七十章 止まり木である勇気
結局、一泊予定だったのが三泊に伸びた。
流衣は急に魔力を消費したせいで体力が追いつかず、動き回るのに支障があったし、一時期風を操って障壁を作っていたリドもまた、集中しすぎて消耗していた。その為、多めに休んでいけと、グレッセンだけでなく周囲の神官達にもしきりと言われ、そうしたのだった。
「食料問題は解決したが、魔物対策については、ルイが魔力を蓄積してくれたとはいえ、危機が先送りされただけじゃの。いや、主軸たる食料問題が片付いたのが大きいから、じきにこの都市も落ち着くじゃろう。――というわけで、行くぞ。お父様に止められる前に!」
旅に出て外を見て回りたいアルモニカは、父親の制止の声を振り切って、エアリーゼを出る気満々のようだった。人気のない中庭に呼び出された流衣達四人と一羽は、荷物を手にしたまま、所在なくアルモニカを見る。
「ええ? でも、これだけお世話になったんだから、一言くらい挨拶してから出て行かないと……」
流衣は渋い顔をし、恐々と意見を口に出す。が、アルモニカにぎろっと睨まれ、流衣は青くなって一歩下がる。
「お主は自由がきくからいいだろうが、ワシは無理なんじゃ!」
「アルモニカ、幾ら俺でも、神殿長が止めるんならお前のことは連れていけねえよ。青の山脈は魔物が強くて危険だし、何より西領も物騒だ。女のお前のことを心配するのは当たり前だろ」
「リド様の言う通りですわ、お嬢様。考え直して下さいまし」
実に真っ当な意見を口にするリドに、サーシャも同意する。そして、リドは、流石はリドだと感心気味に頷く流衣をくいっと左の親指で示して付け足す。
「こいつは、お前より男らしくねえし、気を付けねえと女と間違われる見た目してるけど、男だから大丈夫なはずだ。アホオウムもついてるしな」
「―― 一言余計ですヨ、リド」
めこっと落ち込む主人を気の毒そうに見てから、オルクスは黒い目をぎらりと光らせ、リドを睨む。
「そうじゃ! そもそも、ワシの方が男らしいとはどういう意味じゃ!」
加え、アルモニカも聞き捨てならないと怒る。リドは不思議そうに琥珀色の目を瞬く。
「え? 見たまんまのこと言っただけだが」
「何をーっ!」
即座にぶち切れたアルモニカは、眉を吊り上げ、短い杖を振り上げてリドに向かっていく。しかしリドは、小さな妹の攻撃をあっさりかわす。それにますますいきりたつアルモニカ。
「ちょ、ちょっと落ち着いて!」
本を投げない代わりに、杖で殴りに行くアルモニカに流衣は思わず叫ぶが、相手がリドなので少し安心していた。はっきり言って、近接戦ならリドに分がある。案の定、アルモニカの方が殴る前に疲れ、負け惜しみを呟いた。
「――ふん。わ、ワシは大人じゃから、この辺にしといてやる」
「そりゃありがてえな」
小さく吹き出し、横を向いて笑いながらリドは返す。流衣は喧嘩が終わったことにほっと安堵の息を吐く。セトは黙って様子見しているが、呆れているようだ。
「――アルモニカ」
その時、優しそうな落ち着いた声がアルモニカの名を呼んだ。
流衣がそちらを見ると、廊下から、白いドレスを身に着けた女性がすっと中庭に下りたったところだった。どこか病的に青白く見える肌をしたその女性は、温和そうな微笑みを目元と口元に浮かべ、琥珀色の目を笑みの形にしている。長い金髪は緩く三つ編みにして胸元に房を垂らしており、それが歩く度に軽く跳ねた。
「お、お母様……!」
「奥様……」
アルモニカが上ずった声で女性を呼び、サーシャは気まずげに身を縮めた。その呼びかけを聞き、流衣は目を丸くして女性を見た。アルモニカとリドの実の母親で、アルモニカに外出禁止を言い渡していたあの母親らしい。
女性――アイリスは、ふんわりと楽しげに微笑んだ。
「やはりね。そろそろ抜けだそうとする頃合いと思っていてよ。デュークの血を引いているのだもの、あの人と同じで脱走癖があるに決まっています」
なんだろう、その判断基準。
(アルのお父さん、脱走癖があるの……?)
