七十一章 傍らの光 1
「ここがエダ公爵領の中心部かあ。思ったより活気あるんだね」
流衣は予想と違う光景に目を丸くし、きょろきょろと周りを見回した。
エダ公爵領の中心部にして、公爵家の城があるブリジッタの町は、赤茶色の煉瓦で造られた家々が建ち並ぶ目に鮮やかな所だった。ここへは、グレッセン家が治める無爵領から南西に下り、関所を越えた後、馬車で一週間かかるところを、転移魔法を使って三日に短縮して、ついさっき到着したばかりだ。転移魔法の開発者でもある有能な魔法使いであるセトと、転移魔法を自在に使えるオルクスのお陰だ。
通りには、人間や獣人だけでなく、寒さに弱い為に北部で見かけることが少ない亜人も多く行き交っている。
彼らは、通りの端で興味深げに観察する旅人には一切目をくれず、足早に歩き去っていく。分厚い雲から雪がひらひらと降り、通りに薄らと積もっているので、寒さから逃れる為に屋内を目指しているのかもしれない。
忙しなく行き交う人々を見ていたら目が回ってきたので、流衣は頭を振って誤魔化した。そんな流衣の横で、アルモニカが同意して言った。
「そうじゃの。店にも品が多く並んでおるようだし、エアリーゼで聞いていた程、状況は酷く見えぬな」
物珍しげにする流衣や好奇心を隠さないアルモニカを、すぐ後ろに立ったリドが呆れ顔で見る。
「お前らな、いかにも御上りさんって顔するなよ。こっちが恥ずかしい。そういう奴がカモられんだ。ほら」
「へ?」
リドに小さな袋を放り渡され、流衣はきょとんとした顔でそれをキャッチした。袋の正体に気付き、黒い目を真ん丸に見開く。
「あ。これ、僕の財布! 何で?」
「さっきお前にぶつかった奴がすったから、取り返しといた」
それはすごい。
感心しきりで財布とリドを見比べ、流衣は腰に下げている小さい鞄に財布を入れ直す。だが、それにリドが待ったをかけた。
「お前、そんな所に入れてると、またカモられっぞ。財布はそっちの鞄か、首から下げて服の中にしまっとけ」
「分かった。こっちに入れるよ、紐を持ってないから」
流衣は大人しく助言に従い、大きい鞄の奥に財布を突っ込んだ。アルモニカはその遣り取りを横目に、一つ頷く。
「賑わっておると思うたが、やはり治安は悪そうだの。昼間の往来で泥棒とはな」
「人の多い界隈はどこもそんなもんだが、ここは取り分け多いな。お前ら、もしはぐれて迷子になった時は、路地裏なんかに行くんじゃねえぞ」
「待て、リド。何故そこにワシを含めておる? ルイだけに言え」
「何おっしゃるんですか、お嬢様。お嬢様も充分すぎる程に世間知らずでらっしゃいますよ」
アルモニカ専属護衛の侍女のサーシャが、おっとりした口調で指摘した。たちまちアルモニカは頬を膨らませる。
「こやつと同じレベル扱いとは、不愉快じゃの」
「そこまで言う?」
ぐさぐさと突き刺さる言葉に胸を手で押さえ、流衣は落ち込んで肩を落とす。
「仕方ないだろう、アルモニカ嬢。ルイは“世間知らず”どころか“世界知らず”なのだからな」
セトがしれっと言うのに、リドがパチンと指を鳴らす。
「うわ、セトさん、上手いこと言うなあ!」
面白がるリドに対し、流衣は「それはそうだけど」と更に落ち込む。何のフォローにもなっていないと思う。
『大丈夫ですよ、坊ちゃん。すぐに慣れます。それにわてもついてますから、分からないことは何でも聞いて下さい』
左肩に乗ったオルクスが、流衣の頭の中だけに響く声でそう言って慰めてくれたので、流衣は首肯した。物知りなオルクスが側にいれば、幾ら“世界知らず”でも慣れることは出来るだろう。とはいえ、その割にそんなに慣れていない気もするのも事実だが。
流衣は早速オルクスに質問することにする。
「ねえ、オルクス。ここの領地は荒れてるって聞いてたのに、こんなに活気があるのはどうしてなのかな?」
オルクスはやんわりとした口調で答える。
『それは簡単です。この町は巡礼路に含まれていますので、巡礼者のお陰で活気があるのでしょう』
「巡礼路?」
流衣が問い返すと、オルクスの代わりにセトがその疑問に答えた。
