七十三章 青の山脈 1
重く垂れこめた鈍い色の雲を見上げ、流衣は大きく息を吐いた。その瞬間、目の前の空気が真っ白に染まる。
「宿、あいてないね」
溜息と共に呟いて、流衣は肩を落とす。傍らの仲間達を振り返ると、それぞれ芳しくない顔をしていた。
休息場所を求めて、ミルディル村を歩き回った流衣達だったが、門の開通待ちの人々で宿は満室ばかりだった。
「ウィングクロスや神殿も駄目でしたし、残るは宿泊広場だけですね」
「村の中で野宿か……。それでもまあ、砦の中ってだけでありがたいか」
サーシャが残念そうに言うと、リドがそれに付け足すように言い、村を囲む分厚い城壁に視線を向けた。
宿泊広場というのは、隊商や興業者などの大所帯で移動する旅人達向けに、町や村にある広場のことだ。馬車を停めるスペースが設けられ、場所によってはコテージやテントが常に設置されているらしい。
この村の宿泊広場前を通りがかった感じでは、屋根のない吹きさらしの広場だったので、完全に村の中での野宿になりそうだ。
「問題は雪だけじゃな。この降り方だと、明日の積雪が気になるのう」
赤い髪の先に粉雪をくっつけたアルモニカも浮かない顔をしている。
「進むにしろ戻るにしろ、早く決断しなくては、雪で道が閉ざされてしまうやもしれぬ」
幾らアルモニカが馬車以外での外出をほとんどしたことがないとはいえ、積雪によって道が閉ざされることくらいは知っている。
「一晩、焚火に当たりながら耐えるか、それとも一度村を出て森の中で野宿をするか……」
「でもセトさん、門が封鎖されているんですよ? 野宿にいつまで耐えられるんでしょう……」
旅慣れてきていても、流衣にとっては雪の中の野宿は辛い。心が弱気になってしまう。
「ルイ様のおっしゃる通りですわ。屋根も壁もない場所での野宿なんて、私でも身がもちません」
サーシャも不安げに口を挟む。
「そうなのだよな……」
さしものセトも、この予想外の状況に頭が痛そうにしている。
それぞれ憂い顔で悩む四人に、リドが不思議そうに問う。
「なあ、門の封鎖の件なんだが、領主が討伐クエストを出してるんなら、俺らも討伐クエストを受ければ通行許可が下りるんじゃないか?」
「えっ」
流衣は目を丸くして、リドを見た。セトもまた、何でそんなことに気付かなかったんだろうというような表情で頷く。
「言われてみれば、そうだな」
「さっきの冒険者の言い分ですと、冒険者同士でにらみあいが発生しているのですから、腕に自信があるのでしたら、どなたでもクエストを受けられるのではないでしょうか?」
サーシャは気付いた点を口にし、リドも同意する。
「そうそう。それに、正式にクエストを受けておけば冒険者達の動きも分かるだろうから、もし転移魔法で青の山脈に入った時に、冒険者に魔物と間違われて攻撃される心配も減るだろ。一度、ウィングクロスで確認してみねえか?」
リドの提案に、皆、賛成の声を上げた。
ウィングクロスにやって来た流衣達は、クエストボードの前に立っていた。
「あ、これじゃないですか?」
流衣はクエストボードの紙の中でとりわけ目立つ一枚を指差した。
――求む、青の山脈に発生した水晶竜退治を行う冒険者。
報酬:一頭につき金貨二枚
報酬引き渡し条件:討伐の証明として鱗一枚と目玉二個を持ち帰ること
依頼主:フィンレイ・アルスベル・エダ公爵
相当ランク:B
「あー、依頼を受けられるのはBランクからか。それじゃ俺らは無理だな、Dだから」
依頼表を確認したリドは、残念そうに首を振った。流衣も同じDランクなので、がっかりする。
「ワシもCじゃから無理だのう」
アルモニカが呟いた言葉に、流衣は目を丸くする。
「え、アル、ウィングクロスに登録してるの?」
「否。杖連盟とウィングクロスは、ランクが相互に活用出来るように協議されておるのじゃ。であるからして、ワシが杖連盟でCランク魔法使いの評価を受けておるから、ウィングクロスでもCランクとみなされるわけじゃの」
「神殿所属神官のランクも同じですよ。冒険者、杖連盟、神官と、協力して行動することがままありますから、その為の基準ですわ。――それにしても、水晶竜ですのに、Bランクでも構いませんのね。それでしたら、私は受けられますわ」
やんわりとした淑女然としたサーシャだが、兵士としての実力はなかなかのものらしい。風の神殿エアリーゼの次期神殿長であるアルモニカの専属護衛をしているのだから、実力はあるのだろうと流衣は納得した。
