「そんなに指差さなくたって見てるよ。すげえな。カザエ村じゃ見ない景色だ」
「こうして見ると雪は神秘的じゃのう」
雪に慣れているアルモニカも、流衣と似たような感覚らしい。深緑色の目を細めて、感慨にふけっている。
「なんだか踏むのがもったいないね!」
そうは言ったものの、積もったばかりで誰の足跡もない雪を踏んでみたい。流衣は数歩進んでみた。雪は軽く頼りない感覚だったが、振り返って足跡がついたのを確認すると、なんだか満足してしまった。
一人で頷いていると、リドが呆れ顔になった。
「おい、あんまりはしゃいで駆けてくなよ? ここは青の山脈だってことを忘れんな」
「そうだぞ、ルイ。雪の下からこちらを狙う魔物がいるかもしれん」
リドやセトが口々にいさめた時だった。まるでそれを合図にしたかのように、流衣達の目の前にある上りの斜面に積もった山が、ぶるりと震えた。
「ん?」
「坊ちゃん、後ろへ!」
「わわっ」
青年の姿をとっているオルクスの声とともに後ろに引っ張られ、流衣はたたらを踏んで立ち止まる。雪で滑りそうになってひやっとした。そして視線を戻すと、黄緑色の長衣の背が見えた。
体の前で両手を構えて戦闘態勢をとるオルクスに唖然とした流衣は、リドやセト、サーシャも武器を構えていることに気付いた。流衣も慌てて杖を構える。
綿のような雪をばたばたと落としながら、それは雪下から身を起こした。水色がかった白銀のうろこが、朝日を弾いて光る。四足でどっしりと立つや、その魔物は天へと吠えた。
「グギャアアアア!」
まるで悲鳴のような低い声だ。青い目が爛々と光り、流衣達を見据えた。流衣はその鋭い視線に飲まれて凍りついた。
「水晶竜……」
後ろの方で、アルモニカが呆然と呟く声がした。リドがうめくように言う。
「異常発生でここに出てもおかしくはねえけど、嫌なタイミングだ」
「洞窟に戻れ!」
素早く指示を出すセトに従い、流衣達はいっせいに洞窟の入り口を振り返った。その瞬間、洞窟の入り口に、ボッという低い音とともに黒い炎が立ち上った。炎は人間一人分程の大きさで、狭い入口を完全に塞いでいる。
「なにこれっ」
走り出そうとした瞬間のことだったので、つんのめるようにして立ち止まりながら、流衣は声を上げた。
「お嬢様、こちらへ!」
「うわっ」
後方にいたアルモニカの方が炎に近い。サーシャがアルモニカの腕を引いて黒炎から遠ざけた。
皆、背を預けるようにしてじりっと一ヶ所に集まる。
流衣は緊張でごくりと唾を飲み、水晶竜と黒炎を交互に眺めて疑問を口にする。
「逃げ道を塞がれたってこと? 水晶竜は魔法を使うの?」
「いえ、そうではありません。その黒い炎は闇属性の魔法。使い手がすぐ側にいるということです」
オルクスは油断なく周囲へ視線を光らせながら、流衣の問いへ答えた。
「ここがばれたの?」
「そういうことなんだろ。俺達が先回り出来たのはついてたけどな。面倒だな……」
ダガーを両手に持ち、リドは左の方を見ている。流衣はその目線を追い、木陰に立つ人影を見つけた。
(び、びっくりした……。いつの間に)
男が黒い衣服を着ていることと、気配の薄さにより木の影と一体化していることで、そこに誰かがいるのに全く気付かなかった。
驚きのせいで心臓が跳ね、耳奥で鼓動の音が鳴り響く。思わず息を止めてしまったせいか、酸欠でくらっときた。
あの男には見覚えがある。魔法学校に現れた、正体が魔王の亡霊で、アークという名の男だ。
流衣は周囲に視線を投げかけたが、他に人影は見当たらない。
「やあ、また会ったな」
アークは金の目を笑みの形にし、斜面の上から流衣達に挨拶をした。
愛想良く声をかけられても、こちらは朗らかな気分にはなれない。当然、敵視の目が向けられる。
「お久しぶりですね。ですが一足遅かったようです。わて達は目的を終えました」
一歩前へと出たオルクスが、警戒は崩さず皮肉を交えて返す。
(ちょっと、空気を荒げるのやめて!?)