「六大神殿を巡ることが、神官や信仰熱心な民達の、死ぬまでに一度したいことの一つだ。その神殿を巡る為の道が、この町を通っている。いいや、正確には、これによって人が多く集まるようになったから町として発展したというべきか。私達は感謝すべきだな。彼らのお陰で、青の山脈を通る為の街道まで整備されているのだから」
セトはくいっと眼鏡のブリッジを指先で持ち上げて位置を正すと、その指をそのまま東に向けた。
「ルイ、こちらに東に進むと王領で、あっちに南下すれば中央神殿が所在するカザニフ、つまり神殿領に入るのだ。更にあちらの西の方、青の山脈越えの街道を進めば、光の神殿フェルリアがあるから、ここは巡礼者が通る道となる。更に一つ南の領を通るルートもあるが、そちらは遠回りだからな、大抵の者はこちらを使う。だいたい分かったか?」
「はい。へえ、ちょうど道が交差する地点なんですね」
頭の中で地図を描き、流衣はなるほどと頷いた。そこに、権力の構図に詳しいアルモニカが、難しい顔をして付け足す。
「この領は、前々代の王の弟君の領地だからな、交易の拠点となる地を与えたのじゃろう。エダ公爵が王の座に就いた今は、公爵領というより王領の飛び地といった扱いじゃな。確か、今のこの領の運営管理は、現王の一人息子であらせられるフィンレイ殿がされているはずじゃ」
「フィンレイ様なら、この地も回復されていかれるでしょうね」
サーシャが緩やかに微笑んで、名の上がった人物を遠回しに褒めた。
「その領主様って、そんなにすごい人なんですか?」
流衣の問いに、サーシャだけでなくアルモニカとセトも頷く。
「現王陛下は税の取り立てに厳しく、浪費家で有名でらっしゃいましたが、フィンレイ様はそんな父君の横暴に心を痛めてらっしゃるようで、父君に管理の一部を任されるようになられてからは、改善努力に努められてらっしゃいましたわ。風の噂ですけれど」
「まあ、フィンレイ殿は感じの良い方じゃったな。父君の後ろで苦笑されとったのをよく覚えとる」
「孝行者でも有名だからな。暴君の父と民の間で板挟みになって辛いだろうな」
それぞれがしたり顔で言うのに、そんなに有名なのかと流衣はリドを見た。リドは首を振る。
「俺は東部に住んでたから、北西部や王都のことまでは知らねえよ。エアリーゼに居候してた時に、ちらっと小耳に挟んだ程度だ」
「あ、そうなんだ」
知らない者が他にいるのにほっとした。
「ワシらの領は隣じゃからの。嫌でも噂は聞こえてくる。ここからの流れ者も多いからな」
アルモニカの言う事は最もだ。隣の領地なら、自然と耳に入りやすいだろう。
(うーん。王都に普通の人達がいる所に魔物の群れを放したり、ネルソフと組んだりするような人の息子さんが良い人なのか……。ほんと、その人、大変そうだなあ)
流衣やアルモニカが脱出した後の王都の反乱軍の暴動の様子は聞いている。建国祭の為に集まっていた多くの人々は、その暴虐によって犠牲になったそうだ。だが、その時の指導者が王に就いた為に、批判はあっても容易に話題に上げられない風潮になっているようだ。
(ディル、そんな所にいるんだよね……。大丈夫かな)
雪のような真っ白い少年を思い出し、流衣は僅かに溜息を零す。すると吐息は白に染まった。
「ここでの雑談はこれくらいにして、そろそろ宿を探しませんか?」
それを見て寒さを思い出したサーシャが、やんわりと問いかける。リドが同意を示して、周囲を見回す。
「そうだな。ウィングクロスを目指すか。これだけでかい町なんだ、支部くらいあるだろ」
「ああ、それならこちらだ。ついてきなさい」
この町に来たことがあるらしきセトは、淀みの無い足取りで歩きだす。流衣達もその後に続いた。
*
「男女別に部屋を借りられるなんて、俺らついてたな」
「そうだね。ちょうど団体客が出たところだったから。サーシャさんは兵士として慣れてるから平気だって言ってたけど、アルは僕達と同じ部屋じゃ気疲れしそうだからね」
「まあな。あいつ、平民だって言い張るけど、なんだかんだで“お嬢様”だもんな」
リドと流衣はそう互いに話し合いながら、宿の裏庭に来ていた。
ウィングクロスの宿舎は満室だったので、ウィングクロス系列の宿を選んだのだが、こちらの方が当たりだった。