「私はAランク冒険者の資格を持っているから、私も受けられる」
「青の山脈を旅されていただけあって、流石ですね、セト様。私はBランクです」
「いや、侍女殿、青の山脈のことは関係ない。研究費と生活費を稼ぐ為にクエストをこなしているうちに強くなっただけだ」
セトが真面目な顔で答える内容に、アルモニカは聞きたくなかったというような微妙な顔をした。
(セトさん……。ほんとについでが多いなあ)
流衣も生温かい気持ちになる。
前に、護衛代をケチっているうちに、魔法使いとしての力量が上がったと言っていたのは、これなんだろう。
「一つ以上ランクが低い者をクエストに同伴することは出来ないからな……。では、こうしよう。私がこの依頼を受け、通行証を貰う。そして、冒険者達の動向を確認した後、この村に戻り、君達を連れて青の山脈に転移する。そうすれば、面倒な事態は避けられるだろう」
セトの言う通りにするのが一番スマートに思える。
皆、特に異論はない。
「私もその方が助かります。お嬢様の傍を離れるのは気が咎めますから」
サーシャは少し気まずげに言った。彼女はあくまでアルモニカ専属の護衛であり、流衣達の旅の仲間というくくりとは少し違うのだ。
「お主は真面目だのう。だが、ワシはサーシャのそういう所が好きだぞ」
呆れた顔をしたものの、アルモニカはくすぐったそうに笑う。それにサーシャが「どういたしまして」と微笑む目には、妹を見る姉のような温もりがあった。
そこで話が纏まった為、セトは依頼表をクエストボードから剥ぎ取って受付へ向かう。その背を見送りながら、流衣は小さく溜息を吐く。
「なんか、何だかんだでセトさんに頼りまくってるよね、僕達」
「甘えときゃいいんじゃねえの? あの人も世話好きみてえだし」
後ろで手を組んで頭を支えた格好で、リドが飄々と答える。
そんなものでいいのだろうか? 頼りすぎるのは良心が痛む流衣だが、セトを見ていると、確かに世話焼きなところがあるので、考えすぎないようにして、隙を見て何かお礼をしようと、心の中でこっそり気合を入れた。
ミルディル村到着日は、結局、宿泊広場で休息することになった。
その晩、毛布にくるまって石畳の固い地面に横になりながら、流衣はぼんやりと夜空を見上げていた。
城壁の上に設けられた篝火が、暗がりの中で城壁をぽつぽつと浮かび上がらせている。ミルディル村の夜は静かなものとはいえず、常にどこかから兵士達が行き交う武器や鎧の鳴る音や、馬などの動物達の息遣いのようなものが聞こえた。そして、時折、遠くから恐ろしい獣のうなり声が聞こえてきて、この城壁一枚を隔てた向こう側がどれだけ危険なのかを教えていた。
さわさわと静かな騒がしさの中、あと少しで地球へ帰還出来るんだなと流衣は心の中で呟いた。
帰りたいのに、いざ帰るとなると寂しい気持ちもある。流衣はなんとなく平穏に生きられればそれでいいと、流されるような毎日を故郷では送っていた。けれど、ここで生活を始めて、そんな風には暮らせなくて、毎日が必死で、そしてあっという間に過ぎていった。目に映るものは全て新鮮で、辛い事があったり痛い思いをしたりしても、やっぱりここの人間を嫌いにはなれず、色んな人がいる中で、こうして一緒に旅をしている人達もいて、それが幸運なことだなと感謝する気持ちがあった。その反面、自分は帰るのだと思うと、彼らの好意に後ろめたい気持ちになる。どんなに楽しくても、常に心は故郷へ向かっているのだから。
それでも、帰ったとしても、きっと自分はこの日々を一生忘れないだろう。
夜闇の中の静かな騒がしさが、まるで祭の後の夜のようで、何となく感慨深い気分になった。流衣は分厚い雲が垂れ込めた夜空に星が見えないか探して目を瞬き、やはり見つからず、舞い降りてきた雪が、オルクスが張ったドーム状の結界に当たって横へと流れていくのを眺める。
『坊ちゃん、眠れないのですか?』
流衣の右肩の辺りで丸くなっていたオルクスが、ぴょんと僅かに跳ねた。気遣わしげな優しい声に、かすかに首を振る。
「ううん。少し考え事をしてただけだよ。おやすみ、オルクス」
『お休みなさいませ、坊ちゃん。良い夢を』
穏やかな声が眠りを誘う。
満たされた気持ちで、流衣は目を閉じた。明日から青の山脈入りの予定なのだ。今まで以上に頑張ろう。彼らに「さよなら」と言える日が来るように。