オルクスの対応に冷や汗をかく流衣。
「ああ、それはそこの男の論文だろう? 転移魔法への応用だったか。まあ、興味をそそられないこともないが……」
ふっと薄く笑うアーク。
「そちらの子どもの方が余程興味深い。神達に何をそそのかされているのか知らんが、どうせ奴らのことだ、ろくな用事じゃないんだろう。駒にでも選ばれたか?」
からかっているような言葉だが、アークが纏う冷ややかな空気から、本心でそう言っているらしいのを流衣はなんとなく感じた。
「それを下種の勘繰りというのです。ツィールカ様は慈悲深いお方、坊ちゃんに道を示しているだけです! なんて失礼なんでしょう!」
オルクスの形相が恐ろしいことになっている。敬愛する女神を馬鹿にされた怒りのせいか、こめかみに青筋が浮かんでいる。
「慈悲深い……ふん、笑わせる。俺はあの神達のことも、この世界の理も、全て気に入らない。中途半端に下界に口出しする暇があったら、引っ込んで安定の努力でもしていろというのだ。――だが、こんなことを女神の下僕なんぞに話しても詮無いことだ」
「ぐぬぬぬぬ。確かにわては下僕ですが! 神様がたへの暴言は許せません!」
オルクスは拳を握り、悔しげにうなった。
(あ、そこは認めるんだ……)
オルクスらしい。流衣はちょっと気が抜けた。
それで一瞬、アークから目を逸らしてしまい、元の場所を見た時に彼の姿がないのに気付く。
(え、どこに?)
きょろと周囲を見回した時、後ろから悲鳴が上がった。
「きゃあ!」
「くっ」
後ろを振り返った流衣は、地面へと転がるように倒れるアルモニカと、それを庇うサーシャの姿を見た。
「えっ」
何が起こったのか分からない。唖然とした流衣は、後ろから喉元を押さえこまれ、ぐっと詰まった息を漏らす。
「坊ちゃん!」
「てめえ、そいつから離れろ!」
「リド、落ち着け」
何が首に押し付けられているのかと思えば、鉄製の杖の柄だ。一瞬で移動したらしきアークの仕業だと遅れて気付く。
「おいおい、それ以上近付くなよ。こんな子どもの首をへし折るくらい簡単だ」
「……っ」
杖の柄が喉を押さえてきて、その痛みと息苦しさで流衣の顔が歪んだのが見えたのか、今にも攻撃に出そうだったリドが後ろへと一歩下がった。オルクスやセトも厳しい表情のまま、後ろへじりっと下がる。
(何でこんなことに。僕に興味があるみたいなのは、こないだの件でも分かってたけど)
三人が距離をとったことで、アークが力を緩めた。お陰で杖と喉の間に隙間ができ、流衣は軽く咳き込んだ。
きっとさっきの移動は、影を渡ったのだ。いつ魔法を使ったのかも分からなかったが、この男には呪文は必要ないのかもしれない。無詠唱で魔法を自在に操るとしたら厄介だ。
流衣は身動きが取れないまま、左の方へと目を向ける。起き上がろうとしているアルモニカとサーシャの様子をそっと確認した。サーシャの外套の右腕辺りに血が滲んでいる。さっきアルモニカを庇った時に怪我したのだろう。だが、負傷しても尚、アルモニカだけは守ろうと背後に庇っている。
「どうして僕を人質に? あ、あなたは何をしたいんです? 神の園に入るのなら好きにしたらいいと思います。どちらにせよ、あれはあなたに破壊出来る規模のものではありません」
そもそも、神の園である洞窟に入りたいだけなら、流衣達が去った後に入ればいいだけの話だ。アークは勇者召喚の魔法陣を壊したがっていたから、そうしたいのだろうと思ったのだが、そうすると流衣達の邪魔をする意図が分からない。
恐怖でバクバクと心臓がうるさいのを必死に意識の外に追いやりつつ、流衣は必死に考える。
「何故そう考える?」
「聖地は、自然に魔力が集まって、その力の強さのせいで魔物が近寄らない場所のことです。聖地を壊そうと思ったら、場所ごと壊さないと。でも、これは時間とともに移動するらしいから、実行したとしても無駄なことです」
「確かに労力を使いそうだ。だが出来ないことではない。――お前はいったい何者だ? 何故そんなことまで知っている。随分毛色が違う見た目な上、連れているのは女神仕えの使い魔。加えて稀に見る魔力の多さだが、勇者のように強くは見えない。お前は何だ? あいつらに何を任されている。お前の使命は何だ?」
使命? そんな大層なものを流衣は持っていない。だが、この男からは何か重要な役を背負わされているように見えるのかもしれない。
「そんな大きな理由はないです。目的は家に帰ることです」
なんてちっぽけで情けない目的だ。ちょっと泣きそうだ。でも流衣の目的に格好良さなんて欠片も無い。地味なものだ。それでこれが現実だ。