怪訝に思う流衣の前で、アイリスはしきりと頷く。
「風の精霊の子であるせいかしら、自由を求める気質が強くて。最近はマシになりましたけど、もう少し若い頃はしょっちゅう街に抜けだしていたわ。おっとりして見えて、敵には容赦ない方だから、心配はしてませんけど。――アルモニカなんて、味方にも容赦ないですものね?」
「意地悪をおっしゃらないで下さい、お母様……」
肩をすくめ、気まずげに目を反らすアルモニカ。
(流石、お母さん。アルのこと、よく分かってるなあ……)
感心半分に、アルモニカとアイリスを見比べていると、アイリスがふわっと優しく笑った。優しい笑みなのに、どこか迫力が感じられて、流衣は無意識に手を握った。心なしか、リドやセトも背筋を正す。
優しく落ち着いた声が、アルモニカの名を呼ぶ。
「――アルモニカ」
「はいっ」
アルモニカはしゃきんと背を伸ばし、返事する。
「あなたは、将来、この都市を背負って立つ責任ある立ち場。そのような者が、危険な地に行くのは認められることではありません。何故なら、その立場の者まで倒れては、混迷が深くなるだけだからです」
穏やかに、だが反論の隙もない正論を口にするアイリス。静かにアルモニカの目を覗きこむ。
「……存じております」
遠回しに、旅に出ることを止められたと感じたアルモニカは、行きたくてたまらないのに諦めるしかないことを悟り、うなだれて足元を見つめた。
アイリスはアルモニカがちゃんと分かっているかを確認するように、じっとアルモニカを見つめ、ややあって言葉を紡ぐ。
「――ですから、あなたの責任は、五体満足であり、心身ともに健全な状態で生きてこの地に戻ることです」
えっというように、アルモニカは顔を上げる。その先で、アイリスは悪戯っぽく微笑んだ。口元に、指先を持っていって、内緒だという仕草をする。
「可愛い子には旅をさせよと言います。子どもと離れるのは寂しいですが、親たる者、見送るしかない時もあるのでしょう。約束なさい、無事に戻ると。――あなた方もです」
たおやかな百合のような姿ながら、芯の強さを思わせる目が、流衣達を射抜いた。それが、リドにそう言いたいが為のものなのは、流衣やオルクスにはなんとなく分かった。付き合いの長いサーシャはもちろん心得ていて、アイリスの母親としての情に涙目になっている。その中で、ただ一人、事情を知らないセトだけは、ありがたい言葉だと恐縮し、必ずやと誓いの言葉を述べている。
「ありがとうございます。――絶対に、生きて戻ります」
リドが丁寧に頭を下げ、アイリスにそう返す横で、流衣もはりきって頷く。
「僕もです。出来るだけ足手纏いにならないように、頑張ります! あの、心配しないで下さい! 僕、結界と逃亡手段の魔法なら自信ありますから!」
あまり自慢出来る中身ではなかったが、流衣の得意とする分野の魔法なら、勝つのは難しくても、生き残るという点では有利だ。強い魔物に会って生き残りたいなら、つまりは逃げ切れれば問題ない。隠れてやりすごすのでも可だ。
「だから、えと、アルもリドもちゃんと大丈夫だと思いますっ。僕は正直、アルには安全な所にいて欲しいですけど、こっそりついてきて危ない目に遭わせるくらいなら一緒にいた方が良いと思いますし……。まあ、僕がいてもそんなに大した役には立てませんけど……」
流衣が必死に言い募ると、アイリスは目を丸くしてから、にっこり笑った。
「――ありがとう。あなたみたいな子が、私の子の側にいてくれて嬉しいわ。ルイ・オリベさん、あなたは我が家にとっては大事な恩人です。いつでもこの神殿に帰っていらっしゃい。西への旅が終わって、もし可能でしたらここに顔を見せに来て下さい。約束ですよ?」
「おおお恩人だなんてっ! 友達に味方してるだけですからっ!」
顔を赤くしてぶんぶんと首と手を振り、流衣は慌てて否定する。
その様子を見て、アイリスはますますにっこりし、ころころと笑い声を零す。
「可愛らしい方。お菓子を持っていたら差し上げたのに……」
少し残念そうに呟くアイリス。彼女の中では、流衣はすっかり菓子を与えたい小さな子どもの位置に収まっていた。
「――では、気を付けて行ってらっしゃい。デュークなら分かってくれます」
「ありがとうございます、お母様! 旅先で手紙を出しますから、楽しみにしていて下さい。では、行って参ります!」
アルモニカは目を潤ませて礼を言い、母親に向けて深々と頭を下げる。理解してくれたことも、今まで外出禁止を言いつけてきていた母親が、子どもを外に送り出せる程に精神を回復したことも、どちらも嬉しくて、目蓋が熱い。