リドは洗濯物を入れた籠を持ち、流衣は宿の従業員に借りてきた盥と洗濯板を抱えている。杖も一緒に抱えているので、時折ぐらつきながら歩いている。日が明るいうちに洗濯物を片付けようというわけで、裏庭にある洗濯場にやって来たのだ。
「珍しい。誰もいないね」
流衣はきょろりと裏庭を見回した。
井戸水を汲んですぐに貯められるようになっている石造りの洗い場には、たいてい旅人か従業員がいて洗濯をしているものだ。
「順番待ちしなくていいからついてるな。とっとと片づけちまおうぜ」
「そうだね」
盥を洗い場に置くと、流衣は杖を構えた。
「ウォーター」
そして、畑に水遣りする術を使い、盥に水を張った。今の時期だと井戸水は冷たいので、こちらの方がまだ温かいのだ。本当はお湯を出したいのだが、そちらはまだ課題になっている。セトに訊いてみたが、お湯を出す魔法はないらしく、代替案として水を閉じ込めた結界を火で温めるという知恵をくれたので、練習中なのである。しかし、結界を維持しながら火を使うというのが難しくて上手くいっていなかった。これならやかんの水を火の魔法で温めた方が早いようにも思える。
「よし、洗うぞ。まずは下着や靴下からだな」
「そうだね」
それぞれ洗濯板を構え、布地を石鹸で泡立て始めた時、裏庭の茂みが前触れもなくガサリと揺れた。
「わっ、びっくりした。猫かな?」
隣家からの道の間にある低木を見て、流衣はそう結論付けた。
「猫にしちゃ音がでかかったから、野犬かもしれねえな。お前はそこにいろ」
「分かった」
リドは警戒を帯びた顔付きで低木の方に歩いていく。その様子を見守りながら、流衣はいつでも対応出来るよう杖を構えたが、何が出てくるかと緊張していた。
そして、低木の向こうを覗いたリドは、顎に手を当てた。しばらく沈黙した後、判断に迷ったように流衣を振り返る。
「ルイ、ちょっとこっち来い。これ、どう思う? 昼寝だと思うか?」
「昼寝?」
猫か犬が寝ているのかと想像した流衣は、少し表情を輝かせて走った。それは見て癒されたいと思ったのだが、そこにいたのは、頭からすっぽりとフードをかぶった白いマント姿の人間だった。薄らと雪の積もる地面に伏せていて動かないのを見ると、寝ているようだ。
「こんな所で昼寝? 寒くない?」
流衣もどうしていいか分からない。起こしたら怒るんだろうか。
「昼寝の割には、血の臭いが濃いですケド」
流衣の左肩から、オルクスがぽつりと言い、リドと流衣は「えっ」と声を揃える。それを聞くや、リドは躊躇なく、倒れている人間の肩を掴んで上を向かせた。そうすることで、マントの前が開き、その人間が左の脇腹を手で押さえているのが分かった。灰色の上着が血に染まっている。
「怪我してる! どうしよう、オルクス!」
「落ち着いて下さい、坊ちゃん。診て差し上げますから」
早速混乱をきたした主人にやんわりと言い、オルクスはひらりと飛び、怪我人の傍らに着地した。
「我が力、糧とし、癒しの光、ここに顕れよ」
オルクスが文言を呟くと、怪我が光に包まれた。そして、光が消えると、オルクスはちょこんと頭を上げ、くりくりっとした黒目で流衣を見た。
「これで怪我は大丈夫です。怪我は、ですけど」
何か引っかかる言い方だなと流衣が倒れている人間を注視すると、その首に黒い蛇が巻き付いているのが見えてぎょっとした。
「へ、蛇!? いたっ」
急いで離れようとしたせいで、足を滑らして尻餅をつく。
「蛇? どこだ」
リドが眉を寄せて周りを見回す。流衣は指で示して言う。
「その人の首だよ。ほら、黒いのがいるでしょ?」
「はあ? 何もいねえけど」
「リドには見えませんよ。薄らとした瘴気の塊に過ぎませんから。何をしたんでしょうね、このお嬢さん。呪われてますよ」
「ええっ、呪われてるの、この人!」
「こいつ、女なのか!?」
オルクスの言葉を聞いた流衣とリドは、それぞれ違う点に驚いた。オルクスだけは冷静にそんな二人を見ている。
「そんなことよりも、この方を屋内に運んで差し上げてはいかかデス? 神殿に連れて行くにしろ、この怪我で消耗しているのなら、こうしているのは危険だと思いますガ」
オルクスの言い分は最もだ。
二人はひとまず驚きは飲み込み、洗濯物は後回しにして、見知らぬ怪我人を宿へと運び込むことにした。