「――質問を変える。もしお前が死んだら、神達の痛手になるか?」
流衣はアークを疑った。もし使命を持っていた時に、そうだと頷く愚か者がいるのだろうか? ましてや、使命など持たない流衣の答えは一択だ。
「全くこれっぽっちもなりません。せいぜい目の前の人達が悲しんでくれるくらいです」
悲しんでくれると信じたい。
流衣が希望を込めて仲間達に目を向けると、それぞれ悲壮な顔をしていた。これは本当に悲しんでくれそうだ。随分自虐的なことだが、流衣はそのことにほっとした。少なくとも、こんな見知らぬ世界でも、流衣が死んだら悲しむ人がいてくれる。
「そうか。それは良いお友達だな」
「ええ、本当に」
アークは皮肉を口にしたようだったが、流衣は大真面目に頷いた。するとリドやアルモニカが眉を寄せた。
「アホか、そんな悠長に頷いてんじゃねえ」
「そうじゃ。もう少し緊迫感を持たんか!」
そんなに怒らなくてもいいのに。
「俺は神達の思惑を全て潰したい。奴らが少しでも痛手になるなら、どんなことだってしてやるさ。この男を乗っ取ったようにな」
アークはぽつりと呟いた。
「お前は勇者と知り合いらしい。少しは駒として使えそうだな」
「……どうしてそこまで?」
単純な疑問だ。傍にいるだけで感じとれるような、押し込めた怒りを持つ程のどんなことが彼に起きたのだろう。
流衣は緊張に身を強張らせながらも、アークの過去を考えて不思議に思う。
彼の身から発する濃い瘴気のせいで気分が悪かったが、今の状況がそれを些細なことと意識の隅に追いやっている。
「お前も魔王としてこの世に生まれれば分かる。周り中が敵だらけ。俺を殺そうと狙ってきた。――親でさえな」
「…………」
「泣いて謝りながら、ナイフをかざした親の姿は何年経っても忘れないものらしい」
「どうなったんです?」
「逆に殺したよ。分かりやすい話だろう? だが、こんなことは序の口だ。仲間を作ってやっと落ち着いた生活を出来たこともあったが、そいつらも皆殺された。この国の王の差し金だ。これは奴らへの復讐だ。今、平和な顔をして呑気に暮らしている奴らも皆憎い」
うめくように心中を吐露したアークは、深い息を吐く。
「もうそろそろこの身体は限界だ。見ろ、この手を」
そう言って、アークは流衣の眼前に右手をかざす。白い肌のところどころに黒いシミが出来ており、それが肌を侵食していた。
息を飲む流衣に、アークは続ける。
「エネルギー源の代わりもいいが、次の寄坐はお前でも良さそうだ。この魔力の多さといい、神どもの駒なことといい、良い意趣返しになる」
「い、いやあ、あはははは。僕なんか乗っ取ったって良いことありませんよ」
少しでも流れを変えられないかと、誤魔化し笑いをしてみるが、あまり効果はなさそうだ。
「落ち着いて下さい! 本当に!」
「坊ちゃんから離れなさい!」
青ざめて説得する流衣の言葉に被せるように、オルクスが鋭く命令する。その時、アークがパッと離れ、流衣の背を突き飛ばした。同時に風切り音が背後から聞こえる。
まさかオルクスの命令が効いたのかと、雪の積もる地面に思い切りダイブしながら考えた。次に思考を移す前に、手の平と膝を強打した痛みがやって来て、そちらに意識が向いてしまう。
「坊ちゃん、失礼します!」
「わあ!?」
次に気付けば、オルクスの左脇に抱えられ、その場を離脱していた。
「え? え? 何?」
オルクスが着地すると、すかさずセトとリドが武器を構えて前に出た。
「――〈壁〉!」
セトが呪文を唱え、流衣達の周囲に半球状の結界が現われる。次の瞬間、爆音が響いた。
流衣は周りを見た。流衣の仲間は皆近くにいる。いったい何がアークと戦っているのだろう。
もうもうと立ち込める煙が消えた時、流衣はあっと声を上げた。
「嘘!? 〈悪魔の瞳〉の教祖さん!」
白に近い銀髪と、紺色のマントが風になびいている。
もしかして助けてくれたのか? と、目を瞬いていると、僅かに振り返った教祖はにっこりと微笑んだ。
「もう少し君が彼を押さえていてくれたら、私の目的は終えたんだけど、残念だ」
「何が残念ですか! 坊ちゃんごと串刺しにしようとしてましたよね、今!」
オルクスの怒号が飛ぶ。
流衣は首をすくめつつ、教祖の手にある杖を見た。金属製の杖で、トップに水晶が乗っているが、そこに至る途中で枝分かれした部分から、槍の穂先に似た物が付いていた。
「……串刺し?」
というと、あの杖か。あれで刺そうとしたのか?