そして、しっかりと頭を下げると、素早く目元を指先で拭い、アルモニカはセトを見上げる。
「では、セト先生。参りましょう」
「ああ、そうしよう。では、グレッセン夫人、御前を失礼いたします」
セトはアイリスに恭しく頭を下げると、金属製の杖を構える。
この都市からは、セトによる転移魔法での移動だ。低い静かな声で、セトは呪文の詠唱を始める。
「我は望む。我が記憶を鍵として、扉を開かんことを。風よ、運び手となりて、我らを道の先へ送り届けよ! ――トランスポート!」
朗々とした声が辺りに響くと、流衣達の足元が円状に光り始める。眩しい光の向こうで、アイリスが優しく微笑んで手を振るのが見え、一瞬後、視界の先の光景が切り替わった。
*
「行ってしまったか……」
「あなた」
流衣達が立っていた場所を、物寂しげに見ていたアイリスは、後ろから聞こえた声に驚いて振り返る。
白い帽子を被り、白い神官服を着た夫――グレッセンが中庭へ下りる階段に立っていた。
「そろそろかと思って探していたが、一歩遅かったようだね。それにしても、驚いた。君が了承するなんてね」
一番反対すると思っていた。グレッセンの言葉を受け、アイリスは複雑そうに眉を下げる。
「――そうね。本当は反対したかったけれど、無理でしたわ。アルモニカの、あんな風に何かをしたくてたまらないという顔、初めて見ましたもの。リディクスだってそうですわ。あれは止めても聞かない顔。あなたにそっくりね」
ほんの少ししか、親子である時間を共にしていないアイリスだが、顔を見ればどうしたいか分かる。離れて暮らしていたのに、リドはグレッセンにどこか空気が似ているし、共に暮らしていたアルモニカならば尚更分かりやすい。
息子が自分にそっくりだと言われたグレッセンは、相好を崩す。
「そうかな? それは嬉しいなあ。警戒心の強いところは、君にそっくりだと思うけれどね」
「ありがとう」
くすくすと微笑むアイリス。やがて、眩しそうに、薄青い空を見上げる。風がヒュウヒュウ吹きすぎていくが、不思議とアイリスとグレッセンがいる所だけは風が穏やかだ。風の精霊が気を遣っているのだろう。
「……私は、今まで娘が飛び立つ道を塞いできたわ。けれどね、デューク。ほんの少し、ネルソフから逃れる為に旅をしたあの子が、随分成長して戻ってきて、やっと分かったの。過保護は過ぎれば毒にしかならない。だから私は、道を阻まない努力をする。見ているのは辛いけれど、でも、小鳥達が巣を飛び出しても、どこにいても、家族なことに変わりないから」
そう言っても、やはり心配で、寂しい。
静かに足元を見つめ、目を潤ませるアイリスの肩を、グレッセンは優しく抱く。
「――アイリス、私達に出来るのは、あの子達の帰りを待つことだ。ずっと空を飛び続けるのは辛いだろう。だから、私達は止まり木になろう」
アイリスは小さく目を見開いて、温かな響きにそっと目を閉じる。
「ええ、そうね。私達はここで鳥達を見守りましょう。他にもたくさん、可愛い鳥はいるのだもの。寂しく思うことはありませんわね」
やんわりと微笑むアイリスを優しく見下ろし、グレッセンは困ったように笑う。
「君が勇気を出したんだ。私も頑張って子離れしなくてはいけないのかな……」
「あら、する必要なんてなくってよ」
「え?」
「リディクスは十年も手元を離れていましたし、アルモニカも同じくらい構ってあげられませんでしたわ。少しくらい子離れが遠のいたって構わないでしょう。もったいないではないですか」
グレッセンは目を丸くして、それから吹き出した。
「それはいい。では私もそうしようかな。そうだ、聞いておくれよ、アイリス」
グレッセンは嬉々として、アイリスに、リドに殴られた時の話をする。反抗期だと言って子どものように喜ぶグレッセンを見て、アイリスもころころと笑いを零す。
風の神殿都市を預かる長とその妻が幸せそうに語り合うのを、風の精霊達は上空から見て、きゃらきゃら笑いさざめく。
――良かったわね、可愛い子。
いつしかと同じような優しい声で、風の精霊達は家族に戻れたことを祝福する。
そして、風の精霊達はヒュウヒュウと音を立てて飛び回り、空を楽しげに駆け回り始めた。
自分達の声を聞くことが出来る稀有な彼らの、追い風にならんと。
第十二幕、完結。
これでやっとグレッセン家の事情が一段落したかな。
お次は西の領地の旅編です。
2012.8.31 最初の方を改稿。侍女のサーシャのことをすっかり忘れるという痛恨のミスをしたので、出番を足しました。