流衣はゾッと悪寒で身を震わせる。
もしアークが流衣を突き飛ばさなかったら、怪我をしていたらしい。いや、もしかすると怪我どころでは済まなかったかもしれない。
教祖は申し訳なさそうな顔をした。
「彼の隙が出来るのをずっと伺っていたんだけど。流石に難しかったようだね。共倒れならいけるかと思ったのになあ」
「あの、申し訳なさそうな顔しても、大丈夫じゃないことがあるんですが!」
巻き添えをくらいかけた事実を知った流衣は、当然抗議する。青ざめた顔をしている上に涙目なので、全く迫力はないが、仲間達が怖い顔をして頷いているので、少しはマシになった。
「面白い。魔王信者が魔王に楯突くのか?」
教祖と対面する形で距離をとったアークが、笑い混じりに言った。
「あなたは魔王ではないので。亡霊には用はない。それよりも部下が随分世話になったようで、そのお礼をしたいと思ってた」
「部下?」
「あなたが呪いをかけた女性のことだ。ユリアにあそこまでされて、黙っていられない。――サイモン」
「ああ。いつでもいける」
パサッと乾いた音がして、傍の樹上から黒い羽を持った少年が舞い降りた。両手にナイフを構えている。
「な!? 何故サイモンがここに!」
未だ結界を維持しているセトが、動揺の混じった声を上げる。
とうとうセトにサイモンの正体がばれた。
「何を今更なこと言ってるんだよ、セトさん。あのユリアって奴がサイモンの話をしてただろ?」
「そちらこそ何を言っている。〈悪魔の瞳〉にすら嫌われているという話だっただろう。それが何故、魔王信仰者と一緒にいる!」
「いや、じゃから。奴は〈悪魔の瞳〉の一人で、その中でも嫌われておるという話じゃ……」
アルモニカが呆れたように言った。だが、すぐにサーシャに向き直る。結界に守られている今をチャンスと見て、サーシャの傷をアルモニカが聖法で癒している。
「そういう意味だったのか……。流石は嫌われ者だと感心していたのだが」
セトは動揺を鎮める為か、眼鏡のブリッジに左手を押し当てる。落ち着かないというように、カチャカチャと眼鏡の位置を正した。
「お前ら、囮になる気がないなら、とっとと失せろよ。目障りだ」
久しぶりに会ったと思えば、サイモンからは辛辣な言葉が飛んできた。
「――だって」
流衣がオルクスを見上げると、オルクスは頷いた。
「あのクソガキの言う通りにするのは癪に触りますが、良いチャンスです。私達は立ち去りましょう。わてが転移魔法を使います」
「では王都の方向で、行ける場所まで運んでくれ」
セトの指示に、「言われるまでもなく」とオルクスは短く返す。
「皆さん、こちらへ。出来るだけ近寄って下さい。それでは行きますよ!」
オルクスの声とともに空気が揺らいだような気がした瞬間、遠くで爆音が聞こえた気がした。
第十三幕、終わり。
水晶竜が途中から空気に……。
あとやっぱり、亡霊の決着編や教祖たちの話の決着編も勇者のストーリーで展開されるせいか、流衣だとどうしてもおまけ感が漂いますね。
とりあえず流衣は逃げろーって感じですか。
では、のんびり進行ですが、続きものんびりお楽しみに。